メディア・脳・クスリ・諸思考
−脳に関する二つの仮説による、コミュニケーションの諸相と新たな関係性−
 

桜井芳生(鹿児島大学法文学部人文学科、現代メディア文化論)( 2000年2月1日)
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キーワード:脳、メディア、薬物、宗教、想像の共同体

【要旨】脳をめぐる二つの仮説を援用する。それらに、メディア論的視点を掛け合わせることで、人間社会・文明にたいしてマクロ的な見通しを与えることを試みる。第一の仮説は、「脳に関する暴走・安定仮説」である。これによって、メディアと文明との関係、メディアと薬物との等価性、ネットワークコミュニケーションの違和感の由来、などについて考察する。第二は、社会脳仮説である。これによって、コミュニケーションのマッサージ性、ゴシップの本来性、宗教の位置づけ、都市化と飲酒・喫煙、意識と孤独の関係、想像の共同体の規模、コミュニタリアニズムの魅力と非現実性、などについて論じる。最後に、本稿の議論が悪しき還元主義であるとみなされる危険を予期し、事前応答をおこなう。
 

【メディア・脳・文明】

 私は、以前から、我々が今生きている近・現代文明が、人類史においてどのような位置にあるのか、について、関心をもっていた。が、職業的社会学者として、そのような「文明論的作業」は少し節制しているところがあった。が、現在のメディアスタディーズのポストを担当するようになり、メディアと人間との関係をいろいろと、かんがえているうちに、一種文明論的考察も、有意義であるかもしれない、と思うようになった。

 本プロジェクトにおいて、今年の研究テーマとして、現代恋愛コミュニケーションの現状分析を課題とした。が、予算の執行がおくれたため未だ予定した調査ができていない。恋愛と脳と人間の生理との関連について、事前勉強しているうちに、脳に関する仮説を媒介にして、コミュニケーションメディアと人間の文明との関係について、ある種の見通しをえた。それをこの機会に整理して、今後の展開の踏み台としたい。
 

【大脳新皮質】

 コミュニケーションメディアと人間の文明との関係をかんがえるうえで、一見、迂遠であるが、人間の脳の構造について、確認しておきたい。(以下、脳研究について詳しい方にとっては、常識的な記述かもしれません。ので、適当にとばして読んでください)。

 人類の脳の大きな特徴は、他の動物に比べて、大脳「新皮質」という部分が極端に大きくなっているということだという(NHK1994:12)。人間の脳は、いわば、魚の脳の上に爬虫類の脳がのり、さらにそのうえに、哺乳類の脳が増築されている、というように、階層構造をなしている。

 進化の上で、もっとも新しい大脳「新皮質」は、類人猿からヒトにいたる過程で飛躍的に増大した、という(NHK1994:12)。新しい大脳新皮質の中でももっとも新しい「前頭葉」は、今目の前には存在しない未来や遠く離れたところで起こっている出来事をおもいうかべることができる、そしてまた、他人の心をおもいやったりすることもできる、という。(NHK1994:13)。こうして実際には存在しないものを際限なく思い浮かべる想像力を人類にもたらした。たとえば、原始人は、今まで一度もみたことのない魑魅魍魎をどんどん頭の中でつくりだした、という。(NHK1994:13)

 このように不安になる脳の手綱を締める生物学的安定化装置が一人一人の脳に内臓されていたからこそ、人類は進化の歴史をいきぬいてくることができた、という。(NHK1994:15)
 

【天才?】

 このような見通しは、よくいう天才と狂気は紙一重という、現象にも、光をなげかけるだろう。

 上述書によると、20世紀の代表的な哲学者ウィトゲンシュタイン、さらには、科学者のニュートンやアインシュタインにさえ、狂気の兆候がみられる、という(NHK1994:17)。

 人間の脳は大脳新皮質が極端に肥大化して不安定になった分だけ、非常に強力な安定化装置が必要になった。しかし、この安定化装置が強くなりすぎると、無味乾燥な日々になってしまう。脳の強力な安定化装置のネジを少し緩めることを通して、創造性を呼び覚ますことがあるのではないだろうか。と、上述書はいう(NHK1994:17)。

 以上のような見通しにたいして、今日の大脳生理学は、ある程度の支持材料を提起している。

 大脳基底核の最終の出力は、運動野からの指令を抑える抑制ニューロン(Y)であり、これが、常時発火して余計な運動を抑えている。そのYの手前に、もう一つ抑制ニューロン(X)があるが、これは、通常働いていない。このXに、A?9と呼ばれるドーパミン・ニューロンと、大脳皮質からのニューロンが、シナプスをつくって接続している。この両者が興奮すると、Xが興奮して、Yの活動を抑える。Yの本来の働きは、抑制であるから、その抑制が外れることになり、その結果、ある運動がおこる(NHK1994:20)。パーキンソン病の場合は、このドーパミンがでないので、抑制が外れず、意図した運動が起こらない。分裂病の場合は、ドーパミンの働きが昂進するので、運動や思考の出力が充分に絞り込まれず、やたらと多発することになる。(NHK1994:20)

 大脳基底核が、脳の安定化装置だとすると、その安定化装置のネジを緩めるのは、ドーパミンということになる。このドーパミンが、芸術的な創造性に深く関わるのかも、しれない。と、上述書は、言う(NHK1994:20)。

 上記のAー9神経とは別に、もう一つのドーパミン神経の束であるA?10神経がやはり、脳幹の中脳から大脳辺縁系や前頭葉に向かって伸びている。前頭葉は、人間の創造性にもっとも関わりの深いところである、という(NHK1994:22?23)。ラキーチ教授によると、A?10ドーパミン神経は、前頭葉に実質的な情報を送り込むのではなく、他の神経細胞から前頭葉に神経細胞に流れ込む情報の量を調節している、という(NHK1994:23)。ロース教授によると、前頭葉に伸びるドーパミン神経は、大脳基底核に伸びるそれと重大な違いがある、という。前頭葉に伸びるドーパミン神経の末端には、ドーパミンの合成にブレーキをかけるオート・レセプター(ドーパミンの量を感受する受容器、通常、ドーパミンの「出過ぎ」を抑制するネガティブフィードバックの働きの一環となる)がかけていることがわかったのだ。以上は何を意味するのか。前頭葉に伸びるA?10ドーパミン神経が、ある限度を超えて興奮し始めると、ドーパミンの過剰放出にたいしてのブレーキのかかるのが遅れる。そのため、ある時間の間、ドーパミンがどんどん放出されつづけ、前頭葉の活動が加速度的に高まってゆく。

 創造の瞬間は、このようにして訪れるのではないか、という仮説がある、という(NHK1994:23)。
 

【キノコや植物を使って、安定化装置のネジを緩める】

 以上のようなメカニズムを仮定すると、興味深いのは、メキシコにおいて古代から利用されてきた、幻覚を起こすキノコや植物である。現在でも、キノコを、宗教儀礼や民間医療につかうクランデーロ(呪術医・シャーマンの一種)が活動を続けている(NHK1994:48)。
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この幻覚キノコの有効成分は既に突き止められている。シロシンとシロシビンという物質で、分子の構造が、神経伝達物質の一つであるセロトニンと非常によく似ている。脳の中のセロトニン・レセプターに結合して、セロトニンの働きを強めることによって、幻覚を引き起こすらしい。(NHK1994:49)

 代表的な幻覚剤のLSDも、セロトニンやシロシン・シロシビンと共通の構造をもっている。LSDやシロシン・シロシビンは、主に前頭葉のセロトニン・レセプターに結合するらしい。目や耳から入った感覚情報は、脳の視床を通って感覚野に届くが、前頭葉に送られた後、ふたたび、視床にもどして、フィードバックループが生成されているらしい。いわば、視床にフィルター機能を果たさせている。視床は脳への入力を絞る安定化装置を果たしている。前頭葉のセロトニン・レセプターに、幻聴キノコの成分、シロシビンがつくと、前頭葉から、視床へのフィードバックループが妨げられる。その結果、視床のフィルター機能が破綻して、過剰な情報がはいってくる。脳の内部に記憶されていた情報もどんどん前頭葉にはいってくる(NHK1994:50)。

 このようにして幻覚がおこるらしい。幻覚は、まさに視床という安定化装置のゆるんだ結果起こる現象といえる(NHK1994:51)。
 

【天才と狂気は紙一重】

 以上のように、我々ヒトの脳は、暴走する可能性をはらんだ新皮質(特に前頭葉)と、その暴走を抑制する、ネガティヴフィードバック(それをになう、神経回路・脳内物質・古い脳)とのあやういバランスのもとで、日常を生活しているようなものであるといえそうである。

 ここで、注目されるのは、一見すると狂気に近いような境地にいたった天才たちである。上述書では、ヘルダーリンや芥川龍之介らの芸術家、また、芸術家以外にも、ウィトゲンシュタイン・ニュートン・アインシュタインにさえ、狂気に近づいて兆候がみられる、という。

 人類の脳は大脳新皮質が極端に肥大して不安定になった分だけ、非常に強力な安定化装置が必要になり、また、それがそなわっているからこそ、人類は、精神の自己崩壊を免れている(NHK1994:17)。しかし、この精神の安定化装置が強くなりすぎると、毎日が代わり映えしない無味乾燥な日々の繰り返しになってしまうだろう。脳の強力な安定化装置のネジを少し緩めることをとおして、芸術的な創造性を呼び覚ますことがあるのではないか、と、上述書はいう(NHK1994:17)。

 このように脳の安定化装置と、その弛緩の現象をみてみると、いわゆる「天才」と脳の安定化装置の弛緩現象との間に偶然以上の関連がありそうに見えてくる。

(いうまでもないが、以上の安定化装置の弛緩が、天才出現の「十分条件」である、などと、私桜井は主張しているわけではない。安定化装置の弛緩によって、たんなる狂気におちいった場合もある(多い?)だろう)。
 

【チンパンジー的ステージから、天才の継承へ?】

 ここで、想起される興味深い記述として、生物人類学者西田利貞の議論があげられる。

 西田は、著書『人間性は、どこから来たか』(西田1999)において、いままで、ヒトに特有であると考えられていた属性のほとんどが、ほかの霊長類とくにチンパンジーないしピグミー・チンパンジーに存在するという。では、ヒトと、チンパンジーの現在の生活を異ならせたヒトの大きな特徴はなにか。
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これを西田は「一つには、(ヒトの)天才の考えたことを世代から世代へ蓄積する能力である」(西田1999:301)という。そして、これをささえるものとして、「言語と文字の発明」「巨大な人口」「大きな社会」をあげる。

 狩猟採集段階の人類においても、以上のような脳の安定化装置が弛緩して、天才的なことを考え・述べ・行動する、ようなヒトはきっといただろう。

しかし、言語や文字のような、コミュニケーションメディアが不発達であれば、その天才的アイデアは、継承されることなく、いわば「立ち消え」になったしまっただろう。
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しかし、コミュニケーションメディアがある程度うまく機能し、さらに、その天才的アイデアを受容する人たちの人数が十分おおきくて、その人たちにうちの同様に脳の安定化装置が若干弛緩していてその天才的アイデアを受容するいわば「下準備」ができているようなヒトに、そのアイデアが伝達される可能性が十分たかまると、その天才的アイデアは、社会の中、世代を通じて、継承されていくことが可能になる、といえるだろう。
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こうして、「コミュニケーションメディアの十分な発展」と「人口の多さ」を「条件」(かなり必要な条件。いうでもないが、「十分条件」では、決してない)として、ヒトの社会・世代の中で、天才のアイデアの継承がなされるようになり、こうして、「サル(チンパンジー)から、ヒト、への、画期的変化」がなされるようになる、だろう。
 

【メディアと、薬物、との、機能的等価性】

 こうしてみてみると、人類の文明を俯瞰する視点からすると、「コミュニケーションメディア」とは、脳の安定化装置を弛緩させる薬物と、かなり機能的に等価(同じはたらきをする)なものであるようにみえてくるだろう。

 すなわち、個人の脳レベルでは、新皮質の暴走は、くだんの安定化装置によって、抑圧されている。ときに、この安定化装置が若干弛緩して、狂気じみた思いつきを得るひとがいたとしても、そのアイデアは、まわりの「安定化」した脳を持つ人たちの中では「立ち消え」になってしまっただろう。

 それにたいして、「メディア」と「薬物」は、前者はマクロレベルで、後者はミクロレベルで、類似した機能を果たす、といいうるだろう。すなわち、薬物は、直接、脳の安定化サーキットを弱化させて、非日常的振る舞いを脳にさせる。他方、メディア(と十分大きな人口)は、それなしでは立ち消えとなっていただろうようなアイデアを、社会の中に流通させる、からである。
 

【インターネットは、グローバルブレイン】

 このようにメディアの機能の効き方と脳をかなり直接リンクさせてかんがえるのは、何も私のオリジナルでは、ない。たとえば、立花隆は、彼の著書『インターネットはグローバルブレイン』(立花1997)のなかで、ピーター・ラッセルの考えを引いて、以下のように述べている。
 
「まず人類全体を広大な神経圏ととらえてみる。するとそれは全地球的な脳みたいなもの、つまり、グローバル・ブレインといえるのではないかということです。そのグローバル・ブレインの中で、個人個人は、いわば一つのニューロンのような役割を果たしているのが、彼のグローバル・ブレインの基本的考え方です。」(立花1997:43)

 このように、立花の議論自身、ピーター・ラッセルの援用であることからもわかるとおり、メディアの機能の効き方を脳に直接リンクさせて考えること自体は、とくに非凡な着想とはいえないだろう。
 
 いわば、コミュニケーションメディアの発達(とそれによって、リンクされる十分多数の人口)によって、ヒトは、各自の脳の「新皮質」のさらに外に、いわば「新・新皮質」とでもいるような「もう一つ新たな脳」を持った、と比喩的にいいうるだろう。
 

【安定化装置の不在】

 このように、メディアの機能の効き方を脳に直接リンクさせて考えること自体は、とくに非凡な着想とはいえない。が、あまり明確に自覚されているとはいえない、のは、このような「メディアによる、新・新皮質」発生の「危険性」である。立花自身、このような「グローバルブレイン」としてのインターネット「たんなる洞窟」としてのくずコミュニケーションの巣窟となる危険性を指摘している。
 
 が、私が危惧するのは、「たんなる、くず」となるよりも、「もっと危険な危険性」である。

 すなわち、現実の脳は、新皮質とくに前頭葉の暴走化・妄想化傾向にたいする、安定化のためのネガティブ・フィードバックのメカニズムを内在させている。しかし、「メディアと十分な人口」によって生じた「その外部の、新・新皮質」にかんしては、安定化のためのネガティブフィードバックのメカニズムが存在している保証は、ない、からである。
 
 

【なぜ、ネットワークコミュニケーションには、「違和感」が生じる、のか】

 これをお読みの読者の方は、インターネットを通じて電子メールや掲示板でのコミュニケーションをすでに実践している方もおおいだろう。

 そのような貴方のなかには、どうもネットワークを通じたコミュニケーションは好きになれない、というひとも、意外におおいのではないだろうか。

 私筆者自身、かなり早くから個人のホームページを持ち、電子メールを多用し、一時メーリングリストを主催していたような人間である。が、じつは、ネットワークコミュニケーションが好きになれない人種である。

 ネットワークコミュニケーションが好きになれない理由がいくつかありうるだろう。が、多くの人にとっては、その諸理由のうちの大きなものは、「うまく言い表せない、なんとはなしのネットの雰囲気へのなじめなさ」なのではないだろうか。ネットワークでのコミュニケーション、特にネットでのコミュニケーションが好きな人がおこなうコミュニケーションには、一種独特の「ネット臭さ」のようなものがあり、これが好きになれない、という人も多いのではないだろうか。

 この「ネット臭さ」自体、いくつかの源泉によって生じていると予想される。が、大きな源泉は、以下のようなものなのではないか。
  
 すなわち、このような「ネット臭い」ような人とコミュニケートしていると違和感を生じる。この違和感を、強引に平板的に表現してしまえば、「常識のない人もいるなあ」という違和感である。
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あるいは、強引にこういってしまうとわかりやすくなるかもしれない。
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すなわち、「コイツ(相手)、ヘンなヤツだなあ。ちょっと、ラリってんじゃないの?」とでもいったような違和感である。

 この違和感は、上述の「新・新皮質としてのメディア」モデルの視点からみてみると、比較的納得がいきやすい。

 すなわち、オフライン(すなわちメディアをとおさない、いわゆる「現実」の世界)での、コミュニケーションであったなら、彼(相手)の、新皮質なり前頭葉なりで着想された発想も、世間というフィルターと経由することで、世間の常識からみて少しでも妄想的であれば、減衰され、私にほとんどとどかなっただろう。そして、私のそれへの反応も、再び世間というフィルターを経ることになるだろう。こうして、彼(相手)の前頭葉由来の妄想的?発想は彼自身にポジティヴ・フィードバックすることなかっただろう。

しかし、ネットコミュニケーションでは、かならずしもそうではない。彼の前頭葉由来の発想は世間というフィルターなしで直接私のパソコンのスクリーンを直撃する。また、ネットがなければ出会うこともなかったような彼の「同類」と彼はネット上で出会うことが可能である。この場合、オフラインの世間であれば減衰させられた彼の発想も、「ルイトモ(同類)」によって逆にポジティヴ・フィードバックされ昂進する蓋然性が高い。こうして、「自信」を深めた(過去の基準からすればちょっと妄想的な)発想が、世間というフィルターなしで、私のパソコンのスクリーン経由で、私の脳を直撃するわけである。

 こうして、私は、ネットコミュニケーションによって、オフラインでは、感じなかった違和感を感じることになるだろう。上述のようにそれは、まずは、「ネットの中には、常識のないひとって、いるものだなあ」という直感からはじまって、やがては、「世の中(じつはネット経由の世の中)には、けっこう、ヘンなひと・アブナイひと、っているものだなあ」という印象へと、深化していくことがありそうだろう。
 

【社会脳仮説(脳に関する第二の仮説)】

 大脳新皮質とくに前頭葉には潜在的な暴走傾向があり、これが、上記のようなドーパミンなどの回路によって安定化されている。しかし、その安定は、条件によっては、弱化する場合がある。と、いうような以上の仮説を本稿では、暫定的に援用してみるわけである。このような仮説を「脳、とくに大脳新皮質、さらにとくに前頭葉、に関する、暴走化傾向と、その安定化回路に関する、仮説」と呼んでみよう。約して以下、「脳についての、暴走化傾向と安定回路に関する仮説」とか「脳に関する暴走・安定仮説」とよぶ。

 この「脳に関する暴走・安定仮説」が、本稿が依拠する、脳に関する第一の仮説、である。

 では、なぜ、以上のように、ヒトの大脳新皮質や前頭葉は非常に増大的に進化したのか。これについては、私の知る限り完全な回答案は未だないようにおもわれる。が、相対的にもっとも説得力のある仮説として、「社会脳」仮説をあげることができる、とおもわれる。

 この「社会脳」仮説、が、本稿が依拠する、脳にかんする第二の仮説である。

 社会脳仮説について、説明しよう。本稿が依拠するのは、主に、ダンバーの所説である(Dunbar1997)(Dunbar1996)。彼によると、ヒトのみならず、霊長類は、他のいかなる動物種と比べても比較して大きな脳を持っているという(Dunbar1997:290)。そして、その相対的に大きな部分の大部分は新皮質であるという。そして「霊長類が大きな脳をもつ必要がある理由は、彼らがきわめて複雑な社会システムに暮らしている事実と関係があるようだ」(Dunbar1997:290)と仮説し、さまざまな霊長類の集団サイズとそれぞれの脳の新皮質サイズとの相関関係を調査している。図1からわかるように、類人猿の新皮質の相対的サイズと、そのおのおのの集団サイズとは、かなりよい相関を示している(Dunbar1997)。
 

 さらに、ダンバーは、通常のサルたちは、グルーミング(毛繕い)などによって、社会関係の相互承認をおこなっているのであるが、人間の集団サイズは約150人程度で、いちいち全員とグルーミングするのは困難となる、という。そこで発達してのが「言語」である、とダンバーは考える。「グルーミングが、集団を結びつけているのであれば、社会的活動に使うことのできるかぎられた時間の効率を高めるための方法は二つしかない。一つは、各個体が同時に数個体と、”グルーミング”できるようにすること、もうひとつは一回の相互作用の間により多くの情報を伝達できるようにすることである。言語はまさにこのことを行っているように思われる。」(Dunbar1997:294)と述べる。そして、この仮説のもとづいて、45の会話サンプルを採集し、会話全体の約65%が、社会関係に関する話題に費やされていることを確かめた。
 
 すなわち、ダンバーの社会脳仮説の主張をまとめると、1.霊長類の大脳新皮質の増大は、彼らの社会を運営していく必要に対応したものである。2.サルにおいては、社会における相互承認はグルーミングなどでおこなわれるが、それと同じ機能をヒトでは「言語」が担っている。この二点を抽出することができるだろう。
 
 

【社会脳仮説からの、二つの帰結】

 以上のような、社会脳仮説からは、社会学ないし、メディア論の視点からすると、大変興味深い帰結ないし示唆を多く引き出すことができそうである。ここでは、とりあえず、二つの帰結・示唆を、引き出して意識化しておきたい。
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第一は、「ゴシップの大部分性・コミュニケーションのマッサージ性」である。第二は「メディア段階以後における社会脳の不適応に対する対処諸戦略としての、諸高等宗教ならびに諸思考(イデオロギー)」である。以下それぞれ、説明しよう。
 

【シャノン的「糸電話」図式からの、脱却】

 「コミュニケーション論」というと教科書的には、シャノンのいわゆる「糸電話モデル」で説きおこされることが未だにおおい。すなわち、真ん中に糸電話のような「メディア」があり、その両端に、コミュニケーターがぶら下がっている。左方が、「送信者」となる場合には、まず、送信者の内心において「メッセージ」なるものが生起し、それが、コード(暗号表)によって、コード化される。こうしてコード化された信号が、メディアを経由して、右方(受信者)につたわり、受信者も同じコード表によって、信号を「デコード(復調・復元)」し、当初送信者にあったはずの、メッセージを再現する。この再現の度合いが10割に近ければ近いほど、そのコミュニケーションあるいはメディアは性能が高かった、というわけである。

 今や、このような糸電話図式でコミュニケーションのモデルとすることにたいしては、かなり違和感がおおくのひとにもたれているのではないだろうか。

 この糸電話図式は、いわば、「メディアが、貴重・希少である」ような段階に対応した直感をモデル化したものだ、とはいえないだろうか。
 ↓
すなわち、通信ならびはメディアは、貴重な資源である。よって、コミュニケーションをするのは、そうするだけにふさわしいような、(価値ある)「メッセージ」であるべきである。このような貴重・希少なメディアを利用しそうするに値する価値あるメッセージを送信するのであるから、受信側では、限りなく忠実度たかく当初のメッセージを再現すべきである、とでもいったような直感がここではモデル化されている、といえないだろうか。

 しかし、いうまでもなく、このような視点は、いまやあまりリアリティをもたない。すくなくとも、「必然的」ないし「唯一的」ではない(他であり得ないものではない)。

 (携帯を含む)電話、インターネット、テレビ、雑誌、スポーツ紙をみてみればわかるとおり、そこでコミュニケートされるのは、「通信するに値するメッセージ」とかならずしも呼びがたい内容がかなりの部分をしめているだろう。

 おそらく、上記のようなシャノン的糸電話図式は、メディアが貴重な、いわば貧乏な時代のコミュニケーション観なのだろう。メディアは貴重であるがゆえに、そこで通信されるべきなのは、通信するにあたいする(価値ある)メッセージである「べき・はず」である、とでもいった暗黙前提のモデル化なのだろう。

 が、いうまでもなく、あるメディアが急速に「安価化」すると、この暗黙の前提は、破綻をきたす。これが、近過去においてみられた、「電話をめぐる長電話」問題だろう。相対的に電話というメディアが貴重でない「若者」は、平気で長電話し、ほとんどメッセージのないようなおしゃべりをやめない。これが、電話は貴著なメディアであるという暗黙の前提をもっていた大人との、「文化的摩擦」をひきおこす、というわけである。しかし、いうまでもなく、貴重なメディアを前にしたが故に、自覚化できた、シャノン的糸電話図式は、何ら普遍性がない。このように、「用件(メッセージ)もないのに、電話をするな」「用件がおわったら、電話を切れ」といっている大人自身が、電話という貴重なメディア以外のメディア、典型的には「オーラルメディア」では、伝える価値があるとはいいがたい「おしゃべり」をよくするからである。

 このような、シャノン的糸電話図式への違和感、コミュニケーションというものはメッセージの伝達よりもおしゃべりの方が主機能なのではないかという直感、これらを、「社会脳」仮説は、かなりよく説明してくれるだろう。

 すなわち、社会脳仮説によれば、ヒトのコミュニケーションの機能も、まずは、かなりの部分は、社会(端的いえば「群れ」)における「自他の位置関係」の相互認知である。進化論的には「サルの毛繕い(グルーミング)」に、ひとのコミュニケーションは、近い、といえるだろう。いわば、「コミュニケーションは、マッサージである」。

 そこでは、表面上何らかの「話題」がある場合もおおいだろうが、本当の機能が、その話題にかんする情報(メッセージ)の伝達でない場合もおおいだろう。こうしてみると、ヒトの社会において、いわゆる「飲みニュケーション」「会食(共食)」といったことが大きな意義をしめているのもうなずけるようになる、のではなかろうか。
 

【ゴシップの本来性?】

 このようにみてみると、往々にして常識的には、ゴシップ(うわさばなし)というものは、本来的なコミュニケーションとはいえない低俗なコミュニケーションであるようにみられているが、むしろ「逆」なのではないか、という視点に導かれるだろう。
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すなわち、社会脳仮説的視点からすると、コミュニケーションのかなりの部分は、サルのグルーミングのような、社会内関係の相互承認の機能をはたしている。これが言語においてなされると、それは、たとえば、ゴシップとしてあらわれる場合が多いだろう。

 このゴシップは、とくに「男は、権力情報(つまりは人事情報)」「女は、交尾情報(つまりは、色恋ざた)」に、特化するのが、ありそう、かつ、進化的にいって合理的、だろう。
 

【クオリティペーパーも、ゴシップで(も)ある?】

 以上のような社会脳仮説は、なぜ、既存のコミュニケーションメディアが、「ワイドショー」的なゴシップ情報によって席巻されてしまうのか、を、かなりよく説明するだろう。
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が、さらに踏み込んで、通常ゴシップであるとは思われていないような情報さえも、じつは機能としてはゴシップと等機能なのではないか、と、考えてみることができるだろう。

 いわゆる「ワイドショー」や「タブロイド紙」とは異なったいわゆるクオリティー・ペーパーを考えてみよう。あるいは、まじめな「ニュース」や、民放で日曜の朝によくやられているニュースショーを考えてみよう。

 これらが、ジャーナリズムの本来の使命である、健全な世論形成による権力のチェックという機能を全く果たしていない、などと私は主張する気はない。が、ジャーナリズムの本来的機能のみで、これらのコンテンツがこれほど需要されているのは、納得しがたいのではないか。

 もちろん「マクロ」的には、日曜朝に民放のニュースショーをみた人たちの意見が大勢的にある方向に変化することで、政局などに影響を与えるということはありうる。

しかし、そのテレビを見ている個人に準拠して考えてみると、私一人(その人)がテレビをみるというコストを支払った代償に政治に対する意見を変化させさらにそれが社会全体に影響をあたえその影響が本人に帰還することで、その本人に正の利得を生じさせるということは、ほとんどありそうもないことだろう。

 したがって、そのニュースショーをみているひとは、政治的影響を行使できようができまいが、そのテレビをみること自体を選好している(楽しんでいる)とかんがえざるをえないだろう。
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では、自分が世間に影響を行使することがほとんどできないのに、そのようなニュースショーをみるのが、なぜ選好されるのか。この問いに関する最簡便な回答は、上述の社会脳仮説的な意味でのゴシップ欲求とでも言うべきものを、彼はここにおいて、充足させているから、というものだろう。

 前述のように、ゴシップといっても、(女は、色恋に、)男は権力(人事)情報に特化するということはありそうなことである。ここでふれているような、日曜朝の民放のニュースショーは、停年前後の男性がみていることが多いようだ。「会社内の人事情報・人事ゲーム」から疎外されつつあるような男性が、日曜朝にニュースショーをみることで、権力(人事)に関するゴシップ欲求を充足している、ということはありそうなこと、だろう。
 

【「宗教とは阿片である」か?。であるなら「イスラム教は酒である」?。ウイスキーを飲むボスザル】

 次のことは、たしかもう二十年もまえのテレビのことなので、録画していなかった(ただし、対応する文献情報は見つけた。『ボス交代』(吉原1999)参照)。多摩動物公園でのサル山についてのテレビ番組をみたことがある。そこでは、ボスザルの交代劇を取材していたのだが、とても印象に残っていることがある。それは、サル山での人間関係(猿間関係?)でのストレスが大きく疲弊した(神経衰弱?)ボスザルを、飼育員の方が夜個室のおりにいって個別に「なぐさめる」場面である。ちょうどそれは、夜赤提灯でおじさんたちがくだをまくのにすこしにていた。サルのグルーミング(毛繕い)のように、すこしスキンシップをおこない、おしゃべりをする。もちろん、通常の「通じる」という意味での言葉は通じないので、糸電話図式で想定するような、「メッセージ」の交換は、考えにくい。
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さらに、興味深かったのは、ボスザルが「酒を飲んで」いたことである。精確にいうと、飼育員の方が、「まあ、遠慮するな」といった感じで、飲ませていた(強制させていたわけではない)。たしか、「サントリー・レッド」(ウイスキー)だったとおもう。

 お猿の世界でも、人間関係(猿間関係)は大変で、酒を飲みたくなるのだなあ、と、貴方も感じませんか?。

 私事で恐縮だが、私(筆者)は、あまり酒を飲まない。大学教員というのは、気楽な商売で、いつも好きなことばかりやって給料がもらえる。酒で晴らしたいようなストレスがたまらない。
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そんな私でも、時に酒を飲みたくなるときがある。その最たるものは、人間関係がめんどうになったときである。以上のようなお気楽な大学教員でも、ときに、仕事であれなんであれ人間関係が少しこじれることがある。そのようなときに、酒が飲みたくなる。

 通常は、いわゆる、飲みニュケーションとかいったものは、まったく理解できない。のだが、このように人間関係に疲弊して酒が飲みたくなるときは、ああ世のおじさんたちが(私ももうおじさんだが)赤提灯にいきたくのなるのは、こういうわけだったのか、と、実感できる。

(貴方(読者)も、ここで、貴方が酒を飲みたくなるとき、そうでないとき、を、反省的に想起してみて、ください)。

 社会脳仮説の視点から、上記の二現象(酒を飲むボスザル・酒を飲まなかったり飲んだりする私)をながめてみよう。
 
 社会脳仮説によれば、人間の脳、とくに新皮質が爆発的に増大したのは、社会関係を処理するという機能に適応したためである。そのかぎりで、ヒトの脳は、ヒトの人間関係の複雑さに適応していることがありそうである。が、人類史においては、ある局面から、ヒトの多くは生物人類学的な意味での自己の脳が処理できる社会関係の複雑さをこえる複雑な社会を生きるようになっているようだ。端的にいえば、狩猟採集段階でのヒトたちのほとんどは、自らの社会脳の性能にみあった「社会」(集団サイズ)をいきていたようである。が、定住革命、いわゆる農耕、さらにとくに都市生活、以後のヒトたちは、自らの社会脳の性能を越えた「社会」を生き始めている、のではないか。
 
 この「自らの社会脳の性能にあった社会の複雑性」をこえた社会の複雑性をヒトがいきるとき、そこにはストレスとでもいうようなものがたまることがありそうだろう。
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この「過剰社会性ストレス」(とでも呼ぶべきもの)を、慰撫する薬物、それの最たるものの一つが、「アルコール」なのだろう。ある社会(たとえば日本)では、多くの薬物が法的に禁止されているのに、あるいくつかの薬物のみが許容されていることがおおい(日本なら、アルコール、ニコチン、カフェイン、、、など)。これは、その社会での「ストレス」の「種類」にかなり対応している現象であるのかもしれない。(以下示す日本の酒類製成量推移のデータ(清水1998による)は、もちろん経済的水準などさまざまな要因とからまっているだろうが、日本人の生活の「都市」化と強く相関していると感じられる)。

 上記のサントリー・レッドを飲むボスザルは、「ヒト」ではないのではないか、という疑義もあるだろう。が、上記のボスザルはかなり「人工的な環境」のもとでのはなしである。狩猟採集民において人間関係がこじれた場合最もよくとられる方策は「別れる」ことだという(西田1999参照)。多摩動物公園でのサルたちは、この「別れる」という方策がとりにくい状況におかれている。そこでは、彼らの社会脳の性能をこえる過剰社会性(社会関係がもたらす過剰の複雑性・ストレス)が生起している可能性がたかい、だろう。
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こうかんがえると、上記のボスザルの事例は、むしろ、社会脳・社会的複雑性・アルコール(酒)をめぐる洞察の説得力(説明力の普遍性の度合い)を増大させるのではないか。なぜなら、それは、ヒトにのみ成り立つ話ではなくて、サルにおいても時と条件によっては同様になりたってしまう話、となるからである。
 

 以上のような視点からみて注目すべきなのが、近過去・現在における日本女性の「飲酒」であろう。ご存じのように、日本女性の飲酒量は、非常に増大している(清水1998による)。
 
 

 これは、彼女らの「社会進出」の度合いに比例している。つまりは、彼女らも、上記の過剰社会性を生き始めていることに比例している、と考えるのは、(女性の飲酒量がなぜ増えているのかという問いにたいして)最有力の仮説ではないか。

 ただし、このように視点には、異議が生じるかもしれない。むかし日本女性があまり酒を飲まなかったのは、そのような社会規範があったからだ。最近飲むようになったのは、そのような規範が緩んだからだ、と。私はこの説明を否定も肯定もしない。しかし、たとえ社会規範があったとしても、キッチンドリンカー現象のように、飲みたいひとのかなりの部分は飲むだろう。キッチンドリンカーが増大しているということを事実認識として承認するなら、上記の「規範のゆるみ」説だけでは不十分で、なぜのみたくなったのかについての説明(たとえば私の説明)が必要となる、だろう。

 女性の飲酒についてふれると、やはり、次に気になるのは、「女性の喫煙」でしょう。ねぇ?。

いうまでなく、マクロ的な世間の世論の風、からすれば、喫煙には強い「逆風」が吹いている。が、この逆風に逆らって、若年女性の喫煙は増大している。また、実数的な喫煙量・喫煙者の増大のほかに、タバコを吸う女がかっこいい、といいとでもいうべき模倣の手本化現象が起きているようにおもわれる(おそらく、現在においても、タバコを吸う女が好きだという男は多くない、と思われる、のにもかかわらず)。

上記の酒とはことなって、私筆者はタバコはまったく吸わない。であるから、上記のような当事者の実感にそくした生理的説明はできない。が、タバコにかんしては、その「煙」が、注目される、だろう。

 これまた私事で恐縮だが学生時代にある弱小シンクタンクで下働きのバイトをしていたことがある。そこで女性の社員(研究員)の方がデスクワークをしながらよくタバコをすっていた。私は、かなり強い非喫煙者だったので、私もタバコを吸おうとはおもわなかった。が、タバコをふかせる彼女たちを「うらやましい」とは感じた。勤務時間は、いうまでもなく「自分の時間」ではない。勤務先もいうまでもなく「自分の場所」でもない。しかし、自分のデスクでタバコをふかすと、その瞬間・その周囲において、「自分の領域」がわずかながらたちあらわれるようではないか。
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すなわち、タバコの煙というは、勤務時間・勤務場所という「社会」のなかで、堂々と、自分のまわりに、一時的で、ファジーであるが、自分の「テリトリー」を構築するという機能を(も)もっているのではないだろうか。

 とすると、若年女性の喫煙化とは、例によって、「社会進出」によって、過剰社会性を生き始めた女性たちが、自分のまわりに一時的に煙幕でテリトリーをつくって、一時的にせよ、過剰に複雑な社会から離脱するツールで(も)ある、とかんがえることができそうであろう。

(【社会学的予言】以上の過剰社会性と喫煙との理解は、以下のような社会学的予言を出力するだろう。すなわち、「他の事情がまったく同じであっても、パーティション(机などの仕切や区分け)が個人的になされていればいるほど、そのオフィスでの喫煙の度合いは、低下するだろう」と。どなたか、実証にかけていただきたい)。
 

【イスラム教、と、酒】

 上の社会の複雑性と酒にかんする考察は、イスラム教における禁酒戒を想起させるだろう。

 結論からいうと、イスラム教は、上記の過剰社会性の多くを除去してしまい、信者たちは、アルコールを飲む需要を減じさせてしまうのではないだろうか。

1999年11月19日放映のNHKテレビ『イスラム潮流 2』では、あるニューヨーク在住の黒人女性が、アルコール漬けの生活から、イスラム教への回心をきっかけにして、アルコールのない生活へと進んでいく様を描いていた。彼女が今後どのように暮らしていくかはわからない。が、イスラム教がアルコールのない生活をする上で大きな支持材料となることはありそうなことだろう。

仏教も一応禁酒である。がいうまでもなく、日本人の仏教徒の多くは、この戒律を遵守しない。これは、(少なくとも日本における)仏教が酒の代替機能を完全にははたしていないということを強く示唆するだろう。また、宗教的戒律による禁止だけで現実上の「酒を飲まない」ということを完全には説明したことにはならないということを強く示唆するだろう。

 周知のように、イスラム教は、かなりこまごまと生活の諸局面を規定してしまう宗教である。この宗教による生活の規定が、都市的生活において過剰な社会性を生きざるを得ない人々にいわば「複雑性の縮減」として機能しているのではないか。その結果、イスラムに帰依すると上で論じた「酒ではらさなければならない過剰社会性によるストレス」が軽減されることがかんがえられるだろう。これに対して、仏教は比較的生活の諸局面を規定しきってしまわないといえるだろう。それが、「酒へのニーズの低下」をもたらさない、と推測できる、と思う。
 

【高等宗教】

以上のイスラムについての議論をさらに一般化して、いわゆる高等宗教(の大部分)自体が、上記の「定住革命」以後における「過剰社会性」に対するなんらかの対処戦略である、と仮説してみるのもおもしろい、だろう。が、この点をさらに詳述するためにも、養老孟司の疑似末梢論を紹介・導入してみたい。
 

【意識、と、孤独】

以上のような、社会脳仮説と関連して非常に興味深いのが、養老孟司のいわば「疑似末梢説」である。彼によると、末梢神経につながって何らかの作用をしていないような神経繊維ならびにそれに対応する中枢神経は、退化してしまう、という。とすると、脳が増大するためには、何らかの意味で神経細胞の支配すべき末梢が大きくならなければ、神経細胞が「間引かれ」、退化してしまうだろう。

この問題をクリアする「トリック」、それが、ヒトにおいては「意識」なのではないか、と養老は考える。

「ヒトの場合、ここにはどんなトリックがあったのだろうか。そこでどうしても考えたくなるのが、「意識」の存在である。神経細胞の脳の中でできるだけお互いどうしつながりあうことのよって、おたがいに「末梢」あるいは「支配域」を増やす。それによって、おたがいを維持する。それを機能的に言うなら、たがいに出力を与えあう。それによってたがいの入力を増やす(養老1989:140)・・・・・・思考というもの、いわゆる「頭を使う」という過程が、一般に自慰的な行為という印象をあたえることが多いのは、こうしたことに関連しているのかもしれない。(養老1989:142)」

この養老の視点は、とても興味深い。が、これだけでは、完全にはすぐには承認しがたい、のではないだろうか。なぜなら、脳というのは、非常にコストのかかる臓器であるようだ。(ダンバー(Dunbar1997:290)によると、脳は成人の全体重の2%をしめるだけなのに、エネルギーの約20%を消費する、という)。そのコストのかかる臓器をただ保持するためにだけ、意識のような脳内相互入・出力現象をおこなわせている、というのは、納得しにくい、からだ。

ここで、上述の社会脳仮説を組み合わせてかんがえみよう。社会脳仮説では、ヒトの新皮質の増大は、かなりの部分、ヒトが社会関係(群れ)を生きていくということに適応しているものだ、とかんがえた。

だが、「離れザル」の例を引くまでもなく、ヒトの祖先が、つねに四六時中、社会(群れ)の中にいたかはわからない。もし、社会の外にいる期間が長いとする。とすると、上述の養老の指摘が正しいとすると、社会に適応するために引かれた神経繊維が退化してしまう、ということがありそうなことだろう。

で、社会脳を持ったヒトの祖先が、たとえ、社会にいないときでも、その「社会脳」を「空ぶかし」(クルマのエンジンの「アイドリング」のようなもの)しておくと、このような「間引き」現象にたいして、対抗することができそうだろう。

すなわち、「意識」とは、社会脳をもっているヒトが社会的生活をしていない時においても、その社会脳をさびつかせることなく「空ぶかし(アイドリング)」させるための機能をもつものとして存在している、とかんがえることができる、のではないだろうか。

ヒトは、他人と面とむかって対処しているときには、あまり「意識」をしていないのではないだろうか。むしろ、その他人との対面がおわってから、「ああでもない、こうでもない。あのときは、こういえばよかった。いや、ああすればよかった。」などと、意識(悩む)のではないだろうか。

また、全般的に、社交的でいつも多くのヒトとかかわっているヒトは、あまり「考え込ま」ず、逆に、社交的でないヒトほど、「考え込む」傾向があるのではないだろうか。

もし、そうだとすると、これは上記の「「社会脳」仮説+「意識=空ぶかし」仮説」を支持する現象であるといえないだろうか。

上記の「離れザル」の事象から類推すると、ヒトの祖先も、オス(男)は、社会からはずれた生活をする可能性があるが、メス(女)はその可能性が比較してかなり低いといえるだろう。とすると、男の方が、「意識」的存在で、女の方が比較して「意識」的でない存在であるように予想されるだろう。この「予想」がかなり事実に合致していると感じるのは、たんに私桜井の偏見によるのだろうか。
 

【社会脳と、宗教】

社会脳をもつヒトにたいして、「過剰社会性」(「群れ」以上の社会的つながりを処理しなければならない)と「過小社会性」(前者の反動?としてか、孤独をも生きなければならない)が、生じたことによって、「意識」と「悩み」とが生じたのが、「都市文明以降のヒト」の運命では、ないか。

このような「社会脳」を持つヒトが都市生活に適応しがたいこと、に準拠して発生したのが、いわゆる「高等宗教」ではないか。

仏教が照準していた「苦」(生病老死)とは、かならずしもヒトに普遍的につきまとう「苦」ではない、のかもしれない。たとえば「飢え」がない。おそらく「四苦」でいう「生」とは実態的には「人間関係の悩み」に対応しているのではないだろうか。そして、「病」とは、「無限の生命」という夢にとらわれた都市民に固有の「苦」であるのかもしれない。(あるいは、都市の他人から「捨てられる」苦、かもしれない。おそらく、この点にかんしては、都市に固有の「伝染病」が大きくかかわっているのではないか)。「老」も、都市的他人から見放される「苦」だろう。そして、「死」とは、このような都市的孤独性の極限・かつ・象徴ではないか。

都市的生活をしている限りは、悩みはつきない。しかし、この「悩みはつきない」ということを自覚するかぎりではメタの悩み再生産の悪循環はストップできる、というのが、仏教の戦略ではないだろうか。

ちなみに、以上の「前件」(都市的生活をしている限りは「悩みはつきない」)に、準拠しているのが、いわゆる「小乗」で、出家主義となる。が、出家主義は、それ自体が社会の大勢をしめないかぎりは、社会内を繁茂しにくい(進化的増大力がとぼしい)。ので以上の「後件」(しかし、この悩みはつきないということを自覚するかぎりではメタ悩み再生産の悪循環はストップできる)に準拠しているのが、「大乗」だろう。これは、社会の「中」で、繁茂しやすい。ので、この限りでは、進化論的には有利だろう。

「社会(群れ)脳の、都市生活への適応不全」にたいして、「疑似順位制」でもって対処しようとしているのが「儒教」だろう。

都市生活に付き物の諸矛盾を、各個人に帰責させ「原罪」視し、他方その解決を「最後の審判」によるようにしたのが、キリスト教だろう。イエスにおいては、それは、ユダヤの律法主義への対抗として現象したのだろう。

「原罪説」による「個人への帰責」とそれの「懺悔」による「ガス抜き」が、カトリックの戦略ではないだろうか。

おそらく、ユダヤ教自体が、都市的状況への対処の、先行的一例であった、のだろう。が、それは、当時ある程度機能不全をおこしており、かつ、ユダヤ民族的制約を超えられないものであった、のだろう。

が、イエス的「反律法」主義は、原始キリスト教的に解釈するとそれはまた、「現実の解」としては、あまりに不確定的なものであったのだろう。

現実には、たとえばローマ教会などによる規律化があってはじめて、社会内パワーをもっていたのだろう。

が、図式的には、このようなイエス的「不確定」とユダヤ的「時代おくれ・民族的制約の強い、律法主義」を、ふたたび、都市民段階に対応した強い律法主義としてヴァージョンアップしたものが「イスラム」ではないか。

いわば、イスラムとは、新時代に対応した、普遍化された、ヴァージョンアップした、ユダヤ、といえるかもしれない。

多くの聖人が、ほとんど「シャーマン」的経験をしているのは、興味深い。結局、「高等宗教」とはいっても、その創出の手口は、伝統的な「脳の安定化を緩めることによる、シャーマニズム」によっていた、のではないだろうか。
 

【「想像の共同体」の規模は、約150人、か】

以上のような社会脳仮説は、現代メディア論における最強パラダイムの一つである「想像の共同体」論(Anderson1983,1991)パラダイムにも、あらたな光をなげかけてくれる、とおもう。

ヒトは、なぜ、(マス)メディアなどを介して、(たとえば)国民国家などといった想像の共同体に自らを準拠させてしまうのか。社会脳仮説からの回答はいうまでない、だろう。ヒトは、社会脳とでも呼ぶべき大脳新皮質をもっているからだ、となるだろう。

社会脳仮説からすれば、ヒトが、(マス)メディアを介してであれ、「知り合い」と感じる人数は、ヒトが社会脳を進化的に獲得した時代とさほどかわらないはずだ。現在の社会脳説からすると、それは「約150人」となるようである。

(ここで、たとえメディアを介してであれあなたが「知っている」(「思い出せる」、だけでは、ダメ)人を、一人一人数え上げて、それが「何人」になるかやってみる、のも面白い、と思う)。

ただし、私桜井自身は、「社会容量=約150人」というように「一枚岩」的にかんがえるだけには不満である。ヒトの脳が適応している「社会(人数)」はもう少し「多層的」ではないか、と予想している。

端的にいって、「約7人」(マジカルナンバー・セブン、七人の侍?!)の「ミクロ社会(人数)」、「約50人弱」(ひとクラス?、軍隊でいえば小隊?)の「メゾ社会(人数)」、「約150人」の「マクロ社会(人数)」とかいったように、多層化しているという仮説的見通しを、私はもっている。

人数ならびにそれと密接に関係する多層性についての精査はおくとして、いずれにせよ、社会脳仮説からすれば、ヒトは、進化的に自らの大脳新皮質が適応した社会(群れ)規模を、有史以来のさまざまなメディア段階でも、いきていくことがもっともありそうなことになるだろう。その結果、(マスであれなかれ)メディアを介しても、彼は「群れ」を生きていくことがありそうなことになるだろう。それが、「想像の共同体」として現象することがありそうなことになるだろう。
 
 
 

【コミュニタリアニズムの絶ちがたい魅力、しかし、、、、、、】

このような考察は、いわゆるコミュニタリアニズム(共同体主義)が、なぜ絶ちがたい魅力を、我々近・現代人にもたらしてしまうか、を、かなり説明するだろう。

ここでコミュニタリアニズムというのは、まずは、80年代アメリカで、「コミュニタリアン論争」において個人主義批判として大きな影響力を得るようになった思想のことである(たとえば、http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk18/comm.html参照)。が、語義としては、そこで議論された個々の思想だけではなく、ひろく、人間が生きていく上で共同体的生き方の重要性を唱道する思想をすべてそう呼ぶことにしよう。

個人単位で生きることを余儀なくされている近代・現代社会。しかし、われわれヒトとしての社会脳は、そのような個人単位の生活には完全には適応していない、だろう。よって、過去の群れ的生活へのノスタルジーは、形をかえ品をかえ、ヒトに現象することがありそうだろう。その群れへのノスタルジーの現象の一つが、コミュニタリアニズムで(も)ある、と私はかんがえている。
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であるがゆえに、コミュニタリアニズム的見解が、近・現代社会を生きている孤独なわれわれに絶ちがたい魅力を持ってしまうのは、ありそうなことだろう。

がいうまでもなく、コミュニタリアニズムが、アイデアとして魅力的であること、と、それが社会的処方箋として現実的であること、とは、まったくことなる。
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サル時代の「群れ的生活」への「郷愁」を、メディア時代以後の大規模人間集団に外挿してしまうという無理な結末に、コミュニタリアニズム国家論は、なりがちだろう。
 

【「還元論だ」的疑念への、事前応答。→「でも、ある」の論理】

最後に、本稿のようなアプローチに、(特に人文学者の方から)生じがちであると思われる疑念をはらって、本稿をおえたい。

以上のような私の議論には、「宗教が、アルコールと同機能でしかない」「クオリティーペーパーが、ゴシップと同機能でしかない」「つまりは、人間は、サルでしかない」とするような、人をサルへと「還元」する、強引な還元論である、という疑念が生じうるだろう。

このような「還元論だ」的疑念にあらかじめ応えておきたい。

まず、私は、「宗教は、アルコールと、同機能「でしかない」」「クオリティーペーパーは、ゴシップと同機能「でしかない」」「人間は、サル「でしかない」」とは、考えない、ということをはっきりさせておきたい。
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いわば、対比的にいえば、「宗教は、アルコールと、同機能「でも、ありうる」」「クオリティーペーパーは、ゴシップと同機能「でも、ある」」「人間は、サル「でも、ある」」と、私は考えているのである。

人文科学においては、ヒトをサルとしてみなすかどうかという問題については、「ヒトを、サル、でしかない」とみなすか「ヒトは、サル、ではない」とみなすか、の、二者択一的な係争点として考える傾向が強かったのではないか。

しかしいうまでないが、以上のような「二者択一的な問題設定」は誤りである。第三の道「ヒトは、サル、でもある。(が、サル、につきるわけではない)」も存在する。そして、私は仮説的に、この第三の方途をしばらくとってみたいわけである。
 ↓
そして、いままでの人文学者のサル学・脳研究・生物人類学の過度の軽視と、昨今のそれら三学の進展を鑑みて、「ヒトは、サル、でもある」という視点に力点をおいて仮説形成をしたいと方針をたてているわけである。

この点、「本稿での議論は、ヒトをサルである(ヒトはサルでしかない)と「還元」する、悪しき還元論である」と、「誤解」されないようお願いする。
 
 
 
 

言及文献(テレビ番組も含む)

Anderson,Benedict 1983,1991 "Imagined Communities" Verso Editions=アンダーソン、白石さや+白石隆 訳 1997 『増補 想像の共同体』NTT出版
Dunbar,Robin 1996 "Grooming,Gossip and Evolution of Language"=ダンバー、松浦俊輔+服部清美 訳 1998『ことばの起源 猿の毛づくろい、人のゴシップ』青土社
Dunbar,Robin  1997「言語の起源」『科学』67巻4号1997年4月号 岩波書店
三田了一 訳・注解 1996 『聖クルアーン』 日本ムスリム協会
NHK 1994 『NHKサイエンススペシャル 驚異の小宇宙・人体? 脳と心 6 果てしなき脳宇宙 [無意識と創造性]』 日本放送出版協会
NHKテレビ 1999年11月19日放映 『イスラム潮流 2』
西田利貞 1999 『人間性は、どこから来たか』京都大学学術出版会
清水新二 1998 『酒飲みの社会学』素朴社
立花隆 1997 『インターネットはグローバルブレイン』講談社
吉原耕一郎 1999 『ボス交代 多摩チンパンジー村の30年』 日本放送出版協会
養老孟司 1989 『唯脳論』青土社
 
 
 
 

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