彼女がゲームをはじめたら? (!決定稿にあらず!)990318

980511(副題)社会ゲーム論前哨・選択肢生滅問題・選択肢存続主要三類型・当為性の由来・人間の悩みの三つの源泉。

         桜井芳生(著作権保持)

         sakurai.yoshio@nifty.ne.jp

         http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/

980511【あらすじ】本稿は、おもに三つの問題について、暫定的な回答案を提示することを目的とする。第一の問題とは、人間社会において、「選択肢」が「消滅」したり「発生」したりするのは、いかにしてなのか、という問題である。第二の問題は、人間社会における「当為(べき)性」の由来はいかなるものなのかという、問題である。980819第三の問題は、人が社会を生きている際に感じる悩みには主にどのようなものがあり、それの解決はいかになされるのか、あるいは解決できないものはあるか、という問題である。私が提案する回答が、これらの問題に関して「唯一にして、必要」であるということはありそうもない。しかし、私の提案する答案は、私の知る限りあまりいままで展開されていない。よって、一つの「取りかかり」として提起するのは、今後の探求の糸口になるように直観される。

980511(つづき)これらの問題は、必然的に一つの論文において論じられるべきものとはいえない。しかし、第二の問題に対する私の回答を提起するためには、第一の問題に対する私の立場を再び述べる必要が生じる。そのため、二度手間を厭い、第二問題も、第一の問題の後に、一つの論文として論じさせていただく。御容赦いただきたい。(第三の問題と、第一・第二問題との関係も同様である)。

980511(つづき)第一の問題のさらに第一下位問題すなわち、いかなる場合に選択肢は消滅するのかという問題。この問題に対する私の回答は、純粋ナッシュ均衡が成立しているとき、というものである。第一の問題の第二下位問題すなわち、いかなる場合に選択しは発生し存続するのかという問題。この問題に対する私の回答は、純粋ナッシュ均衡が不成立となり、混合ナッシュ均衡が存在している場合、というものである。で、後者の純粋ナッシュ均衡が不成立で、混合均衡が存在している場合には、おもに三つの主要類型が考えられる。第一は、事態が、「非対称ゲーム」的である場合で、このときは、人々は「悩んで選択する」ことがありそうになる。通常いう「選択」のもっとも典型的ケースと思う。第二は、事態が「対称ゲーム」的である場合である。この場合も、論理的にすぐまえと同様「悩んで選択」することもあり得る。が、典型事例としては、「階級分化(棲み分け比率が圧倒的でない場合)」と「一見自明な規律(棲み分け比率が圧倒的である場合)」とにおおむね類型できる。うえのもっとも後ろの類型の「一見自明な規律」が成立するとき、社会には「当為性」が成立する、というのが、第二の問題に対する私の答案である。

980825【目次】

第一章 選択肢生滅問題への一つの回答

第二章 当為性由来問題への一つの回答

第三章 人間の悩みの類型と解決

第四章 全体の回顧、と、本稿とゲーム論との関係

【第一章 選択肢生滅問題への一つの回答】

【選択肢生滅問題】

現代社会科学においてゲーム理論は多大な影響を与えているが、そのフレームワークにおいては、「選択肢」のあり方は所与(与えられている)である。

しかし、いうまでもなく、社会の現実をかんがえみると、生活をしている者の視点からは選択肢は、生じたり・なくなったり・増えたり・減ったり、しているだろう。

だとすると、「選択肢がいかにして、生じたり、なくなったり、変化したりするのか」という選択肢の生滅変化問題は、大きな問題であるといえるだろう。

ゲーム理論を離れて考えても、社会学にとって、「行為」概念はかなり重要な概念だろう。行為をどうとらえるかは、社会学者たちにとって必ずしも同意されているといえないとおもうが、ほとんどの行為論にとって、「選択」であることは、行為概念を定義するうえでの必要条件になっているだろう。

だとすると、ゲーム論を離れても、上述の「選択肢の生滅」問題は、社会学にとって大きな問題であると言えるだろう。

980210【無限の選択、無限の選択肢?】

980210探求の糸口として、ごく簡単な思考実験をしてみよう。

あなた(読者)は、会社員で、いつもどおりに通勤して、いま午前10時頃で、会社の机で、いつもどおりの仕事をしている、としよう。

さて、あなたは、朝起きてから、いまの10時まで、どれほどの「選択」をしただろうか?。

まず、7時に目覚めたとしよう。目が覚めたとしても、そのまま起きるか起きないで、そのままねてしまうか。起きたとしても、服を寝間着から着替えるか着替えないか。服をきがえたとして、寝室から出るか出ないか。寝室から出たとして、再び寝室に戻って寝てしまうかもどらないか。もどらないとして、そこにいた妻に、おはようのあいさつをするかしないか。あいさつをしたとして、そこにいた娘にあいさつをするかしないか。あいさつをしたとして、その娘に接吻をするか殴るかどちらもしないか。どちらもしなかっとして、、、、、。

このように以下、いくらでも選択(選択の「節(ノード)」)と、選択肢(選択に枝分かれの個々の枝(ブランチ))を記述していくことができるだろう。

非常に細かい視点に立てば、「無作為」(なにもしないこと)も、それ自体「なにもしない」という選択といえる。と考えれば、ただじっとしているだけであっても、瞬間瞬間ごとに、あなたは、そのままなにもしないか、それともなにかをするか、という選択の節に立っており、そしてそのなにかをするということ自体いくらでもその「なにか」のヴァリエーションが考え得るだろう。

つまり、ほとんど任意の場面において、人は、無限大の個数の選択(選択の節)と、無限大の個数の選択肢(ブランチ)を、経過しているといいうるだろう。(いうまでもないが、このことは、だからといって、行為者は、彼の任意の瞬間に任意の選択肢を選択できる(やりたいときにやりたいことができる)ということではない。)

しかし、このように、細かい視点(神の視点?)からは、数え切れないほどの選択節とそこでの選択肢を経過していたとしても、あなたは、「なにごともなかった」かのように、起床し、食事をし、家を出て、出勤し、机に座り、いまここでいつもどおりの仕事をしているだろう。

980210つまり、このような神の視点(悪魔の視点?)からの無限の選択・無限の選択肢は、あなた自身には、いわば「現象」しなかったわけである。あなたは、そのごく一部の選択・選択肢を体験し、あるいは、ほとんどまったく選択を体験しなかったかもしれないのだ。

ではいったい、どのようにして、あなたに、選択肢が立ち現れたり、あるいは、前にはあったようにみえた選択肢が消え去ったり、するのだろうか?

(以下、便宜のため、選択肢の節(ノード)と、選択肢の個々のブランチ(狭義の選択肢)を、両者をあわせてともに(広義の)「選択肢」と呼ぶことにする)。

本稿第一章の問題は、これである。

980210おそらくこの問題を完全に解くことは、人知を越えることかもしれない。あるいは、完全に精確に記述するためには、結局は「ケースバイケース」をいちいち記述しなけばならないかもしれない。少なくともこの問題のかなりの場合はあまり社会科学的でない諸事情できまってしまうことがありそうに感じる。しかし、ある場合に関しては、社会科学的探求(回答)が可能なのではないか。この社会科学的回答を私は、以下で提示してみたい。

980210【ゲーム理論】

980210前述したようにゲーム理論においては、各プレイヤーの選択肢は「所与」である。モデルの「外」あるいは「前」から、与えられている。そもそも私が、選択肢の生滅問題を考えてみようと思ったのは、このゲーム論における選択肢の所与性という「性能の低さ」をいくらかでも克服できないか、とおもったからだ。

このように、ゲーム論にとっては、選択肢のあり方は所与である。だから、ゲーム論をこの選択肢の生滅問題への探求ツールに使うことはできないように、一見するとみえる。

が、私は、まさにゲーム論を援用(いわば流用)することで、この問題にアタックしてみたいのである。

980212【ナッシュ均衡】

周知のように、(非協力)ゲーム理論における最重要概念の一つは、ナッシュ均衡である。

ナッシュ均衡とは、もし相手の選択肢が変化しないとすると自分の選択肢を変化させる誘因が存在しない、そのようなことが全員に対して成り立っているような、選択肢の組あわせである。

たとえば、「自動車で、道の左側を通行すること」をかんがてみよう。各運転手は、右側を通行するか左側を通行するか、という選択肢があるとしよう。もし、他の運転手がみんな左側を通行するなら、私も左側を通行するという選択肢を変える誘因がない。よって、みんなが左側を通行することがナッシュ均衡である。

980212あるいは、電話がなったとき電話にでるか、でないか、という選択肢と、電話をかけたとき相手がでたら話しをするか、話をする前に切ってしまうか、という選択肢をかんがてみよう。

もし、両者が、互いに話しをしたい間柄なら、電話がなったらとる、相手がでたら話すという選択肢の組から相手の選択肢を所与とする限りは変化させる誘因はない。よって「電話をとる。でたら話す」という選択肢の組はナッシュ均衡である。あまりにあたりまえで変なケースをだしたとおもわれるかもしれない。しかし、もし電話の掛け手がいたずら電話魔であったとすると、事態はこうはならない。

980212以上「左側通行する」「電話にでる・でたら話す」といった、一見すると変な事例をあげた、じつはこれは意識してこうしたのである。日頃われわれは、自動車で、左側を通るときそれを「選択」しているとはあまり意識しない。電話にでる、でたら話すなどということも「選択」としては意識していない。

ここから、ナッシュ均衡が実現しているときには、その選択肢(の組)は、選択肢として意識されなくなることが多いのではないか、と推測することもできるだろう。

ここから、探求上のとりあえずの仮説(命題)として、以下のような仮説をたててみることができるだろう。ただし、以下の言い方はじつは精確ではなく、あとですぐ言い直すのでこれを「暫定仮説1」と呼ぼう。すなわち、

暫定仮説1:ナッシュ均衡が現実に成立している場合には、その選択肢(の組)は、選択肢として意識されることがなくなることがおおい。

すなわち、「選択肢の消滅」の一つの場合をこうして記述することができるようにおもわれるのである。

【混合ナッシュ均衡】

以上はナッシュ均衡が成立している場合であった。では、ナッシュ均衡が存在しない場合はどうだろうか?。

この疑問に関連して、述べておくと、実は前節での「ナッシュ均衡」は、さらに細かくいうと「純粋」ナッシュ均衡であった。

これに対して混合ナッシュ均衡という概念がある。

(このあたりは、ゲーム論の研究者には、当たり前以前の記述なので、とばして読んでください)。

混合ナッシュ均衡に関しては、野球の「スクイズ」の場面で説明するのはわかりやすいと思う。

一死走者三塁の場面。攻撃側としては、スクイズの選択肢が当然考えられる場面である。

守備側としては、それにたいして、「ウエスト(はずす)」と、「はずさずにストライクを投げる」という選択肢があるだろう。

もしある監督(長島監督)は、一死走者三塁の場面で、いつもスクイズをするとしたら、相手の監督(野村監督)は、いつもウエストするだろう。

もし、野村監督がいつもウエストをするなら、長島監督はいつもスクイズを「しない」を選択するだろう。

もし長島監督がいつもスクイズを「しない」を選択するなら、野村監督は、「はずさずにストライクを投げる」を選択するだろう。

もし、野村監督がいつも「ストライクを投げる」を選択するなら、長島監督はいつもスクイズをするだろう。

もし、長島監督がいつもスクイズするとしたら、野村監督はいつもウエストするだろう、、、、、、。

以下同様である。

このように、ここでは、相手が選択を変えないというという前提のもとで、自分が選択肢を変更する誘因がないというような選択肢の組み合わせが存在していない。

つまりは、上述の意味でのナッシュ均衡が存在しないのである。

では、ほんとうに、ナッシュ均衡が存在しないのであろうか。

じつは、別のやり方があるのである。それは、選択肢を「確率的にだす」というやり方だ。

スクイズでは計算が少し面倒なので、「じゃんけん」でかんがえてみよう。

じゃんけんにおいても、上述のように「循環」が生じてしまって、うえのような意味でのナッシュ均衡が存在しないことはすぐわかるだろう。

しかし、誰でも知っているようにじゃんけんおいては、いつも出す手を決めておかないのが得策である。

少し考えればわかるように「三分の一ずつの確率で三つの選択肢をだす」ということを二人ともおこなうのがナッシュ均衡になる。

なぜなら、もし相手が三分の一ずつの確率で手をだすのだとしたら、自分も三分の一ずつの確率で手をだすという戦略を変更する誘因がないからだ。

スクイズの場合も同様だ。実際、何パーセントずつの確率で選択肢を選ぶとナッシュ均衡になるかの計算の仕方は、「註」を見よ。

980212このように確率的に選択肢を選ぶ方法を混合戦略といい、混合戦略のもとでのナッシュ均衡を混合ナッシュ均衡という。それに対して、1と0の確率で選択肢を選ぶ方法を純粋戦略といい、前節のような純粋戦略どうしによるナッシュ均衡を純粋ナッシュ均衡という。

980212ところで、混合ナッシュ均衡に関しては、非常に強力な定理が証明されている。

すなわち、混合戦略も許すと(純粋戦略も、1と0の確率で選択肢を選択する、いわば広義の混合戦略に含まれるとみなして)、任意のゲームに、ナッシュ均衡が存在するのである。

980212本節冒頭部分での、「ナッシュ均衡が存在しない場合はどうだろうか?。」という問いは問い直すべきであり、すぐさま進展することができる。

まず上述の暫定仮説1でのべた「ナッシュ均衡」とは、じつは「純粋ナッシュ均衡」のことであった。よって、暫定仮説1をより精確に言い換えて仮説1と、呼ぼう。すなわち、

仮説1:純粋ナッシュ均衡が現実に成立している場合には、その選択肢(の組)は、選択肢として意識されることがなくなることがおおい。

あるいは、こういってみよう。

980311仮説1’。純粋ナッシュ均衡が現実に成立していることが、選択肢が消滅することの、ほとんど十分条件である。

さらにこの命題の「対偶」をとることで以下のようにも言い換えることができるだろう。

980311仮説1’’選択肢が現象していることは、純粋ナッシュ均衡が現実に成立していないことの、ほとんど十分条件である。(純粋ナッシュ均衡が現実に成立していないことは、選択肢が現象していることの、ほとんど必要条件である)。

980217一つ注意すると、ゲーム論的な記述をしたさいには、純粋ナッシュ均衡が存在しても、現実上の事情でそれが実現しにくい場合がある。よって、うえの仮説の文言は、「純粋ナッシュ均衡が存在する場合には」ではなくて、「純粋ナッシュ均衡が現実に成立している場合には」となる。

そしてまた、「ナッシュ均衡が存在しない場合はどうだろうか?。」という問いは実は「純粋ナッシュ均衡が存在しない場合はどうだろうか」と表現すべきであった。

そして、これに対して、「純粋ナッシュ均衡が存在しない場合には、つねに、混合ナッシュ均衡が存在する」とすすめることができる。

【混合ナッシュ均衡で悩む(悩むことを楽しむ?)人間】

980212ゲーム理論家の目からは、以上のようなスクイズゲームも、じゃんけんゲームもあまりおもしろいゲームではない。かんたんに、混合ナッシュ均衡が算出でき、それ以外の手を選ぶのは得策ではないからである。

しかし、当事者の視点からは必ずしもそうではない。じゃんけんほど単純であれば人はそれほど「悩む」(悩むことを楽しむ?)ことはないかもしれないが、スクイズ程度に混合ナッシュ均衡の算出が複雑ならば、シーズン中、夜ラジオをひねればすく聞こえてくるように、「この場面では、こうすべだ。ああすべきた。結果論だが、あの場面では、ああすべきであった、こうすべきではなかった」などと野球解説者とアナウンサーがやり合っているのを聞くことができるだろう。そして、ラジオの聴取者も、この「悩み」につきあって楽しんで?いるだろう。

このようにかんがえてみると、どうも混合ナッシュ均衡というのは、ふつう当事者としてのわれわれ人間の「人知」を越えたものであるようにもみえる。

任意のゲームは、純粋ナッシュ均衡を持つか、混合ナッシュ均衡を持つかである。上述のように、純粋ナッシュ均衡を持ち、それが実現しているときには、選択肢の存在は当事者の視野からは消失することがありそうである。

980212それに対して、混合ナッシュ均衡が存在するときは、ゲーム理論家の目からは混合ナッシュ均衡となる選択肢を確率的に出すのでいわば「キマリ」であるのに、当事者はいちいち「悩んで」しまうようである。ここにおいては当事者にとっては、選択肢は選択肢として意識されていて、選択肢の存在が当事者の視点から消失することは、起こりにくい。

こうしてわれわれは、選択肢の存続(消滅しないこと)に関しても、仮説(仮説2)を提起してみることができるだろう。また、前述の通り、モデル上は純粋ナッシュ均衡が存在しても現実上それが実現するとはかぎらないので、「純粋ナッシュ均衡がたとえ存在していても、それが実現しがたい場合」も同様である。すなわち、

仮説2:任意のゲームにおいて純粋ナッシュ均衡が存在しない場合には、混合ナッシュ均衡が存在する(ここまでは、すでに証明されている)が、その場合には(あるいは、純粋ナッシュ均衡がたとえ存在していても、それが実現しがたい場合には)、選択肢は当事者の視点からは消滅しにくい。と。

980311これも同様に、以下のように言い換えることもできるだろう。

980311仮説2’混合ナッシュ均衡しか存在しないこと(純粋ナッシュ均衡が存在しないこと)は、選択肢が現象するほとんど十分条件である。

【選択肢の生滅・滅生】980212

980213こうしてわれわれは、選択肢の消滅と存続について一定の見通しを得たので、これを組み合わせて、選択肢の「生滅」「滅生」に関しても仮説を提起することができるだろう。すなわち、

仮説3:混合ナッシュ均衡のみが存在するゲームが変化して、純粋ナッシュ均衡を持つようになり、しかもその純粋ナッシュ均衡が現実に成立するようになると、前者においては存続していた選択肢が、後者においては消滅する(ことがおこりやすい)。

仮説4:純粋ナッシュ均衡が実現していることで、選択肢が現れていなかったゲームが、純粋ナッシュ均衡を失う(その結果、つねに、混合ナッシュ均衡のみが均衡となる)と、選択肢が立ち現れる。

以上の仮説3と仮説4は、「純粋ナッシュ均衡←→混合ナッシュ均衡」の変化に即したものだが、「純粋ナッシュ均衡→純粋ナッシュ均衡」の変化においては、選択肢の「不在→立ち現れ→消滅」といったことがありそうなことなるのではないだろうか。

なぜなら、当初の純粋ナッシュ均衡が実現している際にはいわば「伝統・習慣」状態であったがゆえに意識されてなかった選択肢が、均衡値が変化することで「他の選択肢をとることの誘因」が生じて、そのことによって意識化・選択肢化し、プレイヤーたちが、新たに「選択」をしあうことで、事態は結果から見ると「新たな均衡状態への模索過程」とみなされうるような過程を経ることがありそうに思えるからだ。そして、幸いにも事態が新たな均衡値にいたると、前の均衡が実現していたときのように、選択肢はいわば「習慣・伝統」化し、消滅するにいたることがありそうなことといえるだろう。

(980213ただし、新しい純粋ナッシュ均衡が存在したとして、事態が必ず新純粋ナッシュ均衡へいたるかどうかは保証はない。)

980213こうして「純粋ナッシュ均衡→純粋ナッシュ均衡」の変化においては、選択肢の「不在→立ち現れ→消滅」がありそうなことになるだろう。すなわち、

仮説5:ある純粋ナッシュ均衡が実現している状態から、ゲームが変化して、別の純粋ナッシュ均衡値を持つようになったとする。その場合、前者のもとで不在化していた選択肢が、立ち現れ、当事者たちが選択をしあうことで、一種の模索過程がしょうじる。その過程の結果、新純粋ナッシュ均衡が実現すると、選択肢は再び消滅することがありそうなことである。

【選択肢は、「もともと」あったのか?】

980213以上のような、記述にかんして、何かだまされたような感覚を持つ読者も多いだろう。あなたの違和感はまっとうである。

じつは、うえにおいて、私(筆者)は、少しごまかし的な記述をしている。

980213読者の疑義は以下のように述べることができるだろう。すなわち、とくに仮説4が問題だ。仮説4において選択肢が立ち現れる(発生する)と述べられているが、なんことはない。選択肢はもともとあったのではないか。もしそうでないとすると、仮説4の文言中の「純粋ナッシュ均衡」自体が定義できないではないか。選択肢「発生」問題といいながら、じつは、選択肢ははじめから前提にされているではないか。と。

この読者の疑義はまっとうなものである。実は筆者としては、仮説4は「方便」的に読んでほしいのである。すなわち、選択肢がなかったような状態から、選択肢が発生したような状態を見ていると、いわば、遡及的に見て、その事態は「純粋ナッシュ均衡から混合ナッシュ均衡への変化」(あるいは仮説5に即せば「ある純粋ナッシュ均衡の実現から、純粋ナッシュ均衡値の変化」)として解釈できるのではないか、ということなのである。

980214すなわち、上述の「神の視点」ならいざしらず当事者の視点に近いものにとっては、選択肢が「ない」(立ち現れてない)時点において選択肢の立ち現れをいわば予言することは困難である(いわば人知を越える)。選択肢が立ち現れてはじめて、遡及的に、そこに選択肢があらかじめ存在し、現在混合ナッシュ均衡であるものが以前は純粋ナッシュ均衡であったがゆえに選択肢はたちあらわれなかったのだ、と、見なすことができるだけであろう。

980214ただし、社会学者は、完全に以上のような「神の視点」に立つことはできないだろうが、「比較社会学的」方法をとることで、当事者の視点からわずかなりとも神の視点に近づくことはできるだろう。すなわち、すでに選択肢が立ち現れている社会を参考にすることによって、未だ選択肢が立ち現れていない社会においてもいわば潜在的に選択肢は存在するのであり、その選択肢がどのような条件のもとで立ち現れるのか(本稿の仮説からすれば、「均衡が純粋から混合化することによって」のはずだが)を、予見することは不可能ではないだろう。

980901【選択肢の余白(地)、に対する桜井(強・弱)予想】

980905以上のような立場を貫徹させると、さらに以下のような「予想」(仮説6)をたててみることができるだろう。すなわち、

[選択肢の余白(地)、に対する桜井(強・弱)予想](仮説6): あるゲームの選択肢がいまあるように明示的に立ち現れており暗黙の選択肢の余白(地)がまさに余白(地)として選択の対象としてたちあれわれていないのはすべて、より深い視点からすると、純粋ナッシュ均衡が成立している場合、かつその場合のみ、である。

(以上の「すべて」「場合」「その場合のみ」の全部がいえるのが「強い」予想。それぞれを落とすごとにいろいろな「弱い」予想が定式化できる)。

980905これは上で展開してきた諸仮説の一つの「総合」である。われわれは目の前の状況をある選択肢が分節的に現象しているゲームとして見なすことができることがおおいだろう。が、そのさい、その選択肢の分節のいわば「余白」あるいは「地」をなしている「選択肢とはみえないような領域」もまた、上述の仮説1にじゅんじてより深い視点から見れば純粋ナッシュ均衡の「実現」状態なのではないか、と考えてみるわけである。

980905【選択肢の余白(地)に対する桜井予想の例示】

980905この点を、例示してみよう。

980905通常「じゃんけんぽん!」といったさい(次の瞬間)には、「グーをだすか」「チョキをだすか」「パーをだすか」の「三択」の選択肢が存在するとおもわれるだろう。が、ちょっとかんがえてみればわかるとおり、「じゃんけんぽん!」といった次の瞬間においてもわれわれのおこないうる振る舞いはこの「三択」にとどまるわけではない。舌を出すこともなし得るし、逃げてしまうこともなし得るし、何もせずに黙っていることもなしうる(さらに、いろいろ、、、、)。しかし、通常はこのような「グー・チョキ・パー以外の振る舞いをする」という選択肢はたちあらわれない。これは、じゃんけんぽん!といった次の瞬間においては、お互いに「グ・チ・パのいずれかをだす」ということが純粋ナッシュ均衡の実現になっている場合が大部分であるから、とかんがえてみることができるであろう。

980905「じゃんけんぽん!」といった次の瞬間において、「グー・チョキ・パーのいずれかに明確に解釈されるような「手」をだす」「それ以外の振る舞いをする」との選択(二肢)を想定することができる。すなわち

            グ・チ・パの手をだす        それ以外
   グ・チ・パ    純粋ナッシュ均衡実現        ―
   それ以外       ―                 ―

980905このように考えると、上述の[選択肢の余白(地)、に対する桜井(強・弱)予想](仮説6)は、かなりありそうなことである、といえるのではないだろうか。

980311【「ほとんど」性と、「非枚挙」性の、自覚。ヒューリスティックかつ「いい塩梅」のモデル?。】

980213本稿の仮説は、「『よい、加減』に『見切られた』モデル」ではないだろうか?。すなわち、この仮説に対する「反例」は容易に見いだせるだろうが、その反例をも包摂しようとすると仮説(モデル)がどんどん複雑になってしまって収拾がつかなくなってしまう。そのような意味で、本稿の仮説の程度の「複雑性」は、「よい」加減である(いわば「いい塩梅(あんばい)」)、といえるような、そんな仮説ではないだろうか。

980817【第二章 当為性由来問題への一つの回答】

980513【混合均衡状態のさらなる類型へ】

980512以上、私は、人間社会において、選択肢が消滅する場合と、消滅しない場合とが、大別的に区分できるのではないか、という視点を提示してみた。

以下、さらに、後者の選択肢が消滅しない場合(選択肢の存続する場合)について、さらに、大略的な下位区分を、再びゲーム論の成果を利用することで、できるのではないか、と提起してみたい。

はじめに先取り的に、大まかな結論を言っておく。純粋ナッシュ均衡が存在せず(すなわち混合戦略均衡のみが存在する)場合でゲームが「非対称」的である場合は、上述の「スクイズ」のゲームのように、ヒトは「悩んで選択する」ことがありそうである。前件が同様で後件が「対称」ゲームであり、かつ、以下でのべるような「棲み分け比率」がほどほどの場合には、「階級分化」がおきそうなことである。「棲み分け比率」が圧倒的である場合には以下のべるような意味での「一見自明な規律」が成立することがありそうなことである。この最後の場合を、当為性の由来する一つの場合と見なすことができそうだ。以上が結論である。

980909【全体の布置の確認】

以上の全体の布置を、非必然的かつ非枚挙的であるが、大勢において分類的に図示するとこうなる。

  純粋ナッシュ均衡の存在(かつ実現)→選択肢の消滅
<
  純粋ナッシュ均衡の不在←→混合ナッシュ均衡のみの存在 
     非対称である場合→選択肢の存続  
          <         
     対称である場合
                                 タカハト的棲み分け
              <
              均衡比率が圧倒的である場合
                 →一見自明な規律
                   (当為性の一由来)

980513【対称ゲーム】

さて、うえでは、純粋均衡が成立している場合と、そうでない場合、典型的には混合戦略均衡のみが存在している場合に大別した。そして、後者では、「選択肢の存在が意識され続ける」ことがありそうだ。と、論じた。

980513しかし、後者の混合戦略均衡のみが存在する場合でも、ある種の下位類型においてはちがったような人々の振るまいが起こることがありそうに思える。それを以下のべてみよう。

980513混合戦略均衡しか存在しない場合のさらなる下位類型とは、ゲームが「対称」的である場合である。(「対称」的とは、任意の社会状態に対する利得あるプレイヤーの利得が、そのプレイヤーがどのプレイヤーポジションに割り当てられているかに依存しない、ということである。形式的には、二人ゲームの場合、第二プレイヤーの利得行列が第一プレイヤーの利得行列の転置行列となっていることと同値である。(Weibull 1995=1998:31−32) 参照)

980513ゲームの対称性は、均衡の純粋・混合性とは論理的には独立である。純粋均衡が存在する対称ゲームも存在する。が、ゲームに純粋均衡がある場合には、ゲームの対称性の有無はあまりか変わりなく、いままで論じた選択肢の忘却がおきそうである。よって、均衡の混合の場合のみ、ゲームの対称・非対称で、下位分類してみよう。

980513【ESS】

980513ゲームが対称である場合には、ナッシュ均衡とかなり外延を等しくするが含意の異なる別の重要な解概念が有効になる。ESS(evolutionarily stable strategies進化的に安定な戦略)である。

980826以下のゲーム(利得行列)を見てほしい。

    タカ   ハト
タカ  -1,-1   2,0
ハト   0,2   1,1

980826これはメイナード=スミスが、ESSを導入するさいに例示に使った有名なタカ・ハトゲームである。この場には利得2にあたいする餌があるとする。もしハトとハト同士がそれをわけあうと1と1とにわかれる。タカとハトが出合いそれをわけるとタカはハトを威嚇しハトはあえてタカと戦わずににげてしまう。よってタカは、利得2をまるどりし、ハトは利得を得ることができない。タカとタカとがであうと、戦いがおこり結果的には利得は等分されるが、戦いによる損失2だけ利得は控除され、都合-1,-1の配分となる。

980826ESSすなわち「進化的に安定な戦略」とは、集団のメンバー全員がある戦略をとったときに、変異型の戦略の侵入を許さないものをいう。

980826この場合は、確率50%でタカのように、確率50%でハトのように振る舞うのが、混合戦略としてのESSとなる。

980513ESSの考え方がおもしろいのは、たとえ、所与のゲームのおいて純粋ナッシュ均衡が存在しなくても、かならすしも「個々のプレイヤー」は「悩んで選択」をしなくてもいい、ということを示してくれることである。

980513ここでは、多数者間の一対一関係を念頭においてかんがてみよう。

980513とすると、ここにおいては、あるプレイヤー(私)はかならずしも、混合戦略として確率的に選択をする必要がなくなる。

980513もし多数の他者たちとランダムにであうのだとしたら、私プレイヤーはタカ戦略をとるプレイヤーと出会う確率ハト戦略をとるプレイヤーと出会う確率とを見積もってそれによって自分の戦略をきめればよい。

980513言うまでもなく、ここにおいては、他のプレイヤーたちが混合的に確率的に戦略を選択しているのか、それとも、各人は同じ戦略をずっととっていてそうであるような人たちに確率的に出会うのか、は、私プレイヤーにとっては無差別(違いがない)である。

980513で、私から、みたこの比率(確率)が、ESSの均衡比率(ここでは、50%・50%としよう)より、もし乖離していたら、私はヨリ少数はの戦略をずっととり続ければ、いいわけである。そして、他者たちの戦略の比率が、ESSの均衡比率と等しく50%・50%である時には、私プレイヤーはどっちの戦略をとり続けようと、同じ(無差別)となる。

980513このことが、任意の個々のプレイヤーに対して成り立っている。したがって、この場合には、個々のプレイヤーは必ずしも戦略を確率的に選択する必要はなく、全体の期待される他者たちの選択肢の比率(確率)に対してヨリ少数派の戦略をとりつづければよい。そして、全体における比率がESSの均衡比率と等しくなったとき、すべてのプレイヤーは戦略を変更させる誘因がなくなり、社会全体は安定する。

980513すなわち、ここでは、純粋ナッシュ均衡が存在しなくても、個々のプレイヤーは戦略を確率的に選択する必要はなく、社会全体においてタカの戦略をとり続ける集団と、ハトの戦略をとり続ける集団とに、いわば階級分化的に棲み分けがおこれば社会は安定するわけである。

980515【一見自明な規律】

980515さて、以上のようなESS上の均衡比率が圧倒的に一方に傾いた場合を考えてみよう。たとえば、タカ1%・ハト99%というように。

980515これは、もし他者全員がハト100%ならば私はタカ戦略をとるのがトクだが、もし、ごく少数でもたとえば2%でもタカがまざっていたとすると、そのタカと出会ったときの損失が甚大であるがゆえに、自分はハトをとるのがトクになるような状況である。

980515このような場合、「生身の普通の人」はどのようにふるまうだろうか。もし、人が完全に合理的なら、社会におけるタカとハトの比率を推測し、タカの比率が1%未満なら、自分はタカをとり、1%より大きいなら、ハトの戦略をとるだろう。

980515が、そもそも、ESS的棲み分けストーリーがリアリティを持つのは、他者がどんな戦略をとる者か、個々にはわからない場合であった。とすると、社会全体での他者たちの戦略の比率を1%レベルで、精確に把握することもむずかしい場合が大部分だろう。

980515あるいは、他者たちの戦略の比率を推測することができたとしても、その推測のためのコストが、他者たちの比率に応じて自分が戦略をかけることのよってえられる利得の差を、凌駕してしまう場合が大部分だろう。

980515とすると、生身の人はこのようなゲームの状況においては、常にハトの戦略をとる、というのが、かなりよい方針となる、といえるだろう。

980515とくに、親が子供にたいして、社会を生きていく仕方を教育する際には、親は、子供が実際に社会にでた時刻のおける他者たちの戦略の比率をあらかじめ知っておくことができないから、「社会のでたら、(常に)ハトのように振る舞うのだよ」とおしえるのは、コストをあまりかけずに、子供の期待利得を「ほぼ」最大化する、よい、教育方針であるといえるだろう。

980515このように、タカ・ハトゲームの均衡比率が圧倒的に「ハト」に傾いたゲームにおいて、「常にハトの戦略をとる」というような方針を、「一見自明な規律」とよんでみよう。

980515ヘアの読者にとっては言うまでなく、これはヘアの「一見自明な原則」を、「命名上の」ヒントにしている。が、言うまでもなく、概念上は彼の一見自明な原則と、ここで私が提示したものとは、似ているが異なる。ので、似ているが異なる命名をしてみた。!!一見自明な原則の説明せよ。

980515【ミクロ的違背誘因・外見的反面子性・自他弁証としての正当化の発生】

980515ここで注目に値するのは、ミクロ的なタカとハトの出会いにおいては、タカの方が依然有利である、ということである。すると、「子供」は、この一見したところのミクロ状況のみからみて「タカの方がトク」をおもってしまうかもしれない(カタギとヤクザなら、ヤクザの方がトク)。すなわち、このような近視眼的理解からは、例の「一見自明な規律」からは違背したほうが有利であるようにもみえるのである(ミクロ的違背誘因の存在)。

980515また、「タカ・ハト」ゲームがこのような利得状況になっているのは、メイナード=スミスが導入的に描いているようにタカとハトが出会った時にはタカに対しておそれをないしてハトが逃げてしまう、からである場合が多いだろう。

980515とすると、一見すると、タカに比べて「ハト」は「弱虫」であるかのようにみえる場合が多いだろう。(ハト戦略の外見的反面子性)

980515であったとしても、「親」は「子供」に対して、「常にハトとして振る舞う」という「一見自明な規律」を生活方針として教えるのが、ほとんど最善なのであった。

980515ここで、(親が子に)(あるいはある人が自分自身に対して)、この一見するとトクとはいえない一見自明な規律を、おこなうようにすすめる際の「いいわけ」の仕方がいろいろとあり得るだろう。

980907このようないいわけのうちのよくある一つのパタン、それが「正しさ」による自他弁証であろう。「たしかに、私(子供)は、タカに対してハトのように振る舞った。それは、(外見上は)ソンなことであった。また、(外見上は)弱虫であるようにみえる。しかし、そうすることが「正しかった」のであり、そう「すべき」だったのであり、そうであるがゆえに私(子供)は、弱虫でなかったのだ、というように。

980907こうして、ここに、行為の正当化(当為性)の、一つの由来を見いだすことができる、と、思われるのである。

980516【「正当化」によるシフト。実証的テストへ。】

以上のような見方がいささかなりとも正鵠を射ていたとすると、二点ほど若干興味深いことが生じる。

第一は、正当化による比率のシフト、と、それによる実証的テストへの手がかりの発生である。第二は、暴力的階層(集団)の特別剰余利得の発生である。

第一の点から説明しよう。以上のように、ここでのケースでは、ESS的にみれば、タカ1%・ハト99%で棲み分け的に均衡するはずなのであるが、完全な情報処理能力と完全な合理性のない人間の多くは「つねに、ハトのように振る舞うべきである」という「一見自明な規律」をとってしまうあるいは教育してしまう。

980516とすると、ESSの議論からは、タカとハトは1対99となるはずであるが、このような「一見自明な規律」が何らかの程度であれ「効く」とすると(「完全に効く」必要はないし、完全に効くと私が思っているわけではない)、現実上の棲み分け比率は「タカは1%ヨリ小さく」「ハトは99%ヨリ大きい」となるだろう。

980516これはたとえばニュートン力学と一般相対性理論との、差異を連想させる。ほとんどの物理的事態において、ニュートン力学から導出される結果と相対性理論から導出される結果は、ごくわずかしかない。

980516しかし、周知のようにたとえば日食時における水星の見かけ上の位置の違い等によって、このような「ごくわずかな違い」を実証的テストにかけることでき、その結果、ニュートン力学と相対性理論の妥当性を比較することができる。

980516われわれが、ここで、ESSの議論に、「一見自明な規律」の議論を付加したのもいわば同様な効果をもたらす。ただたんに通常のゲーム論のように、「一見自明な規律」の効果を無視しても、われわれのように「一見自明な規律」の効果を加味しても、人の振る舞いは大略においては、同様であろう。しかし、うえでのべたような、棲み分け比率がESSモデルから帰結されるように「1対99」なのか、それとも一見自明な規律の観点を加味したモデルが予言するのように「1未満対99超」なのかを、実証的なテストにかけてみることができる。

980516こうすることでわれわれがここで展開してみた考察がなんからの程度であれ正鵠を射ていたのかを、実証的にテストしてみることができる。(もちろん、「現実」には両者の「差異」は微妙すぎる。あくまで、原則論レベルでの話である。才能ある実証家の方に、この議論をヒントに、実現可能な実験・ないし調査を設計いただけるかもしれない)。

980516【ヤクザの特別剰余利得】

980516第二は、いわば、ヤクザ(タカ派)の特別剰余利得の発生である。

980516ここでの話においては、ESSの議論が帰結するように1対99の比率で、人々が棲み分けそこに一見自明な規律が信憑されたとしても、当然、タカとして振る舞うことの誘因はなくならない。もし人たちが1対99で分布しているなら、自分はタカになろうがハトになろうが、「無差別」(ソントクなし)である。言い換えると全体のうち、1%の人までは、タカになるのが合理的(トク)なわけである。

980516さらに、前節での議論が現実に成立していると、現実上の分布比率は、ESSの理論上の均衡比率1対99よりも、より「ハトが多くなる」方向に「シフト」する。すると言うまでもなく、ヨリ少数派となった「タカ」はヨリトクになるわけである。

980516言うまでもなく、人間社会の多くにおいては、反規範的な振る舞いをする者、反規範的振る舞いをする者の集団(ヤクザ等)が多く見いだされる。

980516この反規範的行為者・集団の存在については、もちろん、デュルケームの「悪いことをする者がいて、はじめて、何が正当かを社会は定義できる」という一種の意味論的説明が古典的説明である。

980516もちろん、この古典的意味論的説明はそれはそれで誤りとは思えない。が、たんにそれだけでなくヤクザの存在をみてみると、反規範的行為者・集団は、反規範的であることによる何らかのいわば抜け駆け利得のようなものを享受しているように直観される場合が多いだろう。

980516われわれの「一見自明な規律」のモデルは、このような反規範的行為者が、まさに反規範的であることによってそれだけ多くのいわば特別剰余利得を得る、ということをうまく描いてくれる。

980516そして、この「ヤクザの特別剰余利得」がまさに「一見自明な規律」が社会的に信憑されることの効果なのだ、ということを示してくれる。

980516いわば、ラフに言うと、規範とヤクザの同時生起性のようなことを示してくれるといえるのではないだろうか。

980606【第三章 人間の悩みの類型と解決】

980817【人間の悩みの三つの源泉】

980606以上のような考察は、人間が社会を生きていく際に、被ることがありそうな「悩み」についての、大まかな源泉的な類別を可能にしてくれるように、おもわれる。そしてまた、おのおのの悩みについての解決の方途も示唆してくれるとおもわれる。

980606ここで私が、類型化してみたい悩みは以上の考察に鑑みて、おもに「三つの源泉」をもつものとして類型化できる。

980606むろん、現実にいきている人間の悩みのすべてがこの三つに還元される、ということを主張するつもりはない。しかし、こと「社会」にかんする学がとりわけ強くかかわっているような悩みの源泉を特定化しておくことは有用だろう。

980606暗黙的であれ、社会科学・社会思想の多くは、人間の解放を何らかの程度であれ志向しているものが多いだろう。とすれば、人間の悩みの源泉をたとえ枚挙的ではないにせよ、煮詰めておくことは、有用だろう。

980606こうすることで、人間解放の処方箋へのある程度進展が期待できるからだ。あるいは、ある点に関しては、人間解放(悩みからの解放)をめざすべきではない・めざすことはできない、という見解をも含めて、この作業は新たな地平を開いてくれる可能性が高いとおもうのだ。

980606まずはじめに、結論的に、素描しておくと、私が提示したい人間の悩みの三つの源泉とは以下の通りである。すなわち、第一、「選択することの悩み」(通例の実存的苦悩にほぼ対応)。第二、嫉妬による悩み。第三、「正と悪をめぐる悩み」。以上である。

980606【選択という悩み】

980608そもそも、私は、第一章で、人間社会において、「選択肢」が現象し続けるのは、どのようなときか、ということを問題にした。そこでの、回答は、大略、純粋ナッシュ均衡が成立せず、混合ナッシュ均衡を成立させるしかないとき、というものであった。そして、人間はおおむね、混合戦略を自覚的にとる能力がなく、混合戦略を安んじてとることができるとは限らない。言い換えると、混合戦略均衡を前にして、人は「悩んで選択する」ということがありそうなことだ、とろんじた。

980608このように、私は、じつは、人間の「悩み」の第一の源泉は、人間が混合戦略均衡を安んじてプレイすることができない、ということに由来するのではないか、とかんがてみたい。

980608で、これは、あまりに乱暴であるが、今まで、「実存的」と思われてきた人間の悩みの多くはじつは「これ」に対応するのではないだろうか?。

980608むろん、私とて、実存的苦悩のすべてが、この「混合戦略均衡をとることができない悩み」に還元できるとは主張しない。また、世界の名著レベルの実存思想家が思索の対象としてきた実存的な悩みのほとんどがこれに対応するとも主張するつもりはない。しかし、少なくとも実存主義の「読者」が実存主義思想の文献を読んで、「そうだ。私の悩みは、じつは、あれ(実存的悩み)なのだ」とかんじたものの、多くがじつは、このような「混合戦略をとることができない悩み」なのではないか、と考えてみるのは、やってみる価値のあることだとおもう。

980608簡単にいえば、選択において自分の安心できる回答が見つからない悩み、これを多くの実存主義の読者は、実存的な悩みと(過大?)評価してきたのではないだろうか。

980608もし、そうだとしたら、混合戦略均衡の考え方を当事者が採用すれば、このような悩みの大部分は解消してしまうだろう。

980608逆に、混合戦略均衡の考え方を当事者が採用することで、このような悩みのある部分が消滅してしまうということが観察できたとしたら、以上のような実存的悩みのある部分はじつは混合戦略均衡を安んじてとることのできないことに由来していた、というわれわれの仮説が支持されることになるだろう。

980608【悩みからの解放】

980608よって、繰り返しにもなるが、このような悩みからの解放は、比較的簡単である。

980608じゃんけんをとってみれば、

1,まず、ここには、純粋ナッシュ均衡を開く手がない、ということを自覚する(いわば、「純粋的な必勝法の不在を悟る」)。

2,次ぎに、混合ナッシュ均衡を開くのが、3分の1づつ「手」を出すという戦略であることを自覚し、しかも、それでも相手が合理的であるかぎり、たかだが期待できる勝利確率は3ぶんの1である、ということを自覚する。 ↓ いわば、「確率的な悟り」にいたる、ことである。

3,そして、個々の一回一回において、「負け」たり「勝ったり」しても、いちいち喜怒哀楽しない、ということである。(「涅槃」??)。

980608「スクイズ」の事例においても、混合戦略均衡を開く手の確率が異なるだけで、基本はまったく同様になる。

980608【悩みから解放されるべき、か?】

980608ここでじつは、大きな問題が生じる。読者の多くは薄々感じられているだろう。

980608すなわち、このような「悩み」から、われわれ人間は、解放されるべきなのか、という問題である。

980608確かに、うえのようないわば「混合ナッシュ均衡的な悟り」にいたれば、じゃんけん的状況・スクイズ的な状況における、「選択という悩み」から解放されることができそうだ。

980608しかし、いうまでもなく、このように悟ると、じゃんけんもスクイズ(野球)も、おもしろくなくなるだろう。

980608確かにわれわれは、選択を悩むことで、苦しんでいるようにみえる。しかし、この悩みがじつはまた人生を生きていくうえでの「面白み」の大きな源泉であることがありそうである。

980608であるとすると、果たしてわれわれは、以上のような「悩み」から解放されるべきなのであろうか?。

980608じゃんけんやスクイズ(野球)は、ゲームである。実際の人生も、ゲームのようなものであるともいえる、し、また、ゲームよりはずっと深刻なものである、ともいえるだろう。

980608「人生もゲームのようなものである」といえる程度において、人は、うえのような「混合ナッシュ均衡的悟り」にいたらずに「選択を悩んで楽しむ」のがよさそうである。他方、「人生は、ゲームよりもずっと深刻なものである」といえる程度において、人はうえのような「混合ナッシュ均衡的悟り」を利用して必要以上に悩みに苦しむことからは解放されるべきである、といえそうである。

980608で、どの程度人生は、「ゲームのようであり、ゲームのようでない」のか、この、判定は、私筆者の能力を越える、としかいいようがない。

980609【嫉妬の悩み】

980609私が本稿の論脈で問題にしたい人間の悩みの第二の類別とは、いわば「嫉妬による悩み」である。

980609嫉妬するということは、日常社会においてはマイナスイメージで語られることが多い。が、本稿の論脈からすると、嫉妬はある機能を果たしているといえると思う。

980609前に述べたESSのタカ・ハトゲームを想起してみよう。

980609ここにおいては、ある効用値があたえられると、タカとハトがある比率で棲み分け的に分布するのが均衡となるのであった。

980609もし、このタカ・ハトゲームにおいて、ゲームの効用値が若干変化するとどうなるだろうか。

980609効用値が大きく変化してしまえば、もはやうえのような棲み分け的な均衡は存在しなくなる。

980609しかし、各効用の大小関係が変わらない範囲で、効用値が変化する場合に、依然として均衡は以上のような棲み分け的比率でありながらもその比率の数値が変化する、となるだろう。

980609ESSを議論する通常の生物のゲーム状況においては、このように均衡の値が変化すると、よりトクな戦略をとっている個体群の再生産力が高まり、ひいてはそのような戦略をとる個体が(子孫がヨリ多くできることで)多くなり、こうしてやがては、何世代かを経ることで、戦略間の比率は、あらたな均衡値にいたる、と想定されている。

980609しかし、これは、通常の生物を想定してストーリーであった。もしここに、一個体の一つの世代においても、戦略を変化させることができるような種があったらどうなるだろうか。

980609そしてこのような種(個体)が、他人を「嫉妬」する能力を持っていたらどうなるだろうか。このような場合状況が「不均衡」となったとして、しかもこの個体が、「ソンな方の戦略」をとっていたとしよう。だとすると、この個体は、もう一方の戦略をとっているような個体に「嫉妬」して、自分の世代のうちに、他方の戦略に「乗り換える」ということがありそうなことになるだろう。

980609嫉妬する性能がなく一世代内では戦略を変化できない種と、そうではなく嫉妬する性能がありそうであることで一世代内でも戦略を変化させることができる種、とを比較してみよう。後者はよりはやく状況の変化に適応できるために前者の種に比較して、一種の「抜け駆け」的は剰余利得を多く得ることができるだろう。

980609すなわち、以上のように考えると、嫉妬を感じるという性能を持っている、ということは進化論的にはヨリ高い機能を持っているといえそうである。

980609【過剰な嫉妬?】

980609ただし、以上のような議論には、疑義が生じうるだろう。すなわち、以上のようなメカニズムとそれによって嫉妬がある種の機能性を持つ得ることを認めたとしよう。しかし、現実の社会をみると、このメカニズムで想定される以上の嫉妬が観察されるのではないか。たとえば、「隣の芝生」ということばから想起されるように戦略Aと戦略Bが棲み分け的に分布していたとしても、戦略Aをとっている者が戦略Bを嫉妬し戦略Bをとっている者が戦略Aを嫉妬する、ということが「同時」に生じている、ということは現実の社会においては「よくあること」ではないか。これは、うえのメカニズムからすると「過剰な嫉妬」である。うえの説明は、このような過剰の嫉妬の存在を説明できないのではないか、という疑義である。

980609残念ながら、このような疑義に対する完全に自信のある返答を私は未だ持っていない。しかし、以下のようなことが言え、以下のように考えることでこのような疑義を払拭できるのではないか、という見通しを持っている。

980609それは、人間は嫉妬によって、他人の立場にたってみる性能をもっているとはいえ、その性能は不完全なもので、「実際にその人の境遇そのものに立ってみなければほんとのところは感じ取れない」ということである。これはかなり常識的な考え方ではないだろうか。子供も想像において親の立場に立ってみることは可能である。しかし、実際に親になったことがある人ならほとんど認めると思うが、実際に親になってみないと親の苦楽はわからない。

980609だとすると、「嫉妬」によって、あるゲーム状況での戦略Aによる「ウマミ」(利得・効用)と、戦略Bによる「ウマミ」(利得・効用)とを、完全に精確に人は比較することはできない。

980609でありながら、うえのように不均衡にいたった際の戦略乗り換え現象が生じるためには、(いわば神の視点からは)戦略Aの方が「トク」な場合でも、「AからBに乗り換える人」と「BからAに乗り換える人」の「両方」が存在しつつ、しかもその人数が「BからAに乗り換える人」の方が「相対的に多い」となっているというようになっているのが好都合だろう。

980609以上のようなメカニズムを可能にするのが、じつは上述の「過剰な嫉妬」の機能なのだろう。

980609すなわち、ここで言う「均衡」とは完全に静的な状態をイメージすべきではないのだろう。むしろ、「化学的反応」における「均衡」(平衡)のように、動的な過程のうえでの結果的な釣り合いをイメージすべきだろう。すなわち、化学的反応における均衡(平衡)とは、化学反応が無になったことを意味していない。そうではなくて、ミクロ的レベルでは「AからBへの変化」と「BからAへの変化」の両者が存在しつつ、両者の量が釣り合って、その結果マクロ的には「静的な無変化」のようにみえる状態のことである。

980609これと同様に、「社会的均衡」においても、ミクロにおいては、「AからBに嫉妬して、AからBに移行する人」と「BからAに嫉妬して、BからAに移行する人」との量が釣り合っていることで、マクロ的には「静的無変化」である「かのように」みえる状態、とかんがえるべきなのだろう。

980609こうしてわれわれは「嫉妬」ならびに「過剰な嫉妬」の機能を、われわれの論脈に位置づけることができた。こうすれば、少しは嫉妬の苦しみが和らぐかもしれない。嫉妬すること自体は機能のあることなのである。

980609【正と悪の悩み】

980610ここで私が、正と悪をめぐる悩みというのは、概略以下のようなことだ。われわれは日々暮らしているさいに、正しいことをした方がいいのかどうかを前意識的に悩んでいることがあるだろう、ということだ。これからすることに対して正しいふうにするのかしないのか、すでにおこなってしまった正しいことに対してそうすべきであったのか、すでにおこなってしまった正しくないことにかんして、そうすべきではなかったのか、あるいはそもそもなぜ社会には「悪」をなす人がいるのか、、、、、などなど。

980610これらの悩みは、「正しき者の悩み」と「悪しき者の悩み」と「悪しき者が生じてしまうことへの社会の悩み」に三分することができるだろう。

980612【正と悪の悩みの、二つの源泉】

980612本稿の視点からすると、「正しき者」「悪しき者」「社会」が悩む正と悪との悩みには、じつはそれぞれ二つの源泉があると考えることができるだろう。第一は、ESS的レベルでの「ハトとして振る舞うことがほとんどの場合トクである(ソンでない)」という源泉である。これに対して第二は、社会が当為性によってシフトし、ESS的均衡比率以上に正しきことをする人が増えてしまいそうすることで悪をなすことの「特別超過利潤」がしょうじてしまうというレベルの源泉である。

980612この二つのレベルを峻別することが、この悩みをふんべつするのに肝要だろう。

980612すなわち、第一のレベルにおいては、正しい(とされる)ことをなそうと悪い(とされる)ことをなそうと、「無差別」である。社会全体の棲み分け比率がESS的均衡比率と等しい限り正しい(とされる)ことをする人も、悪い(とされる)ことをするひともどちらも安心して(?)自らの戦略を振る舞うことができる。社会も、当事者の利害に即す限りはこのような棲み分けが生じてしまうということを悟る(あきらめる)しかないだろう。

980612これに対して当為性が意識されるようになり、社会の平均が正しいとされる方にシフトすると事態は複雑になる。すなわち、正しきことをする人の悪しきことをすればもっとトクになるかもしれないのに、という疑念はじつは正鵠を射ているものとなる。しかし、正しきことをする人がそもそもそのように振る舞ったのは、そうすることがいちいちの事態をかんがみる「負担」を免除してくれたからだ。すなわち、正しきことは「確かに悪しきことには利害上の誘因が生じているが、それはわたしが複雑性への負担免除を享受したコストなのだ」とあきらめる道が生じる。

980612ちょうど「悪しき者」に関しては事態は逆になる。すなわち、悪しきことをする者に関しても「確かに私が悪しきことをするのは利害上の特別誘因が生じていることにも、由来する。しかし、それは私が複雑性への負担免除を放棄したことの裏面なのだ」と。

980612この件に関してとくに問題なのは「社会」の視点においてである。社会全体が「正しきこと(当為性)」の唱道に与する程度が強くなればなるほど、じつは悪しきことをすることによる特別利得の余地が大きくなってしまう。いわば、社会を規制すればするほど「ヤミ行為の誘因」を高めてしまうような状況に陥るわけである。

980612これに対して「制裁」でもって悪しきことを取り締まろうとする社会がおおくなるだろう。しかし、制裁的方途は、第一にすべての悪しき者を発見し制裁を加えることがむずかしい。第二に、制裁を行使するものをいかにして監視するのか (制裁者をいかにして制裁するのか)という問題を克服するのが難しい、という難点ある。

980612おそらく、このような視点からすると、社会は過度には「正しさ」に関して当事者に介入しないようにする、というのは一つの現実的な処方箋であるといえそうだろう。

980825いわば、「社会」も、社会全体の内部にある程度の「悪しき者」の存在を許容する(あきらめる)のが、肝要であるといえそうである。

980817【第四章 全体的回顧、と、本稿とゲーム論との関係】

980615【彼(女)が「ゲーム」をはじめたら……?】

980615本稿の道のりはいささか長かった。また、いささか見通し難いものだったとおもう。よって、ここで、三つの章立て全体の回顧的まとめをしておくのは、有用だろう。

980615三つの章立ての回顧をおこなう前に述べておきたいことがある。それは、本稿と「ゲーム論」と関係である。

980615本稿では、ゲーム論の成果を使用した。よって、本稿全体の試みが、ゲーム論全体に下位分類されるような仕事である、と思われるかもしれない。しかし、私筆者の視点からは、そうではない、と思っている。

980615社会学者(私桜井)の目から、(経済学的)ゲーム論や、生物学的ゲーム論を読むと、かなり、リアリティないし背後仮説がちがうなあ、という感覚を感じる。

経済学的なゲーム論や、生物学的なゲーム論における、プレイヤーとは、やはり「経済・人(ホモ・エコノミクス)」であたったり、「生物」であったりするように感じられる。社会学者が把握しようとしてる「社会・人(ホモ・ソシオロジクス)」とは、かなり「距離」があるなあ、という直観を感じる。

980615本稿は、ゲーム論の一下位類型としての社会学分野でのゲーム論「ではなく」、また、ゲーム論の社会学への直接的「援用」でもない。そうではなくて、ゲーム論という非常に大きな知的インパクト(知的革命?)に対する、(本稿が最大限成功していたとして)社会学の側の「反作用」である、と呼ぶのがもっともふさわしいように感じる。

980615たとえば、本稿に登場する「ひと(社会・人)」は、ゲーム論が通常想定するプレイヤーとはかなりことなる。彼(女)(ひと、社会・人)は、純粋ナッシュ均衡を振る舞っていると、選択していることさえ忘却してしまうし、じゃんけんという混合ナッシュ均衡が明確に存在するゲームにおいてさえ、均衡戦略を選択できなかったりする。

980615本稿は、いわば、ゲーム論で言うところの「プレイヤー」ではなくて、彼(女)(ひと、社会・人)が、ゲーム論的なゲームをはじめると、(「プレイヤー」によってなされた場合とことなって)どのような帰結が生じそうか、ということを思考実験してみた作業といえそうだ。

980615いわば、「彼(女)(社会・人)が、ゲームをはじめたら、どうなるか?」という探求である。

980615その意味で、本稿は、ゲーム論の社会学的下位類型、なのではない。そうではなくて、ゲーム論のインパクトをふまえつつ、ゲーム論のいわば「地球の裏側」(ベースボールの地球の裏側で「野球」という別のゲームがなされていたという)に位置づけられるような、「社会・人による、ゲーム」の理論、なのである。 ↓ あくまで、そのような意味合いで、本稿を暫定的に、社会ゲーム論、と呼んでみた。この点、誤解のないようにねがいたい。

(980615これと同様の意味においても、土場が宣言したような「数理社会学」の志を本稿は共有するものでは、「ない」、とおもわれる。

980827土場学1996:171は「数理社会学の固有の使命とは、数理社会学が理論社会学を樹立する、という安田の黙示録が「真理」である、すなわち、経験的に有意味な社会学理論はすべて数理モデルで表現できる、というメタ理論的命題が真である、という可能性を(超越的に宣言するのではなく)経験的に追求することにある、と私(土場)は考えているのです。」という。)

文献
土場学1996「数理社会学―未完のプロジェクト」『理論と方法』Vol.11 No2.通巻20。数理社会学会
ヘア『道徳的に考えること』
メイナード=スミス『進化とゲーム理論』
Weibull 1995=1998『進化ゲームの理論』

本稿の草稿を御討議いただいた言語研究会のみなさんに感謝します。

 

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