ロック(ロック・ミュージック)に関する基本命題

桜井芳生   991230   Yoshio SAKURAI  all rights reserved
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991227【主要命題1】ロック(ロック・ミュージック)とは、いわば一般化されたシャーマニズムの、一スペシャルケース(一種)である。

【主要命題2】一般化されたシャーマニズムにおいて、「ベビーブーマー」と「エレキギター」とを特殊要因とするものがロックである。

【主要命題3】ロックをめぐる言説は、「頽落論的批判」と「趣味の自由主義・名付けの約定主義」との「不毛な対立」になりがちである。その理由は以下述べる。

【主要命題4】ロック以後において注目すべきは、バイブレーターと薬物とダンスであろう。

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991227私は、大学で、「現代メディア文化論」という科目を担当している。そのため、指導している学生さんが、ロックや、ポップスを研究題材にする場合がある。が、現代社会学の研究水準に照らすと、学問の名に値するような先行研究が乏しくて、いつも困っている。

991227私自身は、研究対象としての音楽については非常に疎い研究者だ。が、学生さんの研究の一助として、私のロックに対する基本認識をここに明示化してみたい。

991227ロックについての評論?は必ずしも少なくない。が、その多くは社会学者の視点からすると読むにたえないものではないか。その理由の最たるものは、その執筆者たちのガクモンテキ教養が乏しいことに起因しているとおもう。彼らの多くは、たんに音楽ばかりきいて、学術的な本をあまりよまない人が多いのではないか。

991227社会(科)学的にいうと、ロックは、シャーマニズムの一類型として位置づけるのが、まずは生産的だとおもう。シャーマニズムとは、シャーマンをめぐる社会現象である。シャーマンとは、神がかりになることで、人間と神とをつなぐ巫女のことで、たとえば、恐山の「イタコ」とか、沖縄地方における事例が有名である。

991227彼らシャーマン(多くは女性)は、彼らなりの定番のテクニックをつかって、「トリップ」し、そのトリップ(憑依)した状態で、日常状態では発言できないようなことを発言したり行為したりして、なんらかの社会(共同体)的機能をはたす。

991227このシャーマニズムにかんしては、現在においては、「脳」にかんするある理解(モデル)に対応させて理解するのが生産的だとおもう。

991227我々ヒトの脳は、大脳新皮質が非常に発達した脳である。この「新皮質」は、それまでの古い脳にたいして、「暴走」してしまう可能性を秘めたものである。何らかの抑制回路がはたらかないと妄想などが暴走する可能性がある。

991227で、このような暴走する可能性をもつ新皮質を安定化させる回路がヒトの脳には含まれている。

991227しかし、つねに新皮質の暴走傾向を抑圧しても退屈してしまう。

991227で、人類史的には、このような新皮質の暴走傾向を、「時間と場所を区切って、ガス抜き」する手口がよくつかわれたきただろう。その典型が、シャーマニズムだろう。この手口はシャーマニズムにはかぎらず、ほとんどの「祭り」(祝祭)なども同様に作用してきただろう。この手口全般を「一般化されたシャーマニズム」と暫定的に呼んでみよう。

991227この「一般化されたシャーマニズム」という手口を呼び出すテクニックとしては、伝統的に、音楽・ダンス・薬物・苦行、、、、、などが利用されてきたようだ。(簡便には、NHK取材班1994『NHKサイエンススペシャル 驚異の小宇宙・人体? 脳と心 6 果てしなき脳宇宙 [無意識と創造性]』を、ご参照、のこと)。

991227このような、一般化されたシャーマニズムの、「ひとつ」が、ロック(の発祥)である、と私は考えている、のである。

991227で、このように一般化されたシャーマニズムにロックを位置づけると、主に二つの「特色」があげられる、とおもう。

991227第一は、文化的立ち上げを担った社会層としての「ベビーブーマー」であり、

991227第二は、ツールとしての「エレキギター」である。

991227いうまでなく、ロックの生成期のクリエイターや消費者は、かならずしもベビーブーマー(戦後に生まれた団塊世代)とは、かぎらない。が、日米文化をマクロ的に俯瞰すると、ロックが「新しい文化」として発生し・拡大し・継続した際には、ベビーブーマーが旧世代にたいして、新しい「若さ」としてロックを生産し・消費した、ということは否定しがたいのではないか。

991227エレキギター自体の発明も、戦後、では、ない。が、上述の「脳の安定化回路を弱める」新たなツールとして、エレキギターが多用されることなく、ロックの生成・興隆を考えることはむずかしい、だろう。

991227したがって、ロック(の発生・普及)とは、エレキギターという脳の安定化を弱める新たなツールを利用することで、ベビーブーマーという特殊な団塊的世代が、旧世代(社会)にたいして、(一見)反抗的振る舞いでもって、(一般化されたシャーマニズムの一種として)非日常的経験を得ようとした(音楽)運動、である、といえそうだ。

991216そうであるがゆえに、70年代後半、80年代、90年代のポップカルチャーはすべて、「亜流」にみえる。ベビーブーマーとエレキギターという「画期的画期」がもはや存在しなかったから、である。

991227しかし、このように「脳の安定化をはずし」っぱなしでは、社会の中を流通することはできないだろう。というわけで、ロックが社会の中を流通するためには、このような「非日常性」をある程度囲い込んで、パック化して、商品として流通させざるをえない場合がほとんど、だろう。

991227が、このような、「非日常性を囲い込んで商品化して流通」させることは、ロックの源基的機能に反する。というわけで、「今のロックは、当初の熱き心意気を失って、世俗化してしまった。今のロックはロックとは呼べない」という頽落論的批判、が、ロックの流通には、つきまとうわけである。

991227が、他方また、ロック自体が旧大人世代に対する異議申し立てという含意をもっていたので、ロック自体が「こうでなくてはならない」というのは、逆説的である。また、近代社会においては、趣味は基本的に各人の自由であるとされている。ロック自身が、自らの弁護にこのような趣味の自由主義を利用してきただろう。

その結果、「そんなこといったって、ひとがなにを好んで聞くかは、各人のかってだろ」的「趣味の自由主義」(リベラリズム・オブ・テイスト)と、ほとんどそれと重なる「なにを「ロック」と呼ぶかは、各人のかってだろ」的「名付けの約定主義」が、ロック(の頽落的?流通)を弁護することになる、だろう。

991227上述のように、近代社会では、この弁護論法は強力である。が、また、このような流通が、ロックの源基的機能に反することもあきらかである。

991227こうして、ロックをめぐる言説は、「頽落論的批判」と「趣味の自由主義・名付けの約定主義」との「不毛な対立」のまわりを永久運動することになる、だろう。

991227私桜井が、ロックに関する評論をほとんど精読する気がしないのは、その多くが、このような「頽落論的批判、と、趣味の自由主義」との不毛な対立をあきもせずに無自覚的に繰り返しているようにみえる、からだ。

991227というわけで、ロックをロックだけとりだして分析してもあまりおもしろくない、とおもう。たとえば、本稿のように、一般化されたシャーマニズムという視点から、「機能的、諸等価物」との比較の上で、みるのがおもしろい、とおもう。

991227この視点からの機能的等価物としては、すでにあげたシャーマニズムや祝祭のほかに、

念仏、声明(しょうみょう)、河内音頭、津軽三味線、インド映画(マサラ・ムービー)、レイヴ(レイヴって、テクノを使った盆踊り、だとおもいません?)、薬物、その他さまざまなダンス、ディーープなカラオケ、トライアスロン、自主ゼミ(読書会!)、、、、、、などがあげられるだろう。

991227近未来的には、ダンスと薬物とが注目に値するだろう。

991227が、わたしとしては、ご存じのように、前から、「バイブレーター」(いわゆる大人のおもちゃ)に注目している。

991227バイブレーターは、人類女性史史上ほとんど初めての「オーガズムの大衆化ツール」である。これは、「不倫」と機能的に等価だろう。社会学的には、バイブレーターは、不倫にたいして、「両義的」に効く可能性がある、とおもう。すなわち、「バイブレーターが、女性のオーガズムを喚起することによって、むしろ、不倫への「呼び水」として作用してしまう」、逆にまた「バイブレーターがオーガズム欲求を充足してしまうことで、女性の不倫願望は、枯渇してしまう」と。短・中期的には、「前者」のシナリオのほうが、「ありそうなこと」だと私には直感される。

991227★★「ロック」にかんして、本稿に類似した議論をご存じの方は、ぜひ、ご教示ください。★★

桜井芳生sakurai.yoshio@nifty.com

(本稿は、鹿児島大学法文学部現代メディア文化論演習における学生さんの発表に刺激されました。感謝します!!。また、メールなどでご教示くださったみなさま、ありがとうございました)。

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