きらめくペーパーのために。今日は前回の予告どおり、いかにして「イイタコトをひらめ
くか」かについて考えよう。
【「ひらめこう」とせよ】【「アイデア」をバカにするな】
まず言っておきたいのは、前に述べたこととも重複するが、「ひらめこう、と努力せよ
」ということだ。
これまた、なにをあたえまえな、と思うかもしれない。しかし、学生さんのペーパーや
発表を読んだり聞いたりしてみても、「はたしてこのヒトは、なにかおもしろいこと=認
識利得のあること、を、『ひらめこう』としているのだろうか」と疑問になることが多い
( というかほとんど) 。
どうも高校までの「用意された正解をねらってしまう」癖がぬけないせいか、「常識」
的な「結論」( 結論らしきものがないのも多いが) を書いて、「安心」してしまう、とい
うパタンが多いような気がする。
せっかく、「知的に考察する」機会なのだから、「もっと野心をもって」考察してほし
い。「ひらめこうという野心」をもって考察しなければ、「学問」なんて「ツマラナイ苦
行」になってしまう。
学生さんが「ひらめこう」としない原因の一つは、日本の文化自体が「アイデア」とか
「おもいつき」とかをバカにする傾向があるからではないだろうか。
日本で「アイデア」というと、「王様のアイデア」とか「町の発明家」とか「ドクター
・ナカマツ」とかを連想するように、評価しつつもどこか小馬鹿にしたようなところがあ
る。しかし、前にも述べたが、我々がおこなう「学問」「科学」とはすべて「アイデア」
「おもいつき」の産物だ。すべて、ユーグリッドなり、ニュートンなり、ダーウィンなり
、ウェーバーなり、湯川なりフロイトなり、・・・が「思いついた」ことである。
まずは、このような「アイデア」「おもいつき」を尊重し、自分もアイデアを出してみ
よう、と心の底から願うことが第一歩ではないだろうか。
【一人ブレーンストーミング・ノート】
ブレーンストーミングというコトバをきいたことがあるだろうか。広告業界などでアイデ
アを「強制的」に出すためにおこなわれる手口である。複数の人があつまって、テーマに
関してどんなつまらないことでもいいからアイデアをとにかく多くだしていく。その際、
絶対に出てきたアイデアを批判してはいけない、というものである。
アイデアというものは、「こんなこといったら、ひとからバカにされてしまうのではない
か」などと危惧している状況ではなかなか浮かばないものである。そのために「批判をせ
ず」「どんどん多く」出すことが重要になる。
このブレーンストーミングを一人でやってしまおうというのが「一人ブレーンストーミン
グ・ノート」である。前に言及した「発見の手帳」がいわば「待ちの発想法」であるとす
ると、これは、いわば「攻めの発想法」である。( もっとも、つかうノート自体は別にす
る必要はない。私自身がどのような「研究ノート」を使っているかはそのうち述べよう)
。
とにかく、あるテーマ( これもノートに大書するとよい) について、我ながらつまらない
ことでもよいから、思いつくことをドンドン書いていくこと。多く書くのがコツである。
スポーツなどと同じで、「アタマ」もある程度「ウォーム・アップ」しないとノッてこな
いものである。
【昨日とは違ったアタマの使い方】
人間は、自分が思っている以上に「保守的」な動物である。とくに「ものの見方考え方」
に関しては、なかなかいままでの習慣を変えようとしないものである。
これは、その人の年齢にあまり関係ない。「若い」ひとでも、大学の「講義」などで「し
ょうがなく」学んだことに関してはさほど影響を受けずにいるものである。
しかし、「学ぶ」とは、いわば、「より正しく変わる」ことだ。なにかを「学んだ」以上
は、それを生かして「昨日とは違ったアタマの使い方」をしてみよう、と意識して振る舞
うとよい。どんなものでも、学ぶ以上はそれなりの「手間暇」がかかるものである。その
手間暇の「モトを取る」ためにも、学んだものは意識して応用・適用してみよう、とする
とよいだろう。
ちなみに、私はある理論などについて勉強すると、それに関する論文をどんなものでもよ
いから書くことにしている。我ながら、おもしろいのが書ける場合もあるし、我ながら駄
作である場合もある。しかし、駄作でもかまわない。その理論を「使って」昨日とはちが
ったアタマの使い方をしてみようとすることが重要だと思う。そうすることで、はじめて
学んだことが身につくのである。そして新たな視野が開けるのである。
【一冊スパーク法】
以上は、学んだことをいわば「肯定的に」適用する手法であった。これに対して、学んだ
ことをいわば「否定的に」用いる手法がある。
これは、と思う本は、読んだあとかならずノートに「総括」(まとめ)をする。しかし、
「まとめ」ようとしてもうまくまとまらない。ここが問題だ。なぜうまくまとまらないの
か、何時間でも何日でも考え抜く。するとあるとき、じつはその本の筆者自身がとんでも
ない思い違いをしていたのだ、ということに気付く。そして、筆者の主張に対する「代替
案」がおもいつく。これがアナタのペーパーのイイタイコト(主張)となる。
あとは、筆者のイイタイコトとあなたのイイタイコトの「比較考量」をすれば、ペーパー
は書けてしまう。すなわち、筆者の議論のいたらないところは××で、これにたいして、
あなたの代替案は〇〇で、両者の主張を比較すれば、あなたの代替案の方がこれこれの根
拠ですぐれている・・・、ということを書けばよいわけだ。
【イイタイコトを一行・一文で書いてみる】
「きらめく」ペーパーのための個人的意見。前回は、「イイタイコトをはっきりさせよ」
と述べた。今回はその続きである。
「イイタイコトをはっきりさせる」ために、ぜひやってみてほしいことは、ペーパーをか
きおろすまえもしくは、ざっと下書きをしたあとで、自分の「イイタイコト=主張」を一
行・一文でなにかの紙にかいてみることだ。
そんなことをしなくたって自分のイイタイコトぐらいわかっているよ、とキミはいうかも
しれない。しかし、それは甘い。まあだまされたと思って、自分のイイタイコトを紙に一
行・一文で書いてごらん。きっと「自分の思想」がいかにあやふやかわかって愕然とする
よ。
【問いと回答とをそれぞれ一文・一行で書いてみる】
科学論文・学術論文(キミたちの書くいろいろな「ぺーパー」もこれのミニチュア版だ)
とは、ある問題を提示して、その問題に対する筆者の回答案を提出し(この「回答案」が
そのペーパーの「イイタイコト=主旨」だ)、この回答案がいかにただしいものであるか
を論理的に読者に説得する作業である。この「問い」と「回答」がそれぞれはっきりしな
かったり、互いに対応していないようにみえたりするぺーパーが多い。
これまた、この対策として、「問い」と「回答」をそれぞれ一文・一行で紙に書いてみる
ことをおすすめする。
【問いと回答を「表題」「副題」に割り振ってみる】
前項に関するテクニックとして、ぺーパーの「表題」と「副題」に「問い」と「回答」を
割り振って書いておく、という手がある。前に私は、『セクハラ・ブーム−あるいはセッ
クスをしない新婚現象に対する、「女性=性商品」価値シフト仮説−』というぺーパーを
書いたことがある。これであれば、「セクハラ・ブーム」と「セックスをしない新婚現象
(いわゆる「セックスレス夫婦」現象。私がこのぺーパーを書いたときにはまだこのいい
まわしはなかった。つまりは私のぺーパーは「先見の明」があった(?)というわけ)」
(がなぜ生じたか)が「問い」であり、「女性=性商品・価値シフト仮説」が「回答案」
である。
こうすれば、筆者自身にも、「問い」と「回答」が自覚化されるのみならず、読者にもそ
れぞれが明確にわかるので、とてもよい方法である。あなたも、この「割り振り法」で、
試験や小論文の「表題」「副題」を書いてみたら?。
【駿台叢書『論文ってどんなもんだい』はとてもよい】
この本は、前にも紹介したが、ぜひ立ち読みしてそのエッセンスを盗んでほしい。「論文
」にとっては、「問い」の明示化、「回答案」の明示化、他者(読者)に対する回答案の
「説得」こそがすべてである、ということがうまくのべられている。とくに論文構造設計
表と巻末の論文のうたのアイデアは秀逸だ。もちろんこれは高校生・受験生むきの「学参
」であるが、「高校生なみ」のぺーパーを書かないためにも、「大学生」のアナタも立ち
読みするだけの価値がある。
以上、今回は、「イイタイコト」をいかにはっきりさせるか、について述べてみた。しか
し、そもそも、イイタイコトが思いつかない、という場合も多いだろう。では、そういう
場合、いかにしてイイタイコトを生み出していくか、いいかえれば、ぺーパーの「核」と
なるようなアイデアをいかにして「ひらめく」か、が問題となる。いうまでもなく、これ
に対して万能の方法はない。しかし、いくつかのノウハウがないこともない。次回は、こ
の「いかにしてぺーパーの核となるアイデアをひらめくか」について述べてみたい。
【二冊スパーク法】
前々回「一冊スパーク法」というのを述べたので、今日は「二冊スパーク法」を述べよう
。「一冊スパーク法」においては、ある本を読んだ際に「まとまらないところ」をさがし
だし、いわばそれを「問題」とすることで、「発想=スパーク=イイタイコト」を捻出す
る手法だった。
ところが悲しいかな、我々日本人は、幼少の頃より、本(教科書や新聞)にかかれている
ことは「真理」であってそれを疑って考察することなど思いもよらない、というように知
らず知らずのうちにしつけられている場合が多いのである。
したがって、本を読んで「まとまらないところ=理解できないところ」で立ち止まって考
察せよ、といっても、「理解できないのはたまたま私の理解が浅いだけであって、きっと
正しいことが書いてあるに違いない。なにしろ、何千部・何万部も出版されている本なの
だから」と「前意識」的に考えて、「自分のアタマで考えぬくこと」をしなくなってしま
う傾向が大きいのだ。
このような傾向を乗り越えるために考案したのが、これから述べる「二冊スパーク法」で
ある。
ある問題について明示的に対立している二冊の文献を用意する(たとえば、「コメの市場
開放は是は否か、など」)。あるいは、一見したところ似たようなことを言っているけれ
ども、じつは微細なところでは致命的に異なっていそうな二冊の文献を用意する。
「二冊」といったが、はじめのうちは頁が多いと「複雑性がおおきすぎて処理できない」
ので、みじかい「論文」などの方がよい。
この二冊を読んでみて、一体なぜ二人の筆者の主張は食い違っているのか、二人が相補的
な覚醒と忘却をしていることはないのか、ふたりの対立を「止揚」することはできないの
か。アナタ自身は二人の対立のどちらに賛同するのかそれとも第三の「代替案」を提起す
ることはできないか・・などと考えてみるのだ。
その際注意すべきなのは、このような作業をしたあとで結局「それぞれの筆者はそれぞれ
もっともなことを言っていて、この問題は難しい問題だ、と思った」なんぞと「感想」を
ペーパーに書いてはいけない、ということだ。このような「ケンカ両成敗」的な「感想」
を書いてはいけない。それぞれの筆者のいたらないところはどこでそれに対してアナタは
どのような代替案を提起するのかを「論理的」に述べる「考察」を書かねばならないのだ
。
このような「論理的」な「考察」をするさいに有力な道具となるのが、まえに述べた「四
象限図」のテクニックである。「AかBか」という「二択」に問題がみえるときにじつは
そうでないことをしめしてくれるのがこのテクニックである。
たとえば、「コメの市場開放は是か非か」という二択であるようにみえる問題でも、じつ
は、論者たちの立場は、「市場開放をしなくては国際的に問題が生じる/生じない」とい
う対立と「食料の自給はするべきである/しなくてもよい」という対立が混在している場
合がある。よってこれを図示すれば、
開放なしでは国際的に問題
|
4 | 1開放是
|
自給すべき−−−− −−−−する必要ない
|
3開放非 | 2
|
問題ない
となるだろう。そして開放を「是」とする立場は 1のセルに、「非」とする立場は
3のセ
ルに対応するだろう。しかし、図からもわかるとおり、別の二つの立場も論理的にはあり
うるのである( 2と 4のセル)。ここからアナタ自身のイイタイコトと「代替案」を考案
していく糸口がえられるかもしれない。
【人文科学において「論理的である」とはいかなることか】
はじめの方で「きらめくペーパー」のためには「奔放な発想と緻密な論理」が大切だとの
べた。そしてそれ以後いろいろと述べてきたテクニックはおもに「奔放な発想」をいかに
しておもいつくかということであった。
そろそろ期末試験も近づいてきたので、「緻密な論理」をいかにして実現するかについて
のべなければならないだろう。
私の個人的意見では、「人文科学」において「論理的」なペーパーを書くためには二点留
意すべき点がある、と思われる。
【いうまでもなく、まずは、形式論理を遵守すること】
第一はいうまでもなく、まずは、いわゆる「形式論理」を遵守することである。「三段論
法」や「全称/存在」「必要条件/十分条件」「逆はかならずしも真ならず」「対偶は同
値」などといった論理学上のルールを遵守することである。
この点をトレーニングするには、「論理学」自身の勉強をするのももちろん有効だが、そ
れ以外にいわゆる「数学」的な学問をかじってみるのも有効だと思う。
たとえば、中学の教科書を出してきてユーグリッド幾何の初歩をやりなおしてみる。とく
にやさしい定理の「証明」を自力で書いてみるなどよいのではないだろうか。
あるいは、かならずしも「数学」自体をやらなくてもよい。「数学」を利用した応用科学
・人文・社会科学の勉強をしてみるのもよいだろう。たとえば、統計学(心理の人にとっ
て重要)・ミクロ経済学・ゲーム論・社会的選択理論など。
哲学においても、数学のように「公理・定義・証明・定理」というように議論がすすめら
れている本があるので紹介しておこう。有名なスピノザの『エチカ(倫理学という意味)
』である。岩波文庫に入っているはずだ。
【しかし、じつは、「人文科学」において「論理的である」とはたんに形式論理を遵守し
ていることだけをあらわしているのではない。ではいったい・・・・】
しかし、じつは、「人文科学」において「論理的である」とはたんに形式論理を遵守して
いることだけをあらわしているのではない。「あの論文は論理的だ」とか、「あの人の議
論は論理的だ」という場合、それはたんにその議論が形式論理を遵守しているというだけ
ではないのだ。ではいったい人文科学において「論理的である」とはどういうことなのだ
ろうか。
私のみるところ、「ありうべき反論に、あらかじめ周到に答えているような論文」をひと
は「論理的である」というようなのだ。
「議論」という言葉が、「二人のあいだの討論」という含意をなにほどか含んでいること
からもわかるとおり、たとえ一人の人が一本のペーパーで「議論」をしていたとしても、
それは、「仮想の論敵」との「対論=論争」なのである。
つまり「学術論文=ペーパー」とはいわば「ひとりディベート」なのである。
したがって、その「ひとりディベート」がうまくいっているペーパーは、ひとからみて「
説得力」のある「論理的」な論文であるようにみえるのだ。
したがって、「論理的」であるための私の第二の提言は、こうなる。
ペーパーを書くさいには、たえず自分の「イイタイコト」を明確にしつつも、それに対す
る「反対意見」を考えてみること。そしてその「反対意見」に再反駁をするように議論を
展開していくこと、である。(このへんについても、例の『論文ってどんなもんだい』は
参考になる)。
【「論文」なんて書けなくたっていいじゃないか?】
また、みなさんのなかには、「桜井は『論文・論文』っていうけど、論文なんてかけなく
たっていいじゃないか、ボクたちは『学者さん』になるわけじゃないんだから」と思うひ
ともいると思います。
この点は、大学教育( 「大学院」でなくいわゆる「学部」教育) の「目標」をいかに設定
するか、という重要な問題とも関連しています。
大学教育( 「学部」教育) の目標として、第一にあげられるのは「学者さんの言ったこと
・やったことの概略を知る」ということでしょう。すなわち、あなたが「専攻」する学問
の「定説の概略」を知り・覚えることでしょう。第二は、「学者さんがいま言っているこ
とが分かる」ということでしょう。すなわち、学術書や論文が読めるようになる、という
ことでしょう。
これに対して、「大学院」教育の目標としては、これに加えて、「みずから、学界に貢献
する」ことか付け加わるでしょう。この点に関して、大学院生については「論文執筆のト
レーニング」が必須であることはいうまでもありません。
しかし、私は、前者の大学教育( 学部教育) の目標としてもう一つ大きなものがあるので
はないか、と思うのです。
それは、「学者さんに、だまされないようになる」ことです。
学生さんのなかには、自分の専攻の定説の概略をおぼえたり( 上の第一の目標)
、いまの
学者が書く本や論文が読めるようになった( 第2の目標) が、その結果、それらを「鵜呑
み」にしてしまうひとがいるような気がします。
しかしこれではいけない、と私は、思うのです。大学を卒業はしたけれどもその結果「学
問にだまされる」ようになったのではしょうがない、と思うのです。
あなた自身が自分のあたまで考えて「学者・学問」に「だまされないように」することが
肝心だ、と思うのです。
そのためには、自分で「議論」をくみたててみる、これ以外の方法を私は思いつきません
。
こんなことも考えて、私は、「論文」形式の期末評価にこだわっているわけです。
【論文を讃える!】
現代メディア文化論講義の試験答案ならびに小論文では、とても興味深いものが多かった
。
ここでは、優秀作すべてに言及することは、できないが、いくつかコメントして、栄誉を
讃えたい。
・「絵画をめぐるコミュニケーション」小島氏
にせ黄門のパラドックスのアイデアが、素晴らしい。また、絵画をめぐる「二つのコミュ
ニケーション」を定式化しているのも、おもしろい。
・「マスメディアの受容過程論における考察」黒川氏
限定効果説と、複合効果説とを総合する「共鳴効果説」の提案。なかなか、説得力がある
。
・「新製品購入へのメディア効果」佐藤氏
アイデアの採用過程には、早期採用者と後期採用者のほかにも、「第3の採用者」がいる
ことを、新たに主張した。
・「人はテレビの中での出来事を実感できるか」森永氏
金子郁容の「もうひとつの情報社会」を援用しつつ、シンボリックシステムからの脱出を
図ることで、「人はテレビの中での出来事を実感できる」という、仮説を証明しようとす
る。
・「メディアの発達は音楽と我々にいかに影響を与えるか?」羽生氏
本来自由な音楽である「ロック」が、「安心できる危険」になって、しまったことへの批
判。そこにおける「メディア」の効果についての議論。自分が本当に対象としたいような
ものを論じる姿勢は、とても評価できるだろう。
・「現代の生態系及び社会的状況下における「結婚」についての私的見解」中牧氏
「男性が家庭に入ってもいい」ことや、「同性愛やセックスレス夫婦も自然の摂理である
」ことを主張。
・「美味しんぼにみる現在のコミュニケーションとメディア」太田氏
コミック「美味しんぼ」において「美味しい」という表現が禁句となっていることを発見
。その理由を考察して提案。
以上、私の気の向くまま、ピックアップしてみた。この他にも、おもしろい論文が多かっ
た。どうもありがとう。
自分のみじかな問題から、視点を広げていくようなものが多く、とても評価できる。
これからも、他人からの「借り物」ではなく、「自分の」問題意識から出発する志しを大
切にして欲しい。
だだ、ひとつつけ加えると、現代の、文化に関するいろいろな「理論」(例えば、構造主
義、システム論、文化的再生産論、物象化論、言語ゲーム論・・・など)についての、「
一般常識」を知っていれば、もっとおもしろいものが書けるだろうに・・・、と思った。
新年度の講義では、これらの、「文化理論の一般常識」についてもしゃべるつもりなので
、関心のある向きは、聞いて下さい。
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