sakurai.yoshio@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/
0 read me !
【最重要助言:今やワープロを買ってはいけない】
本稿は、通常の人文科学の論文とは異なり、「実用的観点」からも読まれることが予想される。それで、それにあわせて、以下の文章の流れと関係なく、もっとも実用上重要だと思われることをはじめに述べてみたい。
本稿でもっとも実用上認識利得があると思われるテーゼ、それは「今やワープロを買ってはいけない」ということである。
現在においてもワープロはなかなか便利が機械である。値段もパソコンと比べるとかなりやすくあがる。それでつい、「とりあえずワープロでもいいや」と買ってしまう。しかしまた、ワープロでもけっこう用が足りてしまうがゆえに、ひとたびワープロを買ってしまうと、数年間パソコンが買えなくなってしまう。つまりはその「数年間」ネット化のなみに乗り遅れてしまう危険性が高い。
先生方、ぜひ学生さんには「ワープロは買ってはいけない」とご指導ください。
1 導入
【電子ネットで「休講」がわかる? 】
最近は、多くの大学でも、「情報教育」が実施されるようになり、また学生も含めた大学成員間での、電子ネットを媒介としたコミュニケーションが可能になりつつある。しかし,大学( ここでは、おもに私がかかわっている「文系」大学を念頭においている)における、いままでの教育と、電子ネットの利用との関係は、かならずしも明確ではない。
学生が簡単にアクセスできるネットを構築した大学でも、その多くでは、内実のともなうネット利用ができているかは疑問である。学生が学外からでもアクセスできるネットが構築されたとして、では、それがどのような利用法があるのかというと「休講の情報が、自宅でわかる」というのである。たしかに、休講の情報が自宅でわかれば「無駄足」ではなくなる。しかし、そのネットは、学生が毎朝登校まえに、「今日の休講は・・・」と確認することだけをめざして運用されているだろうか。もちろんこれは、一種の「笑い話」的な事態だ。しかし、多くのネットでは、「休講情報の取得」以上の効用がじつはひきだせていないのではないか。この「休講情報」の件は、じつはある意味で本質を暗示しているトピックであるかもしれない。ネットの構築がすすめばすすむほど、学生は、もはや「大学に来る必要さえなくなる」可能性がここにはあるのである。この「休講情報」の笑い話は、この点の事情をはからずも指し示しているのかもしれない 。
私がここにおいて示してみたいのは、この「休講情報」に象徴されるような「ネット」と「大学教育」との疎遠な関係ではない。そうではなくむしろコンピュータネットは、大学教育とかなり本質的な点で関わり、たんに関わるだけでなく、大学教育をかなり本質的な点で変容をせまるのではないか、ということをのべてみたいのである。
2 学内ネットはそもそも有用か
【学内ネットはそもそも必要・有用か】
この「休講情報」の笑い話と関連して、そもそも、学内ネットは、学生の教育にとって「有用・必要」なのか、という問題がある。学生が卒業後、「社内ネット」が完備している組織に就職する保証はない。とすれば、彼卒業生が社会を生き抜いていくためには、一般の商業ネットや、インターネットプロバイダーと契約しなければならないだろう。だとしたら、「教育」的配慮としては、むしろ、「学内ネット」を学生に提供せず、既存の学外ネットを利用して学生とコミュニケーションするほうが、「将来のため」になる。ここには、「教育は親切すぎてはいけない」という教訓がふくまれているように思われる。
ときに、たとえば教養課程の語学教師などは、「自分が教育熱心」であることを示そうとして、「親切な語学教材」をテキストに選択したり、さらには「教材を自分で開発」したりしようとするかもしれない。しかし、いうまでもなく、学生にとっては「教材が読み書き」できるようになってもしようがない。実際の外国語の素材を読み書きできなければしようがない。 「情報教育」においても同様な危険性がある。教育スタッフの方は「自分が熱心であること」を示すいわば「アリバイ」として、「環境を整備」しようとする傾向がある。しかし、卒業した学生が直面するのは「整備された環境」であることはがぎらない。
【大学自体の「フルセット自前主義」から、「アウトソーシング」へ? 】
学内ネットへの懐疑は、もう一つ「大学のフルセット主義」への懐疑につながる。いままで大学を含めた「学校」というものは、すくなくとも日本では往々にして、対象年代の子供を教育する「総合」センターとでもいえるような役割( すなわち、「家庭」がおこなうことのできない「教育」はすべて学校がおこなう) を期待されていた、といえるかもしれない。しかし、これは、いわばビンボーな時代の発想であったかもしれない。いまや学校以外のさまざまな教育サービスが存在しつつあるなかで、このような「フルセット主義」を学校が奉じていることにはムリがあるだろう。
大学( 学校) は、学校以外の教育サービスとの関係を念頭において、自分( 大学) がやるべきこと、やるに得意なこと、自分がやるべきでないこと、他者にまかせるべきことを、より分ける必要があるだろう。さらに、大学自身が学生に提供するサービスであっても、その実質上の運営は、外部者に委託したほうが効用・効率が高い場合もあるだろう。いわば、「類業他社」との競争・棲み分け問題と、自社サービスの「アウトソーシング( 外部委託) 」問題を考慮せざるをないだろう。
学内ネットの問題も、すくなくとも私のような「文系大学人間」にとっては、「学内で調達」するより、「専門外部業者」のサービスを代価をしはらって利用したほうが好都合である場合が多い。(ちなみに、先日私の勤務している学部で落雷のため学内LANが不通となってしまった。そしてその「復旧」に約20日間もの時間を要してしまった。私はたまたま民間プロバイダーと契約をしていたため致命的な不都合に至ることはなかったが、もし学内LANに全面的に依存していたらと、思うとぞっとした。)
また、上述のように学生の将来のことをがんがえると、外部業者を利用したほうが、学生のためになる場合も多いようにおもわれる。
3 情報発信と「文系大学」
【情報発信の「体験」学習】
インターネットにおいては「情報発信」が容易である。過去、私は、学生さんたちの原稿で、「雑誌」をつくってみたことがある。それはそれでとても実りの多い作業だった。しかし、地方の大学内で、わら半紙袋とじの「マガジン」をつくっても、学内で配ったり、どこかに積んで取ってもらうぐらいした配付方法がなかった。いわば「ピアノの発表会」のようなものである。「書く」ことにはとてもトレーニングとしての効果はあったが、「読んでもらう」「読んだ人から反応をもらう」ことはあまり期待できないメディアであった。 これに対して、インターネット上に「オンラインマガジン」をつくれば、事態はかなり変化する。まずは、「配付領域」が格段に拡大する。日本全国はもとより( 語学上の制約はあるが)世界的規模的の情報発信ができるようになる。そして読むに値するペーパーさえかけば、読んでもらえる。さらに、インターネット上では、ホームページにレスポンス用の電子メイルアドレスをはりつけおくことができ、それをクリックすると、読者は手軽にレスポンスを書き送付することができる。このレスポンスにたいする筆者の側の再レスポンスも容易であることはいうまでもない。
【知的生産者・発信者・交流者】 これまで、大学教育は、知的成人の形成をその教育目標としてきたといえるだろう。しかし、そこでの「知的成人」とはふつう、「偉い学者の書いたことが理解できる」という意味での「知的消費者」にすぎなかったといえるだろう。それにたいして、オンラインマガジンをつくることによって学生は「知的生産者」としての体験を得ることができる。さらに、レスポンスを日本中・世界中から得ることで、「知的交流者」になることができる。これは日本の大学教育において画期的なことであるといえるのではないだろうか。
【ホームページと「自己」プレゼンテーション】
私は、実習において、学生たちに個々にインターネットのWWW の「ホームページ」をつくらせている。はじめはたんに、ネットになれるための「手を使う」練習のつもりで、はじめようとした。しかし、実際に企画してみると、予想しなかった効果があることがわかってきた。ホームページは、各人の「自己紹介」である。とすると、おもしろいホームページができるためには、おもしろい自己紹介ができなければならない。
昨今は、就職状況が非常にきびしい。そのため、就職活動が近くなると、学生は、企業に自分を売り込むために自己分析と自己プレゼンテーションの準備におわれる。しかし、多くの学生は、そのときになってはじめて「自分がなりをウリにしていいか」がわからず愕然とする。すなわち、過去大学三年間で、自分にはなにも「商品価値」がそなわっていなかったと感じて愕然とする。
大学の2 〜3 年次に「ホームページ」をつくってみることは、このような「せっぱつまってからの自己見失い」にたいするよい「予防」策となるだろう。すなわち、学生は、自分の「ホームページ」をつくることによって、自分はいままで何をしてきた者なのか、なにをしようとしている者なのか、何を他人に「売れ」る者なのか、を、否応なく自己詰問せざるをえなくなるのである。
【ホームページによる「個性」の再規定】
これからは、「個性」のある人材が必要とされる、とよくいわれる。これにはとくに私も異論がない。日本人のつくったホームページをみてみても「個性」がかんじられるものはあまり多くない。学生にホームページをつくらせることは、この「個性」なるものをかなり真剣に陶冶することにつながるだろう。
しかも、その際きづかれる「個性」とは、通常浅薄に理解されている「個性」とは若干ことなったものになる可能性があるようにおもわれる。個人がつくったインターネットのホームページをみてみると、「ああ、この人は自分の『個性』を出そうとしているな」とかんじられるものがある。それは、多くは、「ビジュアルに凝って」いたりするものだ。しかし、その多くは、「個性ネライ」が「ハズレ」になってしまって本人の意識のみが「からまわり」している場合が多いように見受けられる。たしかに、ヴィジュアルのすばらしさとか、とっさのインスピレーションのキラメキのようなものをかんじさせるホームページもないことはない。しかし、それは、ごく一部の「非常にセンスのある」人のページにかぎられている。インターネット上で面白い情報の多く( 少なくとも私桜井によって「大部分」) は「文章」である。しかも、その文章も、手を抜いてだらだら書いたものではなく、やはりプロといえそうな人が手間ひまかけて書いたものがおもしろい。で、結局、雑誌のサイトをあさってプロのライターのペーパーをダウンロードすることが多い。
つまり、月並みなことかもしれないが、インターネット上の「個性」なるものも、その多くは、「手間ひまかけて思索された、文章」によるのが大部分なのだ。個性あるもの( ホームページ) をつくれ、というと現在の学生の多くは、「てまのかからない、ちょっと気の効いた、ヴィジュアル的なもの」をつくるだろう。しかし、それは、天才的でない多くの人々にとっては誤解なのである。むしろ愚直に手間をかけたねりあげられた文章こそが、インターネット上で個性を放つのである。
(ただし、文章や段落の「長さ」については、いままでの「書籍」を前提にした文章作法から離脱すべきだろう)。
【教育史上はじめて? 、「文系大学」は「ムダ」でなくなる?】
とすれば、インターネット上の個性は、まさに「文系大学」で習得陶冶すべきものとむすびつくのである。いままでは、「文系大学」で知識人的(?) な教育を受け「卒論」を書いたとしても、それは、卒業してしまえば、ほとんどムダになってしまった。しかし、インターネット時代においてはじめて、文系大学の教育がその学生の一生にとって効力のあるものになる可能性がある。
4 師弟間コミュニケーションの変容
【電子メイルは「師弟関係」を一変させた】 私自身電子メイルを利用しはじめたのは、数カ月前にすぎない。電子メイルを利用してみると、使う前には予想もしなかったことがおきた。それは、学生さんとの師弟間コミュニケーションが激変してしまったのだ。電子メイルをつかうことで、講義では話しにくい研究の最前線を手軽に多くの学生さんに送信することができる。また、学生さん各自に個別にメイルをおくるのがカンタンである。そのため、「現実世界」の大学ではなかなかやりにくい個別指導が非常に濃密に出来るようになった。さらに、学生さんが私あてに文章を送信してくるため、学生さんが執筆する文章の量が、以前と比べると格段に増えた。
大学における知的トレーニングにとって「文章執筆」のもつ意義はいうまでもないだろう。しかし、いままでは、期末に「レポート」と称される「小論文モドキ」をでっちあげて提出するだけだった。そしてそのレポートは「読者に読まれること」をあまり意識していないものが多いのだった。それにたいして、学生から教師にむけての電子メイルは「たしかに読まれること」を想定して執筆される。このように「質」の点でも「レポート」を凌駕するメイルを大量に書くことが「自然に」なされてしまうのである。
さらにそれだけではない。学生さんたちのメイルが私桜井の研究にとっての非常に有効な「ヒント」になってきたのである。すなわち、メイルのやりとりをすることで、学生が教師にとっての「ブレイン」になったのである。もはや、私桜井は、学生さんからのメイルなしでは現在の研究の生産水準を維持することはできない。このようにいまや私桜井をめぐる師弟間コミュニケーションは、かなりの割合を電子ネットコミュニケーションが占めるようになった。
想像をたくましくすれば、今後のありうべき師弟間コミュニケーションは、電子ネットにおける「グループウエア( 電子メイルをさらに高度化したもの) 」や「イントラ・ネット」によってかなりの部分を支えられていく( べき・はず) のかもしれない。旧態依然とした講義を中心とした教育形態は、このような視点から「再考」されるべき時にきているのかもしれない。
【学生の貴女にとって「電子メイル」は「20万円」の価値がある】
しかし、じっさいには、このように私と電子メイルでコミュニケーションしている学生の数はいまだわずかである。したがって、電子メイルを利用している学生さんと利用していない学生さんとでは、同じ授業料を払っていても、私から受ける教育的サービスは、格段の差があることになる。おそらくメイルで私と頻繁にやりとりしている学生さんが獲得する認識利得は、そうでない学生の少なくとも二倍としてみつもることができるだろう。たとえば、同じ40万円の学費をはらっていても、メイルをやっている学生さんは、他の学生さんにくらべてさらに40万円分の認識利得を多く得ているといえる。すべての学生さんがアクティブネットワーカーになるとはかぎらない。だとしても、だいたい20万円分の価値が電子メイルにあることにはなるだろう。しかし、残念なことに文系大学生においては電子ネット化の進行が非常におくれている。「先生」の方はパソコンをもっていても、「学生」の方がパソコンをもっていない場合がおおいようだ。 極論すれば「死にゆく世代・旧人類」の「教師」の方はべつにパソコンはできなくてもいいのではないだろうか。それにたいして、これからの長い競争時代を生き抜いていかねばならない「学生」にとってこそ電子ネットは必須であろう。大学から一歩外にでれば、未来を見通している企業ほど、すでに 電子メイルを中心とするグループウエアを導入しているようだ。だとすれば、学生さんにとってこそ、電子ネットへの参入をするか否かが死活問題だといえるだろう。
【講義する「ネタ」がなくなる?】
私は、「桜井研究所通信」と題して、そのときそのときの「研究」の一端を「同時進行型」でネットにながしている。自分が考えたことのすべてをネットにながしているわけではない。しかし、おいしい部分のかなりはネットにながしている。とすると、この桜井研究所通信を学生さんの多くが受信するようになると( 現在のところは、学生さんの受信者もまあまあいるが、講義の受講者とはあまりだぶらない)、「ほとんど、講義するネタがなくなってしまう」ことが生ずるのである。講義でなにをしゃべっても「ああ、あれは、ネットで言っていたアノことだ」となってしまうのである。
【情報秘匿が「講義」を可能にした? 】
このことはたんなる笑い話のようにきこえるかもしれない。しかし、じつある本質的なことを指し示しているかもしれない。すなわち、「講義」というコミュニケーション形態自体、「情報秘匿」「情報独占」が前提になってはじめて可能になっていたのではないか、いうことである。自分のところで生産されたあるいは入力された「情報」をつぎからつぎと( 学生をふくむ)不特定多数に流してしまうようなことをしないで、情報を「溜めて( 秘匿・独占) 」おく。そしてはじめて、「週に一回、学生さんに話すこと」のストックができているのではないか。
この意味で、「ネット」は、講義というコミュニケーション形態を再考させる縁になるといえそうだ。
【「ネット」は「講義」を「偶有化」する】
ネットと講義についてはもう一点いいたいことがある。それは、極端にいうとネットを多用していくと、「講義をしゃべることがばからしくなってくる」ということである。学生のみなさんは、小さいときから、学校で授業をすわって聞かされることに慣れっこになってしまっているので、大学で講義というものを毎時間毎時間聞かれてもべつにヘンにはかんじないのかもしれない。テレビで毎週きまった番組がかならず放映されるのとおなじように、ある曜日のある時刻に教師がやってきてなにかしゃべってかえっていくのを、べつにヘンにかんじないのかもしれない。しかし、私は( いまだ教師の職になれていないからかもしれないが)「講義」というコミュニケーション形態が「ヘン」にかんじられてしようがない。( 実際、私の講義は、大量のレジュメを配ったり、教師がしゃべるかわりに学生さんに読ませたりして、すこし「ヘン」であろう)。
今日のようにパソコン( ワープロ) ・印刷やビデオが発達し, また「ネット」が発達しつつある「今日」においても「講義」というものは従前のような存在意義があるのだろうか。
「1 。書籍が貴重であり」「2 。講義者が『手書き』で自分用のノートをつくらざるをえず」「3 。( そのノートをそのまま『見やすく』印刷配付することができないがゆえに) 板書をせざるをえず」「4 。( しかも十分な情報量を『板書』するのはしんどいので、) 『口頭』での説明も不可欠であり」「5 。( しかもテレビ装置などが貴重であるために) その『板書』も『口頭での説明』も、『ナマ=ライブ』であらざるをえず」「6 。( その板書ならびに口頭での説明をそのまま自動的に記録して持ちかえることができないゆえに)聴講者が『手書き』でノートをとらざるをない」
以上のような「メディア発展の段階」においては、まさに「講義」いうコミュニケーション形態は、「ふさわしい」ものだっただろう。しかしいうまでもなく、現在においては上述の「1 〜6 」の条件のすべてが変化してしまっている。もちろん、このように「1 〜6 」の条件のすべてが変化してしまった今日でも、肉声の講義を聞き、それを手書きでノートすることは、「少しは」トレーニングとしての効果をもつかもしれない。しかし、「講義」という教育コミュニケーション形態が、唯一あるいは最も効果のある形態であることについてはうたがわしくなっていくだろう。
いわば、これまでは、「講義」という教育コミュニケーション形態が「必然的なもの」であるかのようにみえきたのに、今後は、「偶有的( 他でもありうるもの) 」となっていくだろう。たとえば、毎回教師が「ネット」で講義内容を「送信」し、それに対して、締め切りまでに学生が「コメント」をネットで返信する、「大学の教室にあつまる」ときには、それらをめぐるディスカッションしかしない、などといったやり方も今後は考えられよう。
5 「コンヴィヴィアリティ」と大学の「学問」
【インターネットと「コンヴィヴィアリティ」】 古瀬・広瀬『インターネットが変える世界』は興味深い。とくに、フェルゼンシュタインの「イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』を実現するためにパーソナルコンピューターをつくった」という発言を導きの糸としつつ、パソコンとネットがそのはじめから「コンヴィヴィアリティのための道具」を志向している点を明示した点が興味深い。イリイチのいう「コンヴィヴィアル」とは「みんなで一緒にいきいきとして楽しい」というニュアンスのあることばで、筆者たちは「共愉」と訳している。いわばコミュニケーションが、で「手が届く」ものになり、よそよそしさがなくなっておもしろい、といった感じだろう。
この点について論点を二つ指摘することができるだろう。 1 、今後の「ネット普及」社会において、コンヴィヴィアリティを「我が物」とする人の割合は、すくないのではないか。おそらく「一割」にいかないのではないか。他の大部分の人にとってはインターネットは、たんに「あたらしい、チャンネルの多い、テレビ・新聞」「宿題の締め切り直前に『サーチ』をかける、困ったときの頼みの綱( 信頼性の低い百科事典) 」になってしまうだけではないか。この「一割のコンヴィヴィアリスト」に学生が入れるようになるかどうかという「教育」の問題があるだろう。
2 、大学教育において「ネットによるコンヴィヴィアリティ」が成功すれば、そこでなされる「学問・教育」自体が「自分の手の届く」ものに変容する可能性がある。その際、教師自体が「コンヴィヴィアルに」学問をしているかどうかが「決定的」だろう。コンヴィヴィアルに学問をしていない教師とネットでコミュニケーションをしても、コンヴィヴィアリティの実現は期待できないだろう。「専門学校」と対比したさいに、「大学」にのこる「存在意義」は「学問のコンヴィヴィアライズ」(だけ?)ではないだろうか。さらにいえば、コンヴィヴィアルな学問ではなく、( すでにある) 学問のコンヴィヴィアル化こそが必要といえるのではないだろうか。
あなた(学生さん・教員の皆さん)は、「大学」で「コンヴィヴィアル」な(生き生きとしてたのしい)学問をしていますか?。
6 ネットをめぐる階級闘争
【機会的平等と結果的不平等】 ネットによってはじめてかなりの程度「学問・知識は万人のもの」になったといえるかもしれない。いままでは、情報的上位階級であるためは、「文字を書いた紙」を大量に保持しておけるスペースを必要とした。おそらく今後五年から十年の間にCD-ROM百科の低価格化と、岩波文庫( ねがわくば中公の世界の名著も) の割安CD-ROM化がおきるだろう。さらに、文系諸学問の「基本テキスト」がどんどんネット上でアクセスできるようになってきている。いままでの「文系大学」が世間に対してもっていた「情報ギャップ」とは、多くは、「普通の人は、お金の面・保持空間の面でペイしないから保持しないような文書( 本) を、大量にもっていた」ということによっていたところがあるだろう。それがある程度平準化する。この点において「ネット」は、「知識の機会上の平等」を押し進めるツールだといえる。
しかし、いうまでもなく、知識の機会上の平等がたとえすすむとしても、それは必ずしも、結果的平等をも意味するわけではない。むしろ私のまわりのネットに適応する学生と適応しない学生との差異に注目すると、結果的な不平等は拡大するのではないかと予想される。ネット化のなみにうまくのれる奴と、のれない奴との差異が非常に大きいのである。
【「大学」のネット階級戦略】
とすると、来るべき時代には、大学自体が、「ネット時代における階級分化」の係争点になる可能性が高くなるように思われる。大学生活においてその人がどのようなネットコミュニケーションをおこなったか( おこなわなかった、も含めて) によって、その人の、一生における「ネットメディア社会」における「階級位置」がかなりきまってしまうだろう。 だとすると、大学において教師が学生にどのようなネット生活をおくらせるかが、死活問題となるだろう。また「ネット」化は、上で述べたとおり「情報発信者」へのみちのりを「短く」する 。その意味で、「ふつうの大学」こそが、「情報的階級分化」の係争点となるだろう。
7 ネット上のカルト?
【ネット・オンリー・アクティヴィスト】
われわれは、「ネットワーク社会」をかいかぶってはならないだろし、またあなどってもならないだろう。いまネットをめぐって「ネティズン」という言葉が喧伝されている。いわば、ネットワークにおいて「市民」として行動するひとびとだ。私も、ネット化によってこのようなあらたなネット上の市民が発生し彼らが社会を( ねがわくば良い方向に) 変革していく可能性を否定しはしない。
しかし、私自身が、ネットにふれてみて直観的に予感する方向はもうすこし悲観的なものだ。これはたんに私の直観によるものなので、議論しずらいが、今後の目配りすべき「仮説」の一つとしてここでのべてみたい。まずネットに触れる人の大多数は「受動的情報消費者」になるだろう。おそらくネットに触れる人の9 割位にとっては、インターネットのとくにウェッブは、「チャンネルの多いテレビ」になるだけではないだろうか。そして、のこりの少数派にとってのみネットは「能動的情報交流」の場となるのではないか(おそらく1 割ぐらいか)。私がとくに指摘したいのは、むしろこの「能動的情報交流者」たちにおける「問題」性である。現在のところネットというものは、いまだ人に「夢をみさせてしまう」傾向がある。あるいは、「現実社会」のさまざまな「制約」を「忘却」させてしまう傾向がある。その一方で、ウェッブにおける情報交流ならびに「リンクの張り合い」は、「似た者同士」を「つるませる」ことになってしまう傾向がある。この二つの傾向が合流するとき、そこに望ましくない結果が生じる蓋然性が存するだろう。すなわち、十全な現実認識・他者認識のできていない、同じ「夢」をみている人々が、「群れ」あうことで、一種の「カルト」化する危険性である。
その結果「現実的制約を軽視しているという意味での・過激な」主張を奉ずる者たちのグループがネット上で叢生する可能性が高い。そしてまた、彼らが叢生することが、ネット自体の「非日常的魅力」「解放区的魅力」を高めて、「同類」をネットのなかに引き込む傾向が生じうるだろう。ネットの「外」では、なに食わぬ顔で、「ノンポリ」をよそおっていながら、ネットのなかでは非常に( 上述の意味で) 過激な私念に奉じるものが叢生する可能性がある。
いわば「ネット【オンリー】アクティヴィスト」である。
これらの「ネット・オンリー・アクティヴィスト」は、割合の上からは、「少数派」だろう。しかし、絶対数からすると、全世界中で相互承認しているのだから「かなり多数」になるだろし「けっこう元気」となる可能性もある。現実の政治でもかれらがキャスティングボートを握る可能性もある。このようになる危険性にもわれわれは警戒すべきだろう。
しかしまた、ネットワーカーのなかには、ネットにはまりつつも、現実認識がゆたかなもの、ネットをしたたかに利用する者を生じるだろう。これはおそらく前者の三分の一ぐらいの比率ではないか。かれらこそが、ネット社会における「権力者」「支配者階級」となるのではないか。
まとめよう。来るべきネット社会では、ひとびとは「四つの階級」に大別される。すなわち、ネットを使えない者、ネットを使うがたんに消費するだけの者、ネットに積極的に情報を発信するがネットにはまるだけで現実感覚に乏しいネット・オンリー・アクティヴィスト、ネットを利用しつつ現実にはたらきかけるネット権力者。アバウトにいって30%・60%・7 %・3 %といった割合か。
8 ネットと「異性関係」
おもに上述では、ネットと階級( あるいは権力) との関係を大学の存在意義とからめて考えてみた。ネットをめぐってはもうひとつ大きな問題がありそうだ。それは、「ネットをめぐる異性関係」である。
【電子ネットで「ムコ探し」ができる】
看過されやすいことだが、「女」の人にとって電子ネットは「お婿さん探し」のいい機会にもなる。俗説では鹿児島では、適齢期の女性に対して男性の数が少ない、といわれている。しかし、電子ネットの世界では圧倒的に「女不足」である。貴女もネットの世界にはいれば「ヨリドリミドリ」となるわけだ。また、平均的には、ネットの中は、ネットの外と比べて、参加者の「収入」「学歴」は高いと考えられる。この点でも、「三高」のうち「二高」がクリアされやすいわけだ。この意味でも電子ネットは「20万円」の価値はありそうだ。ただし、一部で「ネットセクハラ」の事例も報告されている。この点には注意が必要である。
【たとえば東大生と結婚する法】
たとえば、東大生と結婚する方法を考えてみよう。インターネット上で「サーチエンジン」で検索をしてみる。するとうじゃうじゃわんさか「東大生」が出てくる。これらに片っ端からメイルを送る。実際の東大生の言によると「7割以上から返事がくるだろう」とのことである。後はお好みしだいである。
【ネット女王さま?】
実際に現在、ネット上で「インターネット界の謎の女性」がうまれている。そのホームページの周辺をみてみると、彼女をめぐって、ネット上で、かなりの男性とそしてまた女性が、「あこがれゴッコ」をしていることが推測できる 。今後、ネット上で男性( そしてまた女性からも)「あこがれのマト」となる「ネット女王さま」が叢生する可能性が高いのではないだろうか。そして、現実の恋人や妻をさしおいて、このような「ネット女王さま」に熱をあげる男が少なからず発生することが推測できるだろう。
中世の「貴婦人愛」にも似た、「肉の関係なしであるが、そうであるがゆえにいっそう【燃える】関係」が、ネット通じて生じる可能性が高かそうである。
ここにおいても「ネットで操られるひと」と、「ネットで操るひと」の二分化がみられるようである。
9 暫定的終結。続きはネット上で議論しましょう。
これまで私は、「論文」たるもの、一つの論点を深く論じたものであるべきだ、と考えていた。しかし、本稿では、多くの論点を浅く広く言及することになってしまった。これはもちろん第一には、私の努力・能力不足によるだろう。しかし、それだけではないのかもしれない。論じる事柄自体の歴史・研究史が浅く、また変化が急である。そのため、どの論点が今後重要になり、重要でなくなるかの取捨選択が難しいのである。また、電子メディアに浸かっていると、マクルーハンの予言どおり、身体・文体が「モザイク」的になっていくのを感じる。記述が散漫になってしまった点、読者のご寛容を請いたい。今後の議論の捨て石として本稿が役立てば幸いである。
最近私は、ネット上で個人主催の「メイリングリスト」(登録メンバー全員にメイルが転送されるシステム)をはじめた。本稿もそこで流す予定である。誰でも「登録」できるので、そこでさらなる議論にくわわっていただけるとありがたい。(登録法。sakuml@cup.com宛てに、joinを題名に、所属・お名前を本文にした、メイルをお送りください)。通常の電子メイル(KYC04273@niftyserve.or.jp)でのご意見も大歓迎します。
いうまでもなく、本稿自体、ネット上あるいは口頭での多く方とのコミュニケーションに多くを負っている。謝意を表したい。
主要参考文献
千葉麗子1995『千葉麗子とつくるインターネットホームページ』ビー・エヌ・エヌ 大学生協PCカンファレンス実行委員会1996『PC Conference 予稿集』全国大学生活協同組合連合会 古瀬幸広・廣瀬克哉1996『インターネットが変える世界』岩波書店 指宿信1996「インターネットで外国法 第1回」『法学セミナー』1996年5月号 インターネット利用研究会1996『インターネットでわかったことできたこと』技術評論社 大前研一1995『インターネット革命』プレジデント社 週刊ダイヤモンド別冊1996『インターネット超時間術』ダイヤモンド社 立花隆1996『インターネット探検』講談社
欧文題目
Some Problems of Relations between Computer-networks and University Educations