950627ルーマン「メディア」論( 社会システム論)入門                      桜井芳生               

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わが現代メディア文化論特講もあと数回でおわりである。

前にもすこし言及した、宮台真司の「島宇宙コミュニケーション」論(講談社『制服少女の選択』)についてふれてみたいのだが

その前に、宮台が依拠しているルーマン君の「社会システム論」(コミュニケーション・メディア論)の導入をしてみたい。

【現代文化科学の最高峰・ルーマン】

日本の文化というものは、ヘンに平等主義的なところがあって、「出来るやつ」と「出来ないやつ」との区別をあまりしない。

しかし、「学問」の世界はそうではない。「非情」である。ごく少数の者だけが、知的最前線を更新する栄誉を担っている。

社会システム論とかいった本は少なくないが、例によって分かりやすくするために誇張して単純化していえば、【ルーマン以外の社会システム論の本は、読む必要がない】。

( ただし、ウォーラステインの「世界システム論」だけは例外だ。ぜひウォーラステインの本も読んでください)。

というわけで、例によってわれわれは「雑魚」は相手にせず、「本丸」のルーマンの社会システム論についてアタックしてみたい。

【「お経」のようなルーマンをわかりやすく解説する】

というわけで、大学時代のうちに、是非ルーマンの著作を読んで欲しいのだが、

あらかじめいっておくと、きっと貴女は、ルーマンの本を「予備知識なしに」読もうとしても挫折するでしょう。

ルーマンの著作は、まるで「お経」のようなものだ。いろいろなききなれない諸概念が洪水のように押し寄せてきて、たとえ読了したとしても、なにが書いてあったかまるで覚えていない、というふうになってしまうだろう。

というわけで、例によって自らの浅学も省みず、ルーマンの社会システム論の導入をしてみたい。

【「システム」概念】

社会システム論という以上は、「システム」という概念( コンセプト・考え方) が、まずは基本であろう。ルーマンの考える「システム」とはなにか。

[ システムの定義]

システムの外( =環境) と比べて相対的に、 1要素になりうるものが絞り込まれ、 2諸要素間の関係が絞り込まれている領域を、システム( の内部) という。

このシステムの定義はルーマンの言質に忠実なものではないが、こう定義するのが一番わかりやすい、と思う。

この定義の「ミソ」は、システムをそれ自体で規定するのではなくて、システムの「外」との対比によって、規定する点だ。

この「システムの外」のことを「環境」とルーマンは呼ぶ。

そして自らのシステム論の新しさは、このような「システム・と・環境」という図式に依拠していることだ、という。

と、これだけ言っても「チンプンカンプン」でしょう。以下、厳密性はすこし犠牲にするが、わかりやすい例をあげて説明してみよう。

【例:助教授と女子大生の「許されざる関係」】

全人類を例にとると話は複雑になるので、「日本」を例に取ろう。全人類は日本国民だけだとしよう。

この日本といういわば全体集合のなかに、「鹿児島大学」という「システム」を構築するとしよう。

すると、その鹿児島大学というシステムの要素は、「大学の成員( 学生と教員) 」である、としよう。

とすると、すでに、ここでは、上述のシステムの定義の第 1要件がみたされていることになる。

すなわち、日本国民なら、だれでも鹿児島大学の「要素」( 大学の成員) になれるわけではない。 ↓

ここでは、日本国民が「絞り込まれて」、その一部だけが、システムの「要素」( 鹿大の成員) となっている。

【「関係」の絞り込み】

以上のように「要素」が絞り込まれている( 1) だけではない。

「関係」も絞り込まれている。

たとえば、「日本国民」ならだれでも出会った「他人」を「ナンパ」してもいい、としよう。

しかし、「鹿児島大学」の内部では、「助教授」は「女子大生」を「ナンパ」しては「いけない」としよう。

すると、ここでは、鹿大という「システム」の外部( 環境) においては成立しえた「関係」( ナンパ) が、 ↓ 鹿大というシステム( の内部) では成立しえないようになっているのである。

すなわち、「環境とくらべて相対的に、 2関係が絞り込まれている」のである。

【複雑性の「縮減」】

このような「システム」による、「 1要素」と「 2関係」の「絞り込み」のぐあいを、具体的に数値でもって、把握してみよう。

たとえば、上述の例において、「日本国民」の全人口が、「10人」であったとしよう。( 計算しやすいようにわざと少数にしてあります。もちろん「1 億人」でも理屈はおなじ)。

その10人のすべてのひとが全ての他人を「ナンパ」することが許されていたとすると、そこでありうべき「関係」の場合の数は、

10×9 =90通り、である。

すなわち、日本という「環境」における「関係」のあり方は、「90通り」として見積もることができる。

このことを、日本という「環境」の「複雑性」は「90通り」である、ということができるだろう。

すなわち、ルーマンのいう「複雑性」とは、「ありうべき関係の場合の数」である。

これに対して、「鹿児島大学」という「システム」においては、まずは「 1要素」の点で、「絞り込み」がおこなわれる。

すなわち、10人の日本国民すべてが鹿大というシステムの「要素( 成員) 」となるのではなくて、

たとえば、そのうち「4 人」だけが、鹿大の要素( 成員) である、としよう。

もし、この「4 人」が自由にナンパしあったら、生じうる関係の場合の数は、

4 ×3 =12通り、となるだろう。

すなわち、いわば、「 1要素に関する絞り込み」がなされることで、

「複雑性」は「90通りカラ、12通りヘ」と「絞り込み( 「縮減」という) 」されたわけである。

【「関係」における「複雑性の縮減」】

さらにそれだけではない。「 2関係」における「絞り込み( 縮減) 」がさらになされる。

すなわち、鹿大という「システム」においては、成員が「教員」と「学生」に二分され、教員は学生を」また「学生は教員を」ナンパしてはいけない、としよう。

すると、(教員・学生それぞれ2 人ずつだとすると) 、ここで成立しうる「ナンパ」という「関係」の場合の数は

4 ×1 =4 通り( 「ナンパの相手」は自分と同じ身分の者に限られるので、相手の候補は「1 人」だけになる)

と、なる。

このように、「環境」から「システム」へと、 1「要素」の点で、 2「関係」の点で、「縮減( 絞り込み) 」がなされることで、

「複雑性」は、「90通り( 環境の複雑性) 」から、「4 通り( システムの複雑性) 」へと、「縮減」されたのである。

このことを、ルーマンは【システムによる複雑性の縮減】という。

【社会システム=コミュニケーションのシステム】

以上、直観的にわかりやすいように「助教授と女子大生の許されざる関係」を例にあげたが、

じつは、この例は、あまり厳密では( 正しくは) ない。

以上の例では、鹿大という「システム」の「要素」は「成員」すなわち「人」であった。

しかし、じつはルーマンの社会システム論にあっては「社会システム」の「要素」は「人」ではなく「コミュニケーション」である。

「コミュニケーション」といっても狭く考えてはいけないよ。

ルーマンのいう「コミュニケーション」とは、簡単にいって、「世間をとびかう人々の間の【やりとり】のすべて」のことである。

すなわち、通常「行為」とか「行動」とか「振る舞い」とか呼ばれているものはすべてルーマンのいう「コミュニケーション」だとかんがえてよい。

すなわち、繰り返すが、ひとびとの間の【やりとり】は、すべて「コミュニケーション」と考えてよい。

したがって、ルーマンにおける【社会システム】の定義は以下のようになるだろう。

[ 社会システムの定義]

「要素の候補を『コミュニケーション=やりとり』とするような、システムの外( =環境) と比べて相対的に 1要素になりうるものが絞り込まれ 2諸要素間の関係が絞り込まれている、領域」を、【社会システム】という。

【鹿大という社会システムの例】

ふたたび、鹿児島大学を例にして考えてみよう。

まず社会システムにとって「要素」の候補となりうるのは、「コミュニケーション≒やりとり」であった。

したがって、「要素の候補」としては、「ナンパ」( というやりとり) も含まれる。

しかし、鹿大という「社会システム」においては、「 1要素になりうるものが絞り込まれる」。

したがって、鹿児島大学という「お固い大学」では、大学の内部では、「ナンパ」という「コミュニケーション≒やり取り」は許容されず、

「教育」や「学習」といった「コミュニケーション≒やりとり」のみが許容される、というわけだ。

これが、定義にいう「 1要素になりうるもの絞り込み」である。

つぎ第 2要件の「関係の絞り込み」を考えよう。

コミュニケーションという要素相互の「関係」とは、具体的には、コミュニケーションとコミュニケーションとの「接続」をイメージすれば、よい。

すなわち、あるコミュニケーション(という「要素」) に、別のコミュニケーション(という「要素」) が、連なっていく( 接続していく) ことを考えればよい。

さらに具体的にいえば、

鹿大という「社会システム」においては、教員のがわからの「教育」というコミュニケーション( という要素) に対して、学生の側は「学習」というコミュニケーション( という要素) を「接続」させることが期待されている、と考えればよい。

教員の側は、「教育」というコミュニケーションをおこなったのに、

学生のがわが、「御歳暮を贈る」とかいったコミュニケーションを「接続」させ、

さらにそれに対して、教員が「単位を贈る」などといったコミュニケーションを「接続」させてはいけないわけである。

【「縮減」の仕掛けとしての「意味」】

以上のような、「コミュニケーション」を「要素」とする「社会システム」においては、イカニシテ「複雑性の縮減( 絞り込み) 」がなされているのだろうか。

まさにその「仕掛け」の最たるものが【意味】( という仕掛け) なのである。

「意味」とはなんだろうか。

【意味】とは、簡単言って、【あるモノコトAを、あるモノコトBとして、みなすこと】である。

説明しよう。

ある助教授が、ある女子大生に、コトバをかけていたとしよう。

われわれは通常、このコトバAを、あるモノコトBとして、みなして、社会生活を送っている。

すなわち、そのコトバAを、「B1 教育的助言」としてみなしたり、「B2 口説きのコトバ( ナンパ) 」としてみなしたり、しているわけだ。

そして、上述の「社会システム」において、コミュニケーション( システムの要素) やコミュニケーションの接続( 要素の関係) の仕方が、「絞り込まれる」( 縮減) さいに、つかれわれる「仕掛け」がまさに、この【意味】なのである。

すなわち、「あるコトバA」は、「B1 教育的助言」でも「B2 口説き」でも「B3 単なる口の運動」・・・でもありうるのに、まさに「B1 教育的助言」としてみなされる、というように「諸・可能性」が「絞り込まれた」わけなのである。

このように、ある「社会システム」の内部では、さまざまな「やりとり≒コミュニケーション」は、「○○としてみなされる」というように「意味づけ」されることによって、さまざまな可能性( 複雑性) が絞り込まれるのである。

この点で、「社会システム」とは、「複雑性」を、「意味」という仕掛けで「絞り込んで」いるシステムである、といえる。

いわば、「社会システム」とは「意味のシステム」である、と言い換えてもいいぐらいなのだ。

【「保存的否定」という「意味」の機能】

以上のように、「意味」という仕掛けでもって、あるモノコトAは、B2,B3,・・・・ではなくまさにB1 ( 教育的助言) 【として】みなされるのであった。

ここで、ひとつ注意すべきことがある。

以上の説明で「B2,B3,・・・・ではなくまさにB1 として」といった。

すなわち、ここにおいて「B2,B3,・・・・」である「可能性」はたしかに「否定」されている。

しかし、注意すべきなのは、、「B2,B3,・・・・」である「可能性」はたしかに「否定」はされてはいるが【完全になくなってしまったわけでない】ということである。

助教授のあるコトバAは、女子大生によって( あるいは第三者によって、あるいは助教授本人によって) 「B1 教育的助言として」意味付けられたとしよう。

しかし社会というものは「期待外れ」がつきものである。

「B1 教育的助言」として意味づけたところが、後続の「コミュニケーション≒やりとり」の「接続」がうまくいかない( 人間関係がギクシャクしてしまう)、ということはよくあることである。

その際に、さきほど「否定」された「B2,B3,・・・」以下の「他の意味の可能性」が「復活」しうるのである。

「ああ、あのコトバAは、『B1 教育的助言』であったと思ったけど、じつは『B2 口説きのコトバ』だったのかしら? 」というように。

つまり、【意味】というものは、「B1,B2,B3,・・・」といった「複数の諸可能性」のうちから一つ( 例えばB1 教育的助言) を「選択」して、「複雑性を縮減」するけれども

その期待( 意味付け) が、「外れ」たとしても、「別の意味の可能性」を「復活」させることで、

ふたたび「意味付け」することを可能にするような

ファジーで融通の効く、「おいしい仕掛け」なのである。

すなわち、「意味」においては、顕在的には、他の諸可能性( B2,B3,・・・) は「否定」されているようにみえるけれども

じつは「保存的」に否定されている、といえるのである。

人類が、かくも永きにわたって、「期待外れ」に直面しつつも、「社会」なるものを、でっちあげつづけることができたのは

このような「意味」という仕掛けの「融通無碍」な働きのおかげである、ともいえるだろう。

【伝言あそび問題】

しかし、このような「ベンリでオイシイ」意味という仕掛けは、新たな問題惹起してしまう。

それは、いわば【伝言あそび問題】とでもいうような問題だ。

「伝言あそび」というのを小学生のときにやったことがないだろうか。

「雪組」と「花組」のように複数のチームにわかれて

それぞれ「ある日のこと、お爺さんは山に『草刈り』に、お婆さんは川に洗濯にいきました。すると川の上流から、『スイカ』が流れてきました。お婆さんはスイカが嫌いだったので、そのまま家に帰りました。するとお爺さんが山から帰ってきて、『ああ、山はくさかった』といいました。」

とかいったハナシを、それぞれのチームのはじめのひとから順々に「伝言」していく遊びだ。

そして、最終的にはじめのハナシとおわりのハナシが近い方が勝ち、というゲームである。

この遊びをしたことのあるとは誰でもわかると思うが、人間の「伝言」というものは不確かなものである。

当初のハナシは、伝言していくことで、まるで違ったハナシに変身してしまう。

上述の「意味」という仕掛けも同様だ。

「意味」においては、「別のように解釈される可能性が否定されつつも保持されている」と述べた。

したがって、「意味」づけられたコミュニケーションが「接続」していくうちに、当初とはまったく異なったようにコミュニケーションが意味付けされてしまう可能性が存在するわけだ。

すなわち、鹿児島大学という社会システムにおいては、当初、「学問的コミュニケーション」のみが流通( 接続) していたとしよう。

しかし、「意味」は「別様に意味付けられる可能性」を排除できないがゆえに、

この「学問的コミュニケーション」が、いつのまにか「口説きのコミュニケーション」として意味付けされてしまう可能性があるのだ。

すなわち、当初は「学問の府」であった鹿児島大学という「社会システム」が、いつのまにか「ナンパの園」となってしまう可能性があるのである。

これが、いわば「伝言あそび問題」である。

【コミュニケーションの接続を確保するものとしての、メディア】

このようにコミュニケーションが「別様に意味付けられる」危険性に対抗して、

ある社会システムが、自分の一貫性を保持していく( このをルーマンはシステムの「再生産」という) 仕掛けが必要だろう。

( 厳密にいえば、あるいは第三者的にいえば、ある社会システムが自身の一貫性を保持する「必要」なんかない。鹿児島大学が「ナンパの園」になってもべつにかまわない。しかし、モシ現実ににあるシステムが事実上自己の一貫性を保持しているのナラバ、そこにはなんらかの仕掛けがあるハズである) 。

このような「コミュニケーションが他のように解釈されてしまって、コミュニケーションの接続が確保できなくなる」危険性に対抗する仕掛け

まさに、これがルーマンのいう【コミュニケーション・メディア】なのである。

【「メディア」としての「愛・真理・貨幣・権力」】

こうして、ルーマンにおける「メディア」の「定義」は、

「コミュニケーションの接続の確保に役立つモノ」ということになる。

これだけだったら、通常の「メディアとはコミュニケーションの媒介である」という定義と、それほどかわってはいないようにみえる。

実際、ルーマンのメディアの規定(定義)は、通常の定義をいわば愚直に延長しただけともいえる。

しかし、その理論的帰結の含意は、小さくない。

ルーマンはこのような議論の結果、「メディア」の典型として

【真理・権力・愛・貨幣】などを指摘することになるからだ。

直観的に言って、「科学」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保するものは【真理】というメディアであり

「政治」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保するものが【権力】というメディアであり、

「家族」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保するものが【愛】というメディアであり、

「経済」という社会システムにおいてコミュニケーションの接続を確保するものが【貨幣】というメディアなのである。

【科学システムにおける「真理」というメディア】

簡単に言って、ルーマンのいう「メディア」とは ↓ ある社会システムにおいて、コミュニケーション(≒やりとり)が流通(接続)していくうえでの

「幹線」(国道や高速道路)のようなものだ。

すなわち、ある社会システムの内部には、さまざまなコミュニケーション(≒やりとり)が流通(接続)しているが

その「コミュニケーションが流通」するさいに、「ソコを通っていくのが、のぞましい」とされているような「チャンネル」

それがルーマンのいう「コミュニケーション・メディア」である。

たとえば、「科学」という社会システムにおいても、じつはさまざまなコミュニケーション(≒やりとり)が流通している。

科学者が科学者を「口説く」ことなど、日常茶飯事である。

(ちなみに、私の知り合いには、「社会学者」同志で「結婚」してしまったひとがけっこう多い。そういえば、私の「仲人」のご夫妻は「社会学者−文化人類学者」の夫婦である)。

しかし、いわば「タテマエ」としては、科学という社会システムにおいは、コミュニケーションは「真理」というチャンネル(メディア)を通じて流通していくベキ(ハズ)とされている。 ↓ そうすることで、科学という社会システムは、(じっさいは、個々には、「口説き」のコミュニケーションも流通してはいるが) ↓ 全体として「口説きのコミュニケーションシステム」になってしまうことが回避されているわけだ。

【二元コード化】

このような、メディアの特徴として、【二元コード化】がなされることを、ルーマンは指摘する。

説明しよう。

たとえば、科学システムにおける「真理」というメディアにおいては、

そこを流通するコミュニケーションは、すべて【真か/偽か】という「二元」的な「図式」で、評価されるのである。

そうすることで、逆に、そのコミュニケーション(≒やりとり)は「真理」をめぐる言明であると当事者たちに認識され

科学システムは、(ナンパの園ではなく)まさに真理をめぐるコミュニケーションのかたまりとして自己を保持していることができるわけだ。

このように、ルーマンのいう「メディア」においては、コミュニケーションは、「ヨリのぞましい/ヨリのぞましくない」ような二つの値を付与されて流通しているのである。

このことを、ルーマンは「メディアにおいて、コミュニケーションは『二元コード化』されている」という。

上述のように「科学」という社会システムにおいては、【真理】というメディアは、「真か/偽か」という図式でコミュニケーションを二元コード化し、

「政治」という社会システムにおいては、【権力】というメディアは、「命令する/命令しない」(あるいは「服従する/服従しない」)という図式でコミュニケーションを二元コード化し、

「家族」という社会システムにおいては、【愛】というメディアは、「愛する/愛さない」という図式でコミュニケーションを二元コード化し

「経済」という社会システムにおいては、【貨幣】というメディアは、「売る/売らない」(あるいは「買う/買わない」)という図式で、コミュニケーションを二元コード化する、わけである。

【「この料理、まずいネ」】

したがって、ある社会システムにおいては、

そこでのコミュニケーション(≒やりとり)は、どうしても、そのシステムに対応したメディアによって「読み込まれて」しまう。

たとえば、私が、家庭(「家族」システム)において、妻のつくった料理を食べていたとしよう。

そして、その料理がまずかった、としよう。

そして、正直な私が、妻に「この料理、まずいネ」と言ったらどうなるだろうか。

妻もその料理を一口食べ

「ほんとうに、この料理はまずいワ。あなたの『まずいネ』という発言は『真理』だったわネ」となるだろうか

もちろん、そうはならない。

彼女は、何もいわず、心のなかで、「夫は、私のことを愛していないのかしら」といくぶん不満に思うだけだろう。

「科学」というシステムにおいては「真なる言明」というコミュニケーションがなされることがのぞましい。

しかし、「家族」というシステムにおいて「真なる言明」のつもりでコミュニケーションを発したとしても、

それは、往々にして、「愛」というメディア(「愛している/愛していない」の「二元コード」)によって読み込まれてしまうわけだ。

【ルーマン理論の意義】

以上のルーマンの社会システム論の概略である。

読者の多くは、「なかなか『意外』なことを述べていて、面白かった。でも、『常識ハズレ』でかつ『あまりに抽象的』な考え方が、洪水のように押し寄せてきて、目が回ってしまう。いったい、だから、どうだっていうの? 」

と、けげんに思っているひともおおいのではないだろうか。

すなわち、このように、「抽象的で、難解な」ルーマン理論の「意義」は一体何なのだろうか。

じつは、このような「ルーマン理論の意義は何か」という問いには、十分には答えることはできない。

じつは「科学の最前線」とはこんなようなものである。

「海のものとも、山のものともわからない」ようなアイデアをみんなで寄ってたかって、ああでもない、こうでもない、議論をして、ワイワイ・ガヤガヤやっている。

そんなようなモノである。

最前線の科学者は、自分のやっている方向が、「実りのある」保証は全然ないのだが、「きっと実りのある方向だろう」と「希望的に観測」して、やっているだけなのである。

したがって、学問的試みの「意義」が十分にわかるのは、その試みがすでにほぼ「終了」してしまって、科学的「最前線」でなくなったときなのである。

とはいえ、読者はやはり、このようなルーマン理論の「意義」について知りたいだろう。 以下、不十分であるが、私がおもいつくかぎりで、それを述べてみよう。

【意外なものの、「等価機能」性】

ルーマンの議論の第一の「認識利得」は ↓ 【意外なモノ相互の、『機能的等価性』を指摘すること】である。

説明しよう。

通常われわれは、「愛」と「真理」と「貨幣」と「権力」は、「似てもにつかない、ゼンゼンべつなモノ」と考えている。

しかし、ルーマンは、「愛・真理・貨幣・権力」が、じつは、社会システムにおいて、「コミュニケーションの接続」を保持するうえで、似たような働き( 機能) を担っている、と指摘する。

このように似たような働きを担っていることを、「等価機能性」とか、「機能的に等価である」とかいう。

ルーマンの議論の第一の「認識利得」は、このように「一見まったく異なったもの相互のあいだに、機能的な等価性があること」を知らしめてくれることである、といえるだろう。

【「必然的」世界観から、「偶有的」世界観へ】

ルーマンの議論の第二の認識利得は、

われわれ近代人が、しらず知らずに前提としている「必然的世界観」に疑問をなげかけ、

いわば【偶有的( 偶発的) 】世界観をおしえてくれることである。

上述のようにルーマンの議論においては、「意味が『他のように』解釈される可能性」とか、「期待と期待ハズレ」とかいった

【他でもあることの可能性】が非常に大きな位置を占めている。

このような「他でもあることの可能性」のことを「偶有性」と言う。(偶発性・偶然性などとも訳される) 。

あるいは、「偶有的」であるとは、「不可能ではないが、必然でもないこと」である。

通常われわれ近代人は、このようには考えない。

相手( B) は、一秒後にどのように振る舞うかは、「必然的に決まって」いる。しかし、神ならぬ身の私( A) には、その振る舞いが予測できない、だけ、なのだ。と、我々近代人は、自覚はしてはいないけれども前提にして行動している。

しかし、ルーマンは、

まったく【逆転の発想】をする。

世の中でおこることは、じつはすべてすべからく「偶有的( 偶然的) 」なのではないか。

そして、いろいろな社会的な「仕掛け」があって、

ある一部の現象だけが、「まるで必然的であるかのうように」見えるだけではないか、と考えるのである。

大学の助教授は、大学の授業の時間に「講義」をする、と期待されている。

しかし、かれが、「講義」をする「必然性」などないのだ。

ただ、「社会システム」とか、「メディア」とかいった、「仕掛け」でもって、「他であることの可能性が絞り込まれる」ことによって

講義をすることが「必然」であるかのように見えるだけなのだ。

しかし、じつは、彼が授業の時間に「ピアニカを吹きはじめる可能性」もあるのである。

【コミュニケーション概念の一般化】

ルーマンの議論の認識利得の第三は、コミュニケーション概念の一般化ならびに、それにともなうメディア概念の一般化、である。

われわれは、通常「コミュニケーション」とは「情報の伝達のこと」だ。とか、「メディア」とは、「新聞やテレビのこと」だ。とか思っている。

これはこれで、間違いないのだが、

ルーマンは、「コミュニケーション」や「メディア」を定義し、その定義を一般的に展開することで、その概念を「拡張」する。

たとえば、通常「御歳暮をおくる」ことはコミュニケーションとは考えられていないが、ルーマンにいわせれば、これも立派なコミュニケーションのひとつになろう。

新聞が発達すれば、新聞学、テレビが発達すればテレビ論、パソコンが普及すれば、パソコン論

このようにあたらしいコミュニケーションの出現とともに、あたらしいコミュニケーション論が出現してきた。

しかし、たんに新しいコミュニケーションを他と別個に独立に「あたらしいモノ」として考察しても十分ではないだろう。

「新しいモノ」の出現を機縁として、むしろ、「まえまえからあるけれども、そうであるがゆえにみえていなかったもの」を見えるようにすること、

このことこそ「コミュニケーション論」の「認識利得」といえるのではなかろうか。

このような【逆照射】のテクニック、これをわれわれはルーマンから学ぶことができるのではないだろうか。

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