【「トーイック=お茶・お花」仮説】

桜井芳生著作権保持001122 Yoshio SAKURAI all rights reserved 2000/11/22
sakurai.yoshio@nifty.com
http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/

【主要命題】

・「英語必要性問題」と「トーイック必要性問題」は分けて考える必要がある。

・第一の英語必要性問題については、まずは「必要性は量的には増大しているが、必要でない人も残る」という点ではあまり異論がない。

・(1)しかしこの第一問題の「下位問題」=「量的にどこまでの必要になるか」に関しては、「自分は必要ない」と思っている人にまで、拡大している可能性がたかい。(2)また、たとえ近視眼的に視て「自分に必要ない」ようにみえても、「階級の流動性」の点で、英語ができないことは「致命的」となりうる(自分もしくは自分の子孫が「成り上がれなく」なる)。

・この第一問題の下位問題にたとえ同意しなくても、トーイックの必要性問題は、「別」に存在する。

・このトーイックの必要性問題にたいする本稿の回答は、「たとえ実際には英語を使わないような会社でも、「お茶・お花」のように、シグナリングのツールとして、トーイックがつかわれ、ひとを峻別(排除)する口実として使われる危険性がたかまっている」である。

+++

001122みなさんこんにちは。桜井(鹿児島大、現代メディア文化論)です。例によって(ただし今日は)羽田空港の待合い室でモバイルギアを打ってます。「トーイック=お茶・お花」仮説についてのべてみたいとおもいます。

001115ご存じのように桜井はここ二三年トーイック受験をほとんどの学生さん多くの日本人社会人の方におすすめしています。

001115が、「どうせ、私は英語必要でないよ。なのに、なんでトーイックを受ける必要があるのだ?」という疑問をお持ちの方も多いでしょう。

001115じつはこの問題は、「英語学習の必要性問題」と「トーイック受験の必要性問題」に分けて考える必要があるのです。

001115第一の「英語学習の必要性」問題については、ある視点からは、じつは、あまり対立はないように思われます。すなわち、「日本人全体にとって、英語学習の必要性は、「量的(英語を必要とする人の数は)」」には拡大している。が、おそらく、日本全員にとって「全く必要」というほどではないだろう」ということです。

001115この第一問題に関しては、以上の「量的」な部分をどれほどに見積もるかという点で、いろいろと意見がわかれているとおもいます。(これを、第一問題の下位問題、と呼んでおきましょう)。

001115この「第一問題の下位問題」については、昨今喧伝されている日本社会の階級文化・階級固定化の問題が大きく関連しているとおもいます。別稿でのべてとおり、わたしは、近過去・近未来の日本においては、「持たざる勝者階級(上位階級ではあるが、自動的に相続できる資源が必ずしも大きくない)」と「持てる敗者階級(上位階級ではないが、自動的相続できる資源は、比較して乏しくない)」との二階級へと分化が進行しつつあると考えています。

001115さらに、インターネットによる英語の流通範囲の地理的増大、アジアにおける英語の実質的共通語化、さらにそれに影響されてのアジア諸国での上位階級の英語習得化、

001115これらを考えあわせると、日本の近未来の上位階級にとって、英語ができることがかなり重要(ほとんど必要?)になってくる可能性がたかい、と感じます。

001115逆にいうと、下位階級から上位に成り上がる可能性をたとえある人が得たとしても、英語ができないことが、致命傷となって、上位階級に成り上がれないという危険性が生じる確率もかなりありそうです。

001115下位階級のままでかわまないひとにとってはどうでしょうか。今の円高がつづくかぎりにおいては、世界的相場からみて馬鹿高い時給を「日本語さえできれば」うることができるかもしれません。

001115しかし、今の円高が、終焉したとすると、英語ができないと外国に出稼ぎにいけないということがおこりうるでしょう。その点、他のアジア人の(一部)のほうが、英語ができるので、有利ということもありうるでしょう。

001115以上、まとめると、第一の英語必要性問題については、まずは「必要性は量的には増大しているが、必要でない人も残る」という点ではあまり異論がない、と思います。

(1)しかしこの第一問題の「下位問題」=「量的にどこまでの必要になるか」に関しては、「自分は必要ない」と思っている人にまで、拡大している可能性がたかい。(2)また、たとえ近視眼的に視て「自分に必要ない」ようにみえても、「階級の流動性」の点で、英語ができないことは「致命的」となりうる(自分もしくは自分の子孫が「成り上がれなく」なる)。と、おもいます。

001115以上が、第一問題についての私の見解です。が、これについては、異論の残る方もいるでしょう。が、「トーイック受験の必要性」問題は、厳密には、この第一問題とは異なります。

001115この第二問題にかんしては、日本的学歴社会の問題を視野に入れなければならないでしょう。

001122ごぞんじのように近過去の日本においては就職の際の選別の多くで、「学歴」が重視されてきました。

そして、これまたごぞんじのように、この「学歴」といっても、むしろ「どの有名大学に入ったか」が問題にされてきたといえるでしょう。つまり学歴というよりは「入試合格歴」がじゅうしされてきたといえるでしょう。

001122以上のような「学歴社会」「受験体制」は、さんざん批判されてきましたが、「入試合格の有無だけでヒトを峻別してしまうのはよくない」というような「正論」によって、くずれることはありませんでした。それはいうまでもありません。この体制がある程度は合理的だったからでしょう。

001122情報経済学における「シグナリング」の議論が参考になります。シグナリングの議論によれは、「有名大学の入試」が完全なものでなくても、ある一定の条件さえみたせば、そしてたとえば、「優秀な学生の多くがt大をめざす」「一流企業の多くがt大入学者を優遇する」ということが、学生と企業の間で相互に共有知になっていれば、以上のような大学入試は、企業にとって人材選抜の有効な手段となります。なぜなら、企業がt大入学者を優遇し、そのことを学生が知っているがゆえに、優秀な学生の多くがt大を目指し、t大の入試が、企業がもとめる才能の「ふるいとしてたとえ完全でなくても、ある十分な程度でふるいの機能を果たしている」なら、企業はt大の入試合格歴を人材採用の際の大きな参考材料にできるから、です。

001122これは、極端にいうと、「花嫁道具」として「お茶・お花」の資格が喧伝されたのにすこしにているかもしれません。

001122花嫁を獲得する花婿の側からすると、当該の花嫁が、お茶やお花ができたりできなかったりするのは、あまり意義がない場合がおおいでしょう。しかし、花嫁がお茶やお花の資格をもっているということが、それなりの「生まれ」とか「育ち」とか「階級」のシグナリングになるということはありえます。そして、そのことが【当事者双方に読み込まれてしまうと、いよいよもって、そう、機能してしまう】ということはあり得るでしょう。

001122しかし、近時においては、「実力本位」のかけ声のもとで、以前のように「入試合格歴」を就社採用時のシグナリングにすることには、「うしろめたさ」が増大しつつあるようです。

(ただし、以上のロジックからすると、入試合格歴をシグナリングにすることの効果が急速になくなるともおもえません。当事者の方は十分ご注意なさって、「学歴はもはや関係ない」などといった社会に流通する【美言にだまされない】ようにしましょう)。

001122で、企業の多くは入試合格歴に変わる「シグナリング」を模索しているようです。が、いまだ決定版はないようです。

001122昨今多くの企業がSPIに、「すがっている」のもこのシグナリング・ツールとしてとかんがえることができるでしょう。

001122私は、【このSPIに次ぐシグナリングとして「トーイック」が「利用されてしまう」】とかんがえているのです。

001122まあ、トーイックを10回受けた私桜井にいわせれば、「TOEIC500点」も「600点」も、ともに「実用にならない」という点では「英語運用力の判定」としてはほとんど無意義(「違いなし」)です。

001122しかし、「500点の人」と「600点の人」では、「どれほど勉強したか」「どれほど勤勉か」「どれほど知能があるか」という点にかんしてはある程度相関しているとおもわれてしまうでしょう。

さらにいうまでもなく「企業側がトーイックのスコアを重視し」「そのことを学生側が読み込んでしまう」とさらに上記と同様に「人材のシグナリング」の「目安」としてトーイックスコアは「合理的」となってしまうわけです。

001122いわば、近未来においては、トーイックは、ちょうど「お茶・お花」のように(?)、たとえ、実際にはあまり英語を使わないような企業においても、人材峻別のツールとしてつかわれてしまう可能性(貴女にとっての「危険性!」)が、あるとおもっているわけです。

【まとめ】

・「英語必要性問題」と「トーイック必要性問題」は分けて考える必要がある。

・第一の英語必要性問題については、まずは「必要性は量的には増大しているが、必要でない人も残る」という点ではあまり異論がない。

・(1)しかしこの第一問題の「下位問題」=「量的にどこまでの必要になるか」に関しては、「自分は必要ない」と思っている人にまで、拡大している可能性がたかい。(2)また、たとえ近視眼的に視て「自分に必要ない」ようにみえても、「階級の流動性」の点で、英語ができないことは「致命的」となりうる(自分もしくは自分の子孫が「成り上がれなく」なる)。

・この第一問題の下位問題にたとえ同意しなくても、トーイックの必要性問題は、「別」に存在する。

・このトーイックの必要性問題にたいする本稿の回答は、「たとえ実際には英語を使わないような会社でも、「お茶・お花」のように、シグナリングのツールとして、トーイックがつかわれ、ひとを峻別(排除)する口実として使われる危険性がたかまっている」である。
 

+++++++++

桜井芳生のホームページにもどる