970222【主要命題】(情報トカイーイナカ論に対比して)、情報上の「トカイ者・オノボリさん・イナカ者」の三階級モデルもおもしろそうだ。
 

桜井芳生
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970222梅本氏(鹿大学生)の情報トカイーイナカ論は、非常に興味深い。彼は、インターネットによって、中央と地方のギャップがなくなる、という安易な議論を懐疑し、ネット社会においても、トカイーイナカのギャップはなくならないのではないか、と仮説する。

970222彼の議論でとくに興味深いのは、イナカ者にかんする議論である。彼は、ブルデューやウィリスを援用することで、イナカ者は、一種の適応戦略として情報拒否的なハビトゥスを身につけていると仮説する。その結果、イナカ者は、現在・近未来の情報革命においても情報拒否的傾向を示し、きたるべき情報社会においても、再び、情報イナカ者の地位に自らを「再生産」してしまうだろう。(ここでのまとめは、桜井の文責による)。

970222これに比して、ネット社会においても依然としてトカイがトカイたり得るかどうかについての議論は、未だ説得的でないようにみえる。

970222この、情報トカイの成立如何の問題に関しては、小幡氏(鹿大学生)が展開している「ミヤコ」論が興味深い。彼によると、ひとは、自分のかっこよさなどについて、根元的な「不安」を抱いている。このような、不安を抱いている人たちが相互に承認ゲームをしあうと、そこにこの不安をごまかす社会的仕掛けが生起する蓋然性が生じる。この仕掛けはさまざまあり得るが、この仕掛けの一つが「ミヤコ」(ミヤビの極限地)である。(ここでのまとめは、桜井の文責による)。

970222情報トカイの成立に関しても、同様なメカニズムを仮説することができるのではないだろうか。ネット社会のおいて、ひとは近過去よりも多くに情報を処理するとしよう。その際、ひとはその情報に関して近過去よりも多くの不安を抱くことがありそうなことになるのではないだろうか。「この情報は、はたして信頼できるのか」「私の知らない重要な情報があるのではないか」「この情報は、どれだけ多くの人が受容しているか」「私は他の人と比較して、十分な量・質の情報を処理しているか」・・・など。

このような情報にかんする不安を払拭してくれるかのようにみえる仕掛け、この仕掛けの一つとして、情報トカイが現象する蓋然性があるといえるかも知れない。「ソコ」にいけば、情報不安が(相対的に)払拭できるかのように人々に信憑される「場所」である。

970222もしこのメカニズムがあるのだとすると、じつは、この情報トカイはあくまで情報不安を持っている人たちによって「支えられている」ことになる。もし、人々全員が、「情報なんて要らない」とするような「まったき情報イナカ者」であったとすると、情報トカイ自体が現象しなくなるのである。ちょうど、もしだれも女の美しさなど気にしないのだとしたら、「美人」という社会的事実も存在しないのと、同様である。

970222とすると、情報トカイを結晶させるメカニズムは、情報不安を抱えた者いいかえると情報不安をいくらかでも払拭しようとする者たち、だけでおこなわれる「ゲーム」であるといえそうだ。ここでは、情報不安をヨリ払拭しているとみなされている「情報トカイ者」と、情報トカイに近づくことによって情報不安を払拭しようとしているが、未だあまり払拭できていない「情報オノボリさん」との、「追いつけ追い越せ」的な(じつは共犯的な)階級闘争ゲームが生じそうだ。

970222(後述のウィリスと対比的にいうと)じつはブルデューが着目したメカニズムならびにプレイヤーとは、とくにこの「(のぼりきれない)オノボリさん」なのではないだろうか。自らは、ディスタンクシオン(上品さの落差)を「のぼっている」つもりなのだが、この「のぼろう」とする彼の行動自体がディスタンクシオンの体系を前進的に再生産させてしまう。その結果、当初目標としていた地点まで「成り上がった」時には、世間の方も同じだけ「進んで」おり、結局彼は、再び中位の敗者になってしまう。しかし、彼はこの大局的なメカニズムに気づかず、「次こそは成り上がれる」と「期待」して、再び同じゲームに参加する。・・・以下、同様・・・。これがいわばブルデューのいう「誤認」のメカニズムであろうか。

970222これに対して、ウィリスの注目する「野郎ども」とは、このような「成り上がれない、成り上がりゲーム」の「結末」を、直感的に「悟っている」人々のことではないだろうか。彼らは、このような勝ち目のないゲームにコストを投入するようなことをしない。いわば「誤認」ではなく、「真認」の人々であろうか。

970222こう考えると、現在進行中の情報社会ゲームにおいて、プレイヤーを「トカイ者ーイナカ者」の「二階級モデル」で考えるのに対して、「トカイ者、のぼりきれないオノボリさん、まったきイナカ者」の「三階級モデル」で考えるのもおもしろいかも知れない。

970222しかも、このように考えることは「実践上の含意」も生じうる。すなわち、上述のようにたんいブルデュー・ウィリス的に考えると、「オノボリさん」が「誤認」者で、「イナカ者」が「真認」者であるようにみえるが、現在のような「変革期」においては、これが「逆転」する可能性もあるだろう。すなわち、実際のオノボリさんがトカイ者になりがれてしまうかも知れない(この意味で、オノボリさんがじつは真認者)し、この可能性を放棄しているという意味でイナカ者の方が「誤認」している、といえるかも知れない。とすれば、「惰眠をむさぼっているイナカ者よ、目覚めよ。成り上がりをめざせ」というのも意義があるかも知れない。

970222ただし、いうまでもなく、このように「みえる」こと自体が、新たなる誤認のサイクルである可能性もある。多くのイナカ者を、成り上がりゲームに参与させることが、じつは結局はトカイ者に利することになるという可能性もある。

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