「総中流」ゲーム(1940年体制ゲーム)の「順当な結果」としての「不平等社会日本」。
   -しかし、【鹿児島を見捨ててアメリカに旅立ったアジア人花嫁】を、みよ。-
 

 桜井芳生(著作権保持。2000年8月20日)
sakurai.yoshio@nifty.com
http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/  

【主要命題】

1.「不平等社会日本」は、総中流ゲームの、かなり順当な結果である。

2.「持たざる勝者階層」と「持てる敗者階層」とに分化している。

3.しかし、持てる敗者階層の「安泰」性は、かなり疑問である。【鹿児島を見捨ててアメリカに旅立ったアジア人花嫁】を、みよ。
 

【不平等社会日本は、総中流ゲームの、順当な結果?】
   
000812先日、中公新書近刊『不平等社会日本』(佐藤俊樹)のセミナーをおこなった。

000731本書は、「総・中流」と呼ばれていた近過去日本が、じつは「知識エリートたちの階層相続が戦前以上に強まっている」(表紙解説より)ことを、SSM調査という日本社会学の伝統的階層調査データを利用して主張したものだ。

000731多くの日本人が「総・中流」の崩壊を予感している現在、まさにタイムリーな視点の提示といえるとおもう。近いうちに本書はベストセラーになるのではなかろうか。(じつは、著者の佐藤氏は、私の大学院時代の、兄弟子?です)。

000731まだ本書の精読を終えていないが、かんがえていることを書いておきたい。

000731とくに三つの点を指摘したい。第一は、「こうなってしまった」メカニズムについて、であり、第二は、佐藤があまり注目していない「下位」階層について、である。第三は、それら「持てる貧者」層は、彼らが主観的に考えているほど、「安泰」でないのではないか、ということである。

000731第一について。佐藤は、「知識エリート層の階層相続」高まったようになった原因をあまり明確に指摘していないようである。が、一つの仮説として、総・中流意識をうみだしてきた、近過去日本の一見すると「機会・平等」的な競争ゲームが、そのかなり「順当」な結果として、今日の「機会・不平等」状態をもたらした、とかんがえてみてはどう、だろうか

000731すなわち、過去50年ほどの日本の競争ゲームは、野口悠紀雄のいう「1940年体制」に、ほぼ対応する、とかんがえる。その「1940年体制的・競争ゲーム」においては、学歴競争をメインにして、一見すると「機会平等」が保証されていたようにみえていた。

000731が、そのいわば「ウラ・ルール」として、競争の「敗者」へも、一種の「成長の配当」のようなものが「分配」されるようなゲームだったのではないか。

000731そのため競争開始時においてあまり有利でないような階層(貧者層・地方層、など)も、「たとえ競争の負けたとしても、なんとかいきていけるや」とでもいった「敗者救済的安心」をもって、競争ゲームに参加していたと思う。

000731それは具体的にいえば、「地方交付税」による「都市から地方への財の再分配」であり、「競争の勝者の獲得物を「家産」化させないこと、(勝者階級の子弟も、「自動的」には「勝者」が保証されない。二世もふたたび「競争」することによってしか「勝者」階層を獲得できない)」、などだった、のではないか。

000731この「順当」な結果として、いわば「持たざる勝者」と「持てる敗者(貧者)」との二階層がうまれた(うまれつつある)のが、現今だとおもう。

【「持たざる勝者階層」と「持てる敗者階層」とに、分化】

000727すなわち、「勝者にも、一代限りのメリットしかあたえない」「敗者にも、成長の配当をあたえる」と。「貧者・敗者」階層に対して「チャンスも実利も奪わない」という「暗黙の旧約」があったのだろう。これが「総中流」意識を生んだ、のではないか。

000727しかし、これが、「逆説的」に、「ポスト1940年体制、の、階層固定ゲーム」を生んでしまった。すなわち、敗者(貧者)は、「持てる貧者」となってしまい、「次のゲームに賭ける誘因がない」。他方、勝者は、「持たざる勝者」であり、「次世代にたいしても、投資をしない限りは、今のステータスを維持できない」というような。

000731すなわち、「知識エリート」は、近過去の(一見)「機会平等ゲーム」の「勝者」であり、次世代にたいしても、競争上非常に有利な地位にいる。が、次世代の「勝利」はなんら階級によって保証されるようなものではなく、あくまで、子弟世代に「投資」をし、「競争」をかちぬけせることによってしか獲得できないものである。すなわち、「階層の上位性・勝者性」は、いまだ「家産」とはなっていない。私自身この階層に属するとおもうが、自分の子供に、学歴・情報リテラシー・英語力などをつけさせるために、必死である。

000731それにたいして、いわば「敗者」階層はちょうど「対偶」的位置にある、とおもう。すなわち、「競争ゲーム」に参与しようかとおもっても自世代・親世代のリソース状況が「豊か」ないので、「引いて」しまう。他方、自分の現在の境遇は、「土地もあるし、これから東京にいっても、どうせ家買えないし、、、」といったようなある程度「持てる階層」の状況である。このように競争ゲームに「参加しても勝てそうもない」し、かといって「参加しなくても何とか生きていける」ような状況だ、とおもう。

000731いわば、「勝者」階層は、次世代ゲームにおいても、「競争に参加せざるをえない」状況にあるのにたいして、「敗者」階層は「競争に参加する誘因が極端に乏しい」状況にある、とおもう。

【しかし、持てる敗者階層の「安泰」性は、かなり疑問である。鹿児島を見捨ててアメリカに旅立ったアジア人花嫁を、みよ。】

000731鹿児島で大学教員をしていると、このような「持てる貧者階層」のリアリティを非常に強く感じる。直裁に言ってしまえば、鹿児島在の学生の多くは、「東京にいって競争すること」を強く忌避している。

しかも、彼ら(持てる貧者階層)は、無自覚的であるが、彼ら自身の階層のある種の安定性・安泰性についてかなり安心しているようである。

000731しかし、私が第三に指摘したいのは、このような「持てる貧者階層」は彼ら自身が感じているほどには「安泰」ではないのではないか、ということである。

000731以下は、聞きかじったハナシなので、事実誤認があるかもしれない。あくまで、ありそうなフィクション、一種の「寓話」として読んでほしい。

000731鹿児島の男性と結婚しているインドネシア出身の女性と、学外で私は知り合った。彼女は、その日本人のご主人とのあいだに小さい子供ももうけていた。が、あるところから聞いたところでは、彼女は、英語の勉強をして、先日アメリカに渡った、とのことである。ご主人と離婚したのかとおもったが、離婚はしていないようである。あくまで私の推測だが、法的には婚姻関係を維持しつつ、(養育費も得つつ?)、子供をつれて、アメリカで新たな人生の可能性を開拓しようとなさっているようだ。

000731くりかえすが、以上は、人からのまたぎきのはなしである。あくまで、ヒントとして聞いてほしい。しかし、この話はとても象徴的なハナシだとおもう。

000731強い「円」のおかげで、日本の地方在住の男性も、ヨリ貧しい国からお嫁さんをもらうことができる。が、その「アジアからきたお嫁さん」は、じっさいに日本の「地方」の生活をしてみるとダンナさんとその地方を「見限って」しまい、(養育費はもらいながら?)「アメリカ」に旅立ってしまった、のである。

000731ネズミにたとえては失礼だが、ネズミは自分たちがいる船が沈没すると予期するとそこから脱走するといわれる(本当かどうかは知りません)。以上の「アメリカに行った、アジアからの花嫁」のハナシは、このネズミのハナシを強く連想させるだろう。

000731「持てる貧者」層の「安泰」性とは、(高い)円、と、日本(語)のバリアにまもられて、安泰であるように見えているだけかもしれない。アジアから来たお嫁さんの目からは、それはあまり安泰であるとはみえなかった、のかもしれない。

000731いわば、「ネズミは、すでに逃げだしはじめた」、のかもしれない。

+++++++++++

桜井芳生のホームページにもどる