卒業論文(98年3月)

「セクシュアリティが及ぼす男女関係の変容」

−オーガズムの氾濫と男性性的不能克服説−

<要約>
セクシュアリティの近代におけるオーガズムの氾濫が、現代社会の男女関係に影響を与えると考える。

現代において性の問題はとどまることを知らず、いくつかの社会現象をも引き起こしている。このことは、以前にくらべて人々の性への関心が高まってきたことを示していよう。
性という観念はどこまで普及し、近代の所産である「セクシュアリティ」はどのような変化を我々に与えているのだろうか。それを考察するため本稿ではまず、「セクシュアリティ」という言葉の定義をおこない、岸田秀氏の「性における男能動・女受動は文化の産物」という言葉から、性差別を産出した社会を近代社会史や伝統社会を概観することで明らかにする。そして、そのような社会の崩壊後、女性のセクシュアリティがどのように解放され位置づけられていったかをエドワード・ショーター氏の言葉を引用しつつ確認していく。そしてさらに、それが社会をいかに変化させていくかを述べていきたい。
次に、岸田氏の「男性性的不能・女性抵抗克服説」論に着目し、セクシュアリティの近代における岸田論を考察する。そして、どのように現代に適応するのか、独自の見解を与える。
さらに、岸田論で欠如していた女性のオーガズムの問題に触れることにする。
そこでは、進化論的・生理的に見たオーガズムについてそれぞれ概観する。
そしてそれらを踏まえた上で、女性のセクシュアリティにとって大きな特徴ともいえるオーガズムの有用性を、夫婦、家庭、主的快楽の視点から述べる。さらに、アンケート社会調査に基づく仮説の検証を交えながら言及することにする。
最後に、自立したセクシュアリティを獲得し、主的快楽(オーガズム)を求めるようになってきた女性が、現代社会でいかに生きていくかを考える。そしてそれによってもたらされるであろう新たな社会やその問題点を想定し、対極にある男性へ、セクシュアリティ面での警告を行う。
総括的に、男女関係がいかなる変容をきたすのか、新たな見解を示すことを本研究の最終目的とする。

1.はじめに
「セクシュアリティ」という言葉が出現してから、性に関する事物が増加しつつある。性について考えていく上で、「セクシュアリティ」というのは一つのキーワードとなるだろう。セクシュアリティの歴史というのはテーゼを持たず、いつも時代の波間を漂っている。そしてここでは、我々が考えているセクシュアリティとは、あくまで近代の所産であり、「近代のセクシュアリティ」ではなく「セクシュアリティの近代」であることを念頭に置いていてほしい。
最近、いたるところで性に関わる事物を目にするようになった。特に女性の性解放には目覚しいものがある。過去においては、性関係を口にすることはタブーであったり、恥ずかしいことであった。私は本研究において、性(セクシュアリティ)を歴史的に概観する。そして近代にいたってそれがどのように変遷を遂げ、今後我々にいかなる影響を与えていくかを女性的視点から、考察していくことにする。

2.セクシュアリティとは?
本研究のキーワードである「セクシュアリティ」とはいったいどのようなことであろうか。よく耳にする言葉ではあるがその意義を知るものは少なく、また明確な定義もなされていないので、社会学辞典の引用とともにここでは著名人の言葉を借り、一応の解としておきたい。

・セクシュアリティ【仏:sexualite】
「狭義には、(今日のおおくの性科学者の定義では)、「セクシュアリティ」という語はエロチックな快楽を直接に目指す行動の総体を指す。しかし、性的な実践および快楽を、それらに伴いうる感情(愛、羞恥、嫉妬など)および性的な実践や感覚、感情を引き起こす表象(言葉、イメージ、空想によって)から分かつことはむずかしい。
セクシュアリティの社会学は、これらの要素の全体を考慮に入れなければならない。その出発点は性的態度と行動の多様性である。すなわち、時代的多様性(例えば西欧では、18世紀に医学によって非難を受けていたマスターベーションが現代の性科学者からは場合によっては奨励されている)、空間的多様性(イスラム教とは同時的ポリガミーを認め、他方キリスト教の影響の強い社会では継続的ポリガミー、つまり一生のうちに複数の内縁関係を結んだり結婚したりすることを認めている。)いわゆる先進国の最近及び予測可能な今後の変化に関して、セクシュアリティを研究する社会学者は一般に次のようなことを強調している。
1.セクシュアリティに関する言説と並んで、エロチックな、あるいはポルノ
グラフィックな性格を持つ描写の増殖。
2.性を「テクニック」として、あるいは危険のない娯楽として受け入れるセ
クシュアリティについての衛生学的観念の発展。
3.習慣および規範としての避妊の発達(出産は望まれ計画されたものである
べきだとみなされる)。
4.はじめは中産階級の若者世代から、続いてより上の世代および他の社会階
層に、内縁婚が広がったこと。
5.フェミニズム、民主主義的平等思想、女性の雇用労働の拡大の影響の下で、
女性の性行動が男性的になったこと。
しかしながら、エイズ感染の不安から、60年代および70年代に起こった性の自由化が逆コースをたどりはしないかと考える研究者達もいる。この不安のために、特に処女性と貞節が再評価されることになるかもしれない。」
(ラルース社会学辞典〔1993=1997:154-155〕)

・ジェフリ−・ウィ−クスは著書、『セクシュアリティ』の中で、「‘セクシュアリティ’という概念そのものが近代の所産であると注意深く限定する。」 
(セクシュアリティの社会学〔1996:1〕)
・1964年アメリカで、全米性情報・性教育評議会SIECUSを設立したカルデロ−ンとカ−ケンダ−ルによる定義。⇒「セックスは両足のあいだに、セクシュアリティは両耳のあいだにある。」つまりセクシュアリティとは、「性器や性行動にかかわるセックスだけではなく、人間関係における社会的・心理的側面や、その背景の生育環境を含めたものである」ということ。   
(セクシュアリティの社会学〔1996:4〕)
・「ありていに言えばセクシュアリティとは、「無定義概念」であり、人々が「セクシュアリティ」だと見なしているものの意にほかならない。」
      (セクシュアリティの社会学〔1996:6;1 ,10;18〕)

様々な言葉を挙げたが、私の支持する定義は一番最後の上野氏の言葉に近く、本研究においても、上野氏の「ありていに言えばセクシュアリティとは、「無定義概念」であり、人々が「セクシュアリティ」だと見なしているものの意にほかならない。」(セクシュアリティの社会学〔1996:6;1 ,10;18〕)というセクシュアリティの定義に依拠することが多い。

岸田秀は、著書『ものぐさ精神分析』のなかで、「性において男は能動的であって女は受動的であるというのも、性本能にもとづくものではなく、文化の産物である。」(岸田〔1982〕)と述べているが、これは、性差別文化によるものであり、「セクシュアリティ」のルーツを考える上で非常に興味深いことと思われる。そこで、そのような性差別を生み出した社会システムを、近代社会史に見てみることにする。

3.女性のセクシュアリティ
(1)近代国家における血縁化と性の管理
「まず一つは、性的他者である女の血縁化である。夫と妻は性的他者どうしだが、子を作ることによって家族という血縁共同体を形成する。父権社会の家父長制の家族は、女を父系という血筋による共同体へ取り込むことを通して女の他者性を剥奪し、希薄化し、抑圧する。女の他者性を剥奪し、血縁化するためには、女の性の管理が必要であるが、そのために性は生殖と快楽に分離される。生殖は結婚と家族制度へ、快楽は結婚外の非生殖的な性の消費システムとしての売買春へと制度化された。

日本では封建的なイエ制度が、儒教的な倫理を借りながら女性の道徳律を作り、家系存続のために生殖を管理してきた。ここでは結婚はキリスト教におけるような一夫一婦制に限定されず、妻妾制度が認められ、非摘出子の血縁家族への導入が正当化された。女−母のセクシュアリティは家制度の下で管理され、操作されて、生殖の可/不可(許可/不許可)に差別されたのである。」
            (水田[1996:29-30])

「また、生殖を通して家族の中に組みこまれた女は、社会的に保証された妻の座という役割と引き換えに、自我と主体性は夫のそれに従属させられ、セクシュアリティは生殖と子育ての中に埋没させられていった。」  
(水田[1996:36;9])

(2)伝統社会における性
一方ヨーロッパの伝統社会においても、性役割は絶対的なものであり共同体がそれを厳しく管理していた。妻の役割はどれもみな従属的で、もちろんセックスや出産も例外ではなかった。すなわち、求めに応じて夫とベッドを共にすること、および共同体が要求する数の子どもを産むことである。ここでもやはり、性(セクシュアリティ)は打算的な目的しか持たず、生殖やリネージを絶やさないためのものでしかありえなかったのである。

(3)生殖と快楽の分離
その一方で、血縁化に収れんしない性的なるもの、血縁化を妨げる性的他者やそのセクシュアリティ、その性的な行為や関係は、例えばホモセクシュアリティのように、排除され、タブ−化される。それらは血縁社会にとって障害であり、危険でもあるからである。売春の制度化がそうであるように、社会はそれらを外部へ追いやろうとすると同時に、それらを制度の中に取り込むことによって危険性を減少させようともする。

生殖と分離され、血縁化と家族の外部へと配置された、快楽としての性は、売買春へと制度化される。売春の制度化は、血縁化につながらない性行為とその欲望をアンダ−グラウンド化させる危険を避け、制度化した売春を結婚制度の外において管理することで、結婚によって成り立つ社会の安全弁としたのである。この制度の下で、女の性と身体は、男の快楽の対象として管理され、消費された。つまり、生殖に結合しない性は、結婚と家族という制度の外部に追放され、商品化され、他者化された。

「こうして、日本では家制度で、西欧ではキリスト教の定める一夫一婦制による結婚制度と中絶禁止、離婚不許可で、女のセクシュアリティを生殖と過程に押し込め、そこに押し込められないものは、制度の外へ押し出して懲罰してきた。それは男が女に自らに対立する性的他者を見出していたからにほかならず、女のセクシュアリティは、男の自我を食いつぶす、男を破滅させる恐ろしいものとして認識されていた。」(水田[1996:32;12-15])

「それでは、女は男を性的他者とみなさなかったのだろうか。家父長制的な家族制度の中で、男と対等でなかった女にとって、男−夫は、自分のセクシュアリティや主体性や自我を抑圧し、支配し、管理しようとする、敵対する権力的な存在であり、自我と一体化することのない他者である。女性は自我の表現を阻まれていても、常に男との<差異>を感じている。女にとって、夫は、まず権力を持つ性的他者なのである。」
(水田[1996:33-34])

以上のような社会が、性差別文化を産出したといえる。しかしこれも、20世紀の後半になるとキリスト教においても離婚や避妊が容認され、日本でも封建的な家制度はなくなって、結婚は基本的には個人と個人の自由な性的・精神的結合関係を確認する手段となってきた。
つまり、家族の変容によって家族内の性的な関係が多様化し、男と対等なセクシュアリティを持つ他者として、女たちが本格的に男の前に現れるようになったのである。そしてこのことを一般的に「性の解放」というのである。

4.二つの性革命
ではどのように、性解放は行われていったのだろうか。西洋社会をモデルに考えてみよう。
『近代家族の形成』の著者エドワード・ショーター氏はその本の中で、「資本主義的市場の参入による自己中心の経済的心性が、18世紀に市場に巻き込まれた一般大衆の様々な非経済的生活領域の中にも浸透し、ことに個人と共同体とを結ぶ絆を弱めたとし、18世紀末のヨーロッパの若者に見られる男女関係や情緒面での自由への希求は、資本主義的市場に由来する」(Shoter,Edward[1987:273;1-3])と述べている。

そしてそういった流れの中、様々な統計結果を元に、すべてのセクシュアリティが共同体の厳しい監視下に置かれていた伝統社会においてこのようにセクシュアリティが解放され、男女関係における他のあらゆる競合的な情動(金銭欲や家族エゴなど)を駆逐するようになった過程には、2つの段階があったとした。

「第一に、18世紀末頃の伝統社会の崩壊に伴い、婚前セックスが独身者の生活の一部になりはじめ、この時期以降は、交際をはじめたかなり早い段階から、婚約した男女がセックスをする事例が多くなったし、時代がさがるにつれて、婚約していない偶然ひかれあっただけの男女でさえも、ともに一夜を過ごすようになった、という段階。

第二に、1950年代半ば以降になると、多くの未婚者にとってセックスはごく普通の体験となり、1960年代には、互いにひかれあった若い男女が、性の領域にまで二人の関係を発展させる可能性が非常に高くなっていったという段階。」 (S.Edward[1987:124])

以上のような2段階をエドワード・ショーター氏は第一次性革命・第二次性革命とし、「資本主義システムの参入による自由への渇望が、男女と周囲の社会組織とをつなぎとめていたケーブルをたちきり、今や、自己実現−性的満足を通じての−が男女関係の支配的な要素となった」(Shoter,Edward[1987:179])、と述べている。

このような段階を踏まえて行われた性解放は文化を変え、性差別文化をも覆した。こうなると、岸田氏の「性において男は能動的であって女は受動的であるというのも、性本能にもとづくものではなく、文化の産物である。」(岸田[1982])という論も変化したであろうといわざるをえない。そこで私は、以下のように考えてみた。

5.セクシュアリティが変える社会
前近代社会においては、社会システムが先に構築され、その中でのセクシュアリティ(特に女性)というものに注目していた。が、近年「セクシュアリティ」は定着し、そこから新たな局面を迎えつつあるといえる。極端な話、現代社会ではセクシュアリティによって、社会システムが構築あるいは変容するということもありうると私は考える。

というのも、宮台氏が、論文『「郊外化」と「近代の成熟」−性の低年齢化と売春化の背景』の中で「社会システムの記述が、システム自体を変えてしまう事態は、実際はマスメディアの周辺に日常的に生じている」(セクシュアリティの社会学[1996:204;2-3])と述べているように、現代社会ではメディアの先行によるセクシュアリティの汎用が顕著である。したがって、家制度が崩壊して新しい社会システムを模索している今、メディアが与える影響は多大で、中でも人間にとって興味深い分野であるセクシュアリティは一歩前進していると思われるのだ。

だからそのような、世の中に氾濫しているセクシュアリティという面を核として、我々が社会を構築することも決してありえないことではないと考えるのである。
では、女性が自らのセクシュアリティを主張するようになったとしたら、現代社会はどのように変わるだろうか。

私は、今まで男性が握っていた性行為における主導権が女性に移りはじめ、それにともない性行為、社会生活の両方において男性の権威が失墜し、女性優位な社会が構築される(ジェンダ−の逆転)のではないかと考える。
では、そのように考える根拠を、岸田氏の言葉を引用、考察しつつ明示してみようと思う。

「もともと男性の性は不能の性として出発し、あとから、正常な性行為という造花を作ることによって、辛うじて性能力を獲得する。

しかしそののちにも、つねに不能への転落の危機をはらんでいる。男は、性行為のたびに意識的もしくは無意識的に多かれ少なかれ不能の不安におびえており、自ら内包しているその危険を克服しなければならない。そしてその危険は自分ひとりでは克服しがたい。相手の女の協力が必要である。
男は女の「抵抗」に、内的な不能の危険を外在化する。そして外的な女の「抵抗」を克服することを通じて、内的な不能の危険を克服する」
(岸田[1982:134;13-135;2])

 そして、女は、はじめは「抵抗」し、徐々にそれを弱めることによって男の克服の努力に協力するのである。

だが、上記のような女は、男の性欲のこのようなあり方の都合にあわせて作り上げられた神話だったのである。岸田論によると、もし女が積極的に性の快感を追求してくると、男は都合が悪く、不能に陥るという。ということは、社会的背景も変化し、女性が自らのセクシュアリティを主張するようになってきた現代において、今まさに男性の立場は危機にあるといえるのではないだろうか。

金塚氏は論文『消費社会のセクシュアリティ−女のオ−ガズムの発見−』の中で、この男性の危機のことを「精液のインフレ−ション、すなわち、自らの存在価値の下落である」(金塚[1996:202;1])と述べている。

もし性行為において、女の主体的なセクシュアリティのために、不能の危険を克服できなかった男は、私生活の上だけでなく公的領域においてもその主導権を握られ、なんとなく女性に対して頭が上がらない毎日を過ごすことになるのではないだろうか。

つまり、性に積極的な女性が増えれば増えるほど、男性はその権威を剥奪され、然るべくして、女性の権力が増すのである。そうして、女性優位の社会が構築されるというわけである。

だがここで注意しなければならないのは、今まで述べられてきた岸田説が本当に正しいのかという点である。この点は今後考察を進めていくためにも明確にしなければならない。そこで次に岸田氏の「男不能・女抵抗説」論に着目・検証し、そこからセクシュアリティの行方を見出していくことにする。

6.岸田論への一考察
私は岸田論に対して、「条件付き正論である」という見解を示す。

なぜなら、岸田論自体、昭和57年6月初版「精神ものぐさ精神分析」に掲載されてから、20年近くたっている古い論であり、現代社会においてそれが100%適応するとは考えがたいからである。

つまり、めざましい性解放において女性が自らのオ−ガズムを求めている現代で、岸田の言うようにはじめは「抵抗」し、徐々にそれを弱めることで男の不能克服の努力に協力するなどといったまどろっこしいことはありえないだろうということである。

しかし、岸田論すべてが否定されるとは思わない。

なぜなら、封建的な家制度の消失やフェミニズム論の隆盛などからも顕著なように、最近の性の解放の中心はもっぱら女性であり、岸田論においても現代に適応しない部分は「女性抵抗説」であるが、「男性不能克服説」はほとんど何の変化も見られず、その論の正当性を保っていると思われるからだ。

したがって岸田論は、性の解放の変遷に伴いその正当性を半分だけ欠落しただけなので、「女性抵抗説を除く」という条件をつけての、条件付き正論だとみなされるのである。

7.「オーガズム」のしくみ
ここで、岸田氏の「男不能・女抵抗説」論でいくとどうしても説明がつかない点が出てくる。それは前述にもあるが、女性の「オーガズム」である。

岸田論によると、女性は「はじめは「抵抗」し、徐々にそれを弱めることによって男の克服の努力に協力するのである」(岸田[1982])から、男性の克服さえ完璧に終えられればいいように思われる。だが実際問題として、女性にも女性独自のオーガズムがあるのだ。岸田論はその辺をまったく見落としているように思える。岸田説でいくと、女のオーガズムの有用性が不透明である上、その機能性もまったく無視されてしまうのである。
したがって、以下、女性のオーガズムについて考えてみることにする。

(1)進化論的に見る女のオーガズムの必要性
どのようにしてオーガズムは解放されたのか?女性のオーガズムはいかに機能するのか?そのことを考えるにあたって、まず我々のルーツである古い霊長類のシステムに触れることにする。

「人類とは言えないほど遠い時代、我々の祖先は今日のチンパンジーたちと同様に交尾期をもち、直立して歩くよりも四つ脚歩行を得意としていたに違いない。従ってそのころの女、つまり雌は他の動物と同様に排卵時を中心とした限られた時間(発情期)の間だけ雄を迎える性的な活性を示していた。
しかし、それはその期間ならいつでも雄を迎え入れる準備があるというだけで、性による喜びや満足を得るための交尾というのではなかった。これに反して成熟した雄の方は他の多くの動物たちと同様で、常に性的に活性であったから交尾によるオーガズムの喜びも満足も心得ていた。

だから雄は雌を求め、交尾直後の精子の回復が完了しない間、性的緊張が和らげられている間を除いては、絶えず発情期の雌との交尾を望んでいた。

性のクライマックスの喜びや満足を知らない雌にとっては、交尾とは単に繁殖のための迷惑なお義理の付き合いでしかなかったから、時間(発情期)をできるだけ有効に使う必要があった。

それには期間内にできるだけ多く、また多数の雄と交合する必要があった。この場合、雌も雄同様に激しいオーガズムに達していたら、交尾のあとかなりの休養時間を必要とし、雄を寄せ付けないであろうから、彼女たちの貴重な交尾可能の時間を浪費させることになる。」(戸川[1988:150;4-17])
こんなわけで、雌は一々オーガズムに達しているわけにはいかなかったのである。

「ところが、我が祖先もだんだんと進化して森林の生活に見切りをつけて原野へと進出するようになると、グループを作ってお互いに協力し合うことで生存競争に勝ちぬいていかなければならなかった。そのためには強力な社会組織が必要であり、社会を組織する細胞ともいうべき家族(その中心となるものは夫婦の結合である)を誕生させる必要があった。そうして特定の男と女とがつがいを形成し、お互いに協力し合って生活し、育児をするようになった。夫婦関係の誕生である。」(戸川[1988:151;10-18])

「こうなると雄が性的に消費し尽くした時、雌は次に備えてなお余裕を残しておく必要はなくなった。彼女は一人の相手、つまり自分の夫にだけ性の美酒を与えればいいのだから、彼女は夫と同様な喜びと満足を享受する権利を進化的に求めた。事実この段階で雌のオーガズムを妨げていた障害は取り除かれたのである。

男女両性の協力によってもたらされる性の喜びの一致は、つがいの結合をいっそう強化し、家族という社会の単位を維持するのに役立つようになった。それと同時に、共にオーガズムに達するということが受精のチャンスを増大させた。
もちろんそれは、気心の知れた相手(夫)との交尾経験が増えるほど受精の成功率は高まるからである。」(戸川[1988:152;1-8])

他にも我々の種の雌がオーガズムに達するようになったのは、単に一対一のつがいの関係が樹立したことからだけではなく、我々の祖先が二本足で直立して歩行するようになったことと大いに関連があるという説もあるのである。

(2)生理学的に見る女性のオーガズムとは?
「客観的に記述すれば、オーガズムとは筋肉の緊張や断絶の感覚といった肉体の生理的な変化を伴う強烈な興奮、そしてその強烈な興奮からの解放というもので、人が無防備になる瞬間である。

それが続く数秒間、人の心と体は完全に満たされ、外界との絆は一切断たれる。自分のうちにある原始的な自己(セルフ)と強く結びつく一瞬なのではないだろうか。」 (Meredith F.Small[1996:133])

「生理学的にいえば、オーガズムは膣の外側3分の1の強烈な筋緊張、子宮の収縮、それらにつられた直腸括約筋の収縮からなる。」(Meredith F.Small[1996:137;2-3])さらに「オーガズムは包括的なものであり、その引き金となるのが女性器の上部に位置する神経束なのだ。」(Meredith F.Small[1996:134;14-15])「だがここで肝心なのは、女性のセクシュアリティ(性衝動)の特徴がとりわけ柔軟性にとんでいるということだ。」
(Meredith F.Small[1996:136])

女性のセクシュアリティの大きな特徴がオーガズムだとすれば、それは何のためにあるのだろうか?

8.オーガズムの有用性
「男性が射精する時、オーガズムはつきものである。オーガズムを得られなければ、男は遺伝子を後世に伝えられない。だが、女性の立場はかなり違う。女性は卵子を排出するのにオーガズムを必要としないし、受胎するにもオーガズムは不要だ。」 (Meredith F.Small[1996:139;9-11])

それでも女性のオーガズムが存在するということは、進化の上で、女性が快感を持つことに何らかの利点があったからに違いない。それは前述したように、単に女性へセックスへの興味を持たせておくことかもしれない。

「そうして快感を得られるとなれば、それが周期的な褒賞の役目を果たして、人はくり返しセックスを試みるのである。それが結果的に受胎の可能性を高め、また夫婦の絆をも強くする要因の一つとなったと考えられるのだ。」
(Meredith F.Small[1996:140;16-18])

「女性のオーガズムに関する説明の1つに、女性がオーガズムを感じると性交のあとに横たわっている時間が長くなり、したがって精子の多くが膣の中にとどまることになるからだというものがある。
しかし、進化論の立場から見て、男性の有利のために女性がオーガズムに達して長い間横たわるように進化するかというと、それは疑わしい。
したがって、女性のオーガズムが進化するとしたら、生殖をめぐる男性との駆け引きのもろもろを女性なりに処理するためだったと考える方が、むしろ妥当といえる。
生理学的に、オーガズムが起こると子宮はリズミカルに収縮し、真空状態のようになって精子を吸い込む。このことは様々な実験でわかっている。」
(Meredith F.Small[1996:142;3-8])

つまり、オーガズムに達することによって、「女性が意識するにせよ、しないにせよ、自分の生殖器に迎えいれる精子の量を増減できるということだ。これが受胎に影響があるかどうか−進化の道筋を左右するかどうか−ははっきりわからないが、性交の相手となった男の精子の運命を大きく左右することは確かである。」 (Meredith F.Small[1996:143-144])

さらに大事なのは、このことから女性のオーガズムが生き延びてきた意味が説明できるかもしれないということである。つまり精子の行方をコントロールするのは女性であり、最良の遺伝子を残すため、選ぶためにオーガズムはあるのかもしれないということだ。

「特に、男性のセクシュアリティに女性が支配されている時、それは重要な機能である。それを考えると、性交を支配するのは男性でも女性でもないといえる。むしろ、両者が欲するものを得ようとする飽くなき軍拡競争といったらいいだろうか。」 (Meredith F.Small[1996:144])

9.現代のオーガズム
様々な文献を参考に、オーガズムの機能性・必要性を見てきた。だが今述べたような、進化論的な意味で夫婦結合のためのオーガズムという観点からでは現代女性のオーガズムの有用性は理解できないだろう。というのも、性解放を迎えた女性は自らのオーガズムにも強い関心が芽生えているはずであり、そのオーガズムを主体的に獲得したいと考えるかもしれない。そしてそうした考えを抱いた現代女性が「進化論的夫婦の絆のためのオーガズム」を得て、それだけで満足しているとは考えにくいからである。
したがってここでは、進化論的なオーガズムの有用性と実際に現代女性のオーガズム獲得状況を比較・考察していくことにする。

「そうして快感を得られるとなれば、それが周期的な褒賞の役目を果たして、人はくり返しセックスを試みるのである。それが結果的に受胎の可能性を高め、また夫婦の絆をも強くする要因の一つとなったと考えられるのだ」(大島〔1989:36〕)や、「性が本来の生殖から離れ、メスはメスで強い頼もしげな男に、子を産んだ後も引き続き残ってもらいたいための手だての一つとして、快感を増大させてオーガズムも多重性を獲得していった」(大島〔1989:36〕)という言葉から判るのは「幸福な家族」のためにオーガズムは必要であるということである。

つまりこのことは裏を返せば、「幸福な家族」のためにオーガズムを得、オーガズムが得られなければ夫婦の絆も固められず、「幸福な家族」も築くことができないということになる。だが、今や現代女性は「幸福な家族」のために(子を産んだ後も男に引き続き残ってもらいたいために)オーガズムを求めるというのではなくなっているのではないだろうか。それよりむしろ、ただ単に独自の自立した私的快楽を主体的に求めるようになってきていると思われる。
そうすると、進化論的観点からのオーガズムの有用性は無意味になりつつあるといわざるをえないだろう。
オーガズムを感じているから「幸福な家族」であるという保証はどこにもないし、逆に「幸福な家族」であるからオーガズムを感じる(感じている)というわけではないのだ。したがって、「夫婦の絆」という視点からのオーガズムの有用性は、十分ではあっても必要条件ではないといえる。

さらに別の視点から進化論的にオーガズムを検証していくと、どうしても矛盾が出てきてしまう。

例えば、進化論的に見て(夫婦の絆のためオーガズムが必要なら)、「幸福な家庭」を築いている女性たちは皆オーガズムを感じているのだろうか≠ニいう疑問がでてくるが、これは一概にそうであると断定はできない。

なぜなら、「今日、西洋社会では男にくらべて完全なオーガズムを感じる女は少ないという報告があり、さらにそのオーガズムの少なくとも50%は男性のパートナーによってもたらされるものではない」(Meredith F.Small[1996:141;4-6])という報告書からも判るように、大部分の女性が完全なオーガズムを感じてはいず(日本ではもっと少ないだろう)、もし感じるとするならパートナー以外の男性ということになるのである。
このことから、「幸福な家庭」が築かれていることを前提にして考えると、「幸福な家庭」にオーガズムは不必要ということになり、言葉を変えるなら、現代女性はたいしてオーガズムというのは感じていないが、「幸福な家庭」を築いているというパターンが大半なのではないかと思われる。

つまり、進化論的に見ると「幸福な家庭」のためにオーガズムは不可欠なはずなのに、現実は「幸福な家庭」を形成するのにオーガズムを必要とはしていないのだ。ここが矛盾する点なのである。

このことから、「幸福な家族」のためにオーガズムの重要性が叫ばれた時代が終わったことや、進化論的なオーガズムの有用性が薄れつつある一方で現代女性のオーガズムが新たな道を歩み始めていることが伺えよう。

10.現代におけるオーガズムの有用性とオーガズム不安
では、現代女性はオーガズムを不必要なものとして見なしているのかといえばそうではなく、性的快楽を主体的に求めるようになってきた今、むしろ女性はオーガズムを積極的に求め、その反面で少なからずとも、オーガズム不安を抱いているのではないかと思われる。

(1)現代女性にとってのオーガズム
現代女性は、進化論的に無意味化してきたオーガズムをなぜ求め、必要としているのだろうか。
私は、そこには何の利害関係もなく、ただ私的快楽を堪能したいという欲求だけがあるのだと考える。人間であれば、女性もまた性欲をもって何ら不思議はなく、むしろ自然なことである。「女にとっての自由とは、何者にも妨げられない性器官の管理権から始まる」(ヴィクトリア・ウッドハル)の言葉に実に見事に凝縮されているように、自己のセクシュアリティは誰のものでもない、まさに自分のものである。自分の性を知り、性をいとおしむことは、生命存在としての自分に気付くことでもあるだろう。
自分の性と向き合い、自分が女であることの意味を問い続けてきたこの長い歴史はとりもなおさず、自分が人間であることを追い続けてきた栄光ある道なのだ。

また、アンソニー・ギデンスが著書『親密性の変容』の中で、「自由に塑型できるセクシュアリティは、パーソナリティ特性として形成されていくため、したがって自己と本質的に緊密に結びついていく。
(Giddens,Anthony[1992=1995〕)
と述べているように、社会的抑圧や生殖から解放されたセクシュアリティは個々人にとって独自のものとなり、したがってオーガズムも個人が探求し開発した上で完全なパーソナリティの確立へ結びつくものとなるのだと考える。

そうなると人は当然完全なるパーソナリティの形成をめざし、完全なオーガズムの獲得へ乗り出す。それは未知の世界や新しい自分探しへの欲求を満たすことにもなるのだ。

(2)オーガズムの獲得とオーガズム不安
だが、オーガズムはそう簡単に手に入るものではない。パートナーの協力が必要である。しかもオーガズムは性交渉を行わない限り得られない。どのような人が自分にオーガズムをもたらしてくれるかなどと、顔を見ただけではわからないので、とりあえずは恋をして恋人同士とマニュアル通りのセックスを行う。もちろんオーガズムだけが快楽ではないので、ある程度の満足感は得られるだろう。さらにその時点でオーガズムを得られる人もいよう。そのような人は何の問題もないのだが(かなりの確率だが)、そこでオーガズムを得ることができなかった人はどうだろう。オーガズムを得ることができなかった人は、そこから、“イケナイ”という不安を抱くのではないだろうか。この、オーガズムを得られるか得られないか(イケル/イケナイ)の不安を「オーガズム不安」という。
つまり、岸田説にて男性が「性的不能」を内包しているように現代女性は「オーガズム不安」を内包しているのである。
そしてそこでオーガズム不安を抱いた人はそれを解消し、何とかオーガズムを獲得しようと奔走するのだ。

11.仮説の検証
ここで、現代の女性達がいかにオーガズム不安を抱いているかを、アンケートを元にしたクロス集計表から検証、考察してみたい。

(1)仮説(予想される結果)とその理由
仮説:世間体を気にかける人ほどオーガズムを必要と感じ、また獲得したい
と思っている。
理由:世間体を気にする人は、常に自分のアンテナを外に向けている。そう
いう人は様々な情報にも敏感で、乗り遅れることを恐れ、また遅れない
ように努力していると思われる。だから当然、昨今の女性の性問題にも
敏感で、自らのオーガズム問題に関しても否応なく関心が高まる。つ
まりそういう人が、世間に乗り遅れまいとオーガズムの必要性を感じ
たりすることが、オーガズム不安を抱いていることになると考えるか
ら。
結果:正の相関

(2)アンケートによる検証
資料のB1〜B5が実際に配布されたアンケートなので参考にしていただきたい。
このアンケートは1997年の10月から11月にかけて、18歳以上から50代までの男女を対象に135名に行った。そして、そのうち女性のみ抽出して60名分を使用した。
各年齢の内訳は10代が11名、20代が37名、30代が4名、40代が6名、50代が2名で、うち既婚者が13名である。
集計結果からP「あなたは世間体を気にしますか」という設問とAL「オーガズムのないSEXについてどう思いますか」という2つの設問を掛け合わせ、クロス集計表にしたところ、表A1-Aのような結果が出た。

(3)オッズ比
表A1-Aから「オッズ比」を出してみることにする。
ただしここで注意しておかねばならないことがある。
設問に対応する答えが、1つめの設問P「あなたは世間体を気にしますか」では、【1.はい 2.いいえ】だが、2つめの設問AL「オーガズムのないSEXについてどう思いますか」では【1.別にいいと思う 2.オーガズムはやはり必要だ】となっている。オッズ比を求める際は通常 左上の人数×右下の人数 だが
左下の人数×右上の人数
ここでは1で「はい」と答えた人ほど「2.オーガズムはやはり必要だ」に回答していると思われるので「オーガズムのないSEXについてどう思いますか」の回答の1、2を入れ替えて 右上の人数×左下の人数 と計算することにする。
右下の人数×左上の人数

右上の人数×左下の人数 18×11
オッズ比=−−−−−−−−−−−−−− =−−−−−−≒1.8333...
右下の人数×左上の人数 4×27
計算の結果、オッズ比は1.8333...で、1より大なので「正の相関」が見出されたといえる。
つまり私の仮説は検証されたのである。

(4)結果
クロス集計表を元にオッズ比による結果から、私の仮説が正しかったことが検証された。つまり、世間体を気にかける人ほどオーガズムを必要と感じ、また獲得したいと考えているのだ。これは、世間体を気にする人ほどオーガズム不安を抱きやすいともいえよう。

やはり現代女性は、口に出してこそ言わないが、それぞれ胸の奥にオーガズム不安なり、オーガズムの重要性を少なからず感じ取っているといえる。世間を気にし、様々な情報を受容する機会が多いだけに、世間体を気にする人はオーガズム不安を喚起されやすいのであろう。

(5)結果からの考察
クロス集計の結果から、「世間体を気にする人ほどオーガズムを必要と思っている」という結果が導きだされた。だがこれは、世間体を気にする人ほど、恥ずかしくてオーガズムのことなど言わない(答えない)のではないかと考える方が常識的ではないだろうか。なぜ、実際にはそれとは違う結果が出たのだろうか。
私はそこが今回のアンケート調査において一番認識利得があるところだと考える。なぜならこの矛盾こそが、現代において性解放はめざましく、女性の性への関心も一層高まっているということを端的に表していると考えるからだ。

性がイエ制度や伝統社会に管理され、抑圧されていたようなころは、女性が性を口にすることはタブーであったし、主体的快楽を求めるなどもってのほかであった。したがって、世間体を気にするような人はとてもではないが自らの性について口外することはなかったであろうし、オーガズムなどには関心も薄かったに違いない。
だが、様々な段階を踏まえ、情報が世の中にあふれかえるようになってきた現代においては、性の事物も多くなり、人々の関心もタブーを乗り越えることにより高まりつつある。そうした中で、女性が自らの性に目覚め、オーガズムに関心を抱くようになってもなんら不思議はないといえよう。したがって、世間体を気にする人ほどオーガズムを必要と感じているという結果は世相的にも当然であるし、このことから、現代女性にとってオーガズムは恥ずかしいとかタブーなものではなく、当たり前のものになってきているのだということが分かる。

ゆえに、意外ではあったが、今回のアンケート調査から認識利得ある結果が得られたと言えよう。


12.オーガズム不安の解消法
現代女性はパーソナリティの確立のためもそうだが、そこに、他人が知っていることを自分が知らないという屈辱も加わり、オーガズム不安を何とか解消しようとするだろう。だが、第3者に言えることではないし(言ってしまうと自分が獲得してないことがばれてしまう)、一人ではどうしようもない。そこでパートナーに正直に言える人はいいのだが、相手を気遣いなかなか言えない人もいる。そのような人は、テレクラや援助交際、海外での外人(黒人)ハントなどで(もちろんパートナーには内緒である)自らの欲求を満たそうとするのではないだろうか。
だが男性と同じ土俵ですもうをとろうとしている現代女性は強い。先ほど述べたように、パートナーとのセックスでオーガズムを得られなかった人が、ずばりパートナーに言うというパターンも多いのではないだろうか。

こうなると困るのが男性であろう。ただでさえ「性的不能」を内包し、いつ転落するかわからないといった危険をはらんでいるのに、女性に「オーガズムを感じなかったわ」と言われたらどうなるだろう。男性不能となってしまうのは一目瞭然である。
つまりセックスにおいて「抵抗する女を征服できるか」ではなく「いかに女をイカせられるか」が男性にとって最も重要になってきたと言えるのではないだろうか。

13.現代における男性不能の克服法
だが、実際問題として男性不能者は増えているといえる。これは性解放に伴うセクシュアリティの自立化によって主体的快楽(オーガズム)を求めるようになってきた現代女性に対する1つの反動ではないだろうか。前戯においてますます女性のイニシアチブが高まっているとするなら、女性の抵抗に協力を得て不能を克服してきた男性方は眉をしかめることだろう。
それでは、先の岸田説において、20年前には存在していた相手の女の協力を失ったり女性をいかせられなかった男性は、現代ではいかにして不能の危険を克服し絶望から立ち直ろうとするのであろうか。

私は、アダルトビデオの普及がその問題を解決しているのではないかと考える。

赤川氏によると、「とりわけアダルトビデオというジャンルは、その他のメディア(小説、漫画、グラビア)におけるポルノグラフィと比較して、その歴史自体の新しさと映像メディアという特性からして、ポルノグラフィとして固有の意味と機能を持つといえるという。また、男性の性欲を刺激し、勃起させ、自慰へとかきたてる商品化された性の世界でもあるとも言っている。」
(赤川[1993])

永井良和氏は論文『アダルトビデオと欲望の変容』の中で以下のように述べている。「1981年に従来の成人映画の手法がビデオという新しいメディアに移植されて15年間が経過した。フェミニズムがかつてないパワーをもちえた<女の時代>にあって、今なおアダルトビデオがもてはやされる不思議。それは、社会の表舞台で強くなった女たちに遠慮して、密室に隠れこそこそと自慰するしかなくなった<男の情けない自画像>なのか。」(永井[1992:178])

ここではやや消極的に、アダルトビデオを捉えているが、何も後ろめたいことはない。アダルトビデオは、時代の変容やセクシュアリティの進出とともに、生まれるべくして生まれたまさしくタイムリ−な商品だったのである。

世の男性達は、アダルトビデオを性の教科書あるいは私的幻想の表現、具象化の対象として愛用しながら、自らの不安を投影し、不能の危険性を克服しようとしているのだ。
したがって、アダルトビデオは減るどころかもっと増え、男性の良きパートナーになりうるのである。

だが、アダルトビデオをもってしても不能を克服できず、「イカせられる男」になれない人もいるだろう。そんな人は一体どうするのだろうか。

普通男性は、不能の危機を克服するためにアダルトビデオを性の教科書代わりとして活用するが、アダルトビデオを利用しつつもそれがうまく行かず、不能を克服できなかった場合、そういう人は幻想を捨て切れず、アダルトビデオの私的幻想の表現を現実化してしまう恐れがあるのではなかろうか。
アダルトビデオは、表現の自由という枠の中でありとあらゆる性幻想を映像化している。中には、見るに堪えないような犯罪まがいのものもあるという。その良い例がレイプものといわれるもので、アダルトビデオが原因かどうかは判断しかねるが、実社会においてもレイプ(強姦)は後を絶たない。

強姦(レイプ)とは、「暴力で女性を犯すこと。暴行。」(旺文社、国語辞典より抜粋)である。女性を強姦したり、殴ったり、殺害する行為には、セックスに対する威圧や征服といった要素を多くの場合ともなっている。

アンソニー・ギデンズが「女性が男性の隠された感情的依存と共犯関係に陥っていることに気付き、そうした共犯関係を拒否していく限り、男性をその場限りのセクシュアリティに駆り立てる動因の衝動脅迫性はますます強くなる。」(Giddena,Anthony[1992=1995:176;8-10])とか「今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因しているのである。暴力は、女性の共犯関係の弱まりに対する破壊的反応である。」(Giddena,Anthony[1992=1995:183;13-15])と述べているように、抵抗する女性がいなくなればなるほど、男性は逆に「女の征服物語」により強く依存してしまい、レイプを犯してしまうのだ。これも、不能を正常に克服できず、性的能力に対する絶え間ない不安との板挟みとなった男の悲しい結末なのだろうか。

私はそのような犯罪を犯すような人は、アダルトビデオ等により自力で不能を克服できなかった人なのではないかと考えるのだが、アダルトビデオで不能を克服できなかった人が移行するものとしてはレイプだけでなく、ドラッグもその一例としてあげられる。
自分で不能を克服できなかった男性は、薬を使うことで幻想を自分のものにしようとするのだ。暴力的に女性を屈服したり、薬でトランス状態に入ることでしか性的快楽を得られなくなるのだ。

しかしたとえ反社会的な行為ではあっても、上述したような男性は一応不能を克服しているといえるだろう。では、もともと性的不能を危機と捉えず、男性の権威を取りもどすことに関心のない人はどうであろう。
そのような人達は、同性愛者やトランスジェンダーになりやすいといえよう。トランスジェンダーというのは「生物学的な性とは反対の性として認識しており、その反対の性を持って生きていくことを求めている人のこと」(山本[1997:213;6])をいう。

また、社会的にも反対の性で認識されることを求めて、外科的手術によって性転換をして生物学的な性を変えたいと思っている、あるいは実際に変えた人達のことをトランスセクシュアルといい、「ニューハーフ」や「ミスターレディー」といわれ最近は脚光を浴びるようになっている。

彼ら(彼女たち?)は自らのセクシュアリティを隠し、変えることで不能を克服しているといえるだろう。いや、もう不能云々の問題ではないのかもしれない。彼らは人間として、生まれついた性別に縛られることなく自由な生活を送る権利を全うしているし、それは、すべての人にとって共通しうる本質的なことなのだ。

男性的不能克服法は、いやよいやよという女性を征服するという従来のやり方から、アダルトビデオへの自己不安投影、レイプやドラッグなどの性犯罪への逃避そしてさらにトランスセクシュアルへと波及した。このように男性のセクシュアリティのあり方が変わってきたことも、時代の変化に伴う社会背景の中でほぼ自然の成り行きといえる。だが、性犯罪やアダルトビデオなどは、女性や社会との関わりが強い分見過ごせない面を多々抱いている。社会がいかに変わろうとも、そこに生活する人々の人権や自由を脅かすようなことだけはあってはならないのだ。

14.おわりに
以前は自らの欲望を満足させていればよかった男性は、性解放に伴うセクシュアリティの自立化によって主体的快楽(オーガズム)を求めるようになってきた現代女性に翻弄されているといえよう。
いつまでも古典的な「性幻想」に固執し逃れられない男性に対し、女性はこうした幻想の枠から急速に離脱し、独自のセクシュアリティを確立しつつある。そしてそのギャップについてこれない男性がいけない男/いかせられない男なのだ。

「1850−1914年の間に夫婦関係の「性愛化」が生じた。これは男女の結合において性行為や性的魅力がそれだけで独立した役割を持つようになったということである。夫婦生活におけるセクシュアリティの勝利は例えば、妻がオーガズムを得る権利の確立にも見ることができる。妻が喜びをまったく得られない場合には、その夫婦が性愛化したとはいえない。」
(Shorter,Edward[1987:267])

上記のいい例として、経済的に自立し権利を強く意識し始めた女性などが、オーガズムを感じられない等の性的な不満を覚え、夫との情緒的な関係も失われてしまったと感じた時、自立している強みから簡単に夫のもとを去ってしまうというケースも増えている。

現代女性のセクシュアリティ問題はそのままオーガズムの希求でもある。オーガズムの有用性の中で少し触れたように、もしオーガズムを得ることで精子のコントロールができるのなら、世の中の女性が意識的にオーガズムをコントロールするようになった時、男性は自分の遺伝子を後世に残せるかどうかの瀬戸際に立たされることになる。
うさんくさい話だが、近代国家や伝統社会の女性から今の女性へのシフトを考えると決してありえない話ではない。
そうなると男性はますます窮地に立たされることになり、今から不能だなどといっていられなくなる。それなら女性がオーガズムを求めず、今までのようにしていればいいじゃないかという声が男性からは聞こえそうだが、世間でみられているところ、長い間抑圧され、ようやく解放されたセクシュアリティに今更ふたをすることは不可能であるし、そうする必要性もないのだ。だから、男性が権威を取り戻すためには「いかせられる男になる」しかないのだ。

宮台氏が著書『まぼろしの郊外−成熟社会を生きる若者達の行方−』のなかで、「昨今の若い女の子にとっての性愛的なコミュニケーションは、男のそれと比べると、食うとか寝るとかいったことと大差ない日常的な振る舞いになっている」(宮台[1997:189;13-15])と述べているように、最近の性事情は解放、崩壊様々な意味で目覚しく変化し、以前とはまったく異なる形で認識され位置づけられている。抑圧された社会を脱却した現代において、男女間の性の考え方やあり方も大きく変容しつつあるだろう。女性が性解放を迎え、オーガズムを希求していることは述べたが、男性にも近年興味深い現象が生じている。

それは最近の若者に見られる、「いきたくない男」の存在である。

宮台氏はそのような現象を「快楽主義の逆説」とし、二つの逆説を挙げ説明している。「1つは快楽を自由に貪れる状況になればなるほど、快楽が弛緩するということ。もう1つは快楽主義が、底無しの相対主義であり、セックスが何かの「手段」になったせいでセックスをする必然性が消滅してしまったからだということ」である。(宮台[1997:163])
だが、これは性の問題だけを範疇に考えると、いけない男達のうまい言い訳にしか聞こえない。確かに、快楽ということを念頭に置けば手段はセックスだけではないだろう。今や様々な手段で個人が自由な快楽を求められるのだから。だがそれを性(セクシュアリティ)にのみ限るとどうだろう。性の面で快楽を得ようとした場合、今時のいきたくない男達はきちんと女性のオーガズムの希求に応えられるのだろうか。
なぜそんなに女性の要求に応えなければならないのだと思うかもしれないが、先ほども述べたように、性解放により、男性はますます権威を失墜しかねないし、ひいてはそのことが子孫を残すことにも大きく影響していると思われるからだ。

女性は今後ますます、オーガズムの獲得に動き出すと思われる。それは1997年の「失楽園」ブームや「不機嫌な果実」のキャッチコピー−夫以外とのセックスはどうしてこんなに楽しいのだろう−にも見て取れよう。
性(セクシュアリティ)だけでなく、恋愛などのすべての男女関係に変容が見られる今、今までのような社会も何らかの影響を受けることは必至であろう。そしてその来るべき社会に遅れずに、うまく構築していくためにも、男性のセクシュアリティ面での新たな意識改革は大きなポイントになってくると思われる。

社会がますます複雑になるにつれて、個人の性的欲求や親密な関係のパターンは今まで以上に混沌とした状況を迎えるだろう。そして我々はその波にかなりの覚悟をして乗っていかねばならない。それは決して自暴自棄になるのではなく、確固とした自己を持ち、変わっていく状況に可能性を見出し、十分に受容することである。そして、性的な多様性や選択の利点を受け入れ、うまく利用していくことなのである。そうすることによって我々自身が納得できるような男女関係が生まれ、またそれが性への見方を変化させるかもしれない。

自らのセクシュアリティを語ること、見つめ直すこと、それは決して恥ずかしいことではない。むしろ、自分のセクシュアリティへの探求は、自己を知るための第一歩であり、果てしない旅なのである。


<参考文献一覧>

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赤川 学 1993 「セクシュアリティ・主体化・ポルノグラフィー」,
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上野 千鶴子 1996 「セクシュアリティの社会学・序説」,井上 俊
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<論文構造設計表@>
 主題 :セクシュアリティと社会システム
主要問題:セクシュアリティにより、社会システムは変容するか
主要命題:変容する
 問い :なぜそういえるのか
  答 :宮台氏が述べているように、現代社会では、メディアの先行による
セクシュアリティの汎用が顕著だからである。
問い :メディアの先行によるセクシュアリティの汎用が顕著だとなぜ社会
システムは変容するのか
答 :なぜなら、家制度が崩壊して新しい社会システムを模索している今、
メディアが与える影響は多大であるから、メディアの中心であるセ
クシュアリティは、核となって社会を構築するかもしれないのであ
る。
問い :ではどのように、社会システムは変容するのか。
答 :今まで男性が握っていた性行為における主導権が女性に移り、それ
にともない男性の権力が失墜し、女性優位な社会が構築される(ジ
ェンダ−の逆転)のではないかと考える
問い :そう考えた根拠は何か
答 :岸田氏の「男性性的不能克服説」と、金塚氏の「精液インフレ説」



<論文構造設計表A>
主題 :岸田氏の「男不能・女抵抗説」論
主要問題:岸田論は正論であるか。
主要命題:条件付き正論である。
問い :なぜそういえるのか。
答 :なぜなら、岸田論自体、昭和57年6月初版「精神ものぐさ精神
分析」に掲載されてから、20年近くたっている古い論であり、
現代社会においてそれが100%適応するとは考えがたく、
めざましい性解放において女性が自らのオ−ガズムを求めて
いる現代で、岸田の言うようにはじめは「抵抗」し、徐々に
それを弱めることで男の不能克服の努力に協力するなどとい
ったまどろっこしいことはありえないと考えるからである
問い :では、岸田論はすべて、否定されるのか。
答 :いや、岸田論すべてが否定されるとは思わない。
問い :なぜか。
答 :なぜなら、岸田論において現代に適応しない部分は「女性
抵抗説」であるが、「男性不能克服説」はほとんど何の変化
も見られず、その論の正当性を保っていると思われるからだ。



<論文構造設計表B>
主題 :現代のオーガズム
主要問題:進化論的に見るオーガズムの有用性は現代女性にも適用するか
主要命題:今まで見てきたような進化論的に見るオーガズムの有用性は現代女
性にはあまり適用せず、新たにオーガズム不安が発現しつつある
のではないだろうかと考える
問い :なぜそう考えるのか
答 :なぜなら進化論的に見るオーガズムの有用性とは裏を返せば、オー
ガズムが得られなければ、夫婦の絆も固められず、「幸福な家族」
も築くことができないということになるが、現代女性は「幸福な家
族」のためにオーガズムを求めるというよりむしろ、私的快楽を主
体的に求めるようになってきており、進化論的な見方では矛盾が
生じるとおもわれるからである。
問い :どんな矛盾か
答 :現代の女性たちが、完全なオーガズムを感じたうえで、「幸福な家
庭」を築いているということ
問い :本当にそうなのであろうか
答 :いや、一概にそうであるとはいえない
問い :なぜか
答 :なぜなら『今日、西洋社会では男にくらべて完全なオーガズムを感
じる女は少ないという報告があり、さらにそのオーガズムの少な
くとも50%は男性のパートナーによってもたらされるものではな
いという』(以上、「愛の魔力」P.141より抜粋)からである。
問い :これら一連のことから判ることは?
答 :現代女性は、たいしてオーガズムというのは感じていないが「幸福
な家庭」を築いているというパターンが大半なのではないかと思
われる。このことはまた、夫婦結合のためにオーガズムの重要性
が叫ばれた時代が終わったことも示唆していると思われる。
問い :では、現代女性はオーガズムを不必要のものとして見なしている
のか
答 :そうではなく、前述したように女性が性的快楽を主体的に求める
ようになってきた今、むしろ女性はオーガズムを積極的に求め、
その反面で少なからずとも、オーガズム不安を抱いているのだと
思われる
問い :どのようにしてオーガズム不安を克服するのか
答 :パートナー以外との婚外セックスや援助交際などであると思われる
問い :女性の主体的にセクシュアリティを希求する動きに男性はどのよう
に性不能の危機を克服するのか
答え :アダルトビデオの普及がその問題を解決していると考える。


<論文構造設計表C>
主題 :男性性的不能克服説
主要問題:女性の主体的にセクシュアリティを希求する動きに男性はどのよう
に性不能の危機を克服するのか。
主要命題:アダルトビデオの普及がその問題を解決していると考える。
問い :どのようにアダルトビデオが活躍するのか。
答 :男性達はアダルトビデオを性の教科書あるいは私的幻想の表現、具
象化の対象として愛用しながら、自分の不安を投影し、不能の危機
を克服しようとしている。
問い :それでも不能を克服できず、「イカせられる男」になれない男性は
どうなるのか。
答 :アダルトビデオの影響を逆手に受けやすく、レイプやドラッグに
よって解消しようとする。
問い :では、もともと性的不能を危機と捉えず、男性の権威を取りもどす
ことに関心のない人はどうなるのか。
答 :同性愛やトランスジェンダーに走りやすい。
問い :トランスジェンダーとはどういうものか。
答 :生物学的な性とは反対の性を自らの性として認識しており、その反
対の性を持って生きていくことを求めている人のこと。


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