981028十五分でわかったような気がする【ポスト構造主義】四天王 Ver.0.5

                     桜井芳生(著作権保持)
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【ポスト構造主義って、知ってる?】

ポスト構造主義というコトバを聞いたことがありますか?。

構造主義とは、30年ほどまえからフランスの思想界で大きな力を得るようになった考え方で、ソシュールという言語学者を「元祖」として、レヴィ=ストロース(人類学)、ラカン(精神分析)アルチュセール(マルクス主義)、ロラン・バルト(批評)などを中心に展開された思想です。

ポスト構造主義とは、これらの構造主義を、いわば乗り越えるものとしてフランスで力を得た思想で、ボードリアール(社会学)、フーコー(哲学)、デリダ(哲学)、リオタール(哲学)などが、代表的思想家です。

ポスト構造主義の思想家たちは、おそらく日本の大学の多くでは、「おもてだって講義されることは、ほとんどない」。と、おもいます。

が、世界の思想界では(日本の「現代思想」界でも)、現在非常に大きな影響力をもっています。(ちょうど、【日本の学界における「宮台真司」みたいな位置といったところ?】、でしょうか)。

(ただし、宮台は、流派的には、ドイツの社会学者ルーマンを家元とする「社会システム論」にぞくしています。必ずしもポスト構造主義には入りません)。

彼らの思想に賛成するか反対するかを問わず、彼らの思想へのある程度の理解なくして、現在の世界の人文科学の潮流を理解するのは、むずかしいでしょう。

というわけで、例によって、私もそんなに詳しくないのですが、浅学もかえりみず、知ったかぶりで、ポスト構造主義者四天王の「十五分でわかる」紹介をしてみましょう。

【ボードリアール。「オリジナルなきコピー→シミュラークル」】

まずは、ボードリアールの思想から。
 
 

ボードリアールは、よく「ゲゲゲの鬼太郎」が着ている「ちゃんちゃんこ」のような「ベスト」を着ていました。服装のセンスはあまりよくなさそうですね。

私たちは、「コトバ」とか「情報」とか、いうと、何かの「対象」をなざしたもの、とかんがえるでしょう。つまり、まずは「オリジナル」があってはじめてその「コピー」がある、とかんがえるでしょう。

ところが、現在の情報が非常に多く流通している社会では、情報(コピー)があったとしてもはたして本当にその「オリジナル」(もとの対象)が存在するのか、確かめようがない場合が非常に多い。また、シンセサイザーで制作された音楽のように原理的にオリジナルが存在しない場合も多い。さらにはサンプリング音楽のように、たとえ「オリジナル」があったとしてもいま聞いている作品(コピー)は、そのオリジナルのたんなる複製では、もはやない場合も多いわけです。

このように「コピー」(情報)には必ず「オリジナル」(もとの対象)があるはず、とおもわれがちですが、(1)本当にオリジナルがあるのか確かめようがない、(2)オリジナルが存在しない、(3)オリジナルがあっても対して意味をもたない、といったふうになってきているわけです。

で、ボードリアールは、このような「オリジナルなき、コピー」のことを「シミュラークル」(シミュレーション)と呼んで、現代社会・文化を分析する上でのキーコンセプトとするわけです。

【フーコー。「人間」の終焉】

フーコーを有名にしたのはなんといっても彼の「ルックス(スキンヘッド!)」でしょう。「刑事コジャック」がメガネをかけた感じです。
 
 
 
 

彼は一応哲学者とされますが、彼の本はまるで歴史の本です。歴史的な具体的な話がこれでもかこれでもかと登場します。

このような歴史的な話をまとめることで、彼は、私たち近代人が暗黙に前提にしている「主体」というものが、いかに歴史的に特殊であるか、を示してくれます。

「主体」とは、簡単にいって「個人」「私」のことです。が、近代社会においては、このような「個人」・「私」は、「自律的」(他人に依存しない)であり「合理的」(理屈にあって行動する)である「ハズ」「ベキ」とされます。

が、フーコーは歴史的事象をもちだすことによって、このような近代的な「主体」が、いかに歴史的にみて特殊(めずらしい)か、その特殊な主体がいかにして形成されたか、を示そうとするわけです。

そして、そのような近代の「自律的で、合理的な、主体」(「人間」とも言い換えられます)の時代はいまや終わりつつある、とフーコーはみているようです。

【リオタール。ポスト・モダン=近代の「大きな物語」の終焉】

リオタールは、『ポスト・モダンの条件』という本で有名になりました。(顔は、河合塾予備校の現代文の大川邦夫先生ににてます。と、いっても知らない?)。
 
 
 
 

ということもあって、リオタールを中心に、ポスト構造主義者たちの何人かは、ときにポストモダニストとも呼ばれる場合があります。

「モダン」とは「近代」のことです。近代(モダン)においては、人間の解放、とか、階級(労働者階級)の解放とか、進歩とか、革命とかいった「大きな物語」が、社会の中で大きな役割をはたしてきた時代でした。

しかし、ソ連も崩壊したし、いまやこのような「大きな物語」を信じるひとは少ないでしょう(ただし、この本の執筆は、ソ連崩壊以前です)。

このような近代(モダン)を支えてきた「大きな物語」がもはや力を持ち得ないあらたな時代にわれわれはいま生きている。すなわち「モダンの後」「ポスト・モダン」の時代にわれわれは生きている、というのが、リオタールの時代診断でしょう。

【デリダ。西欧形而上学のディコンストラクション(脱構築)】

じつは、ポスト構造主義者としてもっとも影響力を持っているが、ジャック・デリダです。

ですが、デリダの本は、読んでみても何がいいたいのかさっぱりわかりません。

デリダは、見た目は「刑事コロンボ」に少しにています。
 
 
 
 

デリダのやろうとしていること、それは「西欧形而上学のディコンストラクション(脱構築)」です。

うーん。やっぱりわかりませんね。

まず、「西欧形而上学」って、なんでしょう?。じつは私もよくわからないのですが、とりあえずは、西洋哲学とキリスト教を中心とする西洋の精神的伝統・あるいは精神的な「暗黙の前提」と考えておきましょう。

まあ、簡単にいってしまえば、西洋的な「発想法」の「発想の転換」をデリダはめざしているわけです。

「ホンモノ、があって、ニセモノ、がある」(哲学的いうと「本質があって、現象がある」)、「オリジナルがあって、コピーがある」「同一性、があって、差異、がある」「オトコがあって、オンナがある」「声があって、文字がある」といったような「二項対立」的思考法しかも「前項がエラクて、後項は劣る」といった発想法を批判しようとしているようです、デリダは。

ただし、このような批判は、すぐさまもとの西欧形而上学的発想にからめ取られてしまいます。すなわち、「ホンモノ、に対して、ニセモノを持ちだしても、結局おまえはニセモノのことをホンモノとみなしているだけではないか」「オリジナルにたいして、コピーを持ち出しても、結局おまえは、コピーのことを、オリジナルとみなしているだけではないか」、、、、、(以下同様)、、、、というふうに。

で、デリダは、たんにホンモノにたいしてニセモノをもちだすのではなくて、西欧形而上学を体現しているような哲学的なテキストをなぞってなぞってなぞってついにそのテキスト自体がいわば自壊して「腰砕け」になるような地点に追い込んでいくのです。この作業が、「脱・構築(ディコンストラクション)」と呼ばれるのです。

うーん。やっぱり、どこか、刑事コロンボににている感じしませんか?。
 

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