ほ と ん ど す べ て の 人 の た め の 
 
メ デ ィ ア 文 化 論 入 門 (  改 定 ・ 決 定 版 )  
 
                    桜 井 芳 生 

sakurai.yoshio@nifty.ne.jp

http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/
 
 
【ほとんどすべての人のために】
 
私は現在、鹿児島大学法文学部で、「現代メディア文化論」という科目を担当している。
 
メディア論ブームや、メディア教育の必要性について、関心はありながらも、一方でウサ
ン臭く感じているひともおおいだろう。
 
そこで、ここでは、ほとんどすべての学生を念頭において、あくまで私の偏見と独断によ
って、「メディア文化論入門」と「メディア教育について」の私見をのべてみたい。ぜひ
、ご批判・ご叱正をいただきたい。
 
私の結論をさきに述べておくと、「メディア論的視点は、ほとんどすべての教育にとって
必要である」、が、その一方で、「メディア論ならびにその専門教師は、登り切ったのち
に投げ捨てられるべき梯子のように、その成就の暁には、不必要になるはず( べき) であ
る」というものである。
 
 
【メディア論の誕生→マクルーハンのインパクト】( 第一フェーズ) 
 
新聞学とか、マスコミ論とかよばれる学問領域は、結構むかしからある。
 
それに対して、最近は、「メディア論」とよばれる知的営為が「流行って」いる。
 
メディア論は、当然新聞学やマスコミ論をその内部に含みつつも、後者にとどまらないも
のをめざしているはずだ。メディア論とはなにか?。
 
私見としては、メディア論の「誕生」としては、月並みだがマクルーハン『メディア論』
の出現を画期としたい。
 
マクルーハンは、それまでの「マスコミ論」とはちがった「地平」を開いた、と、いえる
と思うからだ。
 
【マクルーハンのメディア論】
 
マクルーハンというひとは、文章がとてもよみにくく結局なにがいいたいのかわかりにく
い。彼のメディアに関する主張から重要とおもれわるものをピックアップすると、以下の
ことがあげられるだろう。
 
hメディアの【身体拡張】作用。
 
コミュニケーション・メディアというと、まず確固とした「主体」がコミュニケーション
の「両端」にあって、その二つの「主体」のあいだのコミュニケーションを「媒介スルモ
ノ」という図式を描きやすい。
 
(いわゆるシャノンの「糸電話」図式)
 
しかし、マクルーハンは、このような「主体(身体)とメディアとの峻別図式」を、とら
ない。
 
むしろ、いわば【盲人にとっての杖の先は、ほとんど彼の四肢の一部となっている】よう
に、

【メディアは、われわれにとってその感覚器官の一部となる】、と主張する。
 
すなわち、CNNテレビで湾岸戦争を見ることによって、我々の感覚器官(とくに視覚と
聴覚)とが、【地球規模で拡大】することにひとしくなるわけである。
 
よって、メディアの発達によって、われわれの「身体」自体がいわば拡張するにひとしい
効果が生ずるのである。
 
 
iメディアの【発展段階史観】。
 
第二に、マクルーハンは、メディアのいわば「発展段階史観」とでも言うべきものを提起
する。
 
彼によれば、メディアの発展段階は、おもに四つの段階で記述できる。
 
S第一は、「口承」メディア段階であり、T第二は、「文字」メディア段階であり、U第
三は、「活字」メディア段階であり、V第四は、「電子」メディア段階、である。
 
当然、さっきのテーゼhより、各段階は、それぞれの主流とする「メディア」によって、
【身体の編成様式を異にする】ことになる。

つまりは、Uの活字メディア段階からすると、SやTの「口承メディア」や「文字(手書
き)メディア」は、たんに「コミュニケーション効率が劣る段階」であるかのようにみえ
るかもしれないが、

そうではなく

Uの活字メディアの人間と、それ以前のメディア段階の人間とでは、【身体の編成の仕方
からして異なる】のである。
 
よって、U活字メディアに属するわれわれが、自分のいまの身体感覚でもって、それ以外
のメディア段階のひとを類推しては、まったく誤解することなるのである。
 
j【電子メディア時代】の予言
 
マクルーハンの現状認識は、「Uの活字メディア段階から、Vの電子メディア段階に、移
行しつつある」というものである。
 
しかも、以上の議論からあきらかなように、この「活字から電子へ」の移行は、たんに情
報伝達の能力が量的に高まる、というものではない。
 
この「活字から電子への移行」も、以上と同様に、「人間の身体感覚を質的に変容させる
」ことになるだろう。
 
ごくおおざっぱにいえば、あらたなる「電子メディア」の時代は、TUの「文字」「活字
」メディアよりも、Sの「口承メディア」のほうにむしろ近い。

Vの電子メディアの時代には(テレビを想定すればよい)、その身体感覚は、「非線的」
「触覚的」「モザイク的」となっていくだろう。
 
k【地球ムラ化】の予言。
 
以上のテーゼhとjの帰結として、かの有名な「地球ムラ」化の予言が出力される。
 
すなわち、電子メディアによって、人間の身体は、地球規模で拡大し、

その一方で、人間の身体感覚は、口承メディア時代のような、「触覚的・モザイク的」な
ものになる。

その結果、ひとびとは、「地球規模」での「未開民族」とでもいえるような、「文化」を
もつようになる。
 
いわば、地球的規模での「ムラビト」化がおこるのである。
 
 
【メディア・リテラシーの衝撃】(第二フェーズ)
 
このような、「あたらしいメディア論」のインパクトは、【鈍感で・守旧・墨守な】教育
界には、あまりインパクトをあたえなかったが

火の手は、なんとカナダのオンタリオ州であがった。
 
カナダ・オンタリオ州教育省編の『メディア・リテラシー』である。
 
【メディア・リテラシー?】
 
メディア・リテラシー?。ききなれないコトバでしょう。
 
リテラシーとは、いうまでもなく、識字率とか、読み書き能力のことである。
 
メディア・リテラシーとは、「あらたなメディアの時代」に直面している今日、このあら
たなメディアに対応した「あらたな(メディアの)読み書き能力」が必要になっている、
いう問題意識に基づいている。
 
【ほとんどすべての学生のみなさん!!】、ここで注意していただきたい。

このメディア・リテラシーの問題意識は、ごくあたりまえで、とくに【私の身に切迫する
ものではない】ように、みえるかもしない。

しかし、このメディア・リテラシーの問題意識には、裏をかえせば、

貴女がいままで受けてきた「教育」は、じつは、「古いメディア時代」に対応した【古い
時代遅れの教育でしかない】という危険性・可能性(というか高い蓋然性)が隠されてい
るのである。
 
教師・生徒・学生が、これこそが「教育の基本だ」と考えていたもの(以前からのリテラ
シー=読み書き能力)が、

【じつは、古いメディアの発展段階に対応したものでしかない】かもしれないのである。
 
この点が、私が「メディア論的視点は、ほとんどすべての教育にとって必要」である、と
考える根拠である。
 
【ほとんどすべての学生のみなさん!!】、貴女がこれまで受けてきた教育が、古いメディ
アの発展段階に依存したものでしかないかどうか自問してみてください。
 
そして、貴女がいま受けようとしている教育が、あたらしいメディアの発展段階に対応し
ているものであるか、自問してみてください。
 
たとえば、「講義」という教育形態や、「訳読」という外国語教育形態は、このような視
点から再検討されるべきだろう。
 
【さまざまなエクササイズ】
 
『メディア・リテラシー』の第二のインパクトは、以上のような問題意識を教育上で実践
するためにさまざまな「エクササイズ」を提起していることである。
 
これらのさまざまな「エクササイズ」は、いわばメディアをめぐる【実験】とよぶにふさ
わしい。(コピー参照)。
 
あるいは、「エスノメソドロジー」を教室のなかで実際に生徒たちにやってもらうのにも
ひとしい。
 
われわれ「文科系」の教師・学生は、このような【実験精神】を教室のなかに持ち込むこ
とにもオクレテいたのではないだろうか。
 
『メディア・リテラシー』は、この点に関しての刺激剤としての縁ともなる。
 
 
【ルーマンのメディア論】(第三フェーズ)
 
第三に、ルーマンのメディア論のインパクトをあげないわけにはいかないだろう。
 
ルーマンとは、現代ドイツの社会学者で、「社会システム論」のいわば「トップランナー
」である。
 
ルーマンの議論は難解なので、あくまで私の視点で単純化してみよう。
 
彼によれば、社会(システム)の「要素(基本単位)」は「コミュニケーション」である

 
しかも、コミュニケーションとは、通常イメージするような「意思の伝達」だけではなく
、↓
「ひとびとのあいだの意味づけられた作用の伝播」のすべてをほぼ指すようだ。
 
とすると、ひとびとのあいだの、通常「行為」とか「ふるまい」とか「行動」とか呼ばれ
ているものは、ほとんど「コミュニケーション」となってしまう。
 
そして、このような「コミュニケーション」の接続(伝播)のある程度の「かたまり」の
ことを社会システム、と呼ぶようだ。
 
とすれば、社会システムが存続するためには、このようなコミュニケーションの接続が「
保持」される必要がある。

しかし、そもそも「意味」なるものが、「他のように解釈される可能性」(ルーマンのい
う「偶有性」)を要件としている以上、コミュニケーションは、「他のように解釈されて
」接続がうまくいかない危険性がある。

このような「コミュニケーションの接続がうまくいかない危険性」に対処する「仕掛け」
を彼は、「メディア」とよぶようだ。
 
すなわち、メディアとは、「コミュニケーションの接続の確保に資するモノ」のことであ
る。
 
これだけだったら、通常の「メディアとはコミュニケーションの媒介である」という定義
とそれほどかわってはいないようにみえる。
 
実際、ルーマンのメディアの規定(定義)は、通常の定義をいわば愚直に敷衍しただけと
いえる。
 
しかし、その理論的帰結の含意は、少なくない。
 
ルーマンはこのような議論の結果、「メディア」の典型例として「真理・愛・貨幣・権力
・・・」などを指摘することになるからだ。
 
直観的にいって、「科学」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保
するものが「真理というメディア」であり
 
「家族」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保するものが「愛」
というメディアであり、
 
「経済」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保するものが「貨幣
」というメディアであり、
 
「政治」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保するものが「権力
」というメディアである。
 
 
【こんなモノも、メディアか?】
 
ふつう「メディア」というと、新聞などのマスメディアや、テレビ(マスメディアであり
かつ電子メディア)や、パソコン通信(電子メディア)などをおもい浮かべやすい。
 
そんなような「常識」の眼からみる、ルーマンの「メディア論」は奇をてらっているだけ
のようにみえるかもしれない。
 
しかし、そもそもコミュニケーション・メディアは、コミュニケーションを媒介するもの
であった。
 
とすれば、コミュニケーションのあるところにはすべてメディアが存在する。
 
しかも、人間たちの振る舞いを学問の対象とすれは、そこには、ほとんどコミュニケーシ
ョンが存在するだろう。
 
とすれば、メディア論は、「文化科学」とほとんどその外延を等しくしてしまうことにな
るだろう。
 
私は、むしろそうなるべきである、と考えている。
 
 
新聞が発達すれば新聞学、テレビが出現すればテレビ論、パソコンが普及すればパソコン
論、このように新しいメディアの出現普及とともに「新しいメディア論」が出現してきた

 
しかし、たんに「あたらしいメディア」を他と独立に別個に「あたらしいモノ」として考
察しても、十分ではない、と私は考える。
 
「新しいもの」の出現を機縁として、むしろ「古いけれどもそうであるがゆえに見えてい
なかったもの」を見えるようにすることこそ「認識利得」といえるのではないだろうか。
 
「あたらしいメディア」の出現を機縁として、そこから逆に「いままで、気がつかなった
古いメディア」を「逆照射」してみること、これこそが望まれよう。
 
 
「メディア論」ブームをたんに「ブーム」におわらせてはいけないし、また「もうひとつ
別個の小さい個別研究領域が出現しただけ」に終わらせてもいけないだろう。
 
「メディア論」のインパクトを人間科学・文化科学の全領域へと波及させること。
 
それが成就した暁には、メディア論は、「高みに登り切ったのちに投げ捨てられるべき梯
子」のように、消滅しつつみずからの使命を果たしたことになるだろう。
 
 
【宮台によるメディア論批判】( 第四フェーズ) 
 
うえで紹介した、ルーマンの社会システム論を踏まえて、精力的に研究を発表している社
会学者に【宮台真司】がいる。
 
彼の仕事は、日本の社会( 科) 学において、「理論」の点においても「実証」の点におい
ても
 
「最高レベル」の一人といえるので、名前ぐらいは覚えておくといいだろう。
 
宮台の名前は、日本の社会学業界の一部ではかなり早くから知られていたが、

かれを一躍有名にしたのは、一昨年のかの『ブルセラ』論争である。
 
『ブルセラ』という一見「アザトイ」テーマを扱っているからといって「バカにしては」
いけないよ。
 
彼の議論の全体については、今期の講義で後に論じたい、とおもっているが

ここでは、とくに彼の近著で述べられている「メディア論批判」について言及したい。
 
【メディア=疑似現実?】
 
宮台は、「メディアによって現実と非現実との区別のつかなくなった子供たち」というよ
くあるパタンの議論を俎上にのせる。
 
とくに89年の「連続幼女誘拐殺害事件」( いわゆるオタクのMくんの事件) をきっかけに
してこのテの言説が広くみられた、という。
 
メディアのあたえる「疑似現実」が、血も痛みもともなうような生々しい現実を代替する
ことで、現実感覚や身体感覚をマヒさせたという図式である。
 
これに対して、宮台は、
 
もちろん、メディア耽溺と身体感覚の喪失との間には因果関係が見つかるだろう。

だが、問題なのは、そうした耽溺をもたらすものは何なのか、ということである、と言う

 
メディアの機能はもともと一元的でも単純でもない。
 
メディアからどんな機能を引き出されるかは、それがおかれている文脈しだいなのだ、と
宮台は言う。
 
すわなち、「メディアの特定機能だけを選択的に触媒する、受け手の側の特殊なコミュニ
ケーション前提」が問題なのだ、と宮台は言う。
 
メディア接触に「罪」をなすりつけて済ますわけにはいかないのである。そのような短絡
化は、せいぜい攻撃しやすい「敵」をつくりあげて、カタルシスをもたらすのに役立つこ
だけのことだ、と言う。
 
【メディア論的観点の「必要性」と「不・十分性」】
 
宮台の語り口はいつもながら分かりにくいが、

ある文化的現象に対して、メディアは影響をあたえていることは当然だが

なぜそのような「効き方」をそのメディアがしたのか( するのか) については、

その社会・文化の「状況」による、ということだろう。
 
こんなことは、だれでも言われれば、「当たり前だ」というかもしれないが

とかく「メディア論的分析」をしていると、この点を忘れがちだ。
 
この点を忘れてしまうと、ある文化的現象に対して、「メディアが悪い」というように「
罪」をなすりつけて

「ことたり」としてしまうのであろう。( 連続幼女誘拐事件しかり? 、オウム騒動しかり
?)。
 
しかし、いうまでもなく重要なのかは、なぜ、当該の文化的事件に対して、メディアがそ
のように「効いた」のか、という点の分析であろう。
 
( たとえば、われわれの「社会」「文化」のどのような性質が、オウム騒動とメディアと
の相互作用をいまのようなしかたにさせたのか?)
 
 
いわば、「メディア論的視点」は現在において、文化を考究するうえで、「ほとんど必要
」な視点であるが

「メディア論的視点」だけでは、ものごとは見えてこない、ということだろう。
 
すなわち、【メディア論的視点は、文化を考究するうえで、「必要条件」ではあるが、「
十分条件」ではない】のである。
 
 
【教育への具体的提言】
 
さて、これを読んでくださったひとの方のなかには、「たしかに私がこれまで受けてきた
教育は古いメディア段階(具体的は、文字・活字メディア)に対応しているだけだった。
これからは、新しいメディア段階(電子メディア)に対応した教育をうけねばなるまい。
」とお考えの方もいるでしょう。
 
そして、これからは、パソコンとビデオを大いにつかった教育が必要だ、とかんがえるひ
ともいるかもしれない。
 
たしかに、これからの教育は、パソコンやビデオを無視しては成立しない。
 
しかし、ここにはひとつの「ワナ」が待ち構えているように私には思われる。
 
 
【「文字階級」の新たな支配?】
 
最近は「ニューメディア」や「マルチメディア」などいった言及がさかんである. 
 
「現代メディア文化論」が鹿児島大学に新設されたのも, このような時代状況が大きく影
響しているだろう. 
 
そして本講もまた, 「書き言葉」や「活字」といった, 「古いメディア」に対して, 「電
子メディア」という「新しいメディア」のインパクトに注目している. 
 
マクルーハン曰く, 現代においては「活字」のような古いメディアから, 新しい電子メデ
ィアへの移行が, 不可逆的におおきなインパクトでもって進行しつつある, と.
 
これはこれで正しい指摘だが, 【だまされてはいけないよ】. 
 
このようだからといって,【これから,ニューメディアの時代だ.もう活字なんかにした
しまなくてもいいんだ】なんて, 誤解してはいけないよ. 
 
もちろんこれから活字以外のメディアがどんどん出現するだろうが, 
 
「活字」( 文字) メディアの社会的重要性は, 当分のあいだなくならない, と思われる. 
 
おそらく, 少なくともあと150 年ぐらいは,「活字」( 文字) メディアの社会的重要性は
,なくなることはないだろう. 
 
ワープロの普及によってあきらかになったとおり,コンピューター・テクノロジーと「文
字データ」とは,じつは【とても仲良し】なのである. 
 
コピーやパソコンによって「ペーパーレス時代」がやって来るどころか, 紙の消費量が増
大したように, 
 
パソコンやワープロによって, 文字文書の流通量は増大した, と予想される. 
 
 
【むしろこれからのほうが......】
 
今後は, ヴィジュアル( ヴィデオやマンガ) のメディアが普及していくだろう. 
 
しかし上述のように, 文字メディアの重要性もなくならない. 
 
するとかえって, むしろこれからのほうが, 【文字メディアをつかいこなせるヤツと, 文
字メディアをつかいこなせないヤツ】とで,

社会的地位の格差が広がる生じる可能性が高まることが予想できる. 
 
近代以前では, 文字をつかえる階層が社会の一部であり, 
 
だいたい, その階層が社会の支配層であったことは知っているでしょう. 
 
【メディアによるあらたな階級分化? 】
 
現代から近未来においても, 「お手軽なニューメディア」の出現によって,むしろ「古い
メディア」( 文字) をつかえるものとつかえないものとのあいだで, 「階級分化」が生じ
る可能性が高い. 
 
つまり, 【同じ大卒でも, マンガとヴィデオしか見ないヤツ】と, 【活字ばかりの文書(
本) でも, 難無くこなせるヤツ】とのあいだで, 

【階級分化】が生じる可能性が高いのである.
 
 
【論文・読書能力とブラインド・タイプ能力こそが・・・】(提言・承前)
 
というわけで、今後は、以前にもまして、「文字をつかいこなせる能力」の涵養が重要で
あるとおもわれる。
 
とくに、低下の著しい「マンガ以外の活字の本も読む能力」と、「作文能力」が重要だろ
う。
 
後者の「作文能力」にかんしては、日本の初等・中等教育では、「感想」文が重視されす
ぎているとおもう。
 
今後は、「日本的腹芸の通じない人」との「対論」能力が重要になろう。
 
そのためにも、【感想文ではなくて、論文】のトレーニングこそが重要と思われる。
 
 
【パソコン】に関しては、すくなくとも「われわれ文科系」にかんしては、これからどん
どんやさしくなるので、あまりあわてる必要はない、と思う。(あわてて、難しいことを
おしえても、学生が「卒業」するときにはすでに「時代おくれ」になる可能性もある)。
 
ただ、短・中期的には、パソコン・ワープロへの「文字入力能力」の大小がひとに「差を
つける」ことになることは考えられる。
 
したがって、キーボードにおける「ブラインド・タッチ」のトレーニングはのぞましい。
 
【まとめ】。教育への具体的提言としては、【論文・読書能力とブラインド・タイプ能力
の涵養こそが重要だ】。

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