情報化社会とコミュニティ98年3月卒論)

第一章 情報化社会への懸念                          
                                       
1.情報化社会の到来                             
                                       
 20世紀も終わりに近づき、21世紀は情報化社会の時代だと言われている。いや、厳密にいうなら、我々は既に情報化社会の真っ只中にいるといえる。

 ここ数年間で「マルチメディア」、「インターネット」、「情報スーパーハイウェイ構想」などの情報化社会に関する言葉をよく耳にするようになったため、情報化社会は今から到来するもの、もしくは今は情報化社会の初期段階であるというような錯覚を起こしがちであるが、我々が多くの情報に囲まれて、もしくは多くの情報に接する生活を送り始めたのが最近のことではないのは周知の通りだ。

 我々は常に何かのメディアが発する情報に囲まれている。テレビ、ラジオ、インターネッ
ト…。これらが場所や時間も問わず、我々に訴えかけてくる。そして、この状況にはますます拍車がかかる一方であり、情報化社会の中心を司るコンピュータをめぐる状況に至っては目まぐるしく変化している。
 
 そして、そのような状況に対する人々の見方はいささか楽観的である。情報化社会の代名詞といってもよいマイクロ・ソフト社の首領であるビル・ゲイツもこの新たな社会への移行を、自ら「革命」と呼び、次のように語っている。              

「これまでの二十年間は、信じられないような冒険の日々だった。(中略)はじめてほんとうに『パーソナルなコンピュータ』といえるものを目のあたりにして、ひどく興奮したことを覚えている。それが具体的にどんなふうに使われていくのかは見当つかなかったけれど、それがその後の自分たちを、そしてコンピュータの世界をすっかり変えてしまうものだということは、はっきりわかった。はたして、その予感は間違っていなかった。パーソナルコンピュータ革命は何百万という人々の生活に影響を与え、私たちをかつて想像もしなかった世界に導いたのだった。
 いまさらに大きな旅がはじまろうとしている。今回もまた、その行き先は定かではない。
それでも、この革命がさらに多くの人々の生活に影響を与え、すべての人をはるか遠くに導くものになることは、はっきりしている。」(ビル・ゲイツ,[1995:9])

 ビル・ゲイツのいうように、ここ数年で社会はめざましい変化を遂げている。情報処理の効率化、インフラの整備、マルチメディア化への移行、確実に目に見える形で進化している。そして、そのような時代の移行に対して、人々は多少の不安を感じながらも楽観視し、その革命の二次的効果である、経済の活性化、雇用の増大、余暇の増大を含む労働環境の改善などにも期待をよせているようである。そして、社会の成長、変化が止まり、閉塞感を感じていると言われている現在の状況において、社会が肯定的に変化することも期待されているようだ。                             

 だが、わたしがここで扱う問題は上のような情報化社会の見方と、いささか趣を異にしているかもしれない。後ほど詳しく述べるが、私は、情報化社会にそれほどの変化を期待しておらず、それは単に情報が多い社会に過ぎず、それ以外は今の社会と何ら変わらないと考えている。
 そして、そのような社会は人々にどういう影響を与えるのか。それに対して人々は社会に対してどう働きかけるのか、という問題について考えていくのがこの論文のテーマである。

 2.情報とは何か

 情報化社会、情報化社会というけれども、その中心である「情報」そのものについては、
あまり問題にされることはない。いったい情報とは何なのだろうか。これについては、人によってその捉え方は様々であるが、私は次のように定義することにする。

 情報とは人が感覚器で感ずることの出来るものすべてを指す。つまり、それに経済的価値、知的価値、生存に影響を与えるような価値があろうとなかろうと、ヒトが見聞きし、感ずることの出来るものは全て情報なのだ。それが意識的であろうとなかろうと。

 我々は情報と言うと、言葉で伝えられるものや、映像などに限定しがちであるが、「私」
がぼんやりと眺めている目の前の風景も情報なのである。それゆえ、全ての情報は私に働きかけているのである。                            

 加藤秀俊氏は情報に対し次のように述べている。

「情報というものを、環境からの刺戟として定義すると、ずいぶんいろんなものが「情報」
でありうる。われわれ人間のからだには、光受容器すなわち視覚、化学受容器つまり味覚、
嗅覚、そして機械受容器すなわち聴覚、触覚、という三種の受容パターンが内蔵されており、それが、いわゆる「五感」をつくりあげているが、その五つの受容器は、休むことなくうごきつづけている。そして、その五感が感じつづけているすべての刺戟が、わたしの定義によれば、人間にとっての「情報」ということになる。」加藤秀俊,([1972:41−42])                                

 そして、加藤氏はヒトと情報の関わりを上に続けて、次のように言っている。

「ロックやヒュームなど、イギリスの経験論の哲学者は、人間の精神の形成を「なにも書かれていない紙」(tabula rasa)に、いろんなものが書き込まれてゆく過程としてとらえた。これらの哲学者のかんがえでは、うまれたばかりの赤ん坊は、「なにも書かれていない紙」である。」(加藤秀俊,[1972:43])

「イギリス経験論の「なにも書かれていない紙」というかんかがえかたは、情報の人間学の立場から言うと、正しいところをついている。もちろん、現代の心理学がおしえるように、人間のこころのなかには、先天的な部分もあるし、それぞれの人間の体質や体系が人間の精神のある部分を遺伝的につくってしまっている、ということは事実である。しかし、
人間の「経験」というものは、うまれて以後のことにぞくするわけだし、その人生経験のバラエティが、人間の個性のバラエティをつくりあげていることを、我々はそれこそ経験的に知っている。」(加藤秀俊,[1972:43−44])

「ここでつかわれている「情報」の定義、つまり、「環境からの刺戟」というかんがえかたからすると、「経験」とは、とりもなおさず、「情報」ということである。」(加藤秀俊,[1972:44])

「人間の経験というものを、そういう視点からかんがえてみるならば、人間の存在とは、巨大な情報複合体である。」(加藤秀俊,[1972:45])

 我々人間は環境的な生き物だ。一つ一つの情報が「私」を構成し、「私」の趣向、思考の傾向、物の感じ方の傾向を形づくっていく。価値観、アイデンティティの形成である。
 そして我々がそのような情報(環境)の影響を受ける情報複合体である以上、常に変化を続ける情報化社会の影響を受けることになるのだ。

3.情報化社会の現実                             
                                       
 さて、今日情報化社会はまるでメシアのごとき新しい時代のように語られいているが、そもそもそれが本当に新しい時代なのかどうかも疑問だ。何を見て、新しい、または古いというかは見方によるが、それをシステムの移行として見るとき、それは何ら新しいところはないのに気づく。なぜなら情報化社会のベースになっているのは資本主義的自由主義社会であり、消費社会であるからだ。それらはすでに何十年も前から変わらず存在しているものであり、その視点から情報化社会を見るならば、情報化社会は現状のシステムにおいて行き詰まりがあるため、それを活性化させるために大がかりな移行がなされているという印象が強い。ジェニファー・D・スラック氏は情報化社会のイデオロギーについて次のように述べている。

「情報時代の支配的イデオロギーの中心的教義の一つは、情報時代の主要な商品および経済的原動力として、情報が工業製品にとって替わるということである。」(ジェニファー・
D・スラック,[1990:6−7])

 工業時代の消費社会を支えるものは言うまでもなく「モノ」であったわけだが、情報化社会においてはその中心となって屋台骨を支えるものが情報になると言うわけである。もちろん、情報と物とは互いに性質上、異質のところも多く情報がそのまま者の果たしていた役割をこなすというわけにはいかないが、その社会の中心を担うという点では同じである。そして、それを象徴するように、情報社会を確実なものにするため、または人々に肯定的なイメージを与えるために、情報産業が巨額を投じて、宣伝に努めていることを主張したうえで、ジェリー・L・サルバジオ氏は次のように指摘している。

「だが、もしそのように情報化社会の本質が資本主義社会の延長であると考えるなら、情報化社会は全く新しい社会とはいえないだろう。それは現代、いや近代から延々と続いているものの、先にあるものにすぎない。」(ジェリー・L・サルバジオ,[1990:194])

 ジャン・エイケクランツはその論文『新しい情報社会の社会学的秩序』のなかで、次のように述べている。

「現在一般的な状況のもとで、すべての新しいものは現存する構造を強化する傾向をもっている。資本主義は資本主義なのであって、それゆえにすべてのものは、少なくともほと
 第二章 コミュニティ依存                          
                                       
1.近代人と似通う情報化社会人の性質                     
                                       
 私は、情報化社会においてヒトは、情報のいざないと、数多くの情報が雑然と整備されずに提示される状態のために、アイデンティティの危機に陥り、孤独感を強めていくと述べた。

 だが、このようにして予想された情報化社会人の性質は、これから述べる近代人の性質と似ている。そして、それを考えると、近代化の過程と情報化社会の過程も似ている。

 近代化の過程とは、人々を束縛していた呪術、すなわち宗教、規範、階級などから人々が開放される過程であった。それに対して情報化社会の過程とは情報の流布が人々を過去の規範や文化から開放していく過程ともみてとれる。               

 情報のインパクトはすさまじいものがある。それは前述のように文化や規範、アイデンティティを解体する力がある。とくにその情報が魅力的に加工されて導入される場合、破壊力は抜群である。50年代にアメリカから入ってきた情報も、当時の日本にとって魅力的であったにちがいない。それゆえ、破壊力も抜群であった。日本はあっという間にアメリカ色を強めていった。
                                       
 そして、情報化社会においては魅力的な形で膨大な量の情報が並列的に我々の前に提示される。その圧倒的な力の前では、我々の価値観や文化も数あまたの情報と同等、もしくはそれ以下になってしまうのだ。このようにして、我々のアイデンティティは解体していくのである。ある意味からすればそれは開放であるが、中心の喪失でもある。そして、このような過程は近代化の過程と何ら変わるところはない。             

 次項ではその問題になる近代人の性質について詳しく見ていく。

2.近代人の性格構造・無意味な個人の誕生

 近代人のアイデンティティ・クライシスを唱えた学者の中にE.フロムがいる。フロムはその著書『自由からの逃走』のなかで、「自由」という観点から、近代が近代人にもたらした性格構造の変化について、言及している。フロムのこの論文における主旨は、冒頭の序文に集約されている。

 すなわち近代人は、個人に安定をあたえると同時にかれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。自由は近代人に独立と合理性とを与えたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるが、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。(エーリッヒ・フロム,[1941:4])

 前近代から近代に至る過程とは、古代的な呪術、規範から一般大衆が開放され、個人が自由を手に入れ、まさしく「市民」となっていく過程であった。だが、個人は市民となって手に入れたのは自由と独立だけでなく、孤独感と不安感さえも手に入れてしまったことをフロムはこの著書の中で述べているのである。では、なぜこのような現象が近代において個人に起こったのだろうか。それには前近代と近代という社会的構造の違いが大きく作用しているようである。フロムは前近代について次のように述べている。
 
 近代社会と比べて、中世社会を特徴づけるものは個人的自由の欠如である。当時ひとはだれでも社会的秩序のなかで、自分の役割とつながれていた。社会的にいっても、一つの階級から他の階級へ移るような機会はほとんどなく、一つの町から村から他の場所へ移るような機会はほとんどなく、一つの町や村から他の場所へ移るという地理的な移動でさえ、
ほとんど不可能であった。わずかの例外を除いて、生まれた土地に一生踏み止どまらなければならなかった。またときには、自分の好む衣装をつけることも、好きなものを食べることさえも自由ではなかった。職人はその製品を一定の価格で売らなければならず、百姓も町の市場という一定の場所で、売らなければならなかった。ギルドの成員は、他のギルドの成員にたいし、生産の技術的秘訣を一切もらすことを禁止され、同じギルドのメンバー
にたいしては、原料を買うためのあらゆる便宜を提供しなければならなかった。個人生活も経済生活も社会生活も、すべて規則と義務とにしばられ、実際に個人が自由に活動する余地はまったくなかった。(エーリッヒ・フロム,[1941:52−53])

 これによると、前近代の人間は、あらゆる束縛を受けていたことがわかる。階級、地域、
日常生活における様々な規制、そして中世の経済的団体組織であるギルド。その生活においては、全く自由がなかったというわけではなかったが、大体の場合において、自由は制限されていた。
 しかし、前近代の人間はあらゆる束縛を受けていたが、そのかわり帰属と絶対性による安定感があった。フロム自身も上に続けて次のように述べている。

 しかし近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造の中に根をおろしていた。(エーリッヒ・フロム,[1941:53])         

 前述のように前近代の人間には、近代のような豊富な自由はなかったが、それと同時に孤独感や不安感もあまりなかったのだ。神は未来を約束し、私は隣人と共有感がある。このような構造は「個人」という概念が存在しないほど、「個人」にとって安定的だったのである。

 だが、時代は移り変わり近代になる。

 社会において「個人主義」の概念が生まれ、それがあらゆる領域に浸透していく。当然経済の領域もそれを免れえない。かつてのギルドは解体し、個人的な創意や競争が重要視されていく。このようにして過去のカテゴリーや規範は解体していった。だが、その社会構造の変化にあわせるように、個人の内部で恐るべき変化が訪れる。
                                       
 フロムは前近代人を束縛していた規範やカテゴリーを、赤ん坊と母親の間にある絆にたとえて「第一次的絆」と呼んでいる。そして近代化とは、個人が第一次的絆から開放されて、個性化が推し進められる過程であるとして、個人に訪れた変化について次のように述べている。

「ひとたび個性化が完全な段階に達し、個人がこれらの第一次的絆から自由になると、かれは一つの新しい課題に直面する。すなわち彼は、前個人的存在の場合とは別の方法で、自らに方向をあたえ、世界の中に足をおろし、安定を見つけ出さなければならない。」(エーリッヒ・フロム,[1941:35])

「個性化が推し進められていく過程は、一面、自我の成長ということもできる。(中略)個性化の過程の他の面は、孤独が増大していくことである。第一次的絆は安定性をもたらし、外界との根本的な統一を与えてくれる。子供はその外界から脱け出すにつれて、自分が孤独であること、全ての他人から引き離された存在であることを自覚するようになる。この外界からの分離は、無力と不安との感情を生み出す。外界は個人的存在と比較すれば、
圧倒的に強力であって、往々にして脅威と危険にみちたものである。人間は外界の一構成部分である限り、個人の行動の可能性や責任は知らなくても、外界を恐れる必要はない。人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。 」(エーリッヒ・フロム,[1941:38−39])             

 このように、近代化の過程とは自由の獲得と個性かの過程であったが、それは帰属感の欠如をもたらし、それが孤独感と不安感を増大させる結果になってしまったのである。
                                       
3.コミュニティへの依存
                                       
 以上のように、近代とその構造が近代人にもたらした影響についてみてきたが、前述したように、それは情報化社会とそれに対する現代人との関わりによく似ている。   
                                       
 近代人の孤独感と不安感の増大は帰属意識の欠如によってもたらされたが、情報化社会人のそれも、結局は情報のインパクトによる共同体の解体に伴う帰属意識の欠如に伴うものなので、ほぼその構造は同じであるといってよい。ただ情報化社会人の場合、情報が個人にも影響し、個人のなかでも秩序の崩壊が起こってしまうぶんだけ、状況は深刻かもしれない。

 考えてみれば、現代、もしくは情報化社会と近代を区別するものはなにもない。個人が様々な分野で競争し、責任が個人に求められるという中心的精神は、近代と同じである。それゆえ、近代からの悩みが現代まで続いたとしても何ら不思議なことはないのである。                                       
 では、永続的に続いていたはずの問題が、なぜ情報化社会に入るにあたってとりわけ目立つようになったのだろうか。
                                       
 その理由の一つには、もちろん情報化による社会解体のインパクトが強いこともあるが、
もう一つ挙げられる理由として、近年まで、第一次的絆の役割を肩代わりする巨大なイデオロギーが存在し、人々に帰属感をもたらしていたためである。それは、19世紀、20世紀、世界を席捲したナショナリズムであり、社会主義であり、またはそれに対する自由主義、そして、現代的なところでいうと60年代的カウンター・カルチャー的イデオロギー
もそうであるし、人々に前に進む力を与えた未来物語イデオロギーも巨大な共感を作り出すのに成功したといえる。

 しかし、時代が進むとともに、そのような巨大なイデオロギーは消滅したり、希薄化していった。社会主義の象徴であったソ連という国は消滅し、分化した。ヨーロッパでは国の希薄化が進み、個人は民族とEUの両方からひっぱられている。ロックの熱いメッセージは無害なダンスにとってかわられた。かつて若者の間にあった巨大な共感は希薄化し、宮台氏の言うように、無数の島になってしまった。確実に近代以降、個人を支えてきたイデオロギー、それにともなう共感は希薄化している。
                                       
 さらに、このようなイデオロギーの希薄化が始まったときには、すでに物資や人の移動はかなり進んでおり、情報化も初期段階であるものの進んでいた。これが共同体の解体をさらに目立たせる結果になったのである。そして、それの影響をもろに受けるのはいうまでもなく個人である。そのインパクトは、まさに前近代の解体に匹敵するほどであるといっ
てもよい。個人は何の準備もなくこれを受け入れ、その孤独感と不安感に対処しなければならなくなったのだ。
                                       
 そして、その答えは、「ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。」(エーリッヒ・フロム,[1941:39])
というフロムの提言と、上に挙げたような19世紀、20世紀の社会の事象の中に隠されている。それはコミュニティというイデオロギーへの帰属による克服である。そして、この現象は、すでに起こり始めている。                      
                                       
4.宗教の復権
                                       
 第一章でもちらりと述べたが、今アメリカでは厳格な原理主義に忠実な保守宗教が再び人々の支持を集め始めている。『NHKスペシャル 21世紀への奔流 第6回 神々への回帰』では、このような現在のアメリカにおける人々の、右派と呼ばれる保守系キリスト教へのたち帰りの状況が克明に撮られている。

 これによると、これらの宗教団体は80年代以降テレビヤラジオ、インターネットといっ
たメディアを使って急速に勢力を拡大し、数百人規模の団体がいくつもできているそうである。

 このなかで撮られている、ある保守派宗教団体を見てみよう。

 「この放送は、コロラド・クリスチャン・ラジオです。この町をアメリカはこうあるべきという模範的な町にしましょう。祈りを捧げればそれは十分に可能です。」(『NHKスペシャル 21世紀への奔流 第6回 神々への回帰』より)          
                                       
 これはコロラド・スプリングスにおけるあるラジオ番組の一節である。宗教団体の進出を積極的に受け入れて、50もの宗教団体が入ってきている人工33万人あまりのこの町では、このような「神々のもとに立ち返れ」という声が最近頻繁に聞かれるようになったという。
 この町最大の宗教団体の代表ジェームズ・ドブソン氏のその放送番組『FOCUS  
 オルドゥヌンクはセツルメントごとに若干異なっており、慣習として守るものと絶対に守らなければならないものとに分かれている。それらを少し挙げると、

 <慣習として守るように指示しているもの>
服装の色と形を守る。
ペンシルベニア・ダッチ語を使う。
礼拝の順序を守る。

 <絶対に守らなければならないと指示しているもの>
自動車を所有したり、運転したりしてはならない。
化粧をしてはならない。
高等教育を受けてはならない。
(池田智,[1995:113−114]より一部抜粋)

 というような具合で、日常生活における様々なことがこと細かく決められている。「何でこんなことまで守らなければならないの」と思う方もいるかもしれないが、これらの一つ一つが、結果的にセツルメントのアイデンティティを保持するのに意味をなしている。
 例えば上にあるペンシルベニア・ダッチ語を使用するという行為は、それをすることによって、彼らが、外部とは異なっていることを意識し、自分たちのアイデンティティを強く意識する。特殊なアイデンティティを形成する源の一つになっているのだ。
 高等教育を受けてはならないというのは、彼らが高等教育を受けることによって、自らの考えをもつようになって、自らのアイデンティティを身に付けるようになるのを防いでいるし、セツルメント内の矛盾に気づかせないようにしているのにも効果的だ。

 もしこれらのオルドゥヌンクを守らなければどうなるのだろうか。もしオルドゥヌンクを守らなかったら、監督のものがその者を時間をかけて説得し、悔いを改めさせる。それでも効果がなかったら、「マイドゥンク」を宣告されることになる。マイドゥンクとはいわゆる社会的追放のことである。池田氏はマイドゥンクについて次のように説明している。

 マイドゥンクを宣告された者は、セツルメントの人々との交流は一切禁じられる。(中略)マイドゥンクを宣告されるということは、友人ばかりか家族や親戚とのつながりも失い、天涯孤独の身の上になることを意味している。(同上P118)

 このマイドゥンクの存在によって、セツルメントから規律上、道徳上の逸脱を粛正し、オルドゥヌンクへの認識を深めるのである。また洗礼を希望するものに対してきわめて慎重な態度で望むことを警告しているのである。(池田智,[1995:118])

 アーミッシュのような平和を好む人々がこのような暴力的措置をとっているのはいささか驚きだが、池田氏の指摘するように、これはセツルメントの規律、アイデンティティを維持する上で欠かせないものなのである。

 第二の彼らがアイデンティティを維持できた理由は、先ほども述べたように、外部の情報の遮断である。

 まず彼らは情報の交信、もしくは受信手段をもっていない。テレビ、ラジオ、電話、新聞、雑誌、パソコンなどすべてである。これらは先ほど述べたオルドゥヌンクによって禁止されているのである。

 彼らは「外の世界」の人々との会話をすることも禁じられている。彼らは人里離れたところで農耕生活をするような人々である。普段の生活では、外の世界の人々と接触するような機会は無いに等しい。だが、そんな彼らでも、どうしても用事があって近隣の町に出なければならないようなときもある。だが、そんなときでも、彼らはセツルメントの慣習にしたがって、外の世界の人々と必要以上に会話を交わすことはしない。

 彼らは新しい参入者に対しても慎重である。彼らは他の多くの宗教団体のように、布教活動や勧誘をしたりしない。新しい参入者をまったく拒否はしないものの、慎重に迎え入れ、もしセツルメントの習慣に従えないようであったら、他の構成員と同様にしかるべき処置の後にセツルメントを出ていってもらうようになっている。

 このようにアーミッシュは価値観を伴った外部の情報がセツルメント内に流入し、内部のアイデンティティに影響をもたらすのを非常に嫌っている。情報媒体ももたないのに情報化社会もくそもないと批判があがるかもしれないが、情報化社会においては「情報を拒否する」という態度は非常に重要なのである。
 
 アーミッシュがアイデンティテイを維持できた最後の理由は彼らがすぐれた契約社会型コミュニティの構造を備えているからである。言い直せば彼らは「再洗礼」という契約システムをとりいれたコミュニティであると言える。もともと彼らが外部の世界と離れていっ
たのも、この再洗礼を巡ってのごたごたに起因する。

 彼らは幼児期に仮の洗礼を受けるのだが、成人したときに、もう一度洗礼するかどうかの機会が与えられる。自分の力で考えられる歳に洗礼を受けるか、受けないかの選択の機会が与えられるのだから、これは非常にフェアでリベラルだと言える。洗礼を受けるものはセツルメントにとどまれる代わりに、オルドゥヌンクの遵守が義務づけられる。これは新しい参入者も同様である。そして、洗礼を受けないものは、セツルメントからでて、自分の力で一般社会で生き抜いていかなければならないのである(若者のうち、5人に一人は洗礼を受けず、セツルメントを出ていくが、そのうち8割は一般社会になじめず、セツルメントに戻ってくるといわれている。)。
                                       
 これはどっちに転んでもコミュニティの結束、アイデンティティを固めるのにいい方向に働く非常にすぐれたシステムと言える。なぜなら、洗礼を受けないものは、セツルメントに不満を抱く、いわばセツルメントにとって悪い血だからである。アーミッシュは子供をセツルメントに順応させるように教育するのだが、どうしてもある一定の確率で不満を抱く輩が出てくる。再洗礼はそういう輩をセツルメントから排出し、残るものにセツルメントの掟と、アーミッシュとしてのアイデンティティを再認識させる合理的な契約システムなのだ。
 ここまでがアーミッシュが理想的といわれる第一の理由、すなわち強力なアイデンティティの維持についての説明である。

 次に、アーミッシュが理想的なコミュニティと言える理由は、彼らが経済的に自立しているからである。しかも合法的に。

 彼らの主な産業は、農業である。「農耕生活は家族を勤勉、質素、倹約、協力、責任といった価値観で強力に結びつけている」(池田智,1995:184)というように、農業は彼らにとって単なる仕事以上の意味があり、かつては仕事もこれのみに限られていたが、近年は人口増加とそれに伴う農地の減少によって、農業だけではまかないきれなくなり、家内制工業によって製造された家具・工芸品、そして女性によるパッチワークなどを観光客たちに販売することによってセツルメント内の経済を賄っている。

 このように事情の変化から苦労して経済を賄っているものの、彼らは自立しており、えり好みするものの、税金もしっかり払っている。

 さて、アーミッシュが理想的なコミュニティである三つ目の理由は、第二の理由ともシンクロしているが、彼らが一般社会との社会的関係を結び利害を一致させている点である。
彼らは、一般社会社会を拒否して生きている。たが、だからといって、彼らがまったく一般社会と関係をもっていないというわけではない。むしろ彼らは、一般社会のいいところと、自分たちのアイデンティティ、規範をはかりにかけて合理的に外の社会を利用している。

 例えば、彼らは外の社会を刑務所のように利用する。なぜなら、セツルメントの生活に適応できなかった者は外の社会に追放されるからだ。
 アーミッシュは科学の進歩に何ら貢献しなかった、いや、むしろそれらを否定してきたが、彼らはそれを利用していると、『アーミッシュの謎』の著者ドナルド・B・クレイビル氏は指摘する。実際の彼らの生活は、近代医学、農学、獣医学に依存しているのが現状だ。

 では、アーミッシュが一般社会に寄生しているのかと言うと、そうでもないと、クレイビル氏は指摘する。例えば、税金である。アーミッシュの税金に対する姿勢についてクレイビル氏は次のように記述している。

「アーミッシュが社会的寄生者であると言う見方は、この謎をねじ曲げてみたものである。
実際彼らは、分担分以上のお金を払っていると主張するというだろう。他のアメリカ人と同様に、様々な地方税や州税だけでなく、不動産税、所得税、消費税等の税金を払っている。事実アーミッシュは、学校税を二重に払っている。彼らが支払っている不動産税によっ
て、しようしてもいない公立学校が維持されている。また、彼ら自身の学校の費用も支払っ
ているのだ。」(ドナルド・B・クレイビル,1996:157)

 そして、クレイビル氏は近隣の住民にとっても、アーミッシュはありがたい存在であることも述べている。アーミッシュのおかげで、その地域を訪れる観光客の数が近年急増しているのだ。それについて次のように述べている。

「アーミッシュが現代文明に抗すれば抗するほど、彼らは私たちにとってますます興味深い対象となる。コミュニティを訪れる観光客の数は、近年急増している。ランカスター郡だけでも、年間500万人ほどの観光客が訪れ、4億ドル以上のお金をおとしている。これはアーミッシュ一人当たり2万9千ドルに相当する。ランカスター郡の観光業は、アーミッシュに全面的に依存しているわけではないが、彼らは観光の中心である。もし彼らがこの地域を立ち退けば、観光収入は間違いなく急減するだろう。」(ドナルド・B・クレイビル,1996:163)

 見た感じは一般社会に寄りかかっているように見えるアーミッシュだが、実際は、一般社会と相互依存の関係を作っていることがわかる。これは彼らの一般社会との距離のとり方と、妥協の仕方のうまさによるものだ。例えば税金に関しても、全ての税金を納めているわけではなく、彼らの教義にてらしてそれに反するものは拒否している。これは彼らがなによりもアイデンティティの保持に精力を注いでいるからだ。

 そして、上述のように彼らは一般社会を利用するが、一般社会もまた彼らを利用している。このようにすることによって彼らは隣人との良好な関係をつくり挙げ、自分たちとうまく利害を一致させてきたのだ。

 彼らを理想的と呼べる最後の理由は、彼らが抜けやすいコミュニティであるからである。
る。少しは止めの説得があるかもしれないが、去るのは基本的に本人の自由意志である。これに入りやすさが加われば、「来るもの拒まず、去るもの追わず」で最高に理想的なのだが、それはコミュニティのアイデンティティを維持するため、いたしかたのないところである。
 コミュニティ社会における「コミュニティの去りやすさ」は重要である。一見まさにアイデンティティの欠如を体現しており、永遠の孤独を感じさせるが、この概念が貫徹されることによって、コミュニティ社会における選択の自由と機会が可能性を広げ、優良なコミュニティは生き残り、駄目なコミュニティは淘汰されていくのである。そして、理想的である第二の理由で述べたように、それはコミュニティのアイデンティティ・秩序を維持するのにも有効に働くというように、コミュニティにとっても決して痛手ではないのである。苦しくなったらさっさとやめて、その情報環境を駆使して自分にあったコミュニティをまた捜せばよいのである。

 以上がアーミッシュが情報化社会における理想的なコミュニティであると呼べる理由である。

6.問われる社会の寛容さ

 アーミッシュは優れたコミュニティであるが、彼らが200年以上もの間繁栄し、存在しえたのにはアメリカ社会の「寛容さ」が大きく関係している。これが日本であったらとっ
くの昔にアーミッシュは滅んでいたかもしれない。日本は特別宗教に対しては閉鎖的なのである。私がプロテスタントのクリスチャンであるオスカーさん(仮名)にインタビューした際も「友人に(自分のことを)話すのをためらう」くらい日本という地は宗教に対して閉鎖的であることを漏らしていた。

 すでにこの章の中頃でも述べているように、寛容さのない状況は、かえって情報化社会人を衝動と抑制の板ばさみにしてしまい、窮地に陥らせてしまう。それゆえ、存在を尊重する寛容さの導入は切迫した問題なのである。まず情報化社会を迎えるのに必要なのはパソコンや情報ハイウェイではなく、コミュニティに対する社会的寛容さなのかもしれない。

<引用・参考文献>
                                       
Fromm Erich,1941,ESCAPE FROM FREEDOM,Tok            yo Sogensha=1951日高六郎訳,『自由からの            逃走』,東京創元社
池田智 1995,『アーミッシュの人々』,サイマル出版会
Kraybill,Donald B.1989,THE RIDDLE OF ARM                 IH CULTURE,John Hopkins                  University Press=1996                    杉原利治他訳『アーミッシュの謎』論創社 
宮台真司,1994,『制服少女たちの選択』,講談社 
中沢新一,1995,『オウム真理教の深層』,青土社 
西垣通,1995,『聖なるウ゛ァーチャル・リアリティ』,岩波書店 
西垣通,1994,『マルチメディア』,岩波書店
岡田斗司夫,1996,『オタク学入門』,太田出版 
菅原千代志,1996,『アーミッシュ』,丸善ブックス 1996
『別冊宝島229 オウムという悪夢』,1995,宝島社 
『宝島30 80年代オカルトのヒーローたち』,1995,宝島社 ・      
                                       
<ビデオ>
『NHKスペシャル 21世紀への奔流 第6回 神々への回帰』1996,NHK 
                                       
                                       
論文構造設計表                                
                                       
第1章 情報化社会への懸念  第2章コミュニティ依存             

主要命題:情報化社会においてヒトはコミュニティ依存になる。          
                                       
主要問題:情報化社会におけるアイデンティティ・クライシス危機はいかにして克服でき     るか?
主要回答:コミュニティへの依存
 
  問い:情報化社会はどのような社会か。
  答え:ただ膨大な情報が漠然と存在してしいる社会。
  問い:そのような社会において人はどうなるか。
  答え:アイデンティティの危機に陥る。
  問い:それはどのような状態か。
  答え:社会にそして自分に不確かさの感情を抱き、不安定な状態。
  問い:それはどのようにして克服できるか。
  答え:コミュニティへの依存。
  問い:どうしてコミュニティに依存すれば克服できるのか。
  答え:コミュニティが「私」のアイデンティティを保障し、安定感を与えてくれるか     ら。
  問い:そのなかでも理想的なコミュニティを挙げよ。             
  答え:アーミッシュ。                           
  問い:それはなぜか。
  答え:この場合において最も重要なのは、コミュニティにおけるアイデンティティの     維持であるが、アーミッシュは実にうまく維持し、かつ社会ともうまく適応し     ているため。
  問い:情報化社会に求められることはなんだろう。
  答え:コミュニティを容認する寛容さ

第三章 暴力への警戒
                                       
1.現れ始めた数々の暴力                           
                                       
 今まで見た来たように、情報化社会はコミュニティが乱立するコミュニティ社会である。
たとえそれが社会的束縛を受けるとしても、衝動は止めがたいものがあり、現在のアメリカの状況、ソ連解体後のロシア、そして、日本の島宇宙化したコミュニケーション空間を見てもその予言は疑いがたい。                         
                                       
 コミュニティ社会は情報化社会によって生み出された不安感や孤独感を克服するのに有効であるが、その一方で別の問題をしょい込むことも予想される。そしてその問題の一端が、現在のコミュニティ社会のささやかな始まりとともに見え隠れしている。    
                                       
 『NHKスペシャル 21世紀への奔流 第6回 神々への回帰』には、宗教に拠り所を求める人々の姿が克明に写し出されている。だが、それと同時にそのような人々が暴力的行為を行う姿もいくつか記録されている。
                                       
 今アメリカでは黒人教会への放火が相次いでいるという。サウスカロライナ州のマセドニア教会もそんな教会の一つだ。
 放火犯は白人青年二人で、白人のキリスト教組織(K.K.K.)に所属していた。

 焼けたマセドニア教会のモーゾン牧師は次のように語っている。
「日曜日の朝、白人と黒人はそれぞれ群れとなって白人教会、黒人教会ヘと向かいます。今ほど教会の分離が進んだことはありません。本来私たちは同じ神に仕えているのに。」(『神々への回帰』より)

 本来同じ神に仕えるもの同士でもアメリカという土地では敵同士。教会が白人、黒人それぞれの不満を束ね、自分たちの利害にかなうように聖書を解釈して利用している。

 K.K.K.が配布したパンフレットの見出しは象徴的だ。
「THE BIBLE ANSWERS RACIAL QUESTIONS(人種の問題に聖書が答える。)」
 その内容は聖書をふんだんに引用して、白人の黒人に対する優位性を述べたものである。
そのなかの引用した聖書の一節
「汝等は彼らの祭壇を破壊し、石の柱を打ち砕き、偶像を切り倒さなければならない。」(EXODUS 34:13)

 K.K.K.の幹部ビーズリー牧師は次のように述べている。
「私が見た限り聖書の中には、愛よりも憎しみのほうが多くかかれています。黒人たちは私にとっては下僕なのです。別に彼らに対して悪意があるわけではありません。ただこれはあらかじめ定められたことなのです。」

 サウスカロライナ州の白人教会、プレザントバインズ教会の信者バド・シャープさんも不満を抱える人の一人だ。
「政府が我々に白人と黒人の融合政策を押しつけてきた時から、この国の崩壊が始まったのだ。そもそも異なる人種が交わることなど神は我々に望んでいないのだから。」

 これに対して、たび重なる教会の焼き討ちに業を煮やした黒人たちがジョージア州・アトランタのニューバース教会で決起集会を開いている。(その数4千人!)その集会に参加した黒人青年の興奮しながら語った言葉
「キリストは立ち上がったのだ。もうたくさんだ。政府が何もしないなら、俺たち自身がやらなければいけない。だから自警団を組織して自分たちの教会を守ることにした。」

 アメリカにおける教会焼き討ち事件はコミュニティの共存の難しさの問題を象徴している。ここには愛が憎しみに刷り替わり、嫌悪の感情が暴力に発展する様子がはっきりとみられる。我々が通常、「理性的な人間」と呼ぶ人たちの姿はここにはない。

 この問題の底辺には、黒人と白人の間における利害の不一致からくる不満があると言われている。最近サウスカロライナに限らず、アメリカでは「プア・ホワイト」、「ホワイト・トラッシュ」という言葉が聞かれるようになってきた。これはアメリカにおいて、貧しい白人が増えてきたことを指す。アメリカの黄金期であった50年代は白人は水準の高い生活をしており、「アメリカン・ドリーム」という言葉も猛威をふるっていた。だが、現在のアメリカにその面影はない。「アメリカン・ドリーム」を口にするものはめっきり減り、白人は思うような生活が送れなくなり、それに比例するように白人の失業者の数も増えている。だが、それとは逆に法律で平等が保障された黒人は様々な場に進出している。
それで「我々がこのような生活をしなければならないのは黒人のせいだ。」というふうに白人の黒人に対する不満が高まる。そしてそのようにしてできた不満を教会が束ねるわけである。

 そこまでくると白人が「理性なき」行動に出るようになるまで時間がかからない。教会が宗教の教義を利用して彼らの不満をさらに高め、そのはけ口を示唆してやるだけでよいのだから。実際マセドニア教会の放火犯の青年二人も白人教会で「黒人教会は黒人に職へのありつき方ばかりを教えている。」という説法を聞いて、不満をあおられていたという。
                                       
 そしてそれに対して今度は黒人の側に不満の感情が生まれる。不満を持ったものたちが群れとなって日曜日に教会に集まり、お互いのもっている不満について話し合い、共有感を作り出す。「まったくあいつら頭に来るよな。」「ああ、これが初めてじゃないぜ。」というように。そしてお互いに不満を高め合ったところに、黒人教会がその不満を束ね挙げ、煽る。それによって不満は報復行動になり、それによって生まれる憎しみと報復、そしてそのまた報復という繰り返しになり、「理性なき闘い」がサイクル化されるわけである。

 利害の不一致と言えば、ミリシアの人々も利害の不一致から不満を抱いている。彼らの不満の矛先はアメリカ政府だ。
                                       
 ミリシアとはキリスト教と結びついた武装した民兵組織である。アメリカ各地に少なくとも217の組織があるといわれ、訓練を行っているものの数は、10万を超えると言われている。民間人が武装することがほとんどの州では違法ではないアメリカならではのことだ。だが、皮肉にも先ほど述べたように彼らの不満の矛先は連邦政府である。来るべき将来、連邦政府と一戦交えることを想定して訓練を行っている。
 そして、全米各地のミリシアは、インターネットでつながっており、もし何か有事があっ
たなら、いつでも協力できる態勢が整っている。
 
 クリスチャン・ミリシアのコンプトン司令官は次のように言っている。
「キリスト教の信条と寛容さは何の関係もない。もし何者かが自分たちを傷つけようとするのなら、我々キリスト教徒も自分や家族を守るために立ち上がる権利をもっている。
 我々のようなキリスト教徒の愛国者にとってもっとも重要なのは聖書なのだ。」

 先ほどもくり返し述べたように、彼らは不満の矛先を連邦政府に向けている。彼らはアメリカ建国当時のキリスト教精神を懐かしく思い、それがすたれ、変わってしまったアメリカに不満を感じているのだ。
 そして彼らは聖書に書かれている終末を信じている。終末の前に起こる最終戦争に備えて訓練を行っているのだ。

 彼らの不満は日に日に高まっている。宗教がそれに油を差している状態だ。彼らが「理性なき闘い」に行動を移すには、誰かが導火線に火をつけるだけの状態である。

 中絶に反対するキリスト教団体の行動もコミュティによって生まれる暴力といえる。
 ここには中絶を阻止しようとするキリスト教団体のカリフォルニアでの全国集会の模様が撮られている。彼らの主張は「妥協せず、例外はなく、そして言い訳は許さず」であり、
「レイプや近親相姦であっても、産まれてくる子は神との約束によって授けられた命であるから、それを絶つようなことは許されない」というわけである。

 彼らは、デモを行った後に病院に実力行使に向かっている。人の壁を作って中絶を行おうとする女性を診察室に入れようとしない。女性も何とかして診察室に入ろうとするが、若い男性の信者がドアの前に立ちふさがり、結局女性は診察を受けられず、憤慨して病院をあとにした。(以上『NHKスペシャル 21世紀への奔流 第6回 神々への回帰』の記録をまとめたもの。)

2.コミュニティと暴力                            

 地下鉄サリン事件、ヘブンズ・ゲートの集団自殺、そして上にあるような数々の暴力、遠くさかのぼると、ナチスによるユダヤ人虐殺。これらの歴史上のコミュニティと暴力の関わりを見てくると、コミュニティと暴力は無関係でないことを認識させられる。つまり、
コミュニティはもともと一つの有機体であって、他の性質を受け入れがたい。そしてその拒否反応は、暴力という形で顕在化すると。

 日本で宗教やコミュニティ対して拒否的な性質があるのも、決してそれは日本独特の社会的土壌だけによるものだけでなく、その底辺には、社会の有機的性質を感じる。それは日本という一つの巨大なコミュニティとしての有機的性質だ。

 そして、このような他を暴力という行為で拒否する性質は、コミュニティ内の団結を固める効果もありそうである。それに関して、浜口恵俊氏は、その著書『日本的集団主義』のなかで、おもしろい例示を挙げている。                    
                                       

 昔、ブラジルに山を隔てて二つの部族が住んでいて、一年に一度決められた日に山を登っ
て戦争をしていた。その日が終わると、互いに山を下りて、傷を癒して、敵に対する憎しみをためながら一年過ごす。そして、またその日がくると山に登って戦争を行うという行為を毎年繰り返していた。。
 あるとき、ポルトガル人が来て、二つの部族は互いに銃を手に入れる。すると、これまでになく、死傷者が出たために、この決められた日の戦争はなしにしようということになっ
た。すると、思いがけないことに、それまで、固く団結していたそれぞれの内部に、喧嘩・
口論、傷害沙汰が起こって、しまいには二つの部族とも崩壊してしまった。(『日本的集団主義』P70を要約)
                                       
 このような機能、すなわち、暴力や戦争によってコミュニティ内の結束が固まるという機能は、白人教会や黒人教会の例でもみられる。彼らは、互いに暴力的行為の実行、もしくは暴力的衝動を高めることによって、敵との間にきっちりと線を引き、コミュニティ内において緊張を高め、コミュニティ内における結束をより強めていた。そして、その結束力や高揚感に自ら酔っていた節も見られた。島薗進氏は、その著書『現代宗教の可能性』のなかで、リチャード・ドーキンス氏のミーム論を挙げて、宗教と暴力の関係について、次のように言及している。                           
                                       
「『アエラ』誌、1992年10月27日号は、「利己的遺伝子」=「ミーム」を唱えるリチャード・ドーキンスの新しい遺伝子理論に焦点を当てながら、「人はなぜ憎しみ合うのか」という特集を組んでいる。『アエラ』誌のとらえるところでは、遺伝子には自らと同じものを生き残し、繁殖させるための情報を伝えようとする傾向がある。ドーキンスは遺伝子のこの要素を「ミーム」と名づけた。人間の暴力的行動の根はこの「ミーム」にある。自己保存を求める強いミームが生き残っていくのだが、「民族」や「宗教」はそうした強いミームの現れなのだ。強いミームは敵への憎しみを育てて外部への攻撃性をあおるとともに、内部の結束を固めさせる。ここには集団的暴力という人類の巨大な悪が、「宗教」によって増幅されてきたとする見方がある。(島薗進,[1997:5−6]) 
                                       
 暴力の性質や普遍性については、まだまだ疑問の余地が多く。はっきりと解明されているとは言い難い。ミーム論によればヒトは自己保存を強く求めるミームによる暴力性をもともともっているということになるが、それに対して、ヒトは状況によって暴力的性質を帯びたり、そうでなかったりするのだ、という見方もある。そして、その中間をとって、ヒトはもともと暴力的衝動を備えているが、環境によってそれが引き出されたり、抑えられたりするという見方もできる。いずれにしろ、暴力については不明な点が多い。  
                                       
 だが、数々のコミュニティと暴力の関わりをみる分には、島薗氏の見方は当たっていると言える。確かに暴力が顕在化したコミュニティについては島薗氏の見方は当たっているが、顕在化していないコミュニティについてはどうであろうか。それらにも島薗氏の見解とシンクロするところはあるのであろうか。もし暴力が普遍的にコミュニティと関わりがあるものなら、それらはどのようにして、それを回避しているのだろうか。200年以上もの間、暴力的行為に及んでいないアーミッシュを再び分析し、検証していく。   
                                       
3.アーミッシュにみられる暴力回避の仕組み                  
                                       
 前述のように、アーミッシュは長年に渡って暴力的行為に及んでいない。それは、彼らの平和的と呼ばれる性質、すなわち、競争や争いを禁止する彼らの規範が作り出す性質が多いに貢献していることが考えられるが、それだけではないのではないか。     
                                       
 アーミッシュは200年以上もの間、暴力的行為に及んでいないと述べたが、それは正確ではない。確かに、外部に対しては、そういう働きかけはなかったが、内部においては別である。すなわち、それは第二章で述べたマイドゥンクのことを指す。      
                                       
 マイドゥンクはご承知の通り、彼らの日常の約束ごとであるオルドゥヌンクに従わなかっ
たものに適用されるアーミッシュ独特の罰則的処置であり、平和的と呼ばれる彼らゆえに、
その暴力的行為には驚きも多い。                        
                                       
 わたしは、この内部における暴力的措置に島薗氏の述べている暴力の機能、外部に対しての暴力の働きかけがもたらすのと同様の機能を見出している。          
                                       
 これにあてはめて考えると、約束事に従わないものは、コミュニティの内部に居ながらも、それはコミュニティに従わなかったということで、瞬間的にコミュニティに対して他者である。つまり、実際はコミュニティの内側にいても、精神的には外側にいるものなのである。それを明確化するのが、マイドゥンクである。その内部における逸脱者に対して、
無視するという暴力的行為を行うことによって、逸脱者を明確に外部化し、境界をはっきりさせるのである。

 この行為に対して、アーミッシュは再びセツルメントに戻ってきてほしいという愛情からこの行為に及んでいる説明しているが、実際の機能は、この暴力的措置を行うことによっ
て、境界を認識さして、内部の結束を高めているのである。そして、これは他の仕組みによって、内部のアイデンティティが強く維持されているアーミッシュだからこそ効果的なのである。このように、アーミッシュは内部におけるこの儀礼的な暴力行為をが効果をあげることによって、内部の結束を高め、効果的にアイデンティティを維持していくことができたため、外部に対してそういう暴力的働きかけをする必要がなかった。もしくはそういう機会もなかったと考えることができる。
                                       
 ここまでは、島薗氏のいうコミュニティと暴力の関係性がアーミッシュにもみられ、その独特のやり方が功を奏し、彼らが外に対して暴力的措置を行わなくてもコミュニティを維持してこれたことについて述べてきた。                    
                                       
 だが、この内部における暴力的措置のほかに、もう一つ彼らが外に対しての暴力的働きかけを抑止していた仕組みがあることをあげたい。                
                                       
 私は前述のプロテスタントのクリスチャンであるオスカーさんにずばり次のような無理な質問をぶつけてみた。                            
                                       
「なぜ宗教的コミュニティは暴力事件に関わることが多いのだろうか。」      
                                       
 それに対して彼は次のように答えている。                   
                                       
「あんまりはっきりはわからないれど、そういう行為に及ぶ教団は、カリスマ的指導者がいることが多いですよね。やはりそのような教団では、決定件がカリスマにゆだねられて絶対的になるからカリスマの自我みたいなものが表出しやすいのではないでしょうか。」                                       
 では、あなたの教会はそうじゃないのかと聞くと、彼は次のように答えた。    
                                       
「僕らの宗派では、基本的に一人の人が権力をすべて握るのを禁止した形になっています。
そのため、通常牧師と呼ばれる人も僕たちの教会にはいません。それは僕たちと並列的に並んだ中から、代表者のような人が牧師のような役割をしていますが、その人と僕たちの間には上下関係はありません。」                        
                                       
 オスカーさんの宗派はあまり争い事に巻き込まれたというようなことは聞いたことがないそうであり(本当かどうかわからないが)、比較的社会とうまく対応しているコミュニティだと言える。オスカーさんのいうような代表者と一般の信者の間に上下関係がないというのは、そのまま受け入れがたいが、タテマエとしてそういうことが信条とされているのは重要である。そして、カリスマ的な人をおかないというのは、案外、外に対しての暴力的行為を抑止するのに、有効なのではないかと思える。             
                                       
 確かに、コミュニティと暴力事件の背景には、カリスマ的指導者の影が多々ある。 
 そして、アーミッシュもオスカーさんの宗派のように、権力が一人の人間に集中するような仕組みをもっていない。権力が分散している。これについては、池田氏の説明を見てみる。                                    
                                       
「セツルメントでは、一つの教区に普通監督が一人、説教者が二人、執事が一人いる。彼らは教区のなかで選ばれ、無報酬でそれぞれの任に当たるが、特別に宗教上の訓練を受けているわけではなく、日常は他の人たちと同じように、農耕やその他の仕事にいそしんでいる人たちである。                              
 監督は会員を精神的に支え、セツルメント運営上の監督もしなければならない。また聖餐式、結婚式、葬儀、聖職按手式などの式を執行する仕事も任されている。     
 説教者は、メモや特別な準備をせずに一時間以上に及ぶ説教をする役割を与えられている。」(池田智,[1995:175−176])                
                                       
 このように、アーミッシュでは全権的な指導者はいない。権力は分散化している。確かに指導者に当たる人はいるが、この人物はコミュニティにおける全権をもっているわけではない。大事なことは協議で決定される。決定権が指導者に委ねられているわけではない。
基本的には話合いで決定されるのである。オームやナチスの場合とはここが違う。彼らの場合、決定権は基本的にカリスマに委ねられていた。               
                                       
 では、なぜカリスマ的な存在は暴力を招きやすいのだろうか。それは、一人の人間にすべてを委ねるということはその絶対的存在を認めることにほかならないからではなかろうか。絶対的であるということは周りにそれを抑止するものがない状態である。そのような状態では、彼のミーム的暴力性が顕著になってしまうと考えることができる。    
 もしこれがアーミッシュのように、権力が分散化してしまうのならば、例え指導者的地位にいたとしても、彼は絶対的存在とはいえない。社会的存在なのである。かれは社会的抑止力によって自我が抑えられているのである。このような状態ではミーム的暴力性も顕在化しにくいのではなかろうか。                        

では、絶対的な存在のカリスマは、その暴力をどこに働きかけるのだろうか。身近にいる人に働きかけるのだろうか。いや、そうではない。なぜなら、彼の周りにいる信徒は彼の身体の一部である。内的存在だ。それゆえ、その抑止されない暴力性は彼とは異質の他者に向けられる。                               
                                       
 そして、そのようなカリスマ的身体に依拠することによって、コミュニティ内の暴力性が増幅されることを西垣通氏はその著書『聖なるウ゛ァーチャル・リアリティ』のなかで、
次のように述べている。
                                       
「太古から狩猟生活をしてきたヒトの身体のなかには、もともと攻撃性や暴力性が巣くっている。われわれがそれを抑圧しているのは、近代国家制度の元での規範だけでなく、自分の肉体の物質的有限性のために他ならない。自分の肉体、そして他者の肉体が、所詮ははかない小さな肉片に過ぎないという認識は、とめどない権力欲に自らブレーキをかける。
」(西垣通,[1995:175])                      
「だが、制度的・形式的に「高次の自己」の地位が認められ、「偽王」(カリスマ)によっ
てお墨付きを与えられることによって、ここのうちに潜む権力欲の行使は正当化されるわけだ。いまや、欺瞞的な平等社会で長い間鬱積してきた怨念は、はけ口を見出す。そこでは恐るべき暴力さえも「聖なるもの」と化すのである。(西垣通,[1995:174])

 カリスマ的コミュニティは絶対性の肯定を意味する。そのようなコミュニティでは、カリスマの絶対性に象徴される権威によって、抑え込まれていた暴力性がいっきに噴き出すのだ。オウムの場合は麻原がそうであり、白人教会の場合は神の権威を背景に掲げ、聖書を引用して、黒人に対する憎しみをあおり立てる牧師がそうである。西垣氏のいうように、
このような状況において、聖なる「暴力」が顕在化するのだ。

 このように、カリスマ的指導者をおくコミュニティにおいては、暴力性は顕在化しやすいといえる。それに対して、そのようなカリスマ的指導者をおかないコミュニティにおいては、カリスマ的身体をおくコミュニティよりは、暴力を正当化する権威がなく、絶対性の強調がより小さいという意味で、暴力が顕在化しにくい性質があるようである。

<引用・参考文献>
池田智,1995,『アーミッシュの人々』,サイマル出版会 
浜口恵俊・公文俊平,1982 『日本的集団主義』,有斐閣 
Kraybill,Donald B.1989,THE RIDDLE OF ARM                 IH CULTURE,John Hopkins                  University Press=1996                    杉原利治他訳,『アーミッシュの謎』,論創社中沢新一,1995,『オウム真理教の深層』,青土社
島薗進,1997,『現代宗教の可能性』,岩波書店 
西垣通,1995,『聖なるウ゛ァーチャル・リアリティ,』岩波書店 
菅原千代志,1996,『アーミッシュ』,丸善ブックス 1996
『別冊宝島229 オウムという悪夢』,1995,宝島社 
『宝島30 80年代オカルトのヒーローたち』,1995,宝島社 

<ビデオ>
『NHKスペシャル 21世紀への奔流 第6回 神々への回帰』,1996,NHK 
                                       
                                       
論文構造設計表                                
                                       
主要命題:コミュニティは暴力を行うことによってその結束を固めている。     
                                       
主要問題:コミュニティと暴力の間にはどのような性質が見られるか。       
主要回答:暴力的行為に及ぶことでコミュニティの結束を固めるミーム的性質。

  問い:コミュニティ社会における最も重大な問題は何か。           
  答え:コミュニティ、もしくはコミュニティ同士の暴力。           
  問い:なぜコミュニティは暴力を起こしやすいのだろうか。          
  答え:そのミーム的性質によるため。                    
  問い:それはどのようなものか。                      
  答え:暴力的行為、もしくはそのような衝動をあおることによって、他者の間に境界     を引き、内の結束を強めるという性質。                
  問い:平和的と言われるアーミッシュにもその性質はみられるか。       
  答え:みられる。                             
  問い:それは何にみられるか。                       
  答え:マイドゥンク                            :  問い:それは何か。                            
  答え:アーミッシュにおける約束ごとを破ったときに課される罰則で、セツルメント     の物として扱われなくなる無視行為。
  問い:その行為のどこにミーム的性質が見られるか。
  答え:マイドゥンクを課されたものは、瞬間的にセツルメントに対して他者となり、     明確な線を引かれ、それによってコミュニティ内の結束が固まるという機能は     ミーム的性質であるから。

第4章 対話から立ちのぼるリアリティ                     
                                       
1.コミュニティの共存はいかにして可能か。                  
                                       
 私は、第一章において情報化社会の構造が孤独感と不安感に満ちた個人を作り出し、第二章において情報化社会人のそのような性質は近代人のそれとよく似ており、フロムの理論をもとに、コミュニティ社会の到来は、情報化社会人の孤独感および不安感を克服するための不可避的な選択であり、これを疎外するような環境は、さらなるストレスを産みかねないと主張した。だが、第三章ではコミュニティ社会の暴力性及び危険性について言及し、コミュニティと暴力の間には、島薗氏のいうようなミーム論的関係があることをあげた。そしてアーミッシュをもとに、外部に対して非暴力的に仕向けるような仕組みがあるのではないかと思い、内部における象徴的な暴力とカリスマ不在の社会がそれであると述べた。

 このように、情報化社会を生きるにふさわしいコミュニティの例としてアーミッシュを挙げ、その構造は暴力回避的であると述べたものの、それによって全てがアーミッシュ的なコミュニティを目ざしたり、なれるというわけでもない。
                                       
 実際、彼らは人里離れた農村地帯という特異な条件を背景に繁栄してきたコミュニティである。その条件が幸いして内部志向でありえたかもしれないが、それが例えば都市部に身を置いていたら、外部志向にならざるを得ないかもしれない。それに、例え都市部でも内部志向を維持できたとしても、他がアーミッシュと全て同じ構造とは限らず、外部志向につぶされてしまうかもしれない。そうなれば、黒人教会と白人教会のような終わりなき争いに巻き込まれかねない。
                                       
 そのうえ、この暴力回避の仕組みには、社会との間でいささか矛盾がある。このアーミツシュの暴力回避の仕組みにはカリスマの不在が含まれていたが、カリスマこそが情報化社会の最大の魅力なのである。
                                       
 すなわち、アーミッシュの暴力回避の構造のある程度有効性は認めるものの、完璧ではないのだ。他の策との掛け合わせが要求されるのである。

 では、暴力を回避するにはどのような策が有効なのだろうか。
                                       
 コミュニティ社会における暴力をいかにして克服していくかという問題は、いかにしてコミュニティ同士が共生していくのかという問題にも含まれる。この問題に関して、共同体同士が互いに不透明で並列的な島宇宙社会が到来すると主張している宮台真司氏はその著書『世紀末の作法』の中で、次のような見解を示している。           
                                       
「社会学はかねて二種類の秩序を考えてきた。一つは「共同体」的秩序。そこでは人々が同じ感じ方や振る舞いをするので明示的ルールは必要ない。明示の維新政府は、顔見知りのムラ共同体に生きていた人々を国家大の人為的共同性へと引きずり出して国民化することに成功。以降私たちは国家を、共通の体験構造=伝統文化に支えられた共同体として発想しがちになった。それが、何かというと「共同性回復」という見当違いの処方箋が出される背景だ。                                 
 ところがもう一つ「社会」的な秩序がある。「社会」という観念は、皆が同じものを同じように体験するという自明性が失われるフランス革命期に生まれた。       
 放っておくと殺し合いをしかねない、異なる神を奉じ、別の利害をもつ人が、明示的ルー
ル(宗教的寛容など)を共有し「共生」する社会。現実にはさまざまな虚構がルールの共有範囲=国民国家を正当化するシンボルとして利用されたが、いずれにせよ彼らの歴史が教えるのは、共生のための明示的ルールが、自己決定する主体同士の軋轢からしか生まれないという事実である。」(宮台真司,1997:246)            
                                       
 私はここでの宮台氏の主張に賛成の意を示す。コミュニティに志向した社会に共同性を押しつけることは適しているとは言い難く、そのように社会がそしてメディアが分化してしまうと、共同性を伝えることは困難になるのだ。それゆえ、互いが殺し合わないための透明なルールを明示的なルールを共有する軋轢の中から築いていくしかないのである。
                                       
 では、軋轢とは何のことをさすのだろうか。
 これは、さまざまな場合を指しうるが、私は、それをコミュニケーションという行為に求めたい。では、明示的なルールとは何であろうか。軋轢がコミュニケーションなら、この場合は明示的ルールはコミュニケーションを行うためのルール、すなわち社交術と解することができる。
 このようなわけで、この章ではコミュニケーションと社交術にコミュニティ社会における共生の可能性を探りたい。

2.ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論
                                       
 ハーバーマスは、コミュニケーション的行為の理論において、コミュニケーション的行為における合理性が社会化においてどの程度見られるのか、その可能性を探ろうとしている。                                     
                                       
 コミュニケーション的行為とは、「コミュニケーション的合理性」に基づいた、了解志向的な言語を媒介にした行為ということができる。ここで言われている合理性とは、「論証的談論において発揮されるような、強制無しに一致して合意を創出していく力の経験」(ユルゲン・ハーバーマス,[1990,82])である。このようなコミュニケーションによって達成される同意は、潜在的な可能性を秘めていたが、個人主義に基づく資本主義的構造の中で、選択肢から除外されたのだという。
 それゆえ、ハーバーマスは、了解志向的なコミュニケーション的行為を(上記のような社会構造から選択された)成果志向的な道具的行為、戦略志向的行為とは区別して次のように述べている。

「成果志向的行為を技術的行為規則に従うという局面で考察し、状態や出来事の連関への介入の実効度を評価する場合には、その行為を道具的と呼ぶ。また成果志向的行為を合理的選択の規則に従うという局面で考察し、理性的である相手方の意志決定に与える影響の実効度を評価する場合には、その行為を戦略的であると呼ぶ。道具的行為は社会的相互行為と結びつくことが可能であり、戦略的行為はそれ自体が社会的行為である。これに対してわたしがコミュニケーション的行為と言うのは、参加している行為者の行為計画が、自己中心的な成果の計算を経過してではなく、了解という行為を経て調整される場合である。
 コミュニケーション的行為では、当事者は第一次的には自分自身の成果に方向づけられはいない。当事者たちは自分の個人的な目標を追求するのではあるが、それは、かれらが共通の状況定義に基づいて自分たちの行為計画を互いに同調させることができる、という条件の下でのことなのである。」(ユルゲン・ハーバーマス,[1986:22])

 さて、このコミュニケーション的行為を語る上での二大概念と言えば、「生活世界」と、
「了解」であるといえる。ハーバーマスは生活世界について次のように述べている。

「生活世界は、ある状況にまなざしを向けた視座のもとで、コミュニケーション参加者が共同の解釈過程のために利用するさまざまな自明性ないし不動の確信の貯蔵庫として登場する。しかし、個々の要素ないし特定の自明性は、それがある状況にとって有意的になる場合にはじめて、合意されているとともに問題化可能な知という形で動員されるのである。
」(ユルゲン・ハーバーマス、1987、P24)
                                       
 簡単に言えば、生活世界とはコミュニケーション的行為を行う際に用いられる背景的知識の貯蔵庫であるといえる。それゆえ、生活世界それ自体はあいまいであり、ハーバーマスもこれといった定義はしていないみたいである。そして、了解については次のように述べている。

「了解とは、言語能力と行為能力をそなえた主体の間で一致が達成される過程である。(中略)了解過程がめざすのは、ある発言の内容に対して合理的に動機づけられて賛同するための条件を満たしている同意である。」(ユルゲン・ハーバーマス,1986,P24)

「了解は目的因として人間の言語に内在しているのである。」(ユルゲン・ハーバーマス,
1986,P24)

 了解とはある「言語表現」の一致である。何を表現しているかということについて一致させることであり、答えや、意見の一致とは区別したほうがよさそうである。そして、さらにハーバーマスは発話するという行為の中には、それを志向する潜在した力があるとも言っているようだ。そして、そのハーバーマスの言う生活世界と了解の関係について橋本氏は次のように説明している。

「了解と生活世界との間の循環がコミュニケーション的行為の核心だということである。コミュニケーション参加者は客観的世界/社会的世界/主観的世界のうちの事実に関して行為し、あるいは発言することで真理性/正当性/誠実性の各妥当要求を立て、了解を達成しようとする。そのさいには生活世界から供給される共通の背景的知識によって了解のためのコンテクストが形成されるのであるから、了解過程にとって生活世界は不可欠である。また逆に、こうした了解過程を通じてコミュニケーション参加者間の生活世界が再生産されるのであるから、生活世界にとって了解過程は不可欠である。だから、了解活世界の循環はコミュニケーション的行為、ひいてはコミュニケーション的合理性の基盤となるはずである。」(橋本直人,ハーバーマスを読む』P97)

 我々はコミュニケーション的行為を行う際に、生活世界から知識を引き出して相互了解的に行為を行う。そして語り手は批判的なレベルで、上に挙げたような3つの領域に関して、真理性、正当性、誠実性の各妥当要求を立てる。そして、受け手はその生活世界から得られる背景的知と、己のコミュニケーション能力を利用して適切な言葉を返す、という
ふうにくり返していくことによって、了解に達する。そしてそれによってえられた了解によって再び生活世界が再生産されることになる。つまり、橋本氏の言うように生活世界と了解過程は循環関係にあり、相互依存的であることもわかる。そして、このハーバーマスによれば、この循環関係によってコミュニケーション的行為が成り立っていることになる。

 だが、了解は全ての場合において達成されるものではないとハーバーマスは言っている。
了解が達成されるには、理想的発話状況が想定されなければならないのだ。理想的発話状況の定義については、次のとおりである。                    
                                       
「ハーバーマスのコミュニケーション理論において提起された、合意が真であるための条件。ある討議において成立した合意が真であると認めうるには、その討議が誠実に遂行され、また発言の平等なチャンスが保障されるなど、理想的な状況があらかじめ想定されているのでなければならない。」(社会学辞典,[1994:910])       
                                       
 そして、この理想的発話状況を実現するのがコミュニケーション能力というわけである。
                                       
 ハーバーマスはコミュニケーション的行為のモデルとして、「討論」を想定しているが、
その討論を行う際に必要な能力がコミュニケーション能力なのだということができる。
それによれば、コミュニケーション能力とは主観、社会、客観の各領域を区別することができながら、批判的な反省のレベルで言語使用を行うことのできる能力だということができる。                                    
                                       
 ハーバーマスはこのような能力を行為者が互いに備えている場合に、了解が達成されると言っている。だが、現在の社会構造、すなわち発達したメディアや個人主義的資本主義の中で、この能力はますます低下する一方にあり、コミュニケーション的合理性は否定され、潜在的なものになってしまったとハーバーマスは言っているのである。     
                                       
3.コミュニケーション的行為の理論への批判                  
                                       
 ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論はウェーバーの展開している合理化とその合理化の行き着く先が、凝り固まった官僚制である「鉄のおり」と世界の意味喪失がもたらす「神々の永遠の闘争」を克服するものとして、否定された選択肢である「コミュニケーション的合理性」を掲げているのである。そして、ここで問題としているのは、「神々の永遠の闘争」の方である。

 ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論によれば、言語に秘められた合理性によって、諸価値が争っている状態は、コミュニケーション行為者が互いに能力を備えて、了解を志向していれば、言語に潜在する合理性を引き出すことによって克服できるとなっているが、その合理性の説明については、不明瞭な点が多く、はっきりした記述がない。例えば、異なる生活世界を有している異質なもの同士が、いかにして合理性によって同意に達していくのかということについての記述は見当たらない。そもそもその潜在的な合理性、理性というのも疑わしいものだ。それにハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論には、そのコミュニケーションの場の感覚から立ち上がる意味というものを全く無視してはいないか。                               
                                       
 ハーバーマスの理論によれば、理性が社会化をしていくということにつながるが、わたしはここで、むしろ逆の見方を提起したい。まず感覚というものがあって、そこから意味・
理性・リアリティそして秩序が形成するということを。              
                                       
 私が第一章で述べたように、情報というものは、私が意識しようとしまいと、私の中に入ってくるのである。それに意味があろうと。なかろうと。そして、我々はそういうものに、現実の感覚、いわゆるリアリティを支えられているのである。西垣通氏は、ヒトと感覚、そして理性について次のように述べている。                 
                                       
「生来、われわれ生物は感覚に基づいて生きている。感覚器官から入ってくる情報にもとづいて環境世界のイメージを組み立てている。(中略)だからまず「感じること」が基層にあるはずで、これに上積みされる表層として「論理的に考えること」が位置づけられる。
(中略)それゆえ、理性とはむしろ感性を秩序付け統括するコントローラーということになる。だが、「理性を持った個人」を原点とし、そこから出発する思考はまるきり逆立ちしている。これはヒトを「ミニ神様」とみなして他の生物から峻別するという、西洋近代の何とも虫のよい思考なのだ。                         
 こういう思考のよからぬ点は、「感じること」から意味が立ち上がるダイナミズムとか、
「感じること」がうみだす暗く恐ろしい面とか、共同体の場で作られる創造的なアイデア、
などをスッポリ覆い隠してしまいがちなことだ。これらは皆、身体とかかわっているのである。」(西垣通,[1994:110])                   
                                       
 このように意味とか秩序とかそういう社会的なものは感じることと無関係ではないのである。当然社会的産物の代表各である言語もそれを免れえない。言語の形成には、感覚が大いにかかわっている。それゆえ、コミュニケーション的行為において理性によって了解が達成するというのならば、いかにして、感覚がその理性とかかわっているのかも述べなければならないのではないか。                         
                                       
4.求められる対話

 伊藤友宣氏は、その著書『家庭のなかにおける対話』のなかで、家庭における父の子に対する対話は対話を目ざしたつもりでも、どうしても「説得」になってしまうことを指摘し、その背景には、日本的絶対主義と言うべき上下関係がいまだに作用していることを指摘している。
                                       
 確かに、伊藤氏の言うように、家庭の中における父親と子の食い違いはよく聞く話であり、それが対話にならないのは、父親の行っているのが、対話でなく「説得」だからというのもうなづける。

 かつての日本は、強力な規範を形成しており、伊藤氏の指摘するように、そこには上下の絶対性が見られた。家庭においてもそれは同様で、家父長制という法律の名からもわかるように、家庭で一番偉いのは父親である。
                                       
 そのような状況では父子における会話は、父から子に向かって、上から下に向かって説き伏せる、すなわち「説得」という形式を取る。父親は常に勝者なのである。子供が父親に勝つということはもってのほかで、もし逆らうようなことがあるなら、「父親に向かってそんな口答えをするなんてなんて奴だ。」ということになり、ビンタの一発も食らわされてしまう。だが、そのような行為は父親の権威とともに社会的に当然のこととして許容されていたため、子供は口答えもせずに、だまって話を聞くしかなかった。子供の側も当然のことなので、それに対して別に不満もなかったのである。           
                                       
 だが、時代が進み、情報化やもろもろの理由による日本の統一的共同体の崩壊、家父長制の廃止と男女平等、そして父親の家庭における不在時間の増加などによって、父親の権威は廃れてしまう。状況が変わったのだ。だが、当の父親はそれを認識しておらず、かつて自分が自分の父親からそうされていたように、わが息子に説得を施す。しかし、それに対して、父親を別に偉いとも思ってもおらず、個人主義花盛りに育った子は、不満な態度を示し、自分の意見を主張しようとする。それを見た父親はさらにそれを父親の権威を傘に戒めようとする。すると子供は「わかってない」というふうになって、父親とはもうコミュニケーションを取りたがらなくなり、父親の側も息子とコミュニケーションをとるのがおっくうになり、互いを受容する場もなくなるのである。ひどくなると家庭内暴力にまで発展してしまうのである。

 だが、このような権威の勘違いを背景にしたトラブルは家庭だけに見られるものではない。社会全般において見られものである。

 例えば、第三章で挙げた白人教会と黒人教会の例を思い出していただきたい。ほんの30年ぐらい前まで、アメリカ社会においては白人は社会的地位は黒人の上位に位置したが、
それも法律によって改正され、黒人は白人と平等であるという意識が強くなる。それに対して、50年代的ノスタルジーにしがみついている一部の白人は、K.K.K.の牧師のように、「黒人は我々の下部だ」といまだに思い込み、平等に扱われることに不満を持って、黒人教会を焼いてしまう。
                                       
 このようなことが示唆するのは、従来のコミュニケーションの方法、つまり権力関係に基づいたコミュニケーションの仕方では限界に来ているということである。もし、強引にこれを続けるものなら、さらにストレスを増大させ、暴力を誘発させてしまう恐れもある。
とくに、各コミュニティが並列に並び、上下の権力関係がないコミュニティ社会においては、その危険性は大きい。
                                       
 それゆえ、お互いが対等な立場でコミュニケーションを行う話法、すなわち対話が求められるのではないか。では、それは一体どういうものなのだろうか。
                                       
 私は対話を次のように定義する。対話とは、お互い対等な立場で、つまり権力や社会的地位を問題にしないで、批判的な余地を残し、受け答えする行為。その際に互いの色を出すことが重要である。                             
                                       
 ハーバーマスのコミュニケーション的行為も、批判的なレベルで行為を行う、そして互いの背景的知を出し合って行為を行う、という点では対話とよく似ているが、少しばかり違う。それは、コミュニケーション的行為においては、合理性によって同意を目ざすものであるが、対話においては、同意はあまり重要ではない。対話において重要なのは、異質な他者が出会い、そこで互いの背景を出し合い、その互いの背景を出し合ったところから生じる妙な空気、場を共有することにある。そしてその場の感覚からたちのぼる「リアリ
ティ」を互いに受容することこそ、この行為の最大の効果なのだ。
                                       
 伊藤氏は対話について次のように述べている。
                                       
「対話とは、つまり互いの自由と平等の葛藤から目をそらさないで、まさに現実を受容し合うことなのだ。(中略)
 話し合えば話し合うほど、つくづくと互いの違いが分かるものだ。相手の考え方、考え方の背景にある生まれや育ちや経験の違い、習慣の違い。そしてまた、まわりの人間関係の違いも。体力の違いとか嗜好の違いとか。いろいろとわかってしまう。「違い」を無視できぬ残念さに、二人向かい合って座るその場では、お互いの言葉も途切れがちになるだろう。悲しく重いその場の空気。残念さ。これはまことに耐え難い。
 その残念さ無念さこそが、そこにいる二人の同じ思い、共通の思いなのである。そこに成立するひとつの確実な「情緒」の共有の体験。これを実存そのものとして認識することこそが、「対話」の本質なのであろうと思われる。(伊藤友宣,[1985:167])
 このように、その場からたちのぼる感情を共有することによって、リアリティは形成されていくのである。そしてそこに、透明なルールが形成され、共有されることにつながるのである。

 例えば、オウムの修行を思い出してもらいたい。彼らは特異な修行を行っていたが、それは、ある種のつらいとか、苦しいとか、または、表現できないような複雑な同一の感情を引き出すような修行をであった。その時彼らは修行をし合うもの同士で、情動を共有している。それは、ブラウン管や文字では決して伝えることのできないものだ。信者は口々に「あの経験は伝えることができない」と誇らしげに言っていたが、その通りで、その場にいたものしかわからないのである。そして、彼らはその場が形成する独特の感覚を共有し、そこからたちのぼる独特のリアリアリティを共有していたのだ。そして、そのリアリティとともに、そこに、彼らにとっての神と麻原と、そして信者間における透明なルールができたのである。

 そして、私はこのようなリアリティが、コミュニティとコミュニティ、もしくは異質な他者の間に形成されることを期待して、対話が軋轢として有効なのではないかと提起するのである。
 それゆえ、同意する、しないというのはあまり問題ではなく、いかにして、対話を実現し、持続するかというほうが問題なのである。

5.社交術の習得
                                       
 私は、前項で徹底した対話のもたらす情動を共有することこそが、異質な他者同士の間にリアリティを形成し、それが宮台氏の言うような透明なルールを形成することにつながるのではないかと提起した。しかし、このような徹底した対話を行うには、ハーバーマスのコミュニケーション的行為を行うためのコミュニケーション能力のような特殊な能力が必要とされる。そこで、異質な他者と対話を行うための能力、もしくは技術を「社交術」と呼ぶことにする。では、社交術とは具体的にどういうものであろうか。      
                                       
 社交術の技術の内容を具体的に挙げられないため、ここでは中心になる理念をいくつか掲げようと思う。                               
                                       
 まず第一に、社交術は自己に対して批判的な余地を残す姿勢をむねとする。すなわち、可謬性的態度を信条とする。                          
                                       
 井上達夫氏は、その著書『共生の作法』のなかで、共生社会において可謬性の自覚が必要なことを次のように述べている。                       
                                       
「共感の不在においてなお寛容を可能にするものは何か。(中略)私は答えをジョン・スチュアート・ミルとともに、『我々は誤りを犯しうる存在である』という自覚、特に自己の価値判断の可謬性の自覚に求めたい。この自覚があって初めて、自己と対立する価値観の持ち主が何ら共感しえない存在であっても、『あるいは彼が部分的に正しく、私が少なくとも部分的に間違っているかもしれない』という論理的可能性を承認することができる。
」(井上達夫、[1986、198])
                                       
 批判的な余地がなければ、対話は続かない。批判的余地を残してこそ、相手はそれに対して返してくれるのである。それゆえ、「私は間違っているかもしれない」という自覚は批判的余地をうみだす源泉として必要なのである。                
 
 第二に社交術は話すためだけの能力に限定せず、話を聞く能力も同等に含むものである。
それゆえ、社交術は、可謬性のみならず、対話を行う相手に対しての「敬意」もその精神としなければならない。                            
                                       
 第三に社交術は、相手の言うことから彼の背景を読み取り、こちら側の背景が正しくできるだけ誠実に伝わるように尽力するものである。                
                                       
 ご存じのように対話において最も重要な効果は、同意を得ることではなく、互いの違いを感じ取り、そこから相手との間にリアリティが形成されることである。それゆえ、できるだけ、背景を正しく誠実に伝え、感じ取る能力が必要とされるのである。     
                                       
 思いつくだけ、社交術の理念について挙げてみた。挙げようと思えば、いくらでも挙げられるが、重要なのは、社交術は、対話が効果を挙げるためのものであり、それに貢献しなければならないということだ。私は、この社交術を全ての人に習得してほしいものと考える。なぜなら、これを習得することによって身体を開き、社会的リアリティを獲得していくきっかけになるからである。これをどのようにして教育していくかという問題は残るが、重要なのは、その姿勢である。基本的な姿勢を身に付ければ、後は実践で磨くほかないのだ。

6.サロンの必要性                              
                                       
 株式会社インファスが発行している月刊誌、『スタディオ・ボイス』1997年9月号には、『サロン』が特集されている。その内容は、閉鎖的な社会になりつつある現在において、個と個が出会うことによって創造が起こるだれもが集まる開放空間としてのサロンの可能性に焦点を当て、オタクたちよ、自分の部屋から出て、サロンに行こう、というような感じである。

 最近このような「おソト」発言はよく耳にするが、オタクをライフスタイルととらえたものばかりで、これからはもうそんな古いライフスタイルなんてはやらない。これからは、
個の新しいライフスタイル・おソトの時代なのだというようなものばかりであまり興味もわかないのだが、異質な個と個が出会う空間としてのサロンには、対話の実践の場として可能性を感じている。
                                       
 1998年における現状を見る限り、やはり宮台氏の言うように、コミュニケーション空間は島宇宙化してしまい、広域なコミュニケーション空間はますます縮小化している印象を受ける。PHSにポケベルにパソコン通信。まわりを見渡せば、コミュニケーション空間がますます閉鎖的になりつつあるのを痛感する。無理もない。やはり価値観が相対化してしまえば、コミュニケーション能力を問題にしない日本的絶対関係に依存してコミュニケーションをとってきた我々にとって、価値観やノリを同じくしない連中とコミュニケー
ションをとるのが、耐えがたい苦痛になるのだ。そのような状況ゆえ、わざわざ価値観と価値観をぶつけ苦痛を共有する行為である対話を行うスペースなんて皆無に等しいのである。
 それゆえ、様々な異質な他者が集まる開放的スペースとしてのサロンに魅力を感じずに入られないのである。

 もともとサロンはいろいろな人が集まり、対話を行うスペースであった。ここでいうサロンとは現在でいう喫茶店、17世紀後半から18世紀はじめに流行したと言われるコーヒー・ハウスである。小林章夫氏はかつてのコーヒー・ハウスは開放的なスペースであったとのべている。小林氏は、当時の開放的なコーヒー・ハウスの造りを次のように叙述している。

「当初は二階にあったコーヒー・ハウスも、火事の経験から(1666年のロンドンでの大火事これより、建物は、木造主体から石造り主体になる)、一階の、路上からだいたい三段から四段ぐらい上がったところに、入口を作るようになります。奥に暖炉が切ってあり、テーブルがあちこちに置かれ、そこにベンチみたいなものがある。これは誰でも座れる、どこへ座ってもいいという構造です。きわめて民主的な開かれた構造をもっていたのが、コーヒー・ハウスだったといえるでしょう。」(井上章夫,[1991:13])

 当時のコーヒー・ハウスは上流階級、中流階級など階級を問わず、人が集まり、対話する開かれた空間だった。長島伸一氏はその論文『情報ステーションの誕生』のなかで、当時のイギリスは、貧富の差が激しかったため、有料であるコーヒー・ハウスを下流階級は利用しなかったのことだが、下流階級に利用できるお金があったとしても、ここはそれを受け入れる開放性をもっていたと考えられるだろう。

 だが、コーヒー・ハウスが開放的であったのは、その構造と理念だけにとどまらない。それには、広く人を呼び込むための他の仕掛けがあった。長島氏は、コーヒーハウスの広く人を呼び込めた理由を次のように言っている。 

「一言で言えば、コーヒー・ハウス自体が、都市の情報を発真する基地として外に開かれたオープンな性格を持っていたからこそ、一大ブームを巻き起こすまでになったと言えるのである。」(長島伸一[1991:69])

 この当時、今日のような巨大なメディアや情報空間が存在していなかったことは想像に難くない。それゆえ、この当時の一番のメディアは人なのである。それゆえ、開放性を唱えいろいろな情報を持つものが集まると考えられたコーヒー・ハウスは、魅力的な情報空間だったのである。そのようにして人々がさらに集まり、さらにそれに引かれてまた人が集まるというふうにして、コーヒー・ハウスはますます人を集める魅力を増していったのではないだろうか。

 そのように考えると、コーヒー・ハウスはその開放的なスペースを維持していた時期は、
対話を行うためのスペースだったというよりも、情報を得るためのスペースだったといえる。そして、その情報を交換する過程において、ごく自然に見知らぬ他者同士の間で、対話が行われたと考えることができる。

 実は、今対話が社会的に実現されるには、このような仕組みが有効なのである。

 前述のように、コミュニティ社会においては対話は広く人を引き付ける力に皆無である。
それどころか、人を敬遠させてしまう。たとえ、対話が行われるために開放的なスペース、
サロンを設置しても、閉鎖的なコミュニケーションを好む社会の中では、だれもサロンに対話を行うためにきたりしない。それゆえ、かつてのサロンの情報発信基地のような様々な人を引き付けるような魅力的な装置が必要なのである。そしてそのようにして集まった異質な人々の間で対話が自然に行われるのが理想的なのだ。
 サロンが対話空間として機能して行けるかどうかはいかにそれが多くの人を引き付け、自然な対話を生み出して行ける環境を提示できるかにかかっているといえる。

 <引用文献・参考文献>
                                       
Habermas J rgen ,1981,THEORIE DES KOMMUNIKATIVEN HANDELNS Suhkamp Verlag=河上倫逸、平井俊彦他訳,1985『コミュニケーション的行為の理論(上)』,1986『コミュニケー
ション的行為の理論(中)』,1987『コミュニケーション的行為の理論(下)』,未来社                                     
藤原保信,1987,『ハーバーマスと現代』,新評論
井上達夫,1986,『共生の作法』,創分社
伊藤守・小林直毅,1995,『情報社会とコミュニケーション』,福村出版
伊藤友宣,1985,『家庭の中の対話』,中央新書,中央公論社
小林章夫他,1991,『クラブとサロン』,NTT出版
見田宗介他編,1994,『社会学辞典』,弘文堂
宮台真司,1994,『制服少女たちの選択』,講談社
     1997,『世紀末の作法』,メディア・ファクトリー
中島義道,1997,『対話のない社会』,PHP新書,PHP研究所
西垣通,1994,『マルチメディア』,岩波新書,岩波書店
    1995,『聖なるウ゛ァーチャル・リアリティ』岩波書店
Pusey Michael,1987,J rgen Harbermas,Ellis Horwood Limited=山本啓訳,『ユルゲン・ハーバーマス』,岩波書店
尾関周二編,1995,『ハーバーマスを読む』,大月書店 
 1997,『スタディオ・ボイス9月号,vol261』,INFAS      
  

 
論文構造設計表                                
                                       
主要命題:コミュニティ社会においては、共生のために対話が必要である。     
                                       
主要問題:対話は行為者の間に何を生み出すのか。                
主要回答:リアリティ                             
                                       
  問い:ハーバーマスのコミュニケーション的行為はコミュニティ社会において、異質な他者同士の闘争を止めることができるか。              
  答え:できない可能性が大きい。                      
  問い:それはなぜか。                           
  答え:ハーバーマスのコミュニケーション的行為による社会的秩序の形成は行為者が     互いに同意することによって成り立つ秩序であるが、異質な者同士では、同意     は不可能であるため。                        
  問い:では闘争を止めるものは何か。                    
  答え:宮台氏のいう明示的ルールに基づく共生。               
  問い:その明示的ルールは何によって生まれるか。
  答え:異質なもの同士の軋轢                        
  問い:なぜ軋轢からしか明示的ルールは生まれないのか。           
  答え:明示的ルールは、互いの現実の上にあってこそ、初めて作用するものであるが、
     そのような現実を築くのは軋轢だけだからだ。             
  問い:そのような現実の感覚を形成しうる軋轢の例を挙げよ。         
  答え:対話。                               
  問い:それはなぜか。                           
  問い:対話とはとはお互いの違いを認識するものであるが、それを認識する際にお互     いの間に共有される複雑な気まずさ及びその他の感情こそリアリティであるか     ら。
  問い:対話を実践させるものは何か。
  答え:対話を遂行させる能力、すなわち社交術と、それを実践する開かれた場、すな     わちサロン。

要約                                     
                                       
 情報化社会には、新しい時代としての期待がかけられているが、実際は前社会の構造をそのままスッポリ受け継いだものであり、新しい時代とは呼べない。ただそこには雑然と様々な価値を唱える莫大な量の情報があるだけである。そしてそのような様々な価値を帯びた情報の環境世界に生きている情報複合体である「私」は統一的でない存在になってしまい、アイデンティティ不安におちいってしまう。                
                                       
 そして、そのようなアイデンティティ不安に陥ってしまった「私」は、統一的な秩序と、
安定、孤独の解消を求め、強いアイデンティティをもつコミュニティに依存す。そのようなコミュニティの理想的な例がアーミッシュであるといえる。アーミッシュが理想的であるのは、200年以上に渡って、その特異なアイデンティティを維持したすぐれたアイデンティティを維持する構造を持ち、経済的に独立しつつも、一般社会と良好な関係を築いてきた点にある。21世紀は、このようにアーミッシュを見習ったコミュニティが増えるであろうが、問題なのは、そのようなコミュニティもしくはコミュニティ社会の到来をよしとせず、否定的に扱う「寛容さ」に欠けた社会が個人の前に広がることである。このような状況では、「私」はコミュニティへの衝動とそれを抑止する社会的規範の板ばさみになり、さらなるストレスを抱え込んでしまうのである。              
                                       
 コミュニティ社会の最大の問題はコミュニティの聖なる名の元に正当化される暴力である。コミュニティは、暴力を働きかけることによって、その内部の結束を高めるミーム的性質をゆうしており、これと同等の機能がアーミッシュにおけるマイドゥンクにもみられる。                                     
                                       
 このような異質な他者が混在しているコミュニティ社会では、暴力的衝動も安易であり、
殺し合いを始めかねない状況である。それゆえ、このような社会ではいかにして秩序を形成していくかということが問題になる。コミュニケーション的行為では、秩序は形成されない可能性が大きい。なぜなら、コミュニケーション的行為では、了解志向的行為において、同意が達成され、秩序が形成されていくのであるが、ちりちりに価値観が相対化してしまった社会においては、同意はおろか、意味を伝達するのも困難である。それでは、同意は達成されず、秩序も形成されることはない。これに対してハーバーマスは、言語に潜む普遍的合理性がこれを解決すると行っている。しかし、理性は西垣氏のいうように、感覚から立ち上がるはずなのに、ハーバーマスのコミュニケーション的合理性はこれを書いている怪しいものなのである。それゆえ、秩序の可能性は宮台氏の提起する明示的なルールのもとでの共生に求めたい。そして、この際に軋轢として対話が有効であることを私は提起する。明示的ルールは現実に対応したものでなければならないが、異質な他者と他者の間に現実感覚をもたらすのが、軋轢だとかんがえられる。そして、対話にもそれと同等の機能がある。異質な他者と対話をしたとき、互いの背景的相違に遭遇し、愕然とした気持ちを共有する。これが感覚から生成するリアリティである。明示的ルールは、このようにして行為者間に生まれた現実に即して生まれるのである。そして、そのようなリアリティ
をを創出させる対話の機会を与えるものが、対話を遂行する能力である社交術であり、対話の実践の場であるサロンなのだ。 


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