桜井芳生(著作権保持)
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【要約】現代社会科学において「効用」「選好」概念ほど重要な概念は少ない。が、効用・選好概念の周辺にはいくつかの不満点がある。それらの不満点を指摘する。無制約性、形成の暗箱性、個人間比較回避性、当事者の合理性などである。進化ゲーム論の生物学的解釈をヒントにして、効用・利得の新定義を提案する。「ある選択肢の利得(効用)とは、次の同様な機会において他の選択肢が同様に選択されるとの仮定のもとで同様な選択肢が選択されることのありそうさの程度である」というものである。この新定義が、当初の不満に対してどれほどの改善をもたらすかをのべる。この新定義は、「マクロ的乗り換えゼロの基準」という社会倫理学的構想をも開示してくれることをのべる。最後に付論として、この新視点が、人間の「問題」「悩み」についての対処法にもあらたな方途を構想させてくれることを述べ、この方途を「社会ゲーム論的治療」と呼ぶ。
【効用・選好概念の、重要性。と、効用概念の定義がえ】
近代・現代社会科学において「効用」ないし「選好」概念ほど大きな働きをしている概念は、すくないだろう。マルクス主義の退潮にともなう新古典派経済学の一人勝ち、近年におけるゲーム理論の興隆、センのノーベル経済学賞受賞に象徴されるような社会的選択理論と厚生経済学の結合、政治哲学・倫理学における功利主義・自由主義の再評価、などによって、その傾向はいよいよ増しているともいえそうである。しかし、効用概念ならびにそのソフィスティケート版である選好概念には、いくつかの不満点がある。本稿は、旧来の「効用」概念をふまえつつその含意を変更した「新しい効用概念」を提起する試みである。
【効用・選好概念への不満】
効用概念・選好概念には、いくつかの不満点が存在する。あるいは、こういってもいいかもしれない。効用概念あるいは選好概念が、近現代社会科学で、大きな「成功」をおさめたのは、以下のように不満点を克服することを「断念」することという代償をはらったがゆえなのだ、と。
私が本稿で触れてみたい効用・選好概念にかんする不満点はおもに四つある。無制約性、形成の暗箱性、個人間比較の不能性、私秘性、である。この四点は完全に独立ではなく、おもに前二者同士、後二者同士、が、関連している。
(標準的な「効用」の定義として、たとえば、「消費する主体にとっての,欲望充足の度合の主観的測度を効用と呼ぶ。」(猪木武徳1998)を、あげておこう)。
【効用・選好の無制約性】
まずは効用・選好の無制約性についてのべてみよう。近代の主流的な社会科学の大きな特徴は、各人の持ちうる効用関数・選好パタンについて、ほとんど制約をおかないということである。社会的決定理論においては、まさに、選好は無制約であると仮定される場合が多いし、ゲーム論や新古典派経済学においても、選好にかんするいくつかの弱い公理が仮定されるだけである場合が多い。もちろん、これら主流派の社会科学の「強力さ」は、このような「弱い仮定(前提)」のもとで、理論的帰結を出力することにあり、よってもって、「どんな人にも」「どんな場合にも」いえるようなことを出力できるような理論的性能をもったことである、ともいえるだろう。しかし、現実の社会を生きている者の実感からすれば、このように効用関数・選好パタンが無制約である、とはあまりにゆるめられた仮定であると感じられるだろう。したがって、ありうべき理論としては、人々の持つ効用関数・選好パタンに関して何らかの制約をおいた理論があり得、その理論は、選好の無制約性を仮定する理論よりも、ヨリ大きな理論的帰結を出力してくれそうにみえる。しかし、主流派社会科学は、このような方途にかんしてほとんど何もいってくれない。
【効用形成の暗箱性】
この効用・選好の無制約性の仮定に関連するものに、効用形成の暗箱性が指摘できるだろう。主流派社会科学は、効用関数・選好パタンについて無制約性の仮定をおくだけでなく、その効用関数・選好パタンがいかにして形成されるのか、についてもほとんど何も述べない。
言い換えれば主流派社会科学にとっては、人々がどのような効用関数・選好パタンを持つかは、ほとんどの場合、理論にとって「所与」である。すなわち、「与えられる」ものであって、その理論自体が与える(導出する)ものではないのである。
しかし、いうまでなく、現実の社会を生きている者の目からは、人々の効用関数・選好パタンは「変化する」。少なくとも「変化するように、みえる」。とすると、このような効用関数・選好パタンの「変化」を予見してくれるような理論が希求されるだろう。しかし、以上のような事情で主流派社会科学は、かなり前提的なレベルからしてのような効用関数・選好パタンの変化を出力する性能を持たないようなのである。いわば、効用関数・選好パタンの形成問題は、理論にとって、「ブラックボックス(暗箱)」になってしまうのである。
【効用・選好の、個人間比較の回避、私秘性】
次に指摘したい不満点は、効用関数・選好パタンの「個人間比較の回避」と「私秘性」である。
主流派社会科学の多くにおいては今日でも、選好の個人間比較はなされない場合が多い。これはこれで、ある意味では、しようがないことのようにもみえる。私のあることAにかんする効用・選好と、あなたのそのことAにかんする効用とを、比較することは困難であるようにみえるからだ。しかしまた、社会を現実に生きている者の感覚からすると、同じことAについての、別人たち(私とあなた)の、効用の比較が、何らかの意義を持っている場合があるようにも感じられる。もちろん主流派社会科学の内部(周縁部?)においても、効用の個人間比較への方途は模索はされているようである。しかし、そのフレームワークにおいては、結局は、「「あなたの身になったとしての対象Aにかんする効用」の私にとっての効用」と、「「私に身になったとしての対象Aにかんする効用」のあなたにとっての効用」との比較となり、結局は「私がかんじる効用」と「あなたがかんじる効用」との比較であり、「同じ土俵の上での比較」とは言い難い。効用の個人間比較を志向するとして、このような「他者の身になったと斟酌した個人の効用」として定式化するしか方途はないのであろうか。もし、それ以外の方途があるのだとしたら、それは、前者のような方途と比べてどのような利点を持つ(あるいは持たない)のであろうか。
この効用の個人間比較の回避と関連して、効用関数・選好パタンの「私秘性」の問題がある。主流派社会科学の暗黙の前提においては、いわば、「人の頭の中を覗くことはできない」。したがって、そもそもその人がどのように効用関数を形成するかはわからない。だから、その人がどんな効用関数を持っていたとしても適用できるような理論を用意してある。しかし、この「人の頭の中を覗くことができない」という暗黙の前提は、大きな難問を提起してしまう。もし人の頭の中をのぞくことができないのだとしたら、その人が一体どのような効用関数・選好パタンを持っているか、をどうやって知ることができるのか、という難問である。
いうまでなく、このような困難性が典型的にあらわれているのが、社会的決定理論における「ギバード・サタスウェイトの定理」であろう。ここにおいては、この難問は、いわば否定的に回答されてしまっている。選好の無制約性などいくつかの「自然な仮定」をおくと、人にウソの選好申告をさせない(正直者がバカをみない)ような社会的決定システムを構築することは不可能であることが論証されている。
【社会当事者の合理性】
主流派社会科学においては、各個人は、各々の「効用関数」をもち、この効用を最大化するように行動すると想定されている。その効用最大化をおこなう際には、各個人には、無限大の計算能力が備わっていると想定されている。しかし、よく言われるように、現実を生きている人々がそのような無限大の計算能力を持っていると考えるのは、疑問が残る。
【効用概念の定義がえ】
以上のような既存の効用概念・選好概念に対する不満点をふまえて、本稿では、「効用」概念の「定義」を変えることを提案してみたい。すなわち、効用概念の「新定義」を提起してみたいのだ。
はじめに手品の種明かしをしてしまおう。以下私が提案する効用概念の「新定義」はじつは、私がはじめからさいごまで独力で「大発見」したものではない。いわゆる「進化ゲーム論」において、「トンネルの半分」までは、陰伏的・遂行的には用いれらているものである。
進化ゲーム論については、社会科学においても盛んに応用されつつある。
しかし、そこにおいて用いられる「利得」(効用)概念が、生物学由来の進化ゲーム論と、社会科学で通常なされるゲーム論の援用・解釈とでは、「まったく異なる」ということが、意識されることはすくない。
私は、この生物学由来の「進化ゲーム論」における「利得」概念が、社会科学的ゲーム論解釈とは、まったく異なる、ということを強く意識することからはじめる。
そうすることで、社会科学のおいても進化ゲーム論を利用するにあたっては「利得」概念を解釈替えする必要を指摘する。
しかし、このように生物学的進化ゲーム論由来の利得概念を社会科学にそのまま適用することはできない。「利得」概念の解釈は若干の拡張を要する。
こうしてえられたものが、私の提案する「新定義された効用概念」である。これは、生物学的ゲーム論における「利得」の解釈をも、その下位に含む、ヨリ一般的な概念であるといえよう。
【利得と合理性の生物学的解釈】
前々節までで述べてように、効用・選好概念はいくつかの不満点がある。これにたいして、(進化)ゲーム論の生物学的解釈においては、同じゲーム論表記の「利得」に関しても人間のゲームのように「効用・選好」とは解釈しない。
これは、通常の生物はわれわれ人間のように意識があるかどうかわからない、生物にあなたは何が好きですか、と聞いてみるわけにはいかない、ということも事情のひとつにはなっているのだろう。
で、生物学的解釈においては、「利得」は、そのプレイヤーの「再生産力」「同種の複製力」として解釈される。(!!用語の確認をせよ)。
すなわち、二人のプレイヤーが同じ状態にいたったとして、両者が大小別の値の利得値をえたとすると、大きな利得値をえた方が次の世代においてより多く仲間(子孫)を残し、他方は相対的に少ない子孫しかのこせない、と考えるわけである。
このような解釈は、いくつかの利点を持っている。第一は、対象とする生物に、無理に人間的な効用・選好的な含意を読み込まなくてよい、ということである。
第二は、こう解釈することで、上で述べた「合理性」問題が解決してしまう、ということである。人間についてのゲーム論においては、人間は効用を最大化するように合理的にふるまうという効用最大化仮説を前提にしなければならなかった。しかし、このように解釈された生物進化論においては、利得を最大化するようなものが(利得の定義からして)より多く生き残る、よって、生き残っている生物は、利得値を最大化すると期待できる、と考えることができるわけだ。
【再生産力尺度(測度)・模倣・魅力へ】
以上のように、生物学における進化ゲーム論においては、利得値は、人間のゲーム論のように効用・選好として解釈されるのではなく、「再生産力」として解釈される。同様の考えを人間のゲームにも導入することを提案してみたい。
ただし、通常の生物学における再生産力は「複数世代にわたる繁栄・衰退」を含意している。しかし、人間社会においては、一世代内時間においてもあるパタンが社会の中で増えたり減ったりする。いうまでもなく人は「模倣」をするからである。よって、人間の進化ゲームにおける「効用(利得値)」とは、模倣されやすさをも入れ込んだ上での「再生産力」として定義するのがよい。これが本稿の主要命題(イイタイコト)である。これは直観的には「魅力の大きさ」を含意することになるだろう。
【効用・利得の新定義】
すなわち、私が新たに定義する「効用・利得」とは以下のようになる。
[効用・利得の新定義]
「ある者がある選択肢aを選択し他の立場の者がそれぞれ選択肢を選択した結果、もたらされる選択肢aの利得(効用)とは、次の同様な機会において他の選択肢が同様に選択されるとの仮定のもとで同様な選択肢aが選択されることのありそうさの程度(メジャー・測度)である。」
直観的な含意づけも加味して説明してみよう。たとえば、私にとってのお煎餅を食べることの「(新しく定義された)効用」とアイスクリームを食べることの「(新)効用」とをかんがてみよう。
ふつうであれば、私にとってアイスクリームの食べることの方が、お煎餅をたべることよりも、ヨリのぞましく、効用が高い。「したがって」次の同様の機会においても、私は、アイスクリームを食べるだろう、と考えるだろう。上で提起した定義では、この「したがって」の前後をいわば逆転させてかんがえるのである。「(アイスクリームを食べることは)効用が高いから→また、やる(アイスを食べる)」と考えるのではなくて、「また、やりそうなことを→効用が高い、と呼ぶ(定義する)」わけである。
いまの説明は一人の人間にのみ照準して例示した。が、この定義はむしろ多人数に照準した方が直観的理解は自然かもしれない(一人でも形式的には何ら問題ない)。すなわち、いま社会においてある者が「アイスをたべる、と、煎餅を食べる」という選択肢に直面していたとする。で、前選択肢による効用・利得と、後選択肢による効用・利得とを、次の機会に同様な選択肢にたった人たちがどちらを選択する度合いが多いか、によって定義するわけである。
このように定義するミソは、ある者があることをすることの効用・利得を、彼がそうすることの社会から見た「魅力」から考えることである。すなわち、社会全体の人が彼がそうすることをどれほど「マネしたいか」という視点で評価することである。そしてその「マネされるありそうさ」を「効用・利得」の新定義とするのである。
したがって、ある者一人にとっての効用ということをとくに考えたい場合も、彼自身がそのことをするという選択をどれほど再現(自己模倣)したいか、という程度によって「効用・利得」をはかることになる。
旧来の効用概念が、個人の評価した効用を基に考え、それを何らかの仕方で社会へ展開させようとするのと、まさに逆の発想をとるわけだ。私は(新)効用を、ある者があることをしたことに対する社会(集団)全体が評価する「まねしたさ」として把握するわけである。そして旧来の個人的な効用を、このような共同主観的?な効用の特殊場合としてかんがえるわけである。
【効用含意の、「快楽」から「魅力」へ】
以上のように効用概念が定義されなおされると、効用概念の直観的含意(解釈)も、若干異動する。ベンサムの「快楽計算」論いらい、効用概念は、多くは「快楽」のことである、と解釈されてきたといえるだろう(もちろん、例外もおおくある)。
しかし、ここで、新たに定義された「効用」とは、快楽というよりも、すでにのべてきたようにむしろ「魅力」として解釈するのがふさわしいだろう。ある者があることをなす。そのことによって、(その者自身も含む)ひとびとたちが、そのことに対して「魅力」を感じる。そうして、ひとびとたちは、自らも、そのことをおこなおうとしていく。こうして社会全体が変化していく。このように考えると、旧来の「快楽」的な効用概念よりも、本稿でのような「魅力」的な効用概念の方が、こと社会の振る舞いを追尾するという問題意識からは性能がたかそうである、と筆者は直観してしまうが、読者はどうであろうか。
【(新)効用源泉については、オープン】
このような構想には、まずひとつ旧来的発想からの疑義がありうるだろう。すなわち、このように「魅力」的な意味で効用を再定義したしても、結局は、人々は、ある状態の(旧来的な意味での)効用を求めて、模倣するのではないか、と。
この論点に関しては、現時点では、私はあえて、オープン(そうであるとも、そうでないとも、いわない)にしておく。われわれの定義の利点は、このようなオープンネスに定位できることである。人がある振る舞いを模倣するのが、結局はその模倣された振る舞いにかんするその人の効用評価によって還元できるのか、できないのか、どちらであってもわれわれの定義は「使える」わけである。逆に、通例のように、個人的効用からはじめるかぎり、人々による模倣がどのようにしてこの個人的効用に左右されるのか、を確定しなければならなくなるのである。
【選好の無制約性?】
このような探求方途は、選好の無制約性・選好形成の暗箱性についても、脱却の光をなげかけてくれるかもしれない。
まず選好の無制約性にかんして。
じつはゲーム論の視点をとると、選好(効用)の無制約ということはほとんど意味を持たない。なぜなら、あるゲームを定義するということはほとんどある効用の布置を設定するということと等しくなってしまうからだ。(精確にいうと、あるゲームを定義する上での必要条件が効用の布置を確定することである)。(この点、ゲーム論と社会的決定論(選択論)は、数理的アプローチをとるという点では共通だが、大きな乖離がある。この点に自覚的な研究者は必ずしも多くはない)。
じつは、この点は、旧来の効用概念をとろうと、ゲーム論のフレームワークをとるかぎり、同様であった。
しかし、「社会にはいろいろな人がいる」という直観をわれわれの多くは持っており、この直観を理論上に翻訳したものが、「いろいろな効用関数を持っている人がいる」という仮定であったのだろう。で、この仮定をクリアするヨリ緩い仮定として、「選好の無制約性」の仮定が理論に課せられるべきであるように感じられたのだろう。
しかし、この事情はそのままうけとるわけにはいかない。たしかに、とくに近代社会においては、「社会にはいろいろな人がいる」という感覚にはリアリティがあるだろう。しかし、このリアリティを理論の土俵にのせるに際しては、本稿の視点からは二点注意すべきことがある。
第一は、たとえ、旧来定義の効用から見て、「いろいろな人」が当該社会にいたとしても、本稿の新定義の効用からすると、それはいわば自動的に「集計」されてしまっている、ということである。
本稿において新しく定義された「効用」とは、ある選択肢が次ぎの期においてどれほどのプレイヤーを魅惑し選択されるようになるか、の程度をあらわしていた。したがって、定義の当初の水準からして「マクロ」的なものなのである。(新)効用の表記の仕方はさまざまでありうるが、たとえば、状態Aの効用が「1」と表記され、状態Bの効用が「2」と表記されたとすると、本稿の定義されすると、すくなくとも、次の期においては、状態Bをめざす人の方が「多い」ということを含意する。たとえ、個々の「人」がさまざまな(旧定義の)効用をもっていたとしても、それは本稿のように定義された効用概念にとっては、「難点」とは感じられないのである。
この点にかんする本稿の第二に注意点は、現実の社会において「いろいろな人がいる」ようにみえるのは、「いろいろな効用(関数)を持つ人がいる」ということなのではなくて、ある所与の(ひとつの)ゲームに対しても「いろいろな戦略をとる人がいる」ということをじつはあらわしている場合が多いのではないか、ということである。
すなわち、「外見上の価値観の多様性」とは、「効用(関数)の多様」の謂いではなくて、じつは「戦略の多様性」のことなのかもしれない、と提案してみたい。(ゲーム論的にいうと、そしてまた本稿において、「戦略」とは、「生じうる場合それぞれに対してどのような選択肢を選択するかを指定した、計画」のことである。)
こう考えることで、私は「選好形成問題」あるいは「選好形成の暗箱性」についてもブレイクスルーの光明を見いだせるのではないか、とおもう。
すなわち、通常の新古典派経済学・ゲーム論・功利主義倫理思想においては、個人がどのような「効用(選好)」を持つかは「所与」である。あるいは選好の形成は、理論にとっては「暗箱(ブラックボックス)」である。理論自体は人々がどのような選好(効用関数)をもつかを予言することはできない。理論はあくまで各個人がある選好(効用関数)を持ったということを前提にして、そのもとでどのような選択が合理的であるかを描くことしかできない。
しかしまた、いうまでもなく、現実の社会を生きていると、人々の「選好」などは変化する場合が多いようにみえてしまう。つまり、選好形成問題が現実上は大きな問題であるようにみえるのに、理論はその問題を解く性能をはじめから持っていないことが明らかであるようにみえる。
この選好形成問題・選好形成の暗箱性についても、わたしは、上述のように社会において一見上「価値観の変化(すなわち、効用関数・選好の変化)」とみえることはじつは、「戦略」の変化なのだ、と考えることで行き詰まりを打破できるのではないかと考える。世にいわれている「価値観」が、じつは選好ではなくて、「戦略」であるとかんがえれば、価値観の変化を、諸戦略の頻化・希化として解釈することができる。これは、進化ゲーム論のフレームワークにまさに整合的である。
【一回的選択をめぐる疑義】
本稿のようなこのような「効用」の定義にかんしては、次のようないわば「一回的選択をめぐる疑義」とでもよぶ得るような疑義がありうるだろう。
すなわち、本稿では、ある選択肢の選択によってもたらされた社会状態が、次の同様な場面で、どれほど同様な選択肢の選択を引きつけるかによって(新定義の)効用・利得を定義した。しかし、社会のおいては、「次の同様な場面」の存在しないような「一回的な選択」も多いのではないか。そしてそのような場面でも、ひとは効用とか利得とか選好とか呼びうるようなことをかんじているのではないか。という疑義である。
この疑義に関しては完成品の返答は未だ持ち合わせていない。しかし、以下のような見通しをもっている。それは、ある厳密さの水準からすると、ここでいったような「一回的選択」は、じつは効用とも利得とも選好ともかかわりない、のではないか、ということである。たしかに現実にはたとえ一回的な選択においてもひとは「こうしたのはたしかによかった」「別様にすべきであった」となどと「効用・選好」の「事後評価」をするようにみえる。しかし、もし、その選択が完全に一回的なものであるならば、そのような「事後評価」は「後悔するだけムダ」な行いだろう。この点から推測すると、ひとがたとえ一回的な選択において効用や選好に類するようにみえることを感じていたら、それは「なにがしかのその選択の反復性」を(たとえ想像上にすぎなくても)前提にしていると仮説するのは棄却しがたいようにおもう。
いま、効用の「事後評価」に即して述べたので、さらに、効用の事前評価を持ち出して疑義を継続する向きもあるかもしれない。しかし、ちょっと考えてみてほしい。厳密に一回的な選択においてひとはその選択によって開示される諸社会状態について完全な意味で効用の「事前評価」を、できるのであろうか?。想像的に各選択肢を選択してみてその上での想像上の結果した諸社会状態のうちで、どれならまたやってみたいか、と判断しているのではないか。すなわち、ここにおいても、「模倣のありそうさ」という効用の定義要件は顔をだしているように思える。
【合理性問題の克服】
このように効用・選好・利得を、再生産力・(直観的には)魅力によって、再定義する最大のメリットの一つは、このように方途によって、行為者の「合理性」より正確に言えば「(効用)最大化能力」に関する疑義の大部分が払拭されてしまうことである。
この件に関しては生物学的に解釈された進化ゲーム論の弁証論がほぼそのまま使える。
生物学的に解釈された進化ゲーム論では、いうまでもなく、個々の個体(プレイヤー)の「合理性」(効用最大化能力)は必ずしも仮定されない。個々の個体は、最大利得値をもたらさないようにプレイするかもしれない。しかし、そのようなプレイをした個体は、自分の遺伝子を多く再生産させることができず、やがては(負の)淘汰をされてしまう。
ここで新しく定義された効用・利得概念をもとにしたゲームにおいても同様である。たしかに個々の個人(プレイヤー)は、完全な効用最大化能力をもたないかもしれない。しかし、このような振る舞いは、結果的に「魅力の乏しい」状態を帰結させてしまい、自分自身をも含めた後続者を比較的に言って多く獲得できない。その結果、中・長期的には、そのような利得最大化をもたらさないような選択は、(負の)淘汰をされてしまい、消えゆく、と推測できるのである。その結果、個々の個体はたとえ、利得最大化をおこなう性能がなかったとしても、中長期的には社会全体では、利得最大化をおこなえる選択肢が生存淘汰していくと推測できる。逆にいえば、中長期的に社会全体で生存淘汰している選択肢は、利得最大化性能を持っている、と考え得るのである。
こうして、「ひとははたしてそれほど、合理的(効用最大化能力をもつ)か、」という問題は、致命的な意義をもたなくなるのである。
【効用の新定義の、社会人間観的意義】
以上の効用の新定義は、たんに学問の「便宜上」、新定義をするという解釈もできる。まずは、このレベルで、この定義を採用するか否かを議論していただきたい。
しかし、それ以上に、このように新定義をするということに「社会観・人間観的意義?」を付与することもできるだろう。(ただし、くりかえしになるが、以下述べるような「社会観・人間観」的意義を共有しなくても、この定義の採用は可能である)。
すなわち、人は「自分が何を好きであるか」がじつはよくわからないのだ、という含意を付与してみることである。
つまり、ひとは、(自分も含めた他者が)「模倣してはじめて」自分が何を選好していたかを自覚できる。あるいはもっとショッキングにいえば、はじめから「好み」のようなものは存在しない、あるのは「(自分をも含めた)他者模倣」であり、そこから逆遡及された「選好」があるかのようにみえるのである、と。
「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と同様に、いわば、「選好するから模倣するのではなく、模倣するから選好するのだ」とでもいうように。
つまり「模倣」こそが根源的なのではないか。と、発想の逆転をしてみることを、この視点は開示してくれるだろう。
【効用の個人間比較問題】
すでに論じてきた行論からもあきらかであるとおもうが、本稿の「新定義」の効用・利得は、「必ずしも個人的なもの」ではない。ある振る舞いが、次の期において、同様な振る舞いをどれほど喚起するか、という程度にのみ照準している。次の期の同様な振る舞いが、「同一人物」によってなされるのか、「別の人」によってなされるかは、定義の当初の一般性の水準からは、「無意義(無差別)」である(どちらでもよい)。
したがって、このような効用の定義法は、旧来のあくまで個人に準拠していた効用の定義法の難点を多くを相続しなくなるだろう。とくに、「効用の個人間比較の回避」の問題は、問題からして解消してしまうだろう。
旧来の効用定義があくまで個人に準拠していたことの、影響力はじつはかなり大きい。たとえば、厚生経済学において、望ましい社会状態に関する基準をかんがてみても、「パレート効率性」以外にはあまり同意を得た基準は存在しない、といえるだろう。これも、効用があくまで個人に準拠して定義されていたがゆえに、効用の個人間比較を回避したくなり、その結果、効用の個人間比較に立ち入らなくても使える望ましさの基準しか使えなくなり、その結果、パレート効率性基準くらいしか、のこらない。という事情があるのではなかろうか。
したがって、本稿にように、個人に準拠せずに、効用を新定義することは、このような厚生経済学の困難性に関してもブレイクスルーを準備してくれるかもしれない。この点を、次節で、かんがえてみたい。
【社会的に望ましい状態。マクロ的乗り換えゼロの基準】
本稿のような「新定義」の視点は、一種の「社会的理想状態?」(社会全体からみた望ましい状態)についても一つの提案を構想させてくれるかもしれない。
社会全体にとってどのような社会状態が(もっとも)のぞましいのか、については、厚生経済学や社会倫理学にとって最重要問題であろう。が、この問題に関する同意された回答は未だ提起されていないだろう。厚生経済学においては、パレード効率性が、ほとんど唯一の、かなり同意された望ましい状態の基準であろう(ただし、パレート効率性へも疑義がないわけではない)。が、いうまでもなく、パレート効率基準だけでは、社会状態は一意に確定できない場合が一般である。よって、パレート効率基準以外にもさまざまな考え方が提起される。が、同意はえられていないといえるだろう。比較的有力なのが、功利主義(総効用最大化基準、あるいは、平均個人効用最大化基準)と、リベラリズム(いわゆる「較差原理」、マックスミニ原理、最も恵まれない境遇を最も改善するようにする。)であろう。
本稿の視点は、このような望ましき社会状態はいかなるものか、という問題へも一つの答案の構想をたすけてくれるかもしれない。
すなわち、本稿における「効用」「利得」とはある振る舞いの結果を本人を含めた他者たちがどれだけ模倣するか、によって程度づけしていた。とすると、社会全体のマクロ的視点からみて、現在行っている振る舞い(選択)からの「乗り換え」(選択肢の変更)がなくなったとき、社会全体はある意味で、「最も望ましい」状態になったといえるのではないだろうか。なぜなら、もしそうでない(のぞましくない)のだとしたら、だれかは、現行の振る舞いの仕方から「乗り換える」ことがしょうじるだろうからである。
ただし、いま「社会全体のマクロ的視点から」とのべたように、これはあくまで、社会全体からみて「乗り換え」が「差し引きゼロ」になっていることに照準している。おそらく、社会全体のマクロ的視点からみて「乗り換え」が「差し引きゼロ」になっていたとしても、ミクロ的には「選択肢1から選択肢2に乗り換えるひと」と「選択肢2から選択肢1に乗り換えるひと」が、同数程度存在することがありそうであろう。が、この点は、社会全体の望ましさをはかる場合には捨象したい。(いわば、「自然失業率」の発生については、あきらめる、ようなものである)。このような基準を「マクロ的乗り換えゼロ」の基準と呼んでみよう。
ただし、この着想のレベルのままであると、それはたんなる市場主義に近いように直観される。これはパレート効率は満たしそうな気はするが、これによって帰結した社会状態は、「資本家は、労働者に【なりたくないから】労働者になろうとしない」一方で「労働者は、資本家に【なれないから】、資本家になろうとしない」といった状態にすぎないかもしれない。また、このような基準で考えるならば、とくに社会倫理学的に議論をする必要もなく、社会はやがてはそうなる、ようにもみえるだろう。
【仮想的社会流動性によるチェック】
このような疑義はじつは私自身もっともだと思っている。それで、さらに、この着想を発展させて、「仮想的社会流動性」をも付加して以上の着想を発展させてはどうだろうか。
すなわち、以上の疑義であれば、労働者は資本家になれようがなかったので資本家への「乗り換え」が生じなかった。では、仮想的に労働者から資本家への乗り換えが可能であったらどうか、と、かんがえてみるのである。その結果、資本家への乗り換えをする労働者が増えることが予想される場合もあるだろう。あるいはまた、そうして資本家がふえるならば、資本家相互の競争がはげしくなり資本家であることのウマミがすくなくなり(他方労働者は減少して労賃は高騰し、)、結局は「マクロ的乗り換えゼロ」の基準だけと結果はさほど変わらなくなる場合もあるだろう。
このような吟味の仕方を「仮想的社会流動性によるチェック」と呼ぼう。リアリティのあるあらゆるこのような「仮想的社会流動性」のチェックによっても、「マクロ的乗り換えゼロ」の基準を当てはめた結果とほとんど結果が同じになってしまうようならば(このような場合を「ケース★」と呼ぼう)、簡便に「マクロ的乗り換えゼロ」の基準を採用することは大いに説得力をもつだろう。意外に「ケース★」が成立してしまう事例が多いような気がするがどうだろうか。
もし、このような「仮想的社会流動性のチェック」にかけると、ただたんに「マクロ的乗り換えゼロの基準」を当てはめた場合と結果が異なってしまう場合には、その「仮想的社会流動性」のリアリティに照準して討議がなされることになる。(この場合の下位類型として)もし、いろいろな「仮想的社会流動性」を想定すると、それぞれかなりことなった結果がしょうじてしまうのならば、それぞれの仮想的社会流動性のリアリティが討議されるだろう。
このようにして討議されて最もリアリティがあるとされた仮想的社会流動性を付与した結果が、たんにマクロ的乗り換えゼロ基準による結果を著しく異なる場合には、何らかの社会的措置(「補償」のようなもの、あるいは「革命」?)もかんがえられるだろう。
もしかしたら、功利主義や、リベラリズムとは、「どのような、仮想的社会流動性をとるか」にそれぞれ対応した立場である、と位置づけ直すことができるかもしれない。
以上のように、このような構想は、「ケース★」が成り立つ事例では、社会全体の望ましさについてかなり決定的な提言ができる。ケース★が成り立たない事例では、それほどの性能は持たないが、あらたな照明のもとで、諸方途を比較することを可能にする。というわけで、この構想は追求してみるに値する構想であるように思われる。
* * *
以上で、本編は終わりである。残りの紙面において、このような視点の変化がもたらしうるいくつかの見取り図の変化のうちの一つを構想的に述べてみよう。
【言語ゲーム論的治療から、社会ゲーム論的治療へ?】
もし本稿のアイデアが最大限成功していたとすると、本稿の方途は人間の救済?に関しても一つあらたな道を開いていくれるようにおもわれる。
周知のように、ウィトゲンシュタインは『哲学探究』のなかで、哲学者が扱う問題の多くがいわば虚偽の問題であり、言語ゲームの一種の誤用にもとづいており、そこからの解放は、哲学的問題を哲学的に解くことではなくて日常的言語ゲームに回帰することによる、と説いているようにみえる。このような視点を「言語ゲーム論的治療」と呼んでみよう。
このウィトゲンシュタインの構想は、非常に啓発的なものだが、二点ほど不満点がある。
第一は、治療対象が哲学者・哲学的問題にかぎられていること、である。
説明しよう。私はときに大学の低学年生むきに、デレク・ジャーマン監督の映画『ウィトゲンシュタイン』をみながら、『哲学探究』の抜粋を使って、言語ゲーム論の導入を試みている。現代人文社会諸科学における言語ゲーム論の影響の大きさをかんがみて、である。ところが困ったことがある。『哲学探究』の文言(とくに前半)を素直によむと、言語ゲームの日常用法を誤用してしまうことで哲学者の哲学的難問がしょうじてしまうのであって、言語ゲームを通常者が日常的に使用している限りは問題がないように、読めてしまうのである。
したがって、学生たちによっては、「なんだ。僕たちにとっては、べつに問題はないんじゃないか。だとしたら、なんでこんな小難しい本をよまなきゃならないんだ?」と思えてしまうのである。
このように「言語ゲーム論的治療」はとても啓発的であるが、治療対象が哲学者・哲学的問題に限られてしまう(ようにみえる)、という不満がある。
言語ゲーム論的治療に関する第二の不満点は、病的事態の発生メカニズムが不明瞭だ、ということである。
以上のように『哲学探究』(の少なくとも前半)においては、ウィトゲンシュタインは、哲学的問題(のかなりの部分)を、言語ゲームの誤用による虚偽問題であるように考えているようにみえる。しかし、では、もしこの理解がただしいのだとすると、なぜ、二千年?にもわたってこのような「しようもない」「詮無き」問題が存続しつづけてきたのか。このことについて『哲学探究』は説明してくれない。
これに対して、われわれは以上のようなウィトゲンシュタインの言語ゲーム論的治療をヒントにして、「社会ゲーム論的治療」という方途を構想することができるだろう。そして、この構想は、成功するならば、以上の言語ゲーム論的治療のもっていた二つの不満点を克服したものになるだろう。
【社会ゲーム論的治療、とは】
すなわち、人々は社会において、何らかの振る舞いをするのであるが、その任意の振る舞いは、次の時点において、同様な振る舞い(選択)を、より多く喚起してしまったり、より少なく喚起してしまったりする。この「多さ・少なさ」のことを、本稿では新しく「効用・利得」として「定義」したのであった。
で、このような振る舞い(選択)の再生産的な存続に付随して、人間が感じる「悩み」や「問題」といったコトも存続していくことがあるだろう。ある場合には、「悩むこと」「問題にすること」自体が、それ自身一つの選択として存続していくこともあるだろう。また、複数の振る舞い(選択)がともに存続することで、その複数の振る舞いの関係(齟齬?)として何らかの「悩み」「問題」が生じ、その複数の振る舞いが存続していく限り、その「悩み」「問題」が存続していくこともあるだろう。
他方、これらの「振る舞い」(選択)が、他のそれらに比して相対的に「より少なく」自らを再生産するのならば、進化論的視点からは、その振る舞いは、やがては人間社会から消滅していくだろう。とすれば、それに付随して存続していた「悩み」や「問題」も、(「解決」されることをまたずに!)「消滅」してしまうだろう。
われわれは以上のようなフレームワークを構想することができるだろう。そこでは、個々の振る舞いは、本稿で定義されたような「新・効用」「新・利得」値(すなわち、ある振る舞い=選択が、同様な振る舞いを模倣的に増殖させる程度の大小)を媒介にして、進化的に社会のなかで「増加」したり「存続」したり「消滅」したりするだろう。それに応じて、「悩み」「問題」も、増加したり、存続したり、消滅したり、するだろう。
ここにおいてわれわれのように効用や利得を、「新しく定義し直した」ことは大きな有利さをもたらしてくれるだろう。なぜなら、旧来の効用や利得概念に依拠しているかぎりは、どうしても、「効用・利得とは、トクなことの謂いである」という先入観にとらわれてしまう。よって、そのような効用・利得概念にもとづいた社会理論(たとえばゲーム論)は、「適用範囲が限られる」(ソン・トクの問題にしか適用できない)ようにみえてしまう。
それに対して、われわれの「新定義」では、意識してそのような「ソン・トク的効用観」から離脱した。ただたんに人々が同様な振る舞いをしそうならば、それは効用・利得が高い、と「定義」したわけだ。で、その(新)効用の源泉についてはオープンであるとした(トクにもとづくかもしれないし、そうでないかもしれない)。よって、「ソン・トク」とは関係ないような社会的事象に関しても、われわれの新定義された効用・利得概念は安んじて適用することができるわけである。
ここにおいては、このように存続している「悩み」「問題」に関しては、たんに「解決する」という対処法以外にもいくつかの対処法が開示されるだろう。すなわち、当の悩み・問題自体、進化論的に社会のなかを存続しているのだから、ときにはそれを存続させるゲームの布置全体を変更させなければその問題を「解消」させることはできない、という洞察にいたることができるときもあるだろう。ときには、このような進化ゲーム論的布置全体の変更が困難である場合には、その「悩み」「問題」は、「解きようがない」と、「悟る?」(あきらめる)しかない、という洞察にいたることができる場合もあるだろう。ときには、私が感じている悩み・問題は、全体の進化ゲームの布置からはごくごく特殊な局面でしか存続しないのであり、この悩み自体は容易に解決・解消はできないものの、それの意義を過大視することは事態をより紛らせることになる、という洞察にいたることができる場合もあるだろう(多くの「哲学的問題」は、この類型にあてはまるように直観される)。ときには、当の悩み・問題は、解決も解消も悟りも困難であるが、進化ゲーム論的視点からは、やがては「消滅」するコトであるということが見て取れる場合もあるだろう。
このように、われわれの効用・利得の新定義を媒介にした進化ゲーム論的社会観?にたつと、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論的治療をヒントにしつつも、それを特殊例(スペシャル・ケース)として位置づけ直すような、「悩み・問題」への対処法を構想することができる。これを(上で「言語ゲーム論的治療」と呼んだのに呼応させて)社会ゲーム論的治療、と呼ぶこともできるだろう。
社会ゲーム論的治療は、(もし、成功するならば)、言語ゲーム論的治療のように哲学者の哲学的問題(悩み)を、治療するだけでなく、それ以外の多くの悩み・問題をも治療することが可能になるだろう。この点で、この方途は、言語ゲーム論的治療への第一の不満点を克服する。
また、社会ゲーム論的治療は、当の悩み・問題がいかにして社会のなかで進化論的に存続しているかの理解と不可分である。よって、この方途は言語ゲーム論的治療の第二の不満点を克服することになる。
文献
Hargreaves Heap,Shaun P and Varoufakis,Yanis 1995 "GAME
THEORY:A Critical introduction"=ハーグリーブズ・ヒープ・S・P ファロファキス、ヤニス 荻沼隆 訳1998 『ゲーム理論[批判的入門]』多賀出版
猪木武徳1998「効用」『CD-ROM《世界大百科事典》』日立デジタル平凡社
Maynard Smith,John 1982 "Evolution and the Theory of
Games"=メーナード-スミス,J 寺本英 訳1985 『進化とゲーム理論』産業図書
鈴村興太郎1982 『経済計画理論』筑摩書房
Weibull,Jorgen W 1995 "Evolutionary Game Theory"=ウェイブル・J・W 大和瀬達二 監訳1998 『進化ゲームの理論』文化書房博文社
Wittgenstein,Ludwig 1953 "Philosophishe Untersuchungen"=ウィトゲンシュタイン 藤本隆志 訳1976 『ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探求』大修館書店
さくらい よしお
sakurai.yoshio@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/
【追記】本稿第一稿提出(1998年10月30日)後、1998年11月7日計量行動学会主催のシンポジウム「社会科学におけるゲーム理論の応用と可能性」を聴講する機会を得た。大きな認識利得を得ることができた。とくに大浦宏邦氏の御発表「進化ゲーム理論と合理的選択理論」からは、大変認識利得を得、自分の不勉強さを痛感させられた。大浦氏をはじめとする進化ゲーム論の本流においても、本稿とにたような問題意識がすでに追求されていることがわかった。とくに、大浦氏は当日、「社会科学が研究対象とする現象・・・・を扱うには、・・・・模倣などのメカニズムによる世代内の戦略頻度変化が扱えるようにモデルを拡張する必要がある」ということを明示的に指摘し、「この場合<利得>は「戦略再生産効率の大小」を意味する。」と述べられていた。
このことから一見すると、本稿で提起した「利得の新定義」という着想は、大浦氏ならびに氏が依拠している進化ゲーム論のビッグネームたちによってすでになされている、とみえるかもしれない。たしかに近い将来そうであるということがわかってしまうかもしれない。しかし、少なくとも現時点では私にはそうはおもえない。
なぜなら、大浦氏の発表を聞く限りにおいては、氏ならびに進化ゲーム論者たちは、まずは、ダーウィン適応度で利得を定義し、各個体が模倣などを行いうる際にその模倣がダーウィン適応度に親和的になりうるか、という発想法をとっているからだ。あくまでダーウィン的(遺伝子レベルの?)進化プロセスがあり、そのいわば「上に」模倣などのプロセスがあるという一種の「二階だて」の発想法である。事実、大浦氏は前者を、「進化ゲーム理論の基本型」とよび、後者を「拡張された進化ゲーム論」と呼ぶ。それに対して本稿の発想は、あくまで「一階だて」である。社会における模倣プロセスがダーウィン適応度に親和的であるかは、「オープン」にして、あくまで、模倣プロセスのレベルにのみ準拠して利得を「定義」したものである。
以上のように、本稿の発想は、大浦氏をはじめとする進化ゲーム論者の発想に、似てはいるけれども、必ずしも後者に還元されてしまうとはいえない、と思う。(11月7日のシンポジウム以前から学会などで大浦氏から多大なご教示を得ている。大浦氏の学恩に謝意をあらわしたい。)
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