桜井芳生
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961219老子は、その最終節で、「美言は信ならず。信言は美ならず」といった。 (美しい言葉は信ずるに足らない。信じうる言葉は美しくない)。
このことが成り立つ蓋然性があるなら、前者命題の「裏」・後者命題の「逆」 をとって、「醜言(美しくない言葉)は、信である(かも知れない)」という方 法論的「醜言主義」を採用してみるのもおもしろい。(いうまでもないが、これ は、老子の命題の「対偶」ではなくて、「裏」ないし「逆」であるから、老子 の命題がたとえ真であったとしても(じつは「つねに真」ではないだろう)、真 であるとはかぎらない。)
すなわち、世に流布している「美言」を探し出し、見つけた端から懐疑してみ て、その否定命題すなわち「醜言」を仮説してみるのである。
この方法論的醜言主義は、「認識利得」のある命題の二大要件、すなわち「1、 意外であり」「2、真である」を、満たしやすい(繰り返すが、つねに満たす保 証はない)という点で、なかなかよい「手口」といえそうだ。
過去私は、「私は、へそ曲がりの社会学者ですから・・・」という言い方をよく してきたが、これは、この方法論的醜言主義を無自覚的に実行していたのかもし れない。
ただし、この方法論的醜言主義は、結果的に、社会的強者の居直り・強者へのお もねり、になる可能性もありそうなので、この点は注意が必要だろう。