プラティークと一般化フレーム問題 

ブルデュー理論自体の「誤認」効果   

                       桜井芳生

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【要約】ブルデューの「プラティーク」論は、「主観的な意味」を含ませている「行為」 に主に照準する主流的な社会学のアプローチに大きな反省を迫るものである。本稿はまず 、「プラティーク」論の視点によってなされたブルデュー社会学のプラスの効果を確認す ることからはじめる。この効果は、当事者たちの「誤認」をいわば暴露するような啓蒙的 な作用として働いていることを確認できる。  しかし、本稿の後半で、我々はブルデューの「プラティーク」論を中心とする理論が、 それ自身、当事者たちの「誤認」を再認(追認)する効果をももってしまうことを主張す る。この点をのべるために、我々は、人工知能の論圏で議論されている「一般化フレーム 問題」を援用する。こうして、我々は、ブルデュー理論の「諸刃の剣」性を自覚すること ができる。いわば、ブルデュー理論の「ライプニッツ」主義を越えることを目指しうるよ うになるのである。 

【ブルデューのプラティーク・ハビトゥス論】 

ピエール・ブルデューの一連の仕事は、日本の社会科学界にも少なからぬインパクトを 与えつつある。ここでは、ブルデューの「プラティーク」や「ハビトゥス」概念が、社会 学的な探究にとってどのような意義(そしてまた限界・危険性)を持っているかを計測す ることをこころみたい。ブルデューの「プラティーク」的アプローチは、「主流的」な社 会学の方法に対して、大きな反省を迫るものである点でプラスの貢献をしているといえる が、ブルデューの「プラティーク」的アプローチ自身がまた大きな問題点を有している、 というのがこれから述べようとする我々の基本的主張である。 ブルデューの「プラティーク」概念やそれと密接に関連している「ハビトゥス」概念を 検討するにあたって、まずは、ブルデュー自身が、この両概念についてどう述べているか を聞かねばなるまい。 

『実践感覚』の有名な箇所でブルデューは、「ハビトゥス」と「プラティーク」をこう 描く。 

生存のための諸条件のうちで或る特殊なクラスに結びついた様々な条件づけが、ハビトゥ スを生産する。ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な諸傾向性のシステムであり、 構造化する構造として、つまりプラティークと表象の産出・組織の原理として機能する素 性をもった構造化された構造である。そこでは、プラティークと表象とは、それらが向か う目標に客観的に適応させられうるが、ただし目的の意識的な志向や、当の目的に達する ために必要な操作を明白な形で会得していることを前提としていない。プラティークと表 象はまた、客観的に「調整を受け」「規則的で」ありうるが、いかなる点でも規則への従 属の産物ではない。( 訳書83-84 頁) 

早速ここから、いくつかの点が読み取れるだろう。まず第一は、プラティークとハビト ゥスとの関係である。ハビトゥスは、プラティーク( ときに「慣習行動」などと訳される ) の「産出・組織」の「原理」として機能を持つののである。プラティーク自身が、「慣 習的」な振る舞いの意義をもつから、ハビトゥスとは、さしづめある人が持つ「慣習の総 体」あるいは「個々の慣習的行動を生み出す、プラティーク( 慣習的行動) の母体」とで もいえるだろう。 そして、このハビトゥスによることで、プラティークはそれが向かう「目標」に対して 、「客観的に( すなわち「主観的┤ひとりよがり」ではなく) 適応させられうる」のであ る。しかし、その際「目的の意識的な志向や、当の目的に達するために必要な操作を明白 な形で会得することを前提としていない」。つまり、プラティークの行使は往々にしてい わば「暗黙的」「無自覚的」「反射的」であると、いえるだろう(ブルデューは、『実践 感覚』の別のところで、ハビトゥスを「意識も意志も持たぬ自発性、ハビトゥス」(89 頁 ) と記述している) 。しかし、そうでありながらも、プラティークの行使は、無秩序・ラ ンダムではなく、「規則的」なのである。 

さらにハビトゥスに対して、ブルデューはこう述べる。 

 全き発明術としてのハビトゥスが、数の上では無限で、(対応する状況と同様に)相対 的には予見不可能なプラティーク、しかしその多様性においては限界のあるプラティーク の生産を可能にするのだ・・・。要するに、客観的な規則性の一定のクラスの生産物たる ハビトゥスは、それら規則性が設ける限界内で「理に適った」、「常識」に属すすべての 振る舞いを、それだけを産み出す傾向をもつ。( 訳書88頁) 

生存のために諸条件の間に均質性があるために生ずるグループやクラスのハビトゥス間 の均質化によって、プラティークは、どんな戦略上の計算も、規範へのどんな意図的準拠 からも離れたところで客観的に同調したものになり、またあるゆる直接の相互行為が不在 のままでも、ましてや目に見える協奏なしでも互いに整合するものとなる。・・・ライプ ニッツは言う。「お互いにぴったり合っている二つの掛け時計または懐中時計を想い描い てみよ。それには三つの方法がある。第一は相互影響である。第二は・・・職人を時計に くっつけておくこと。第三は、これら二つの時計を、後で一致を保証できるくらいにまで きわめて巧妙に精巧に作ることである」。指揮者のいないこのオーケストレーションの真 の原理を、すなわち諸個人の投企の自発的または強制された組織化が全くない時でさえプ ラティークに規則性と統一と体系性を附与するうオーケストレーションの原理を知らない 間は、ひとは必ず意識的な協奏以外に統合原理を認めない素朴な技巧主義に陥る。( 訳書 93-94 頁) 

すなわち、ハビトゥスは、無限に変化しうる状況に対しても、その場その場で「理に適 った」プラティークを産出するのである。しかもこの際には、個々人のもつハビトゥス同 士は、相互の影響や相互の調整過程は必要ないのである。ちょうど巧妙・精巧につくりあ げられた第三の「ライプニッツの時計」のように、諸個人のハビトゥスは、指揮者のいな いオーケストラのように、「組織化」なしの「一致」が「保証」されるのである。 

【社会学における「ハビトゥス」概念の有効性】 

マックス・ヴェーバーが、「理解社会学」の対象を「主観的な意味」を含ませている「 行為」として以来( 「「行為」とは、単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませて いる限りの人間行動を指し・・・・」『社会学の根本概念』岩波文庫8 頁) 、社会学にお いては、主観的な意味が自覚された振る舞い(行為)に照準することが優遇されてきた。 しかし、上述のようなブルデューの「プラティーク」「ハビトゥス」論は、このような社 会学の「主流的」な方法論(戦略)に再考を迫ることになるだろう。なぜなら、ブルデュ ーの主張が正しいとすると、社会を対象として追尾しようとする場合には、ひとびとの「 自覚された振る舞い」(┤「行為」)だけでなく、「自覚されない」ような慣習的振る舞 い(プラティーク)を追尾することが、社会科学にとって不可欠の条件となるからだ。ヴ ェーバーの多大なる影響下で、ついつい「主観的意味」が付与された「行為」のみに着目 してしまう社会学者が多いと思われるので、ブルデューの「プラティーク」論の指摘は、 それが、正しいとすると大きな意義をもつものといえるだろう。 

ブルデューのこのような、プラティーク論的な視点が、実際の社会学的分析にとって、 どのような「切れ味」を示すか実際にみてみよう。プラティーク論の切れ味がもっとも明 確にあられるトピックの一つが、有名な『再生産』における「排除と選別」のメカニズム であろう。  ここでのメカニズムは、大略こうであった。ブルデューによれば、ある者の生存条件( 階級上の位置など)によって、彼は、幼少期に「一次的ハビトゥス」を習得する。すなわ ら、階級的位置が上位の者は上位に相応しい一次的ハビトゥス(簡単にいえば、「金持ち に相応しい身の振る舞い方」)を身につけ、下位の者は、下位に相応しいハビトゥス(「 貧乏人に相応しい身の振る舞い方」)を身につける。そして、この一次的ハビトゥスの「 種差」が、彼が試験を受ける際に効いてくるのである。(フランスにおける)試験は、多 くは、このような上位者の一次的ハビトゥスに有利なようにできている、とブルデューは 考える。しかも、試験の有利/不利が、一次的ハビトゥスの種差に相関しているとは、当 事者たちは自覚していない。よって、試験の勝利者たちは、「天賦の才」もしくは「本人 の努力」の結果として、試験の勝利を勝ち得たように、当事者たちにはみえてしまう。し かし、ブルデューにいわせると、それは「誤認」である。ある者が試験で勝利したとして も、それは、彼の一次的ハビトゥスの上位性、ひいてはそのハビトゥスを生み出した彼の 生存条件(階級上の位置など)の上位性によるのである。しかし、この点が当事者には自 覚されていない。それゆえ、試験の結果として彼が階級上の上位の位置を占めてしまうこ と(すなわち、社会(の階級状況)の再生産)が、「正当化」されてしまう。  このようなブルデューの観察が事実認識として的を得たものであるかは、ここではとわ ないでおこう。しかし、このような説明の仕方を可能とするのが、ブルデューが導入した 「ハビトゥス・プラティーク」の概念系であることは、認めることができるだろう。そし て、主流派社会学の「意味」に指向した「行為」にのみ照準するやりかたでは、このよう な説明を行うことができないこともいえるだろう。ブルデューは、こうして、「ハビトゥ ス・プラティーク」の概念系を導入することで、あらたな説明方法を可能にし、当事者た ちの「誤認」のサイクルを暴露することを可能にしたのである。 

【一般化フレーム問題】 

以上のように我々は、ブルデューが導入した「ハビトゥス・プラティーク」概念の有効 性を確認してきた。では、この「ハビトゥス・プラティーク」論は問題点はないのだろう か。じつは、我々は、まさに「誤認」の面をめぐって、大いに問題あり、と考えているの である。この点を示すために、一見唐突だが、「一般化フレーム問題」という論圏へと迂 回するのが好便である。 最近、AI(人工知能)研究者を中心に、「フレーム問題」という問題が、関心を集め ている。フレーム問題の発端は、人工知能の問題解決の領域で生じたある困難であった。 フレーム問題の直観的理解を得るためには、デネットのロボットの例がもっともわかりや すい。デネットの描くロボットは、そのエネルギー源であるバッテリーをある部屋から取 り出すこと、という課題を持っている。最初のロボットは、バッテリーがしまってある部 屋に時限爆弾が仕掛けられているのを知らされた。かれは、すぐ部屋を発見し、部屋のな かのワゴンのなかにバッテリーがのっているのを確認した。かれはただちに、ワゴンごと バッテリーをとりだそうとしたが、同じワゴンに爆弾ものっていたのでバッテリーは、爆 発してしまった。かれはワゴンを持ち出せば同時に爆弾も持ち出したことになることをわ からなかったのである。そこで、設計者は、ロボットが自らの行為の意図された結果のみ ならずその副次的結果も推論できるように、プログラムを書き換えた。この新ロボットは 、同じ問題に直面したときやはりワゴンを引き出せばよいと考え、副次的効果を推論しは じめた。「ワゴンを引き出せば車輪が回転する」「ワゴンを引き出せば音がする」「ワゴ ンを引き出しても部屋の色はかわらない」等々。そうこうしている間に、爆弾は爆発して しまった。ふたたび、設計者は、「ロボットに関係ある結果と関係ない結果の区別を教え てやり、関係ない結果を無視するようにしなくてはならない」と考え、目下の目的に照合 して関係あるかないか、という区別を演繹するプログラムをロボットにセットした。この 第三のロボットは、同じ状況に直面してもなにも行動を起こさなかった。いく千もの「関 係」が目下の目的に「関係ある」かどうか演繹するのに忙しくて行動をおこすことができ ないのだ。当然そのあいだに爆弾は爆発してしまう。 

以上のような人間にはごく簡単にできそうにみえるようなことを、AIにさせることが むずかしいである。一見すれば、このような「問題」は、すこし工夫すればごく簡単に克 服できるようにみえるかもしれない。しかし、克服の工夫は、すべて失敗に終わる。たと えば、ある命題はそれが明示的に否定されるまでは成立している、という公理を導入すれ ば、容易に困難をクリアできるようにみえるかもしれない。しかし、この方法では上述の 第三のロボットのように、たしかに状態の記述の量は、減らすことができるけれどもある 状態が成立しているかどうかをしるための推論の量が爆発してしまう。フレーム問題に対 する様々な「対応策」とそれぞれの「失敗」の詳細は、大澤や松原の論文にくわしい。こ の「問題」克服のさまざまな工夫は、たとえ「記述の量の爆発」を抑え得たとしてもその 代償として「推論の量の爆発」をもたらしてしまうのである。  以上のような、フレーム問題の「問題」化と、その「解決の失敗」をみてみるとそこか らある教訓が得られる。それは、通常我々人間が何気なく振る舞っている日常においても 、ある部分的変化(それは、人間やAI自身がひきおこした「行為」でもよい)が環境に 対して、(当の人間やAI自身の情報処理能力に比して)無限の変化の可能性(したがっ てこれは無変化も含む)をおこしているということである。そして、AIは、この「無限 の変化の可能性」にいわば愚直に直面することで、適切な反応を有限の処理能力で引き出 すことができず、この「問題」に逢着してしまう、ということである。この点を松原は、 「一般化フレーム問題は、情報処理の主体が有限であることから、すなわち膨大な情報の うちの一部しか参照できないことから生じる・・・」(223 頁)といっている。この松原 の記述を参考にして、我々は、「有限の情報処理能力しかもたない主体(AIや人間)が 、無限に多く変化しうる状況のなかでいかに適切にふるまうか、という問題」を「一般化 フレーム問題」の我々の「定義」としよう。 

【ブルデュー理論の不十分性】 

我々の「フレーム問題」の定義は、上述のようであった。我々は議論が混乱するのをさ けるため、これを「一般化フレーム問題」とよんだのであった。ところで、フレーム問題 を同様に定式化した松原がいっていることであるが、フレーム問題をこのように定義して しまえば、実はフレーム問題(一般化フレーム問題)の真正なる「解決」じつは、不可能 となる。なぜなら、AIや人間が有限の情報処理能力しかもたない主体であるならば、そ れらが有限の時間のうちにおいて無限に変化する状況に対して適切な反応をすることは原 理的にできないからである。通常、人間においては、「無視」というしかけでもってこの 問題がクリアされているようにおもわれるかもしれないが、上述の「第三のロボット」が 示しているように「適切に無視」するためにさえ「無限量の演繹」が必要なのである。( ただ、ここにおいて我々は、「人間」(ならびにAI)を「有限の情報処理能力しかもた ない組織体」として把握している。これとはことなった「人間観」を持つのであれば、と りあえずは、一般化フレーム問題の「解決」は不可能であるとは帰結できない。たとえば 、プラトンのいわゆる「想起説」はこのような方途の一つといえるかもしれない。) よって、松原のいうとおり、AIについても人間についても「いかに一般化フレーム問 題は『解決』されているか」という問題設定は、禁じられている。それは、もともと「解 決不能」なのであるから。 

ここにいたって、我々がなぜわざわざ、AIにおける「フレーム問題」という論圏へと 迂回してきたかを十全にのべることができる。ここにおいて、松原を援用しつつ述べきた ことは、じつはそのまま、ブルデューの「プラティーク」「ハビトゥス」論にあてはまる と思われるのである。  すなわち、主観的な意味を付与された「行為」に優先的に照準する「理解社会学」的戦 略に対して、ブルデューの「プラティーク・ハビトゥス」的アプローチは、自覚された意 味を持たない暗黙的で慣習的な振る舞いに照準することを目指すのであった。しかし、こ のような方途が、ひとびとの振る舞いを追尾するために「十分」条件であるかどうか、と いう問いを我々は提出することができるだろう。そして、この問い対して、今や「否」と 回答することができる、と思われるのである。なぜなら、そもそも、ひとびとと自身、み ずからの振る舞いを無限に多様に変化しうる状況(環境)に対して常に「適切に」選択す ることは、一般化フレーム問題の考察の結果として、原理的に不可能なのであるから。し たがって、ひとびとの振る舞いをいかに観察者が完璧に把握したとしても、所与の状況で 当事者がいかに「適切な振る舞い」を選択するか、を追尾することは原理的に不可能であ るからである。 

【ブルデュー理論の「誤認」効果】 

以上、我々は、ブルデューのプラティーク論が、在来の社会学上の方法に対して大きな 意義をもつことを認めつつも、プラティーク論は、ひとびとの振る舞いを追尾するうえで 未だ「十分」ではないことをみてきた。しかも、我々の考えるところによれば、ブルデュ ーのプラティーク論はたんに「不十分」であるのみならず、( この不十分さと密接に関連 しているためなのだが) 、ひとびとの振る舞いを追尾するうえで、「有害」でもあるよう に思えるのである。 なぜなら、ブルデューのプラティーク論によると、あるハビトゥスを完璧に体得できた 者は、任意の状況においても、「適切な」プラティークを産出できるように