都市空間の意味変容(98年3月卒論)


【要約】
0.はじめに
日本において元来、己を律するものは道徳であった。道徳はその源泉を共同性や地域性に求められる。しかし、近代化による一連の変化は、積極的に共同性や地域性を解体することにより成されていったのであった。この運動の貫徹は、共同性や地域性に依拠しない「私」の誕生を意味する。

この「私」の誕生は現代を非常に見にくいものにし、よくわからないものを理解可能にすべく様々な言説が氾濫しているが、どれも表層的なもののように思える。たとえば若者問題に関して、どのような有効なアプローチがあるだろうか。若者問題に関しては宮台真司の分析は非常に優れており、彼の後追いという状況ではあるが、私なりに現在の若者を規定しているストリートという空間に照準しアプローチを試みたい。このアプローチは、「都市」と「若者文化」をつなぐものである。

吉見俊哉が指摘しているように、近代は祝祭を抑圧したのではなく、再編したのである。その結果、近代に特有の祝祭性を演出するものとして、オリンピックや展覧会といった国家レベルのものから、デパートなどの消費の文化レベルのものまで様々な仕掛けが施された。

1.「都市」という空間
「都市とはたんなる物的施設の集まりでもなければ、個人の集団の集まりでもない。「都市」とは、一方ではそれを構成する人々によって初めてそこに成立する意味世界であり、他方ではまさにそのことを通じて彼らの感受性や想像力を真相から組織していく装置でもある、そうした二面性を持つ場の総体である。・・・・したがって都市化という現象が産業化や資本主義の高度化に連動して起きた現象として語られる場合でも、我々はそれを政治経済システムの変動として把握するだけでなく、人々の生活が営まれ、意識が織りあげられる場自体のあり方の変化として、と同時にそれらの場における意味作用を基礎づけている意味論的な構造の変化として把握していく必要がある。」[吉見,1994:188]

吉見俊哉も述べているように、今日、我々が社会をその考察対象とするとき、都市はその「場」としての機能以上に様々な現象を生み出す「場」として見出される。このことは、都市への人口集中によるものとして片づけられる問題ではなく、都市で起こる様々な現象がその周辺に限らず、国という単位で広がっている現代の状況を考えると、都市という「場」が、現代社会を考える上での一つの指標となりうるということを表している。

今回は、街(=ハレの場)に生まれたストリート(=日常空間)という空間に照準し、都市を規定していく様々な戦略やそのほかのメディアによる演出の方法とそこに居場所を見いだす若者たちの身体感覚の変容について考えてみたい。

2.1970年以降の「渋谷」の発展〜ハレの場の演出
吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』を要約し、1970年以降の渋谷についてみてみよう。

1960年代は、若者の中心地となったのは、新宿であった。新宿には、学生、フーテン、演劇活動家、その他芸術家などの若者が集まり、若者文化の拠点となっていた。当時の新宿は、新たな関係性を形づくるエネルギーをもった街であった。

しかし、1970年代を通じて、新宿は若者の街としてのエネルギーを失っていく。その要因として、昭和48(1973)年のオイルショックがあげられる。その後は、東京の副都心として発展していくことになり若者の徘徊する街という機能は失われていく。

このような街の変遷を、吉見俊哉は『メディア時代の文化社会学』の中で、「70年代を通じ新宿は「若く満たされないエネルギーが渦巻いている街」から「訓致されたエネルギーがなだらかに流れていく街」へと変質していく。」[吉見,1994:198]と表現している。

このような新宿の変遷に伴って、70年代半ばから台頭してくるのが公園通り界隈を中心とする渋谷であった。

渋谷・原宿といった空間を積極的に演出していったのは、西武資本系のパルコであった。

パルコ発行の雑誌『アクロス』によると、「まず、街にセグメントされたマーケットが集まることが必要である。このセグメントということは、単に主婦、学生、ヤング、近所に住む人といった分類ではなく、価値観の似た者同士を集めるという前提を必要とする。価値観の違うものは排除する。みんなの街をいった町内会的な概念はかなぐり捨てなければならない。似た者同士を集めることで価値観は増幅され、ちょっと違うを同化する。そしてその街なりの強い価値観を持つに至るのである。街がこうした価値観を持つことによって、初めてセグメントマーケットを得ることができる。・・・・すると今度は、そのマーケットをはなさない、はなさないどころか、より強めていくことが必要になってくる。それには、街自体が感性になるべきである。・・・・感性の街とは、ぶらぶら歩くことのできる街である。・・・・こういった街には高感度人間が集まるようになる。すると必然的に感覚的な価値観が浸透しやすい環境がつくり出される。こうした街こそメディアとしての要素を備えた、可能性のある街メディアとなる。」[雑誌『アクロス』,1983:34〜35]

吉見俊哉は、さらにこの戦略には街のステージ化戦略が不可欠であったと指摘している。

「街のセグメント化戦略はしかし、次に述べるステージ化戦略と不可分の関係にある。というのも、価値観が街でセグメントされるためには、セグメントされた価値観の「現代性」をその担い手に確認させるような場として街がなければならず、街がそうした作用を果たすためには、その内部の諸空間が「見ること」と「見られること」を媒介する役割を果たしていなければならないからだ。」[吉見,1987:299]

以上のようなパルコの空間戦略は、70年代以降の渋谷を演出していった。この戦略は、消費社会の性格とシンクロしており、渋谷が台頭していくことになった。

3.非日常と日常の転倒
この吉見俊哉の指摘は、近代は祝祭を抑圧したのではなく、再編し、街を祝祭的な空間、つまりハレの場として演出していったのだということを裏付けるものである。しかし、われわれは吉見俊哉が前提にいているもの、つまり日常的空間の変容もまた考察する必要がある。このことは、吉見俊哉が前提にしている非日常と日常との間にもうけたラインは絶対的なものではなく、きわめて過渡期的なものであったのではないのか、という問いへと向けられるものである。

吉見俊哉の議論を簡単にまとめるなら、非日常的空間は都市や街であり、日常的空間は家族や地域であるといえるだろう。

私はこの図式が現在成り立つのかは非常に疑問である。結論を述べるなら、非日常的空間である街は相対的に依然ハレの場であるが、以前に比べ差異化の論理がはたらかなくなり、日常的空間である家族もその空洞化が進んでいる。

日常空間の家族や地域について考察し、その変化を見ていかなければならない。とくに近代化と平行する社会の工業化、産業化に伴う都市化に対応した郊外化に代って生まれた、きわめて今日的な核家族について考察する必要があろう。郊外化は、近代のもたらした一つの過渡期的結果であり、なにより都市化により再編制された人々はそこに生活の基盤をもっているからである。

4.郊外化によって生まれた均質な「家族」の変遷
「郊外」については、三浦展『「家族と郊外」の社会学』や宮台真司『「郊外化」と「近代の成熟」』に詳しい分析がある。

とくに宮台真司は、郊外化を二つの局面に分けて分析している。

第一の局面は、「地域共同体の崩壊」と「家族への内閉化」である。[宮台,1996:209]つまり、郊外は、<田舎的なもの>つまり、地域性や共同性を積極的に解体していくという近代化の一連の流れのなかにあった。しかし、その解体に対し、代価的な手段として家庭に共同性を持ち込もうとしたのである。内実は、システムの機能分化が進み、以前のように家に労働などの機能はなくなり、父親は会社、母親は家、子どもは学校とそれぞれが個別の「場」において生活をはじめる。

核家族が崩壊している、すなわち今日の家族問題は、地域性も共同性もない空間のなかで、家族が唯一の共同性を担う場所という状態にも関わらず、父親は会社勤め、母親は専業主婦、子どもは学校や塾に忙しいという私が最初に指摘した「場」、すなわち家庭・学校・地域・会社・(ストリート) において、それぞれがぞれぞれの「場」で生活を始め、家族の共通の場がなくなっていた。すなわち家族の機能弱体化である。

第二の局面は、「家族共同体の崩壊」と「第四空間化 」であると述べている。[宮台,1996:215]

「第二の郊外化を象徴するのが、85年のセブンイレブン「ケイコさんのいなり寿司」というCM。夜中にケイコさんが「いなり寿司、いなり寿司」とメモりはじめ、家を出てコンビニにかけ込み、いなり寿司をかって「開いてて良かった」というもの。夜中にいなり寿司を食べたくなるのも変だが、・・・・以前なら隣り近所や家族の目があってできなかった。ところがそうした振る舞いが80年半ばには自然になっていった。それこそが第二段階の郊外化=コンビニ化の帰結だ。」[宮台,1996:212](強調 筆者)

このコンビニ化の時期に連動するように様々な方面で変化が生じる。

「83年の東京23区でワンルームマンションの建築ブーム」、「85年NTTの民営化による電話の買い切り制に移行」[宮台,1996:213]などである。

このような変化は、家族という閉じた単位から個人を自由にした。それは、個室化といういっそう閉じた方向性であったり、電話でヴァーチャルな空間で他人とつながるという広がりをもった方向性であったりしたのだ。テクノロジーの変化や利用法の多様化、経済成長による総中流化などがもたらした帰結であるが、忘れてはならないのが、社会が望んだ変化であるということである。

このような背景には、学校の一元化があり、家庭もコミュニケーションの空洞化を埋め合わせるため、学校の評価原則を受け入れた。[宮台,1996:219]

5.日常空間の変化と新たな問い
以上のような変化を伴い急速に日常空間としての家庭は、その共同性と機能を低下させていく。その後、宮台真司は、「彼らの魂は、すでに家族から外へ、あるいは地域や学校から外へと−すなわち「第四空間」へと−流れ出して」いったと述べる。[宮台,1996:214]宮台真司の以上のような発言から、「第四空間」こそ日常空間になっているという帰結を導くのは容易なように思える。つまり、吉見俊哉の前提にいていた日常/非日常という間の境界は自明のものではなく、急速にその姿を変えつつあるのである。

宮台真司のいう「第四空間」こそ、私のいう「ストリート」いう空間に他ならない。

しかし、一方的な日常空間の変容が、従来の日常/非日常の境界を変容させたのかという問いが生まれる。第四空間=街には郊外化と相関する近代化の論理が働いており、そこに集う若者たちがそのイデオロギーをどのようにゆがめているのかも考察すべきではないだろうか。若者たちは、街のイデオロギーを読み変え、ゆがめることにより非日常的な演出された空間に日常的作法を持ち込もうとしているからである。日常空間と非日常空間のせめぎあいの場として、そのような総体としてわれわれは、都市に生起する「文化」について考えていかなければならないのである。

そうするとわれわれの問いは「都市はどのような変化をきたし、そこに集う若者たちをどのように再編し、また若者たちはどのように都市を再編しなおすのであろうか」という問いへと向けられる。

この問いは、「文化」の役割を問うものである。このことは、現在の若者の理解しがたい行動がその固有の文化領域においては、どのような意味づけをもち、主体的に選ばれる一連の行為は、どのようなメカニズムにより選択されているのかという文化固有の領域へ踏み込むことによって説明しうるものであろう。現段階では、そのような領域へと踏み込むエスノグラフィーの視点が不可欠であろうということが指摘できる。

6.結論 - 現在の「都市的現実」〜街とストリートの分離
今回は、社会史的な視点から現在の都市空間の変遷を見てきた。この視点とエスノグラフィーの視点によって、有効な文化へのアプローチができると思う。 

現在に至るまで渋谷をはじめとする都市群は依然「盛り場」として認知されている。吉見俊哉の指摘した「近代における都市は祝祭を再編した場」という表現に象徴されるように、近代はその動機づけの装置として都市を「ハレ」の場といて位置づけるために様々な戦略を行ってきた。しかし、そこに生きる人々のとって1970年代以降急速にその意味空間を変容させつつあるように思える。その変化は、「盛り場」をハレの場として捉えてきた従来の視点からでは捉えきれないような変化である。このような変化は、社会全体へ<都市的現実>がひろがった結果として、以前はハレの場であった盛り場が依然と比べその非日常性を失ってきている。すなわち近代への動機づけの装置であった都市がその役目を終えつつあるのである。このことは、機能そのものが失われたわけではなく、依然相対的にはハレの場であるが、以前のような差異を生み出さなくなっているということである。社会全体が都市的現実のなかへと再編されたということを意味する変化なのだ。

それにともない街も以前とはその様相をことにしてきている。以前は若者にとって「ハレ」の場であり、またパルコの戦略を半ば主体的に選択してきた若者たちが、生活空間の変容にともなう身体空間の変容により、街のイデオロギーを読み変え、ゆがめることによってストリートという若者の空間をつくり出していくのである。
                  
第一章.消費社会を意味づける空間
0.はじめに
私たちは、様々な「場」において生活している。「場」としては、家庭・学校・地域・会社・(ストリート) などがあげられるだろう。元来、それらの「場」は、個別の論理によって動いていた。「場」の発生は、それぞれに個別であり、「場」の論理もまた時代ごとに選択されてきた。
近年、様々な若者問題が持ち上がっているが、私は、その表層的な問題への議論に終始しているように思われる。その問題の多くはストリートという空間において起こっているという事実を考慮し、ストリートという「場」を考察の対象とすべきではないだろうか。
第一に、ストリートという空間は、都市の成立と密接に関わっている点を考察する必要があり、第二に、そのストリートいう空間に身も心もとらわれている現在の若者もいるという状況を考察する必要があろう。
見通しとしては、「場」の中でも家庭・学校・地域と違い消費の論理によってストリートという空間が動いていることは、学校論理の一元化の強まる現代社会において自立を獲得してきたこと。このことが、雑誌その他さざまなメディアと相互に関係し、ストリートいう空間が若者に意識されはじめ、敷居の低いものになっていったこと。 しかし現段階では、メディアがそもそもストリートいう空間内で自給自足の状態(口こみメディア)になっているという状況が見られ、本来の雑誌等のメディアが後追いの状況にあるという点も考慮しなければならない。

1.都市いう空間
「都市とはたんなる物的施設の集まりでもなければ、個人の集団の集まりでもない。「都市」とは、一方ではそれを構成する人々によって初めてそこに成立する意味世界であり、他方ではまさにそのことを通じて彼らの感受性や想像力を真相から組織していく装置でもある、そうした二面性を持つ場の総体である。(中略)したがって都市化という現象が産業化や資本主義の高度化に連動して起きた現象として語られる場合でも、我々はそれを政治経済システムの変動として把握するだけでなく、人々の生活が営まれ、意識が織りあげられる場自体のあり方の変化として、と同時にそれらの場における意味作用を基礎づけている意味論的な構造の変化として把握していく必要がある。」[吉見,1994:188]

吉見俊哉も述べているように、今日、我々が社会をその考察対象とするとき、都市はその「場」としての機能以上に様々な現象を生み出す「場」として見出される。このことは、都市への人口集中によるものとして片づけられる問題ではなく、都市で起こる様々な現象がその周辺に限らず、国という単位で広がっている現代の状況を考えると、都市という「場」が、現代社会を考える上での一つの指標となりうるということを表している。

今回は、都市の中でも特にストリートという空間に照準し、都市を規定していく様々な戦略やそのほかのメディアによる演出の方法とそこに居場所を見いだす若者たちの身体感覚の変容について考えてみたい。

吉見俊哉は、『メディア時代の文化社会学』の中で以下のように述べている。

「都市の場所的な広がりの中で生起する諸文化と、メディアに媒介された非場所的な中で生起する諸文化は、互いに密接に関連づけられ、考察されていかなければならない。」[吉見,前掲書:38]

私は、都市とメディアの相互作用によって生起する文化とその文化に更なる相互作用を及ぼすストリート空間に生活する若者という視点は、有効なもののように思える。

1970年以降、展開される「渋谷」におけるパルコの戦略や多くのマニュアル雑誌やファッション雑誌の戦略と若者たちの身体感覚の変容についてをみていきたい。まず吉見俊哉の「都市のドラマトゥルギー」における「盛り場」分析を援用し、1970年当時の「渋谷」の状況を概観する。それをふまえて、吉見俊哉の分析の限界を示し、それを乗り越えることを目標としたい。

1-1.1970年以降の「渋谷」の発展
吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』を要約し、1970年以降の渋谷についてみていきたい。

1960年代は、若者の中心地となったのは、新宿であった。新宿には、学生、フーテン、演劇活動家、その他芸術家などの若者が集まり、若者文化の拠点となっていた。当時の新宿は、新たな関係性を形づくるエネルギーをもった街であった。

しかし、1970年代を通じて、新宿は若者の街としてのエネルギーを失っていく。その要因として、昭和48(1973)年のオイルショックがあげられる。その後は、東京の副都心として発展していくことになり若者の徘徊する街という機能は失われていく。
このような街の変遷を、吉見俊哉は『メディア時代の文化社会学』の中で、「70年代を通じ新宿は「若く満たされないエネルギーが渦巻いている街」から「訓致されたエネルギーがなだらかに流れていく街」へと変質していく。」[吉見,1994:198]と表現している。

このような新宿の変遷に伴って、70年代半ばから台頭してくるのが公園通り界隈を中心とする渋谷であった。

それまでの渋谷は、区役所通りとか職安通りなどと呼ばれているような街であったが、パルコが73年に開設、以後パルコ新館、東急ハンズなどが開設し、「70年代末までには渋谷の人の流れの重心は道玄坂界隈から公園通り界隈へと移行する。その結果、60年代にはやや停滞気味で、賑わいもターミナル周辺に限定されていた渋谷は、「明るく開放的でファッショナブルな街」として若者たちの強い支持を受けていくのだ。」[吉見,1987:288]

吉見俊哉は、1970年代以降の「盛り場」を渋谷に限定することに注意を促している。

「渋谷とともに、原宿、青山、六本木といった一群の街々が、互いに作用し合いながら「東京でもっともファッショナブルな空間」として浮上するのだ。」[吉見,1987:289]

では、渋谷の一連の発展はどのように導かれたのであろうか。

70年代以前の渋谷の停滞は、「単一の要因には帰属できない」[吉見,1987:291]と述べながら、その要因の一つとして「地理的特質」[吉見,1987:291]をあげている。

渋谷は、地形的には周囲を大地に囲まれた盆地であり、ターミナルの近くから代官山などの高級住宅街とつながっており、その地形的な要因により、商業地域の拡大の可能性や若者の住み着く可能性を欠いていた。

「このことは、一方では60年代の渋谷の停滞の要因となっているが、同時に70年代以降のこの街の発展の基盤ともなっている。というのも、このような特質によって渋谷は、原宿・青山・代官山等の高級住宅街を背としたファッション先進地帯と隣接していくことになり、それらが構成する多極的構造のなかで内部の磁場を変容させていくのだ。」[吉見,1987:291]

東京オリンピックの開催に伴い60年代中頃から建設された代々木オリンピック競技場などの施設は、公園通り界隈を原宿へと連結させた。

このような一連の開発が、西武資本の進出を促した。

1-2.70年代以降の渋谷の特徴

70年代以降の渋谷の特徴として、吉見俊哉は、以下の3点を指摘している。

1.若者が「ブラつく」ようになったこと
2.ペアもしくはグループで行動するようになったこと
3.渋谷が「様々な「現代的」な役柄をみる・みられる場としてある、という点である」 [吉見,1987:294〜295 要約]

2.においては、「かつて街は若者が単身でやってきて、そこで強大な群れを形成する場所であったとするならば、70年代の終わり頃までには、街は、すでに小規模化した若者たちがやってきて相互に差異を確認する場所へと変質していったのである。」[吉見,1987:295]と述べ、また3.においては、「渋谷がファッションの街であるというのは、こうした「見る・見られる」(=演じる)という回路を過剰に保証しているからにほかならない。」[吉見,1987:296]と述べ、渋谷の祝祭的な性格を指摘してる。

このような渋谷の特徴を形づくったものは一体何だったのだろうか。

「演出の側面からの把握」[吉見,1987:297]〜パルコの戦略

吉見俊哉によるとパルコの空間戦略は、以下の2つであった。

1.「街のセグメント化」[吉見,1987:298]
2.「街のステージ化」[吉見,1987:298]

パルコ発行の雑誌『アクロス』によると、「まず、街にセグメントされたマーケットが集まることが必要である。このセグメントということは、単に主婦、学生、ヤング、近所に住む人といった分類ではなく、価値観の似た者同士を集めるという前提を必要とする。価値観の違うものは排除する。みんなの街をいった町内会的な概念はかなぐり捨てなければならない。似た者同士を集めることで価値観は増幅され、ちょっと違うを同化する。そしてその街なりの強い価値観を持つに至るのである。街がこうした価値観を持つことによって、初めてセグメントマーケットを得ることができる。・・・・すると今度は、そのマーケットをはなさない、はなさないどころか、より強めていくことが必要になってくる。それには、街自体が感性になるべきである。・・・・感性の街とは、ぶらぶら歩くことのできる街である。・・・・こういった街には高感度人間が集まるようになる。すると必然的に感覚的な価値観が浸透しやすい環境がつくり出される。こうした街こそメディアとしての要素を備えた、可能性のある街メディアとなる。」[雑誌『アクロス』,1983:34〜35] と述べている。

「街のセグメント化戦略はしかし、次に述べるステージ化戦略と不可分の関係にある。というのも、価値観が街でセグメントされるためには、セグメントされた価値観の「現代性」をその担い手に確認させるような場として街がなければならず、街がそうした作用を果たすためには、その内部の諸空間が「見ること」と「見られること」を媒介する役割を果たしていなければならないからだ。」[吉見,1987:299]

以上のようなパルコの空間戦略は、70年代以降の渋谷を演出していった。この戦略は、消費社会の性格とシンクロしており、渋谷が台頭していくことになった。

1-3.渋谷の担い手

70年代以降の渋谷をマーケットとして成り立たせたのはどのような人たちであったのであろうか。

「70年代以降急速に台頭する<渋谷的なるもの>の主要な担い手となっていったのは、世代的にはもっぱら若者が中心で、その多くは学生であり、たとえ働いていても事務・技術関係の仕事のものがほとんどであった。そして彼らの居住地域は、東京西南部を中心に横浜・川崎までの広い範囲にわたっている。これらの点から見て、渋谷に集まってくる若者たちの主導的な部分は、東京の山の手ないし郊外に住む家庭の子弟たちと考えられ、地方から上京してきた若き単身者たちが主導的な役割を演じていた60年代までの新宿とは、その担い手の社会構成という点で大きく異なっていた。」[吉見,1987:304〜305]

このような担い手たちが現れてくる背景には以下の二点が上げられている。

1.高度経済成長に伴う郊外化の拡大
とくに1995年以降の郊外化は、50キロ圏域へと拡大し、神奈川・埼玉・千葉を飲み込んだエリアを成立させていった。

2.60年代以降の情報メディアの発達
たとえば70年代以降のカタログ雑誌やファッション雑誌の創刊ラッシュ
『アンアン』70年、『ノンノ』71年以降世代や志向に応じた雑誌が次々と創刊され、『ぴあ』72年などのカタログ誌も創刊された。

「結局、70年代以降台頭する<渋谷的なるもの>の担い手たちは、以上で述べるような移動メディアと情報メディアの両方のレベルで都市的生活世界が再編制されていったなかから生み出せれてきたものと考えることができる。・・・・この二つが現代における新たな空間の組織のされ方のあらわれとして表裏一体をなしていることを指摘するのも無駄ではなかろう。すなわち、一方の郊外化における高速移動メディアの日常生活への浸透と、他方の情報メディアにおける日常生活への浸透は、われわれがこれまで長い間慣れ親しんできた距離の遠近法を解体させ、空間相互の関係を、地理的な隣接よりも、メディアによる媒介にしたがって秩序づけていく。その結果、ここの地点は「到達すべきもの」としてよりも、次第に「選択すべきもの」として現れるようになってくるのだ。・・・・だが・・・・郊外化にしろ、情報化にしろ、右に述べた空間の編制方式の変化を促しているのは、たんなる「技術の進歩」ではなく、むしろ都市がそこにおいて個々の身体によって生きられるところの生活世界そのものの存立構造の仕方の変化なのだ。というのも、空間とは決してモノやヒトが配置される物理的な容器のようなものではなく、あくまで方向性と広がりを持った経験としてまずあるのであり、それは常に活動の系としての身体が世界をつかむ方式だからだ。空間の組織のされ方の変化とは、結局のところ、社会がそう望むところの世界の存立の仕方の変化である。<新宿なるもの>から<渋谷なるもの>へという盛り場の変化を、郊外化や情報化というより広域的な変化と結びつけて捉える必要があるのは、たんに後者が前者の原因だからではなく、むしろ前者は、後者においておきた世界の構成のされ方そのものの変化を典型的に表現しているからなのだ。」[吉見,1987:307〜308] (強調 筆者)

[以上 『都市のドラマトゥルギー』より要約、抜粋]

「盛り場」を秩序づけている時間−空間構造のレベルでは、60年代以降単一のみんなで志向する<未来>が、急速に色あせていきその後様々な方向へと拡散し始めた。ある意味で自由になった<未来>的なものを渋谷の空間戦略は、演出していったのだ。

また、そこに集う身体感覚のレベルにおいては、共通の外部(<未来>的なもの)の解体にともない絶えざる価値の相対化をもたらし、外部への志向ではなく内なるものへと視線を移さざるを得ない状況になっている。視点が内部へと向けられることにより絶えず演じることへと脅迫されているのである。

共通の外部の喪失により他者と何かを共有することは、困難にならざるを得ない。自己像を別の物語を生きる者に批判されることを極力控えるために他者を視界からは除するという防衛戦略がとられるようになるのである。

以上簡単にではあるが吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』の1970年代以降の渋谷の分析を都市の空間戦略の側面から見てみた。

1970年以降急速に変化しつつある「街」、とくにストリートという若者たちの空間を分析するにはこれだけでは十分ではない。

2.ストリートいう空間に生きる若者
まず、はじめに考えなければならないのがエスノグラフィー的視点である。

吉見俊哉の一連の分析は、社会史的な視点に比重が置かれていた。日本の近代化にともない明治・大正の浅草から銀座への移行、また新宿から渋谷・原宿への移行を様々な空間戦略や時代の雰囲気に媒介され民衆がいかにして都市的身体性を形成していったのかを分析している。そこには近代によって再編された祝祭空間(ハレの場)として都市を捉えることによって、そこにおける人々の心性を捉えようとしている。

しかし、1960年代のジーパン文化(フォーク・サイケ・アングラ・反戦)の担い手であった団塊世代の<若者の共同体>から1980年あたりから台頭するカタログ文化の担い手であった新人類世代への移行を事実認識のレベルでしか捉えられていない。よって当時の若者をとりまくコミュニケーション環境へのアプローチが必要であろう。また、吉見俊哉自身指摘しているように情報メディア(とくにカタログ文化を演出した雑誌・テレビなど)や移動メディア(鉄道・自動車)など様々なレベルで複合的に結びついた「場」として捉えることが重要である。

とくに今回の私の関心である「若者の生活空間としてのストリート空間」を考えるには、1970年以降の渋谷をセグメントマーケットとして成り立たせていく新人類・団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニアという世代の居住空間である「郊外」について考えていく必要がある。郊外化は1970年代以降本格化したため1970年代以降に生まれた団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニアが厳密な意味での「郊外で生まれ、育った世代」ということになる。

第二章.郊外という生活空間
1.郊外化
郊外化の過程を考えるにあたって、三浦展『「家族と郊外」の社会学』に詳しい資料があるのでそれを参考にしてみていきたい。

三浦展『「家族と郊外」の社会学』の資料「図表1-1.首都圏の距離帯別人口」によると1960年以降の日本は高度経済成長をはじめ1970年代には40〜50キロ圏を加えると2000万人を超えている。図表1-1と1-2をみると「この地域こそが東京のベットタウン、郊外に他ならない」[三浦,1995:13]という三浦展の言葉がよくわかる。

1-1.ホームドラマのなかの郊外
テレビの普及のはじまった日本において1950年から1960年代にかけて放送されたアメリカン・ホ−ムドラマは人々を郊外での生活へと動機づけた。

「番組がはじまる。軽やかな音楽が流れ出す。玄関のシーン。パパが朝、会社に出かけようとする。美しいママがブリーフケースを渡しキスしようとする。それを3人の子どもたちが階段の手すりから笑いながら見ている。タイトルバックに彼らの住んでいる美しい家が映し出される。それは天窓の付いたケープコッド型住宅 である。庭は白い柵で囲まれ、家にはバラのつるがからまっている・・・・。

これは、『パパは何でも知っている』の冒頭の場面である。彼らの家はスプリングフィールドという名の郊外住宅のサウス・メイプル・ストリート607番地にあった。戦後の日本人が、自らの家族を形づくる際に、たとえ無意識的にであれそのモデルにしてきた原像は、『パパは何でも知っている』に代表される1950年代から60年代前半のアメリカンホーム・ドラマであろう。」[三浦,1995:40]

三浦展が指摘するように、『パパは何でも知っている』・『うちのママは世界一』・『陽気なネルソン』・『ビーバーちゃん』など多くのアメリカン・ホームドラマがテレビ普及時代の日本においてソフトの不足を補うかたちで放送された。これらのドラマはいずれも華やかな郊外での生活を描いており、当時の高度経済成長の波に支えられ大衆に「夢」を供給していったのであった。

しかし、夢の内実はどうであったのであろう。

一足はやく郊外化の道を歩んだアメリカでは、郊外における家族の崩壊など様々なところで問題が起こっていた。現実とテレビドラマのなかの生活は違っていたのである。

スコルック・アーリーンは『戦う楽園-不確実性の時代におけるアメリカの家族』のなかでこう述べている。

「テレビのイメージは、今も昔も、大多数のアメリカ人の現実を映し出してはいなかった。そのイメージは理想的な条件のなかの−『正常』『健康』『典型的』『平均的』という仮面を見事にかぶった−理想の家族だった。『パパは何でも知っている』で息子のバトを演じたビリー・グレイは、後に、その番組関わったことを『恥だ』と感じたといっている。あれは『まったくの虚偽』だった。そして多くのアメリカ人があの番組のおかげで人生はあのようにあるべきであるとおもい、彼らの人生は失敗だとおもって無力感にさいなまれたのだ、と彼はいう。」

もちろんこの記述を日本にそのままあてはめることはできない。しかし、日本的な文脈のなかでも郊外化は様々な問題を表面化させつつあったのである。

1-2.共同体と家族の結びつきの希薄化
三浦展は、郊外を考える上で最も重要なのは「故郷喪失者」である「家族」であると述べている。[三浦展,1995:76〜77]

「故郷喪失者」である「家族」は、郊外に住む核家族となってゆく。核家族の現状は、都心への長時間通勤を強いられている父親、塾通いに忙しい子ども、専業主婦として家に残る母親というわかりやすい家族関係をもつ家族を大量につくり出していった。

三浦展は『「家族と郊外」の社会学』の第一章『なぜ郊外化か?』で郊外が否定的に評価される理由をいくつか挙げている。「平成三年度版『国民経済白書』の「県別豊かさ指標」が、いみじくも千葉県、埼玉県が日本で一番「貧しい」県であることを暴露してしまったよう、現在の日本では、郊外住宅の多い県ほど豊かさを実感できない状況にある。」[三浦展,1995:18]と述べ、豊かさとのかね合いで理由をいくつかあげている。なかでも「郊外においては人口の急増に対して、住宅や道路・交通、学校、病院、図書館、文化施設等の基本的な生活インフラの整備が追いつかないこと」[三浦展,1995:18]や、マーケティングの面から見た「マス・マーケット」は成り立つが「セグメント・マーケット」は成り立ちにくい[三浦展,1995:24]という指摘は興味深い。

これらの指摘は「豊かさ」というよりも「共同体」に結びつけて考えてみた方がおもしろいのではないだろうか。東京という大都市の担い手である郊外には、東京にセグメント・マーケットが成り立っているためになかなか消費も文化も独自のものが成り立ちにくい。このことは、先ほどの家族関係も含めて均質的で深みのない生活空間を誕生させてしまう。郊外はあくまで周辺地域として都市のなかに組み込まれていった。このような空間には「共同体」は成り立ちにくい。なぜなら、現代都市は共同体に依拠せずに「私」自身にアイデンティティを保証する「場」であり、むしろ日本における一連の都市化は、積極的に共同体を解体してきたからである。

このことに関連して、その「共同体」を代価したのは、父親に関しては終身雇用を原則とする「会社」であったことは改めて指摘するもでもないだろう。

2.家族と共同体の問題
「共同体」の成り立ちにくい郊外という視点は、三浦展も指摘しているように「さらに、・・・・共同性の欠如、均質性の支配といった特徴ゆえに、郊外には、・・・・すなわち家族の問題が常につきまとっている。家族の崩壊が叫ばれて久しいが、実はこの家族の崩壊という問題は郊外においてもっとも切実な問題、というよりまさに郊外特有の問題」なのである。[三浦展,1995:24]

共同体と家族問題は密接に関わりつつ郊外という空間を規定していったのだ。近代化の過程で故郷としての田舎を積極的に解体してきた都市化の波は、家族という歴史的な構成単位を家庭という空間的な構成単位へと再編しなおした。

民族学の一連の成果、たとえば森栗茂一『夜這いと近代売春』で述べられているように、「村社会における、近世までの日本人の性はきわめて自由」であり、結果として生まれた私生児は「郷の子」と呼ばれ、彼らはムラが育てた。[森栗茂一,1995]このことは、子どもは家族の育てるべきものという考えに平行して、地域社会が子どもを育てるという考えもまたあったということを意味している。また、日本には伝統的に結びつきの強い共同体が存在していたといえる。生活においても地域との結びつきがなくては生活そのものが成り立たなかったのである。

ここからすぐに近代の家制度へと飛ぶことが多いが、近年、家制度が近代特有のものでないことが明らかになってきている。

「通説では家は平安時代末に貴族や上級の武家に成立し、中世後期には百姓の家にも成立したと考えられており、徳川時代には、家を単位とする身分秩序が再編され、17世紀後期から18世紀にかけて農民の間にも家産・家業・家名を継承し先祖を祭祀する家が広く成立したと言われている。近世の庶民は名字をもつことを許されていなかったが、屋号や家主が特定の名前に改名することなどにより、家の超世代的連続性を表示する習慣がしばしば見られた。またか下層農民では家意識が希薄だったとも言われるが、わざわざ養子をとってまで家を継がせることも少なくない(Kurosu and Ochiai,1995) [落合,1996:42〜43]というこの落合恵美子の指摘は、家は近代家族であるという誤った歴史解釈への警告であり、近代は家を再編制しなおしたということを指摘するものである。

このことに関連して、牟田和恵は「近代以降の「家」とは、武士的「家」をモデルとしつつも、近代国家体制の基盤とすべく明治政府により創造的に発明されたものに他ならない」と述べその経過として、明治政府は戸籍制度の整備(1872(明治5年)壬申戸籍)、「これによって身分階層を問わず国民は「家」によって一元的に把握される」ことになり、「納税や徴兵制の整備と浸透は、全国民レベルに「家」が普遍化することをうながした。(福島,1967) 」[牟田和恵,1996:58〜60]

西川祐子は、『近代国家と家族-日本型近代家族の場合』のなかで、現在に至る近代型家族の歴史的な変遷を以下のように分析している。

西川祐子は、日本型近代家族を、「家」/「家庭」の二重家族制度から「家庭」/「個人」の新二重制度への変遷として捉えている。[西川祐子,1996]

以下見てみよう。

(1)「家」/「家庭」の二重家族制度

(1)‐1 法レベルでの二重制度
1871年の戸籍法、1898年の明治民法により戸主をその長とする「家」制度が確立した。「家」制度は当初、現実の共同生活の単位であり、血縁関係だけでなく家業と生活の営まれている大きな世帯と見なされていた。しかし、産業化や資本主義の発達に伴い、「家」制度は生活実体とはずれてきた。戸籍の上では、「家」制度に属しているものの、現実においては、「家庭生活」を営むという、日本型近代家族特有の「家」/「家庭」の二重制度が現れることになった。

(1)ー2 規範レベルでの二重制度
日本の「家」制度は、親子関係と先祖崇拝により国家へと垂直に結びつけられた。一方で、西欧的な「家庭」家族の取り込みも行われ、教育においては、「孝」と「愛」が並列的に用いられた。また、新聞雑誌でも、「家」が「家庭」に対して優勢であったのが、次第に、対等、逆転していくのが見て取れる。
また、1920年代になると、『主婦之友』他の商業的雑誌が発行部数を増やし、「家庭」生活を営む中流階級へのあこがれをもたらし、次第に、「家」と「家庭」の区別は曖昧になった。

(2)「家庭」/「個人」の新二重家族制度

(2)ー1 法レベルでの新二重制度
敗戦後に配布された新憲法第24条は以下のとおりである。「婚姻は、両性の合意にのみ基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚ならびに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」。これは、民法の「家」の制度と矛盾するものであった。

1947年の民法改正により、民法の第4編第2章「戸主及び家族」(第732条から第764条)が削除された。
改正民法が想定する夫婦関係中心の小家族は、「家」/「家庭」の二重家族制度における「家庭」家族に近い。
しかし、改正民法には依然として戸籍が残され日本型近代家族の「家」の観念の一部が戸籍として「家庭」家族の中に吸収されるというかたちになっている。新憲法では個人の存在を認めつつ、民法改正後も家族単位としての戸籍を残したので、「家庭」/「個人」の新二重制度が成立した。

日本の場合は現在、夫婦別姓、離婚原因を積極的破綻主義へ、婚外児の相続などに関する民法改正などが議論されている。これらの議論は個人に対して譲歩の姿勢をとりながらも、「家庭」「家族」を維持しようとする「家庭」/「個人」の新二重家族制度の法レベルにおける表現といえる。

(2)ー2 規範レベルでの新二重制度
「家庭」という言葉は、戦後再びあたかも新造語であるかのように取り上げられ流行した。敗戦後の日本再建は「健全な家庭」あるいは「民主的な家庭」の建設にあるという呼び声が高かった。行政の文書において、学校教育において、新聞雑誌において、「家庭」がもっとも頻繁に使われる用語となった。それらの中では「家庭」家族は、夫婦と子どもにより形成され、「家庭」が子どもの教育を中心になされなければならないこと、子どもが未来の国民であること、だから「家庭」は「明朗」「健全」という規範を持つことが語られている。[西川祐子,1996:81〜93 要約]

以上のような変遷をともなって家族像は変遷を遂げてきた。西川祐子の「家」/「家庭」の二重家族制度と「家庭」/「個人」の新二重家族制度の変容の過程をみてきたが、「家」や「核家族」をそのまま当時の近代家族へと還元させないという考えは学ばねばならない視点であろう。

西川祐子の指摘する戦後の「家庭」像の氾濫こそが郊外化へと人々を動機づけ、またそこにおいて営まれるべき夢の「家庭」像を提供したのである。
2-1.郊外化によって生まれた家族
郊外化によって生まれた家族とは、今日典型的な家族像として認知されている核家族である。

しかし、総務庁「国勢調査」より三浦展の作成した資料によると核家族という家族形態のピークは85年までで、その後は減少している。(図表3−1)このことに関して三浦展は、戦後の日本家族のトレンドであった「核家族化」は実は1970年代にすでに終わり、その後は「夫婦のみの世帯」や「単独の世帯」の増加の時代」をむかえていると指摘している。[三浦展,1995:80]

このことは、まず核家族が「高度経済成長」「都市化」「郊外化」などと結びついたきわめて今日的な現象であったことが指摘できる。

核家族が崩壊している、すなわち今日の家族問題は、地域性も共同性もない空間のなかで、家族が唯一の共同性を担う場所という状態にも関わらず、父親は会社勤め、母親は専業主婦、子どもは学校や塾に忙しいという私が最初に指摘した「場」、すなわち家庭・学校・地域・会社・(ストリート) において、それぞれがぞれぞれの「場」で生活を始め、家族の共通の場がなくなっていた。すなわち家族の機能弱体化である。

地域共同体が解体し、それを担うべき家族もまたその機能を十分に行えなかった。

しかし、当初そのような問題がでてこなかったのはなぜだろう。

それは、上述の『パパは何でも知っている』・『うちのママは世界一』・『陽気なネルソン』・『ビーバーちゃん』など多くのアメリカン・ホームドラマはいずれも華やかな郊外での生活を描いており、当時の高度経済成長の波に支えられ大衆に「夢」を供給し、また郊外生活者も「夢」を共有していたのである。このことが一時的に地域の共同性を代価し、家庭への重圧を緩和し、家族もまた郊外を「夢」のように生きられたのではないだろうか。

吉見俊哉の議論に関連していうなら1970年代における渋谷から新宿への移行は、第一局面である「農村から都市に出郷者たちが大量に流入してくる局面であり、そこにおいて、・・・・かつての村人としてのアイデンティティを徐々に失いながらも、都市のなかに二次的共同性」を形成していく。それに対し、「都市化の第二局面とは、都市における諸々の出来事が先送りされる<未来>の側からの意味の備給によって再編制されていく局面であり、・・・・人々のアイデンティティは都会人のそれとして整序されていく」過程である。この観点は、「わが国の近代化の過程のなかで都市、とりわけ東京に集積した人々のまなざしが、<家郷>と<未来>という二つの局において把握できることを示している。」しかし、この変化をそのまま「人口の流動としての都市化→郊外化」として捉えてはならない。[吉見,1987:332〜333](強調 筆者)

吉見俊哉は「人口の流動としての都市化→郊外化」として二つの局面を捉えることに注意を促しているが、郊外で生活したものこそまさにその<未来>という夢を供給する都市においてそのまなざしを再編成された人々なのである。

しかし、「当初の農村と都市(帰るべきところとしての故郷)という図式は、都市化の運動の過程において家郷を徹底的に解体して行かざるを得ないという矛盾を抱えていた。なぜなら、社会全体が都市化に向けての運動のなかに組み込まれてゆくからである。この都市化の運動の貫徹は、この運動自体の存立の基盤を失い解体していく」のである。[吉見,1987:338〜341]

よって、都市の<未来>の提示が困難になるにつれて、過渡期的な状況では、「RV車でいくオートキャンプ」など様々な家族をつなぎ止める装置が開発された。都市の示す<未来>と同時に、郊外の示す<未来>を生きられなくなった家族が演戯しはじめるのである。

このような変化は、テレビドラマのなかにも典型的に描かれてきたと三浦展は指摘してる。

3.テレビドラマのなかの家庭崩壊
1980年代には、家族問題がいろいろなかたちであらわれてきた。

それを象徴するのが山田太一脚本の「岸辺のアルバム」というドラマであった。その内容は、「主人公である家族は、小田急線の和泉多摩川の建売住宅に住んでいる。福島県出身の昭和ヒトケタの商社マンの夫と専業主婦の妻、大学生の娘と、予備校に通う四人家族である。しかし、彼らは、同じ家に暮らしながら、みな自分の仕事に追われ、まったく一家団欒はなく、それぞれが他の家族に話すことのできない秘密を抱えている。夫はアジアから女性を買い、妻は毎日の生活の空しさのために万引きや不倫をし、娘は外国人に強姦される。」[三浦展,1995:90]この家族ドラマのスタイルは「金曜日の妻たちへ」へと受け継がれていく。

郊外と家族をあつかったこのドラマは一連の問題噴出への危機意識であった。

このことについて宮台真司は『「郊外化」と「近代の成熟」』のなかで、「78年に高視聴率を獲得したこのドラマは、“ウソ家族”ぶりに子どもが苛立っていたが、いまから振り返るとこの苛立ちはこの時期の過渡期性を示していた。」と述べている。

これ以降家族ドラマは絶版になるが、それは家族の一層の危機意識の低下をもたらすのであった。

それを宮台真司は「第二の郊外化」と呼んでいる。

「第二の郊外化」とは「コンビニ化」のことである。

「第二の郊外化を象徴するのが、85年のセブンイレブン「ケイコさんのいなり寿司」というCM。夜中にケイコさんが「いなり寿司、いなり寿司」とメモりはじめ、家を出てコンビニにかけ込み、いなり寿司をかって「開いてて良かった」というもの。夜中にいなり寿司を食べたくなるのも変だが、・・・・以前なら隣り近所や家族の目があってできなかった。ところがそうした振る舞いが80年半ばには自然になっていった。それこそが第二段階の郊外化=コンビニ化の帰結だ。」[宮台,1996:212](強調 筆者)

このコンビニ化の時期に連動するように様々な方面で変化が生じる。

「83年の東京23区でワンルームマンションの建築ブーム」、「85年NTTの民営化による電話の買い切り制に移行」[宮台,1996:213]などである。

このような変化は、家族という閉じた単位から個人を自由にした。それは、個室化といういっそう閉じた方向性であったり、電話でヴァーチャルな空間で他人とつながるという広がりをもった方向性であったりしたのだ。テクノロジーの変化や利用法の多様化、経済成長による総中流化などがもたらした帰結であるが、忘れてはならないのが、社会が望んだ変化であるということである。

宮台真司は、第二の郊外化の要因を「・家族共同体の崩壊と、・第四空間化 」であると述べている。[宮台,1996:215]

このような背景には、学校の一元化があり、家庭もコミュニケーションの空洞化を埋め合わせるため、学校の評価原則を受け入れた。[宮台,1996:219]

若者は「第四空間」へと解き放たれていくが、われわれは吉見俊哉の以下のような指摘に学ばねばならない。

「<新宿なるもの>から<渋谷なるもの>へという盛り場の変化を、郊外化や情報化というより広域的な変化と結びつけて捉える必要があるのは、たんに後者が前者の原因だからではなく、むしろ前者は、後者においておきた世界の構成のされ方そのものの変化を典型的に表現しているからなのだ。」[吉見,1987:307〜308] (強調 筆者)

すなわち、一連の変化は、都市において典型的のそのかたちを表してくるのである。

第三章.都市空間の現在
0.はじめに
社会について考えようとするとき、「都市」という空間は、今日、我々が社会をその考察対象とするとき、都市はその「場」としての機能以上に様々な現象を生み出す「場」として見出される。このことは、都市への人口集中によるものとして片づけられる問題ではなく、都市で起こる様々な現象がその周辺に限らず、国という単位で広がっている現代の状況を考えると、都市という「場」が、現代社会を考える上での一つの指標となりうるということを表している。人口の都市への集中に伴って、近代的な社会のあり方がわれわれの前に目に見える形を取ってあらわれており、その現象は、社会の他の領域への広がってゆくこと、まさにこのことが、現在の社会を考える上で、必須のものなのである。

このことに関して、若林幹夫は以下のように述べている。

「都市が圧倒的な現実性をもって存在する一方で、それを「都市」として対象化しようとすると「近代」や「全体社会」そのものをめぐる言説へとずれ込んでしまうという、「近代」における「都市」と「都市のある社会=全体社会」との関係のあり方を、一つの歴史的・社会的な「出来事」として考察することである。そのとき、近代における都市の「不在」と都市的なるものの「遍在」を「都市」と「都市のある社会」の関係の歴史的・社会的な変容の軌跡として思考し、近代における都市の「発見」の意味を真に理解することが可能になるのだ。」[若林,1996:7]

1.都市空間の歴史的変遷
マックス・ウェーバーは、『都市の類型学』で、「古代にせよ中世にせよ、昔の意味での都市」は、「特殊の要塞であり衛じゅ地」であった。「いずれにせよ、通常は、東洋の都市にも古典古代=地中海的都市にも、また普通の中世的都市概念にも城塞か城壁が含まれていたのである。」しかし、「都市のこの標識は、現在では、全くなくなっている。」[ウェーバー,1969:26〜27]
 
すなわち、近代の都市形態がきわめて今日的な形態であるということを表している。
また、マックス・ウェーバーによると、城壁の存在は、王や貴族の特権的身分を表していたこと、また、そこに住む市民も都市の軍事団体への参加という限りにおいて「市民身分の成員」であり、村落を始め、城壁の外と内では区別されていたということを示している。[ウェーバー,1969:35〜39]

古代や中世のような社会においては、今日のように国民国家としてそれ自体が連続的な流れの中に存在するのではない。城壁によって分け隔てられた集合として存在していたのである。

「マックス・ウェーバーの「都市の概念と種類」における考察は、「都市」とは、村落共同体や封建領主の所領のような場所に対して「外部」の位相をとるような定住社会、村落共同体や封建領主のような場の外部における社会関係の原理を内部化・内面化し、それら「外部」的な諸原理を自らの社会の存立の本質的な中核として組織し、秩序づけるような定住社会である」といえる。[若林,1996:13]

上述の「都市」の属性に関して、若林幹夫が「外部」という言葉で表しているように、「都市」はその属性を独自に有しているわけではなく、あくまで共同体に対する「外部」として規定されている空間なのである。都市は、それ自体、共同体ではあるが、古来からのものとは本質的に異なり他者同士の関係により保たれる市民によって行政などがおこなわれる一つの「社会」なのである。

このような「外部」としての「都市」は、「近代的な資本制や国民社会の成立以前の社会では、そのような「外部」としての社会は、ただ「都市」という形をとってのみ、恒常的な関係の場をして存在することが可能であった。そのとき、「外部の社会」の表徴は、社会の他の領域から区別された「都市」という「外部の定住」の内部の社会的な属性として現象する」のである。[若林,1996:13]

さらに若林幹夫は「二次的定住 secondary settlmennt」という概念を導入することによって「都市」を共同体との差異においてとらえようとしている。[若林,1992:67]

「「二次的」とは、都市が、村落共同体や封建領主の所領のような場(=一時的領域)の存在を前提として、それらの間を二次的に媒介し、そうした二次的な社会的諸関係・諸交通の集約される場として存在すること、それゆえ都市という社会が、社会の一時的領域にとっては外部的な諸関係、諸原理によって自らを一個の内部領域として組織する場であることを意味している。ある社会で「都市」が存在することを支えているのは、都市の社会が内的にもつ社会的な属性それ自体ではなく、都市が社会の他の領域媒介的で二次的位相をもつという、社会の存立における位相的な落差、差異である。だが、この時、都市はその外部の位相を自らの内部領域としてもつ社会であるために、社会の他の領域に対する外部性が、都市という社会の内的な属性として現れるのである。」[若林,1996:14]

若林幹夫の「二次的定住性」の概念を取り入れるなら、「都市」と「社会」は同様の現象をもつことになる。つまり、都市は、社会の他の領域との差異において都市であり得るのだが、都市は若林幹夫の言うように他の領域を媒介する二次的位相をもつために社会の部分であるはずの都市が、その外部を内部として取り込むことにより、社会全体と同様な構造をもつことになるのである。
このような構造をもつ近代的な都市は、常にあたらしい社会形態を表す場所として現象することになる。

2.相対的に「ハレ」の場としての機能を失った都市空間
上述のように、近代的な都市は、他の領域に対して区別されるものでありながら、その媒介的な構造から、他の領域に対して社会全体として現象するという構造をもっている。しかし、近代化の過渡期において、都市は、他の領域とは区別される「ハレの場」として演出されてきた。このことは、第一章や第二章で見てきたように、他の様々な現象と相互媒介的に現在を形づくっている。「二次的定住」という概念で説明されたように、近代都市には、別の側面が存在するのである。現在の相対的にハレの場としての機能を失いつつある都市空間は、近代都市のもつ側面の変化としてもとらえることができるだろう。

2-1.結論-現在の「都市的現実」〜街とストリートの分離
現在に至るまで渋谷をはじめとする都市群は依然「盛り場」として認知されている。吉見俊哉の指摘した「近代における都市は祝祭を再編した場」という表現に象徴されるように、近代はその動機づけの装置として都市を「ハレ」の場として位置づけるために様々な戦略を行ってきた。しかし、そこに生きる人々のとって1970年代以降急速にその意味空間を変容させつつあるように思える。その変化は、「盛り場」をハレの場として捉えてきた従来の視点からでは捉えきれないような変化である。このような変化は、社会全体へ<都市的現実>がひろがった結果として、以前はハレの場であった盛り場が依然と比べその非日常性を失ってきている。すなわち近代への動機づけの装置であった都市がその役目を終えつつある。このことは、機能そのものが失われたわけではなく、依然相対的にはハレの場であるが、以前のような差異を生み出さなくなっているということである。社会全体が都市的現実のなかへと再編されたということを意味する変化なのだ。

それにともない街も以前とはその様相をことにしてきている。以前は若者にとって「ハレ」の場であり、またパルコの戦略を半ば主体的に選択してきた若者たちが、生活空間の変容にともなう身体空間の変容により、街のイデオロギーを読み変え、ゆがめることによってストリートという若者の空間をつくり出していくのである。

第五章.原因編
0. はじめに
なぜ、都市や街が以前のような非日常性(街にでてハメをはずす)を相対的にではあるが失いつつあるのか。

この疑問に答える一つの解答として、「近代化の終焉」というキー・ワードをあげることができるのではないかと思う。

1. 近代化

1-1. 明治・大正期
明治・大正期における「開花」とよばれた西洋的なものの積極的な導入を、「近代化」と呼ぶことができる。文明開化とは、明治初年に日本が西洋文明を積極的に受容することによって、国内に引き起こされた様々な事象を指す。

ここで問題点として取り上げるのは、地理的な問題(イナカとトカイ)と時間の問題(過去と未来)についてである。つまり、地理的なイナカとトカイという関係を、時間軸の過去と未来へと対応させることで、近代化の大きな推進力となったのである。この未来の行き着く先には、西洋的なものが超越的なものとしておかれていることは、指摘しておく必要がある。

西洋的なるものを時間軸に組み込むという近代の構造は、それまでの構造とどのように異なるのであろうか。真木悠介は、『時間の比較社会学』のなかでつぎののように述べている。

「近代の変化はアフリカに、<未来>という時間の次元を輸入した。これはおそらく、二十世紀のアフリカ人の、もっともダイナミックで危険に満ちた発見である。彼らの希望はかき立てられて未来に向かって差し向けられた。・・・未来関心の基盤としての、共同体の解体=過去の解体。・・・個人主義への志向と共同性からの乖離とを生み出しているおもな要因は、学校と教会と経済競争、それに<未来>という時間の次元とその一切の現実的及び幻想的な約束とである。」[真木,1981:85〜87]

このような変化は、決して日本と無関係ではなかっただろう。過去のものとして認識される共同体の解体と、未来、すなわち西洋的なるものへの志向によって訪れる個人主義という運動の図式が、近代化のもとに定式化されていったのである。

1-2. 大正・昭和期(1910〜1930)
大正・昭和期に関しては、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』に、詳しい言及があるのでそこを参考にしつつ、述べることにする。

一般に、大正から昭和にかけてを「モダニズム」の時代と呼ぶ。大正・昭和期を吉見俊哉は、「大正・昭和期の「モダニズム」は、「近代的」な生活様式が社会生活の様々なレベルで浸透し、とりわけ大都市部では、現代に直接つながる大衆消費文化が広汎な社会層を包み込んでいく時代」と述べている。[吉見,1987:242]

ここで、全体を見通しやすくするために、吉見俊哉の議論を簡単ではあるが、まとめておきたい。

                y
「モダン」      「ポストモダン」
                 
          <銀座>         <渋谷>  ←先送りされる<未来>
                              (非場所的・個別化的)
       x
        20年代           70年代
      <浅草>         <新宿>  ←幻想としての<家郷>
                            (場所的・共同化的)
            「盛り場=出来事」の展開 [吉見,1987:332]

上に示された図から読みとって欲しいのは、1920年代の<浅草>から<銀座>への移行(X軸)と1970年代の<新宿>から<渋谷>への移行が同じ構造をもつものであるという指摘である。

わたしの述べてきた、地理的な問題(イナカとトカイ)と時間の問題(過去と未来)に引きつけて言うなら、地理的な問題を時間的な問題へと置き換えることが、近代化の一つの推進力になったため、日本古来の共同体を中心とした生活基盤は失われ、都市に流入してきた人々は、都市のなかに二次的な共同体(<浅草>や<新宿>)を形成する。しかし、次第に西洋的なものの浸透(個人主義)により、なんら共同体に依拠しない個人の集まる街へと変わっていく(<浅草>→<銀座>、<新宿>→<渋谷>)というように、吉見俊哉の指摘を捉えられる。

この<浅草>から<銀座>への移行を、見田宗介は『近代日本の心情の歴史-流行歌の社会心理史』で、流行歌を題材として別の角度から分析をしている。

「第八章 孤独の歴史」で、「孤独」が流行歌のなかで、「トカイの孤独」から「農村に取り残されたものの孤独」へと変化を遂げることが指摘されている。[見田,1978:155〜173]

大正期以後の大規模な農村から都市への人口の流入により、まず農村を離れた人々の街角にたたずむ感情を歌った。

このような歌から、北原白秋作詞による「からたちの花」においては、「空間的な距離の意識の郷愁ではなく、時間的な距離の意識の - すぎ去った過去の人々への - 郷愁を主題にとることによって、より普遍的な郷愁と孤独の変容を創造し」ている。[見田,1978:157〜158]

        ・・・・・・・
        からたちの そばで泣いたよ
        みんなみんな やさしかったよ

        からたちの 花が咲いたよ
        白い白い 花が咲いたよ 
            (「からたちの花」北原白秋詩・山田耕筰曲、大13)

その後、昭和期になると「浪波小唄」「男の劇場」「人生劇場」といった分かり合えない人と人の関係が歌われ始める。

これを、見田宗介は、「人と人との心が通じ合わないことへの、かくも激しい断念のパトス1 は、自我と自我との本質的な断絶性をはじめから前提とする市民社会的な関係からは生まれない」と述べている。[見田,1978:160]

つまり、日本はきわめて日本的な共同性の論理により個々の関係が成り立っているということである。

戦前の大都市における「モダン」、「大衆文化」が隆盛をきわめる昭和初期には、「女給の唄」が流行した。

        ネオンライトで 浮かれて踊り
        さめてさみしい なみだ花

        わたしゃ悲しい 酒場の花よ
        夜は乙女よ 昼間は母よ
        ・・・・・ (「女給の唄」西条八十詩・尻尾精八曲、昭八)

集団のなかで、周りと親しげに話しながらも、本当の自分は別にいて、本当の気持ちは誰にも語りることはできないという孤独、まさに現代社会の孤独がそこにあったのである。

しかし、このような歌の流行は、奇妙な逆説をわれわれに教えてくれる。

見田宗介は、この逆説を以下のように述べている。
「このような「孤独」が互いに呼び合うときに、人と人とがそれぞれの孤独において結びつく。孤独そのものが連帯の唯一の契機であるという逆説がそこに生まれる。」[見田,1978:162]

その後戦後になると、かえってトカイの孤独、農村から離れることによって生まれる孤独よりも、農村に取り残されることによって生じる孤独が歌われ始める。これは、テレビの農村部への普及と出稼ぎと称していた人たちと、地元に残る者たちとの稼ぎの上での地位の転倒などが見られる時期でもあった。

このような見田宗介の指摘は、吉見俊哉の1920年代の<浅草>から<銀座>への移行と非常に相関するものであり、吉見俊哉の指摘を民衆の心情の面から鋭くえぐり出している。

1-3.昭和後期(1960〜)
「<浅草>から<銀座>への移行が、<新宿>から<渋谷>への移行と同型をなしている」という吉見俊哉の上述の指摘は、第二次世界大戦前後の都市の変化として捉えられる。

<新宿>から<渋谷>への移行については、先の箇所でふれたので、ここでは、ふれないが、とくにわれわれの世代にとってなじみの薄い新宿について、当時の雰囲気を寺山修司『誰か故郷を想はざる』のなかにもとめてみたい。

「その頃から、わたしは「東京」という言葉を聞くと胸が躍るようになった。・・・だがわたしにとって「東京」とは一体何だったのであろうか?・・・「今まで故郷だと想ってきたのは、本当は嘘で、わたしの故郷は他にあるのではないだろうか?もしかしたら、わたしは本当は東京で生まれたのではなかろうか?」あるいは、青森は私の故郷であったには違いないにしても、それは父の死とともに失われ、今となっては魂の故郷を探し出さない限り、私は「青森の家なき子」のままで大人になってしまうのではないであろうか?」[寺山,1968:35〜36]

この記述は、当時の東京へのあこがれと新宿のもつ「二次的な共同性」を表している。

先にも述べたが、新宿は東京オリンピックを契機にそのような機能を失い副都心として生まれ変わっていくのである。

また、高度経済成長により、たとえば、炊飯器・掃除機・洗濯機の三種の神器や車・クーラー・カラーテレビの3Cなどに象徴されるように、日本の文化生活のレベルは、著しく向上していく。

このような変化をうけ、若者の街となる<渋谷>においては、近代化の大きな推進力となったこの未来の行き着く先、つまり西洋的なものが超越的なものとしておかれているという感覚は、希薄化してくる。

2.「近代化の終焉」
これまで追ってきた変化を別の様々な要因に還元させ、考えることは可能であろうが、「近代化の終焉」に引きつけて考えてみたい。

地理的なイナカとトカイという関係を、時間軸の過去と未来へと対応させることで、近代化の大きな推進力となるという考え方には、当然この近代化の終わり、すなわち、地理的な関係の克服、時間軸の克服によって、この推進力の失われる可能性を内に秘めている。

この運動の「自己否定的な契機」を見田宗介は、以下のように述べている。

この過程は、たとえそこがもはやかえることのできない場所であるにせよ、起点としての<家郷>は、社会の都市化により、自らの依拠すべき家郷を徹底的に崩していかなければならない「自己否定的な契機」を内に含んでいるのである。[見田,1971:5〜16]

このような「自己否定的な契機」を内に含んだ運動は、上述の高度経済成長以降、この運動の極北に位置していた「西洋」を民衆の目の前に見せることにより、その運動を解体させていったように想う。

それと動きを同じくするように、ハレの場として、「西洋」と直接的ではなくともつながっていた「街」は、かつてのようなハレの場としての機能を失いつつあるのではないだろうか。

かつて、かのM・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、以下のように述べている。

「禁欲が世俗を改造し、世俗内部で成果を上げようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れ得ない力を人間の上にふるうようになってしまったのだ。・・・ともかく勝利を遂げた資本主義は、機械の基盤の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。禁欲をはからずも後継した啓蒙主義の薔薇色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果てたらしく、「天職義務」の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活のなかを徘徊している。」[M・ウェーバー,1920:363〜366]

すなわち、「資本主義の精神」は、「近代資本主義」を生み出すのに確かに必要不可欠ではあるが、「近代資本主義」そのものが動き始めれば、やがて「資本主義の精神」は不必要になるのである。

この指摘から学べば、同様に「近代」にとって確かに、運動の推進力(近代化)となる「ハレの場としての街や都市」は必要であるが、近代化が成し遂げられれば用済みなのである。

われわれは、もはやそのような差異を必ずしも必要としない時代を生きていこうとしているのではないだろうか。

今後の課題
今回の論文は、当初都市の社会史からの視点と都市におけるエスノグラフィーによる視点の結点に現在の都市の文化の在り方を見ていこうというものであった。しかし、結果として、都市の社会史の言及にとどまり、都市におけるエスノグラフィーによる視点は、文章中に軽く示唆する程度にとどまっている。今後は、当初の論文の目標をクリアできるよう頑張りたい。

謝辞
本論文を書くにあたって、現代メディア文化論のゼミのみなさんには、活発な議論をしていただき大変参考になりました。とくに、担当教官である桜井芳生先生や4年生のゼミ生のみんなには感謝します。











【論文構造設計表】
主題:街(=非日常空間)に生まれたストリート(=日常空間)という空間

主要命題:街は近代化の一つの流れである都市化の過程により積極的に演出されていった近     代的空間である。とくに1970年以降のパルコの戦略に積極的に参加していく     若者たちのスタイルを消費する空間としての街、すなわち空間化された「ハレの     場」としての性格を強めていく。しかし、近代化の過程のなかで祝祭空間の国単     位での浸透は、相対的に「ハレの場」としての機能を低下させつつある。その中     で、若者たちは街のもつイデオロギーを読み換え、ゆがめることによってストリ     ートという日常的な文化を都市空間のなかに誕生させてきているのである。この     変化は、吉見俊哉の前提とした日常/非日常の間に引かれたラインに再考を迫る     ものである。

問い:街とは何か。

答え:都市化によって演出された「ハレの場」である。たとえば、1970年以降のパルコ   の一連の戦略などがあげられる。

問い:ストリートとは何か。

答え:街のイデオロギーを読み変え、ゆがめることによって若者がつくり出した日常的な空   間。たとえば、最近の「まったり」「なごみ」といった言葉に象徴されている。

問い:なぜそのような空間が生まれたのか。

答え:・都市的現実の国単位での浸透により、近代化への動機づけの装置であった「都市」    がその役目を終えつつあるから(シンボリズムの衰退)
   ・都市的身体へと再編された人々の文化創出
   
問い:日常空間はどのような変容を被ったのか。

答え:近代化の一つの流れである産業化による郊外化は、都市と対置されていた共同性、地   域性を解体し、家族を都市的現実へと再編した。このことにより、家族が都市的な現   実のなかで共同性を引き受けることになる。しかし、内実は、学校、会社といった個   別の「場」において生活を始め、さらに、家族という閉じた空間は電話などの様々な   メディアにより外へと解放され、それに平行して個室化も進み、セキュリティー・シ   ステムとしての家庭、すなわち日常空間としての家庭が形骸化し始めたのであった。

問い:都市に集う身体のレベルではどのような変化が見られるか。

答え:以前は「自己を演じる場」であったが、現在は都市に日常的作法を持ち込んでいる。




















【参考文献】
三浦展,1995,『「家族と郊外」の社会学』,(PHP研究所).
Max ,Weber,1920,DIE PROTESTANTISHE ETHIK UND DER 》GEIST《 DES      KAPITALISMUS =ウェーバー・マックス 大塚久雄 訳 1989 
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫).
Max ,Weber,1956,ウェーバー・マックス 世良晃史 訳 1969『都市の類型学』(創文社).
真木悠介,1981,『時間の比較社会学』(岩波書店).
見田宗介,1996,『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来』,(岩波新書).
見田宗介,1978,『近代日本の心情の歴史-流行歌の社会心理史』(講談社).
宮台真司,1991,『行為と役割』 有斐閣Sシリーズ『社会学の基礎』(有斐閣).
宮台真司,1993,『サブカルチャー神話解体』(PARCO出版).
宮台真司,1994,『制服少女たちの選択』(講談社).
宮台真司,1995,『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房).
宮台真司,1996,『「郊外化」と「近代の成熟」』
      岩波講座『現代社会学』第19巻『セクシュアリティの社会学』(岩波書店).
宮台真司,1997,『世紀末を生きる知恵ー終ワリナキ日常ヲイキル知恵』
                            (メディアファクトリー).
森栗茂一,1995,『夜這いと近代売春』(明石書房).
西川祐子,1990,『住まいの変遷と「家庭」の成立』 
     女性史総合研究改編『日本女性生活史』第四巻(東京大学出版).
西川祐子,1996,『近代国家と家族-日本型近代家族の場合』
         岩波講座『現代社会学』第19巻『<家族>の社会学』(岩波書店).
牟田和恵,1996,『日本型近代家族の成立と陥穽』
         岩波講座『現代社会学』第19巻『<家族>の社会学』(岩波書店).
落合恵美子,1989,『近代家族とフェミニズム』(剄草書房).
落合恵美子,1996,『近代家族をめぐる言説』
          岩波講座『現代社会学』第19巻『<家族>の社会学』(岩波書店).
寺山修司,1968,『誰か故郷を想はざる』
     『ちくま日本文学全集 寺山修司』(筑摩書房).
吉見俊哉,1987,『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂).
吉見俊哉,1994,『メディア時代の文化社会学』(新曜社).
吉見俊哉・若林幹夫・水越伸,1992,『メディアとしての電話』(弘文堂).
若林幹夫,1992,『熱い都市 冷たい都市』(弘文堂).
若林幹夫,1996,『社会学的対象としての都市』
        岩波講座『現代社会学』第18巻『都市と都市化の社会学』(岩波書店).
Williams,Raymond,1981,CULTUR=レイモンド・ウィリアムズ 小池民男 訳 1985
        『文化とは』(晶文社).
Wills,Paul E,1977,LEARNING TO LABOUR=ポール・ウィリス 熊沢誠 山田潤 訳
      1996 『ハマータウンの野郎ども』(筑摩学芸文庫). 


付録 社会調査
『鹿児島市天文館における「ハレ」意識』

0.はじめに
私の住んでいる鹿児島県における住民の街にたいする「ハレ」意識を調査するために、アンケートをもとにクロス集計表を作成し検証、考察してみたい。

(1)仮説とその理由
仮説:天文館へよく出かける人ほど、服装に気を使う。

理由:私が今まで述べてきたように、街とはハレの場である。しかし、今日では、ハレの意識は必ずしもみんなに共有されているわけではないように思われる。よって、この調査を通じて年齢別での「ハレ」意識を調査し、特に若い世代において、どのように感じられているのかを検証したい。

結果:10代、20代においては負の相関で、30代以降は正の相関を示す。

(2)アンケート
アンケートは18歳以上から50代までの男女を対象に135名に行った。今回は、全体のクロス集計表と、年代ごとのクロス集計表を作成した。
その内訳は、10代が19名、20代が82名、30代が15名、40代が11名、50代が8名である。
アンケートの中から「あなたはよく天文館(街)にいきますか」という設問と「あなたは街に行くとき、服装に気を使う方ですか」という設問の二つを掛け合わせ、クロス集計表にしたものと年代別にクロス集計表にしたもの表1・2のような結果となった。

(3)オッズ比
表1・2からオッズ比を出してみる。
・全体    46×31   1426
            =     =2.3149...
       44×14    616
・10代     9×1    9
            =     =0.45...
        5×4    20
・20代    29×14    406
            =     =1.6370...
       31×8    248

・30代     3×8    24
            =     =8
        3×1     3

・40代     4×4    
            = 0
        3×0
・50代     1×4
            = 2
        2×1

このような結果が得られた。全体の結果としては、2.3149...で、1より大なので、正の相関が見いだされた。よって、私の仮説は検証され、鹿児島における「ハレ」意識は強いといえるのではないだろうか。

また、世代別では、サンプルの数から、必ずしも正確とはいえないものの、私の予想していたとおり、10代において負の相関が見いだされた。わたしは、20代においても同様の現象が見いだせるのではないかと考えていたが、これは、東京と鹿児島におけるタイムラグによるものではないかと思われる。

桜井芳生ホームページに戻る