文化的稀少性の理論・一般的序説    950309
                   桜井芳生

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【要約】
我々が日々日常生活を送っている際に、我々は、文化的に「より望ましい」ものと、そ
うでないものとを区別して行為を行っている。すなわち、行為や社会状態に様々な「価値
付け」をしつつ暮らしている。しかも、その「より望ましく」「価値ある」モノ・コトは
、多くは、社会の全成員が享受できるものではない。したがって、これらは、望まれるけ
れども入手できるとは限らない、という意味で、「稀少なモノ・コト」である、と、言う
ことができる。我々の問題は、このような文化的な稀少性がいかにして存立しているか、
ということである。この「文化的稀少性」に関しては、少し考えただけで、いくつかの難
問が見いだされる。我々の、文化的稀少性の理論は、これらの難問を解決するものでなけ
ればならないのは、言うまでもない。我々の手がかりは、有名なウィトゲンシュタインの
パラドックスと、一般化フレーム問題である。この手がかりを経て、我々は、価値の修得
は「真なる」ものは不可能であること、しかし、学習回数を経ることで、事実上の「近似
的修得」は可能であるかもしれないこと。しかしまた、いくら学習回数を経ても、価値に
関する「完全な事実上の一致」は不可能であること。これらの事を仮設する。この考察を
ふまえて、我々は、人は、自分の価値修得は正しくないのではないかという「価値不安」
を持っている、という「仮説」(価値不安の仮説)を提起する。このような「価値修得の
事実上の一致が不可能」で、かつ上述の「価値不安」を持っているような人たちが、複数
出会ったとしよう。「完全な一致」が保証されていないから、彼らの価値上の判断は、い
つかは「齟齬」をきたす。しかし、彼らは、「価値不安」を持っているがゆえに、価値判
断の一致にいたる蓋然性が存する。この際の、彼らの「判断の一致化」は上述の事情で、
「論理的」なものでは、あり得ない。第三者的にみれば、みな一種の「ごまかし」である
。我々の「文化的稀少性の理論」の諸「各論」は、これらの「ごまかし」の「諸々の手口
」を分析する事が、その目的の一つである。
しかも、この「齟齬の一致」化を経て、「価値に通じていた」とされた者は、「当事者
からすれば、もともと価値に通じていたから」、いわば「勝者」となったのであるが、第
三者的にみれば、「齟齬を経て、勝者になったがゆえに」、「その結果として」より価値
に通じていると「されるようになった」のである。つまり、第三者的にみれば、当初は価
値の把握の度合いに差異は見いだされなかったのに、「齟齬の一致」の後においては、価
値の把握の度合いに差異が生じたのである。つまり、ここにおいて、「文化的稀少性」が
、「産出」されるのである。
 
【文化的稀少性】
我々は、日々日常生活をしている際に、「より望ましもの」とそうでないものとを区別
して暮らしている。すなわち、我々は、生起している状態や行為を「価値付け」して、暮
らしている。しかも、その「より望ましもの」「価値あるもの」の大部分は、社会の全成
員が享受できるとは限らないものである。
したがって、これらは、「望まれるけれども享受できるとは限らない」という意味で「
稀少なもの」である。と、言うことができる。
様々な文化圏・様々な時代において、物理的には「同じ」モノ・ゴトが、(生産能力を
一定とみなしうる「短期」においてさえ)、「様々に」価値づけられるところをみても、
この「稀少性」は物理的な事情にのみは還元できないことは、明らかである。またこれら
のモノ・コトは大部分後述のように「ひとびとからの承認」を要件とするだろう。この意
味で、この稀少性は、何らかの意味で「文化的」な事情を引きずったモノである、といえ
る。
我々は、このような「文化的な稀少性」がいかにして存立するのかについて、探求する

 
【難点】
この 文化的稀少性の存立を理論化するという課題に対しては、いくつかの難問が指摘
できる。
 
第一は「承認の他者性」問題である。人は、自分の属性・自分の所有物・自分の行為・
・・などを「価値あるもの」としてみなしたいだろう。しかし、人間は、共存的存在であ
る。自分に属するものを自分だけで評価するだけでは満足できないだろう。すなわち、こ
の「価値付け」は、「他者からの承認」を求めているであろう。しかし、言うまでもなく
ここに文化的稀少性をめぐる難問が生ずる。人は自分に属するものの価値を高く評価した
いと思うだろうが、その評価は「他者」によることを希求する。しかしそもそも、他者は
どうして、私(に属するもの)の価値を評価してくれるのだろうか。みんな、「自分の価
値」の向上を望んでいる、というのに。
このように、文化的稀少性に関しては、「他者による価値評価」がなぜ可能なのか、と
いう、難問が存在するのである。
 
第二は「差異の消滅」問題である。ここに価値のあるものをもっている人ともっていな
い人とがいたとしよう。このような「価値がありながらも、誰もが享受できるわけではな
い」=「文化的稀少性」こそが、我々の問題であった。「もっていない人」であっても、
そのものを「望ましい」と評価しているのだから、「長期的」には、やがては、その人も
困難辛苦の末、この価値物を獲得する蓋然性が大きいのではないか。とすれば、当初の「
価値の持てる者・持たざる者」という「差異」は消滅に向かうことが予想される。しかし
、現実には、このような「差異の消滅」は、常に観察されるわけではない。いったいどの
ようなメカニズムによって、このような「文化的稀少性の差異の消滅」はブロックされて
いるのであろうか?。これが、「差異の消滅」問題である。
 
第三の問題として、「社会的正当性」の「変動問題」がある。社会的に承認された「望
ましさ」のうちの一つとして「正しさ」に着目しよう。ある社会においてどのようなコト
・モノが「正しい」とされるかは「変動」しうる。では、その変動はいかに生じるのかと
いう問題である。「正しさ」をめぐる変化であるから、その「正しさの変化のしかた」自
体が「正しい」ものであるとされる必要があるだろう。しかし、そうすると、いうまでも
なく、その「正しさの変化の仕方に対する正しさ」( 正当性の変化に関する正当性) の変
化はいかに生じるのか、という問題が生じる。これは、典型的には「規範」の変動問題と
して語ることができるだろう。規範(正しさの認定基準) 自体がいかに変動しうるかとい
う問題である。規範の変動自体が「正しい」ものである必要があるだろう。とすれば、規
範の変動の「正/ 非」を峻別するメタ規範が要請され、そのメタ規範自体の変動がいかに
なされるかが問題になる。
この問題に対する正しい対処は二通りしかない。ひとつは「メタ正当性( メタ規範) 」
の無限背進であり、第二は、それ以上遡及しえない「究極のメタ正当性」の措定である。
しかし、現実の経験的な社会において前者の無限背進は効力をもたないだろう。とすれば
、後者の「究極のメタ正当性」を置くしかないのであろうか。われわれはそうは考えない
。この点に関するわれわれの見解は後の考察で述べることになろう。
 
【価値修得における二つの不能性と、一つの困難】
我々は上述の問題にたちむかうにあたって、一つの迂回路をたどる。それは、人は世の
人々に認められている価値をいかにして学ぶか、という点に関するものである。この点に
迂回することで、我々は、人が価値に対して持つ四つの「仮設」を提起し、その四つの仮
設で持って、この問題に答えるよすがとしたい。
我々が「人はいかにして価値を学ぶのか」を考察する上で、大いに依拠する先行者たち
がいる。第一は、ウィトゲンシュタインとその解釈者クリプキであり、第二は、ハビトゥ
ス論の提唱者ブルデューであり、第三は一般化フレーム理論の提唱者たちである。
あらかじめ、誤解のないように述べておけば、我々はこれら三者の論を援用するが、最
終的立場は彼らと同じわけではない。むしろ、前二者(ウィトゲンシュタインとブルデュ
ー)に関しては、彼らの「限界」を自覚することの必要性を強く訴えることになろう。
 
【真なる価値修得の不可能性】
まず、第一に、我々が、依拠するのは、ウィトゲンシュタインとその解釈者クリプキで
ある。
周知のように、クリプキは、規則に従うことに関しては「真理条件」は存在し得ないこ
とを、示した。彼は、有名な「懐疑論者」を登場させて、たとえば、「68+57」とい
う加法を行う「規則」に関して、「125」という答えを(いうまでもなく、通常は、こ
れが「正解」と「される。」)「正解」とする議論が成立しないことを示した。つまり、
たとえば、「68+57」の答えが「5」であるとする突飛な「懐疑論者」を、「125
」とする常識人は、論破することができない、ということを示したのであった。
このことは、じつは、社会に流布している「価値」を修得(学習)しようとしている者
(子供)にそのまま当てはまってしまう事態なのである。
彼(子供)が、社会に流布している「価値」(望ましさ)について学習しようとしたと
しよう。彼は誰か大人を「見本=手本」にして当該の価値を修得せざるを得ないだろう。
「正しい」こととはどういうことか、「美しいこと」とはどういうことか、「上品」な
こととはどういうことか、「強い」とはどういうことか・・・・、などを、彼(子供)は
、手本の大人について学習するしかないだろう。
しかし、原理的には、いついかなるときでもこの「手本」の大人が例の「懐疑論者」に
なってたちあらわれる可能性を排除できないのである。
ある大人をまねして「加法」を修得したつもりになって、計算をしたとしても、いつい
かなるときに 「それは違う、俺の教えた「加法」によれば、68+57は、「5」とな
るのだ、なぜなら・・・・」という反応に直面する可能性を原理的には払拭できないので
ある。そして、このような「懐疑論者」に対する反論が成功しないことは、クリプキが言
を尽くして説明しているとおりである。
同様に、どのような「価値」においても、学習者は、「真なる」価値の修得は「原理的
に」できないのである。
 
【生の事実と、ハビトゥス】
では、学習者は、全く価値を学習することはできないのであろうか。もちろんそうでは
ない。
 「事実」上は、数多くの「学習」を経ることによって、学習者(子供)は、やがては、
見本(大人)とほぼ同じような、振る舞い・判断を下すようになるだろう(学習による斉
一性の獲得)。このような「事実上の振る舞い・判断の一致」を、クリプキは「ナマの事
実」とよぶ。これは、後述のとおりブルデューのハビトゥス概念に近いであろう。
ただし、ここで注意しなければならないことは、このような学習者と見本との「斉一性
」は、なんら、学習者(子供)の、振る舞い・判断の「真理性」を含意しない、というこ
とである。この点が、ウィトゲンシュタイン・クリプキのパラドックスの肝心点である。
いくら、人々の間に、振る舞い・判断の「斉一性」が、あったとしても、それ自身は、た
んなる「事実上の一致」でしたなく、「真なる(正しい)」一致とはいえないのである。
そこには、「真理性」を含意されていないのである。
いわゆる「暗黒の中における正当化されない跳躍」( クリプキ訳書27頁)として、人は
、当該の状況で、どのようなことが「望ましい・ふさわしい・価値ある」ことであるか、
の判断を下していかざるを得ないのである。
 
この「斉一性(事実上の判断の一致)」という「ナマの事実」がいかなるものかについ
て、ブルデューのハビトゥス論が多くを教えてくれるように私には思われる。
ブルデューによると、彼のいうハビトゥスとは、「プラティーク(慣習的振る舞い)の
産出原理」であり、人間の「諸傾向のシステム」である。
ハビトゥスは、「道理にかなったプラティークを生成する」(ディスタンクシオン訳書
1 巻、261頁)ものである。
とすれば、クリプキのいう斉一性という「ナマの事実」を支えるものは、ブルデューの
いうハビトゥスに相当すると考えることができるだろう。
彼によると、このハビトゥスは「目的の意識的な志向や、当の目的に達するために必要
な操作を明白な形で会得していることを前提にしていない」(実践感覚訳書1 巻、83頁)
のである。また、「意識も意志も持たぬ自発性」である(同、89 頁)ともいわれる。
そしてまたこのハビトゥスは、「じゅうぶん持続して行われるべき教え込みの労働」に
よって産出される。(再生産訳書52頁)
 
これらのハビトゥスに関するブルデューの記述をまとめると、ハビトゥスは、「明白」
な形ではあらわれない場合が多く、「意識も意志」も伴うとは限らないような、いわゆる
「暗黙」的なものであり、その修得には、多くの教育上の手間と時間がかかるものである
ことがわかる。
 
わかりやすいモデルでいえば、ブルデューがよく言及する「スポーツの体得」が最もふ
さわしい例えであろう。
人は、スポーツにおいて、「繰り返し繰り返し」練習をすることによって、やっと上達
していくことができる。しかも、そうして「体得」したものは、「いわくいいがたい」も
のであって、言語によって表現することが困難なものなのである。
このような、ブルデューの議論をふまえて、その場その場で、どのようなふるまうのが
「ただしい(ふさわしい)」のか、「上品」なのか、「美しい」のか・・・といったよう
な「価値の修得」においては、「スポーツの体得」にも似た、「暗黙性・困難性」が伴う
場合が多い、と仮説することができるだろう。
 
【ナマの事実・ハビトゥスの不十分性】
このように、我々は、クリプキによる「ナマの事実」の指摘、ブルデューによる「ハビ
トゥス」論の展開を大きく評価するものである。
しかし、別のところ( 「プラティークと一般化フレーム問題」) でも論じたように、ク
リプキのによる「ナマの事実」論・ブルデューの「ハビトゥス論」には、また大きな問題
があることを指摘しないわけにはいかない。
 
この指摘をするためには、我々は、「一般化フレーム問題」という論件を参考にする。
最近、AI(人工知能)研究者を中心に、「フレーム問題」という問題が、関心を集め
ている。フレーム問題の直観的理解を得るためには、デネットの描くロボットの例がもっ
ともわかりやすい。デネットのロボットは、そのエネルギー源であるバッテリーをある部
屋から取り出すこと、という課題を持っている。最初のロボットは、バッテリーがしまっ
てある部屋に時限爆弾が仕掛けられているのを知らされた。かれは、すぐ部屋を発見し、
部屋のなかのワゴンのなかにバッテリーがのっているのを確認した。かれはただちに、ワ
ゴンごとバッテリーをとりだそうとしたが、同じワゴンに爆弾ものっていたのでバッテリ
ーは、爆発してしまった。そこで、設計者は、ロボットが自らの行為の意図された結果の
みならずその副次的結果も推論できるように、プログラムを書き換えた。この新ロボット
は、同じ問題に直面したときやはりワゴンを引き出せばよいと考え、副次的効果を推論し
はじめた。「ワゴンを引き出せば車輪が回転する」「ワゴンを引き出せば音がする」等々
。そうこうしている間に、爆弾は爆発してしまった。ふたたび、設計者は、目下の目的に
照合して関係あるかないか、という区別を演繹するプログラムをロボットにセットした。
この第三のロボットは、同じ状況に直面してもなにも行動を起こさなかった。いく千もの
「関係」が目下の目的に「関係ある」かどうか演繹するのに忙しくて行動をおこすことが
できないのだ。当然そのあいだに爆弾は爆発してしまう。
以上のような、人間にはごく簡単にできそうにみえるようなことを、AIにさせること
がむずかしいである。フレーム問題に対する様々な「対応策」とそれぞれの「失敗」の詳
細は、大澤や松原の論文にくわしい。この「問題」克服のさまざまな工夫は、たとえ「記
述の量の爆発」を抑え得たとしてもその代償として「推論の量の爆発」をもたらしてしま
うのである。
 以上のような、フレーム問題の「問題」化と、その「解決の失敗」をみてみるとそこか
らある教訓が得られる。それは、通常我々人間が何気なく振る舞っている日常においても
、ある部分的変化(それは、人間やAI自身がひきおこした「行為」でもよい)が環境に
対して、(当の人間やAI自身の情報処理能力に比して)無限の変化の可能性(したがっ
てこれは無変化も含む)をおこしているということである。そして、AIは、この「無限
の変化の可能性」にいわば愚直に直面することで、適切な反応を有限の処理能力で引き出
すことができず、この「問題」に逢着してしまう、ということである。この点を松原は、
「一般化フレーム問題は、情報処理の主体が有限であることから、すなわち膨大な情報の
うちの一部しか参照できないことから生じる・・・」(松原、223 頁)といっている。こ
の松原の記述を参考にして、我々は、「有限の情報処理能力しかもたない主体(AIや人
間)が、無限に多く変化しうる状況のなかでいかに適切にふるまうか、という問題」を「
一般化フレーム問題」の我々の「定義」としよう。
フレーム問題を同様に定式化した松原がいっていることであるが、フレーム問題をこの
ように定義してしまえば、実はフレーム問題(一般化フレーム問題)の真正なる「解決」
じつは、不可能となる。なぜなら、AIや人間が有限の情報処理能力しかもたない主体で
あるならば、それらが有限の時間のうちにおいて無限に変化する状況に対して適切な反応
をすることは原理的にできないからである。よって、松原のいうとおり、AIについても
人間についても「いかに一般化フレーム問題は『解決』されているか」という問題設定は
、禁じられている。それは、もともと「解決不能」なのであるから。
 
ここにおいて、松原を援用しつつ述べきたことは、じつはそのまま、ブルデューの「ハ
ビトゥス」論やクリプキの「ナマの事実」論にあてはまると思われるのである。
ひとびとが、みずからの振る舞いを無限に多様に変化しうる状況(環境)に対して常に
「適切に」選択することは、一般化フレーム問題の考察の結果として、原理的に不可能な
のである。したがって、暗黙的に長期間の訓練をふまえて修得されたハビトゥスでさえ、
完全に常に価値の判断に関する「一致」を保証するわけではない、ということを仮設でき
るように思われる。つまり、クリプキのいう「判断の一致というナマの事実」は、完全に
常に成立するわけではない、という仮設がたてられるように思われるのである。
 
【価値修得に関する三つの仮説】
以上をまとめよう。以上の議論によって、我々は、価値の修得に関して、三つの仮説を
提起したことになる。
 
第一は、仮説というよりは、もっと確実性の高い理説である。私の見るところ誰でも認
めざるを得ないことである、と思われる。すなわち「真なる価値の修得は不可能である」
ということであった。( 仮説1)
 
第二の仮説は、「しかし価値判断の一致はだいたいは「ナマの事実」(ブルデューのい
うハビトゥス)によって、成立する。しかしまた、そのハビトゥスの修得には「暗黙性」
「困難性」が伴う」というものである。( 仮説2)
 
第三の仮説は、「さらにしかし、その「ナマの事実」「ハビトゥス」も、完全に価値判
断に関する「一致」を保証するものではない」というものであった。( 仮説3)
 
【価値不安】
とすれば、人は、学習を経て、世間に流布している「価値」を身につけていくが、それ
は、第三者的に見れば、「真なる体得は究極的にはムリ」であり(仮説1より)、また、
他者達との価値判断に関する「事実上の一致」も常に保証されるわけではない(仮説3よ
り)。しかし、ほとんどの人は、世間に価値が存在し、価値評価が可能であるという想定
をもって日常生活をしているだろう。これを「価値想定」と呼ぼう。
そして、「事実上の他者達との一致」は、ハビトゥスの修得として、多くの場合「暗黙
的に(いわくいいがたいように)」「(当事者達はそれが訓練であるとは気がつかない場
合さえが多いような)長期の訓練を通じて」体得されるのであった。
とすれば、大部分の人は、価値想定をしつつ、価値の修得をしようとも、どんなにその
修得が進んだとしても、「私の価値修得は誤りではないか」という自己の価値修得に関す
る「不安」を持つことがありそうなことになるのではないか。
この「不安」を「価値不安」と名付けよう。そして、ひとがこのような「価値不安」を
持っているという仮説を「価値不安の仮説」と呼ぼう。( これを仮説4 としよう) 。
もちろん、この不安が、日々の日常で顕在化しては、人は暮らしてはいけないだろう。
人は、この不安を抱えつつも、それを抑圧して日常を過ごしているだろう。
しかし、上述の議論からすれば、この不安は、原理的には払拭できないものである。
もし、当事者が、我々のいう仮説1と仮説3を、受容・自覚し、それを直視できれば、
この「不安」から逃れることは可能かもしれない。すなわち、いかなる意味においても「
真なる価値の把握は不可能である」(仮説1より)と、自覚し、「事実上の価値判断の一
致も保証されない」(仮説3より)と、自覚すれば、この不安からの脱却は可能かもしれ
ない。
しかし現実には、「仮説2」が効いて、この「脱却(悟り?)」は困難なのである。な
ぜなら、当事者達は、仮説2より、価値の学習における「見本=手本」との「一致」は「
困難である」けれども「手間暇をかければ、だんだん一致していく」ということを「体得
=からだで学んでいる」のである。したがって、仮説3より価値判断に関する事実上の齟
齬がきたしたとしても、当事者のうちのどちらかが、「(仮説2より)私の価値修得は、
未だ不完全だったのだ」というように齟齬の「自己帰因」をしてしまう蓋然性があるから
だ。 つまり仮説2(ハビトゥス修得の暗黙性・困難性)は、一種の「緩衝材」となって
、仮説3( 価値判断の一致の根源的不能性)を人に気づかせない機能を果たしうるので
ある。
 
【齟齬の処理】
このように、「価値不安」を抱えつつ、上述の仮説1 〜3 をそなえた二人のひとがであ
ったとしたよう。
上述のとおり、仮説3より、この二人の価値判断は、任意の時点において「齟齬」をき
たす可能性を持っている。
もし、「価値不安」をどちらももっていなければ、この「齟齬」の処理、つまり価値判
断に関して、二者のうちのどちらが正しいのかについて、永遠に同意が得られないかもし
れない。その結果、二人は、同一の社会成員であることができなくなるかもしれない。
しかし、幸いにも(?) 、両者は「価値不安」を抱いているのであった。この「齟齬」を
まえにして、どちらか( あるいは両者) の価値不安が顕在化して、どちらか一方がより早
く自分の価値判断についての自信を喪失する蓋然性が存するのである。その結果「齟齬」
は処理され、どちらか一方の価値判断が正しく、他方の価値判断が正しくないとして当事
者および社会成員に認識される蓋然性が生じるだろう。
ここでまた、上述のとおり「仮説2 =ハビトゥス修得の暗黙・困難性」( が当事者たち
に知られていること) が効いてくる。この価値判断の齟齬の「勝者」は、第三者的にみれ
ば、たんに「勝てば官軍」的にに「価値判断が正しかった」とされただけであっても、当
事者の視点からは、「ハビトゥスの修得がより完全であったから、齟齬に勝った」と認識
される蓋然性があるのである。
しかし、くりかえすが、仮説1 の意味においても仮説3 の意味においてもこのような「
齟齬の処理」はただしいものではない。いってみれば、「ごまかし」である。
われわれの文化的稀少性の理論の「諸・各論」では、このような「ごまかし」の手口の
いろいろを分析することになるだろう。
そのさい、大雑把にわければ、ふたりだけの登場人物で話がすすむ「二者モデル」、齟
齬の当事者である二人のほかに第三者が登場する「三者モデル」、齟齬の二人にたいして
社会全体( の代表) が登場する「二者+社会」モデル・・・・、などに分類できるだろう

 
【「大した通暁者」の産出】
以上のような「齟齬の一致」化を経て、「ヨリ価値に通じていた」とされた者は、「当
事者からすれば、もともと価値に通じていたから」こそいわば「勝者」となったのである
が、第三者的にみれば「齟齬を経て、勝者になったがゆえに」、あくまで「その結果とし
て」ヨリ価値に通じていると「みなされるようになった」のである。
つまり、第三者的にみれば、当初は価値の把握の度合いに差異は見いだされなかったの
に、「齟齬の一致」の後においては、価値の把握の度合いに差異が生じたのである。つま
り、ここにおいて、「文化的稀少性」が、「産出」されたのである。
以上は、価値の把握に差異が見い出されない人たちの間の話であったが、我々の視点は
、価値のギャップがすでに存在する場合においても、これまでの把握とは異なった理解の
道を示してくれるようにおもわれる。
すなわちより大きな価値を有する者、あるいは、より大きく価値に通暁している、と人
々からみなされている者、と、そうでない者とが、「出会った」さいに、前者の方がより
価値に準じているとみなされる蓋然性が高い。
このような事実上の認定に関しては、我々は「通念」に反駁する者ではない。
しかし、なぜこうなるのか、という事に関しては、我々は通念に反対する。
すなわち、「通念」では、価値ある者は、価値あるがゆえに、価値ある者として承認さ
れる、と、考える。
しかし、我々は、価値ある者が価値あるように見えるのは、上述の 「ごまかし」にお
いて、価値あると「されて」いる者が、「有利」であるにすぎないからである、と、考え
る。
したがって、価値ある者が価値の乏しい者と出会い、その結果、やはり価値ある者とさ
れたとしても、それはたんに価値の「保持」ではない。そこにおいてあるのは、いわゆる
「命がけの跳躍」である。当初、価値のギャップがあったとしても、それはある意味で「
ご破算」になるのである。
ただ、例の「ごまかし」において当初の価値ギャップは「有利・不利」に働く蓋然性が
ある。
その結果、「命がけの跳躍」の結果においても、当初価値ありとされた者が、やはり価
値ありとされる蓋然性が高い。
したがって、ここにおいても、存在するのは、「価値」の絶えざる「生産」なのであり
、「再生産」なのである。しかも、当初の「価値ギャップ」よりも大きな価値ギャップが
生じる蓋然性があるであろう。その際には、「剰余価値」が生産された、といいうるだろ
う。( この点にかんしては、紙数の都合も都合もあり、今は詳述できない。「各論」で詳
しく議論したい)。
 
【諸「各論」の概略】
本稿を嚆矢とするところの「文化的稀少性の理論」の、諸「各論」の概略をここで述べ
てみよう。
本稿では、「文化的に稀少なるモノ・コト」を「望ましい=価値がある」が全員が望む
だけ享受できるとはかぎらないモノ・コト、として「一般的」に記述したが、人間の文化
の実際を分析するさいには、この「望ましい=価値がある」モノ・コトには、ある程度の
「分類」が可能であるように思われる。
第一に指摘できる「望ましさ」とは「正しさ」であろう。第二に指摘したい「望ましさ
」とは「強さ」である。第三に指摘したい「望ましさ」として「美しさ」をあげたい。
ここではこのように、望ましさの三類型をあげたが、この三分類は、なんらかのトップ
ダウン的な先験的な考察の結果として網羅的に導出したものではない。私が文化の分析を
実践するうえでいわば「下から」ボトム・アップ的に考えたものである。よって、この三
類型以外の類型が立てられる可能性もある。
哲学において伝統的な「真・善・美」の三類型とズレている。この異同についても今後
考察してみたい。
また、登場人物の類性としては上述のとおり「二者モデル」「三者モデル」「二者+社
会モデル」がとりあえず指摘できる。
したがって、この二つの視点を「掛け合わせる」と前者の三類型×後者の三類型=九類
型が導出できる。
もっとも、当面の「探究段階」においては、このような「3 ×3 =9 」類型をヒューリ
スティック・索出的な導きの糸としつつも、かならずしもこの九類型を網羅するような論
述はしないつもりである。なぜなら、このような「類型」は、現実には「混淆」している
ばあいが多いので、文化の実態相の分析においては臨機応変でやっていきたいからだ。
 
いまのところ構想している諸「各論」の標題を以下ならべてみよう。じつは、一部はす
でに発表している。
 
○コミュニケーションにおける皮肉のポリティックス。( 既発表) 
二者間における「正しさ」をめぐる「手口」の分析。
 
○規範不安とオーソリティ・バブル( 既発表) 
三者、二者+社会における「正しさ」をめぐる手口の分析。
 
○権力バブルの再生産メカニズム
「強さ」をめぐる二者・三者・二者+社会のメカニズムのモデル化。
 
○「カッコよさ」のミクロ社会学−流行・上品・ミヤコ−
「美しさ」をめぐる手口の分析
 
○「専門家集団」と「試験」
稀少性ギャップの保守戦略。
 
○メディアと文化的稀少性
価値ギャップのフィルターとしてのメディア。
 
○価値不安・流動性選好・バブル
−ひとはなぜお金を欲しがるのか?−(未発表)
「価値一般」における「手口」としてのバブルと貨幣。その帰結としての「不況」。
 
 
【諸難点への有効性】
以上が、われわれが構想している「文化的稀少性の理論」のあらましである。概略のみ
を述べるこの「一般的序説」では、紙数の都合もあり言をつくせないところがあるが、詳
しい点は、もろもろの「各論」においておぎなっていきたい。
もし、われわれの構想が幸いにも成就した暁には、前述の「文化的稀少性」をめぐる「
諸難点」をわれわれの理論は克服したことになるであろうか。そもそもわれわれはこれら
の諸難点の克服をめざしてこの理論を構想したのであった。
われわれが指摘した文化的稀少性をめぐる理論的難点の第一は、「承認の他者性」の問
題であった。ひとは自分の価値を他者から承認されねばならないだろう。しかし、ひとは
自分の価値評価を高めることをまずは目指すだろう。とすれば、そもそもこのような「他
者評価」はいかにして可能になるか、という問題である。
この難点に対して、われわれは、「価値不安」の仮設でもって答えたことになるだろう
。仮設1 〜3 の意味によってひとは完全なる価値の修得は不可能になるのであった。その
結果、ひとは自分の価値修得に対してそれが誤りであるかもしれないという「不安」を抱
くのではないか、とわれわれは仮設した( 「価値不安の仮設」) 。その結果、複数の者の
価値評価に関する「齟齬」において、当事者の誰かの価値不安が励起して、「自分の価値
判断は誤りであった」となり、「齟齬の処理」が成り立つ蓋然性が存するとわれわれは、
考えた。その結果、「より価値に通暁した者」と「そうでない者」との分化が生じる蓋然
性がある、とわれわれは考えた。
ここで重要なのは、このような価値通暁の「大きな者」と「小さな者」との「分化」は
、まずは、「或る者が自分の価値評価を誤りとみなし、その結果彼自身を、価値通暁の程
度が劣る者と見なす」ことから始まるということである。
つまりここにおいては、「他者への高い価値評価」がはじめにある、のではなくて、ま
ず「自己への低い価値評価」がはじめに生じ、あくまでその結果として「他者への高い価
値評価」が生じるのである。
われわれの視点からは、このようにして「承認の他者性」問題は回答されるのである。
第二の難点は、「差異の消滅」問題であった。ある所与の状況において価値の持てる者
と持たざる者との「差異」があったとしても、その価値が持たざる者にとっても「望まし
い」ものであるかぎり、持たざる者も長期的には艱難辛苦の末その価値を持つにいたる蓋
然性が高いのではないか。そうであるとすると、当初の価値の「差異」は消滅してしまう
のではないか、という問題である。
しかし、われわれの議論は、当初の「差異」がない状態からでも、価値の差異( ギャッ
プ) が生じることを追尾することができた。したがって、われわれの議論はこの「差異の
消滅」問題をクリアしていることになるだろう。
第三は「社会的正当性の変動問題」であった。じつはこの問題が生じるのは、「正しさ
」を当該社会の当事者の視点と同じ視点に立っていわば「愚直」にとらえることに起因し
ている。当事者たちが把握する「正しいモノ・ゴト」を、分析者が同様に「正しい」とし
て把握するがゆえに、その正しさの変動も「正しく」なければならず、その結果、正しさ
( 正当性) をめぐる無限背進か究極のメタ正当性の措定か、の方途しかなくなるのである

しかし、いうまでもなく、われわれはこのような立場に立たない。われわれが置く仮説
1 ならびに仮説3 より、われわれは、当事者の思念する「正しさ」をそのまま正しいとは
みとめない。当事者が正しいとみとめることはあくまで当事者の視点において正しいとさ
れるだけである。そして、どのようにして当事者たちがあるコト・モノを正しい( ヨリ一
般化すれば、「望ましい」) とみなすのか、に関する「手口」の分析を、われわれの「諸
・各論」の課題とするのであった。
であるから、「正しい『正しさの変動の仕方』」に関しても同様な「手口・分析」が可
能である。そしてそれは、「いかにして、『正しさの変動の仕方』が当事者たちによって
正しいとされるのか」のみを解明するものでしかなく、「『正しさの変動の仕方』は、( 
分析者の視点からみて) 正しい」ということを含意しないがゆえに、上述の「無限背進」
にも「究極のメタ正当性の措定」にもいたらないのである。
 
以上、われわれの構想は、ある程度の有効性をもつように思われる。
( 議論の都合上、一部、筆者の別稿と論旨が重複する点があることを御了承ください。)
 
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