インターネット時代における「人間格付け」の一般理論、への、前哨的試論
-誰かが、貴方を、「審査」している?-
 

        桜井芳生( 2001年4月8日。著作権保持)
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【要約】近未来日本社会において、人間格付けゲームの意義が増大することを主張する。山岸・コールバーグ・フランクを援用することで、徳性が他者に知られてしまう蓋然性が偶然より大きいと仮説する。1940年体制の崩壊・コミュニケーションのインターネット化によって、日本社会で他者の徳性の評価の重要性が増大することを予想する。こうして人間格付けゲームがなされる。それに関して、格付けの「自覚/無自覚」「直裁/間接」、徳性は「顔をみてわかるか」「顔をみないでもわかるか」「陶冶は可能か」などの分岐軸を指摘する。関連して、クレジットカード階級社会、就職面接のエスノメソドロジー、一人遠出旅のすすめ、などに言及する。最後に、ありそうなシナリオとして「上位・儒教的、下位・法家的秩序」「あるようなないような、結社」について言及する。
 
 

【近未来の一つの大問題?→「人間格付け」問題】

 現今の日本社会・文化が大きな変容にさらされているということを予感している人は多いだろう。が、そこでの「変容後」にいかなる状況・問題が生じるのか、については、手探りの人も多いだろう。かくいう私もそのように手探り組の一人である。

 ここでは、近未来の日本社会・文化において、大きな問題になるとおもわれる論点を試論的に論じてみたい。この論点は、未だ多くの人に明示的に自覚されているとはいいがたいとおもう。そのため、ここでは、問題提起的に、この論点をめぐるさまざまな視点軸を提示することに重点をおくことにしよう。本稿の結論が明確でないというそしりをうけるかもしれない。しかし、この論点の未来性・予感性・索出性に鑑みて、本稿は、問題解決的・結論提示的というよりも、問題提起的・試論的にならざるをえなかった。この点、読者は、諒とされたい。

 私が本稿で取り上げたい大問題、それは、「人間の格付け」問題、である。
 

【山岸の『安心社会から信頼社会へ』】

 「人間格付け」問題ということばで私がなにをいおうとしているのか、そしてそれはどの程度「大きな」問題なのであるか、を、まずは、読者に理解していただかなくてはならないだろう。

 この点の方便として、一見迂回であるが、近年注目されるいくつかの知的営為を導入の手がかりとしてみたい。第一は、山岸俊男の「安心から信頼へ」論であり、第二はコールバーグの道徳発達論である。第三はフランクの進化論的道徳感情論である。

 まず日本人とアメリカ人とを比較したある調査から山岸の議論は始まる。それによると、アメリカ人の少なからずが「たいていの人は信頼できる」と回答しているのにたいして、日本人では少数のみがそう回答している(山岸1999:26)。これは日本社会は信頼社会でありアメリカ社会はドライな社会だという常識に反している、と山岸は考える。ここから山岸はさまざまな社会心理学的実験・調査をおこない、それをふまえて、日本会人は安定した社会関係の内部でのみ人を信頼するいわば「安心」社会であったのであり、それに比してアメリカ社会は未知の人間をも信頼しうるいわば信頼社会である、とがんがえる。そして、日本社会も、徐々にこのような「安心」社会から「(一般的)信頼」社会への移行を余儀なくされている、とかんがえているようである。そして未知の人間に関しても、どれほど信頼に値する人間であるかをみぬくことのできるような「社会的知性」の陶冶が現在の日本人にはもとめられるいる、と山岸は考えているようである。

 このような山岸の仕事をどう評価しようか。私はかなり評価できるのではないか、と感じる。とくに、近過去日本における「安心」型の行動類型から、アメリカ型の「(一般的)信頼」への移行が必要である、という指摘には、直観的に共鳴する日本人がおおいのではないだろうか。

 しかし、また、山岸の結論部分は、われわれ現今日本人の多くを、ちょっと「途方にくれさせる」ところがある、と思う。

 すなわち、「一般的信頼」「社会的知性」の陶冶が必要だとしても、一体どうやって、われわれ現今日本人はそれを身につければいいのだろうか。あるいは、誰かとであったとして、その相手が「信頼」に値する人間であるかどうか、どうやってわかることができるのであろうか。山岸の「一般的信頼」のスローガンは、下手をすると、太平洋に手こぎボートでのりだすような「向こう見ず」的読者を生産してしまう危険性が少なからずあるように私には感じられる。
 

【コールバーグの道徳発達論】

 周知のように、発達心理学者コールバーグは、道徳をめぐるある種の相対主義に反対して、以下のように主張する。「普遍的な道徳的概念と道徳原理が存在」(Kohlberg1971=1985:39)する。「すべての文化のおけるほとんどの個人は、共通の三十の基本的道徳カテゴリー、概念、あるいは原理をもちいている」(Kohlberg1971=1985:39)。「個人の間や文化の間にみられる(道徳上の)違いは、発達段階の相違すなわち発達上の位置の相違である」(Kohlberg1971=1985:40)。と。

 コールバーグはかなり「強い」主張を多くしているので、彼の主張の全てが承認できるかいなかについては慎重に検討しなければならないだろう。

 しかし、「1.道徳的行為に関して、すくなくともその判断の形式の側面において、ある程度の不可逆的な発展諸段階が、人々の間で見られる」ということを認める人は少なくないのではないだろうか。

 そして、コールバーグはとくに主張していないようだが、「2.人々のうちのかなりの割合の人々が、他者を評価するさいの一つの尺度として、無意識的であれ、このような道徳判断の発展段階の尺度を、利用している」、ということを承認する人も多いのではないだろうか。

 とくに、現場の教育者のかたがた、警察関係のかたがた、少年院など更生補導関係のかたがた、少年層とのつきあいの多い聖職者のかたがた、多くの子供を育てた親御さん、などの多くの方は、以上二点をおみとめになるのではないだろうか。
 

【多くの人が、そう、感じているだけで、とりあえず十分】

 じつは、上記「1」については、さらに緩めた議論で、後論への接続は十分である。すなわち「1.道徳的行為に関して、すくなくともその判断の形式の側面において、ある程度の不可逆的な発展諸段階が、人々の間で見られる、と、「かなり多くの人」が無意識的にせよ考えている」と。

 いまここで「かなり多くの人」と述べた。が、これも「圧倒的多数」でなくてよい。現代社会においては、上の命題「1」を、認めない(少なくとも肯定しない)ひとが少なからずいるだろう。命題「1’」における「かなり多くの人」、すなわち命題「1」を認める人が、当該社会で、「半分」であっても、「3分の1」であって、以下の議論は成立する。
 

【私の誠実性・信頼性(の度合い)が、他者に知られてしまう、状況証拠】

 さらにもう一つ議論を援用したい。フランクは『オデッセウスの鎖』においてこんな議論をしている。

 世の中にはうそをつくのが下手な人がいる。うそをつくと、「赤面」するなどしてばれてしまう人である。では一体なぜ、このような「うそをつくと赤面してしまう」などといったような属性が遺伝的に進化してきたのか?。うそはうまくつきとおせた方が、その個体にとっては有利であるようにみえるのに。

 この疑問にたいしてフランクは、うそがつけるような状態でもうそがつけない(うそをつくとばれてしまう)ような属性をもつ個体は、他の個体に信用されることによって、進化的にサバイバルすることがある、と論じる。「もし、信頼にあたいすることと赤面することがひとまとめになっていて、信頼するに足ると思われれば有利になるというのであれば、選択圧は赤面する傾向とそれを引き起こす感情の両方に作用するだろう。」(Frank1988=1995:161)

 また、フランクはこんな実験結果を紹介している。(Frank1988=1995:167)

 いわゆる「囚人のジレンマ」ゲームをおこなう。被験者は三人ごとのグループに分けられる。各グループはおたがいを知るために30分ほどの時間が与えられ、その間に何を話してもよい、とされる。その後、被験者は、別々にされ、他の二人に対する自分の選択(協力か非協力か)と、相手がどのように反応するかの予想を、紙に記入させらる。

 この実験から得られたデータで最も興味深いのが、特定の被験者に関する予測の正確さである。協力するだろうと予測された被験者のうち実際の協力したのは75.2%であった。非協力を選ぶだろうと予測されたもののうち、60%が実際に非協力を選択していた。偶然でこのような高い正答率が生じる確率は、百分の一よりも小さい(Frank1988=1995:171)。

 似たような実験を山岸も紹介している(山岸1999:128)。ここでも、囚人のジレンマゲームをおこなうさいに他者がどのような選択をするかを被験者に予測させる。が、ここで興味深いのは、被験者を上記のような「一般的信頼」をする人・しない人にタイプわけしていることである。

 この実験結果はとても興味深い。常識に反して、一般的他者を信頼しやすいような人ほど、他人が協力するか非協力するかの「予想」をうまくおこなえたのである。

 また、山岸はいくつかの心理的徳性と予想の正確さとの関係もしらべている。「行動予想の正確さとの間に関係が見られた特性のなかでとくに注目に値するのは、「正直・公正尺度」です。この尺度の得点と予想の正確さとのあいだにはかなり強い正の相関がみられました」(山岸1999:134)という。
 

【「徳(徳性)」の便宜的・約定的、定義】

 ここで、フランクが論じているのはおもに、誠実性(うそをつかないこと)であり、山岸が照準していたのは、信頼性(信用しても裏切らないこと)である。上記のコールバーグが照準していたのは道徳性であった。それぞれ、厳密には同じではない。が、現実のひとびとにあっては、これらの諸現象はかなり正の相関をするということは初発の仮説として仮設することがゆるされるだろう。

 以下われわれは、このような誠実性・信頼性・道徳性などを包括する大きな概念で論じるのが好便である。ので、あくまで、これらを包括する緩い概念を約定的に定義しておく。ほとんど必然性なしにこれをここでは、「徳」ないし「徳性」と呼んでおこう。すなわち、
 

[徳(徳性)の定義]

「ある当人の自覚された利益とは独立に(ときにはその利益に反してまで)なされる、彼の属している社会(と彼の思念しているもの)から麗しい(望ましい)と評価されること、を、徳(徳性)のあること、と呼ぶ。」
 

 こう定義しておけば、いままで紹介してきた、「道徳性」「誠実性」「信頼性」は、それぞれ緩いきついの違いはあっても、すべて、この「徳」の概念に包含される、といえるだろう。
 

【私の徳性は、偶然より大きな確率で他者から見通されてしまう。そして、その見通しの得意な者とそうでない者とがいる】

 このように道徳性・誠実性・信頼性などを含むより広い概念として、「徳性」というものを上記のように定義すれば、前前節での、フランクの議論は、以下のように翻訳することができるだろう。すなわち、

 「私がいかほど、徳性をもっているかは、コミュニケーションする他者によって、たとえ完全とはいかなくても、偶然より大きなたしからしさで、見抜かれることが、ある」(フランク説より)。そして、

 「私がいかほどの徳性をもっているか、を、ヨリ大きな確率で見抜く者、と、そうでない者、とが、いる」(山岸説より)。さらに、

 「相手がどれほど徳性をもっているかをある者がどれほどのたしからしさで見抜けるかは、その後者の者自身が、どれほど高い徳性をもっているかに、(つねにというわけではないが、偶然より大きな確率で)正の相関をする」(山岸説より)。

 以上のような仮説を初発的に仮設することができる、だろう。
 

【近未来日本における、相互人間格付けゲーム。第一の理由「1940年体制の崩壊」】

 このような徳をめぐる三つの仮説を備えた「人間」たちが、おのおのの社会状況において相互行為をしあう、とくにおのおのの徳の段階にかんして相互「評価」をしあう、そのようなゲームとして(も)、社会をみていくと、興味深いだろう、と、われわれは予感するのである。

 とくに、現今、ならびに、近未来、の、日本社会をみるうえでは、このような「相互人間格付けゲーム」の様相で、見ていくことはとても認識利得があると私は予感している。そう感じる理由は、おもに二つである。すなわち、「1940年体制の崩壊」と「コミュニケーションのインターネット化」である。

 周知のように「1940年体制」とは野口悠紀雄の提起した概念である(野口1995)。この概念によって、野口は戦後の日本の高度成長を支えていた多くの属性が、「日本の文化固有」ものではなくて、1940年前後につくられた「戦時体制」の継続物であることを主張した。そして、それは高度成長期には機能的であったが、いまや日本経済の桎梏になりつつある、と主張した。

 「1940年体制」とは、ここでの問題意識に即して、おおざっぱにいってしまえば、「いろいろ悩まなくても、「安心」して、「努力」だけしていれば、よかった体制」といえそうだろう。

 その体制においては、各人生段階においての、方針選択については、各日本人はあまり悩む必要がなかった。人生の方針は、知らず知らずのうちに、「体制」からあたえられており、各人はその方針のなかで、質的な方針選択に悩むことなく、量的にのみ努力することだけが求められていた、といえるだろう。

 こうして、量的達成度を比較的多く上げた者(いい学校・いい会社、に入れた者)が、量的報酬を多く得る、というゲームになっていたのだろう。だが、そこにおいては、「弱者」「敗者」も、「それなりに」保護されていたのだろう。いわば、「偏差値」の低いひとにも、それなりの幸せが保証されたいた「体制」であったのだろう。そうであるがゆえに、比較的このゲームにあわないような人々の多くも、このゲームから降りることがすくなかったのだろう(もちろん、「他のゲーム」という選択肢が非常に絞られていた、ということもあるだろう、が)。

 「1940年体制」とは、山岸的にいえば、「安心」していることのできた体制であったといえるだろう。いわば、日本全体が一種の「親方日の丸」として、「ウチ」化してその「中」についてはうたがうことなく、量的パフォーマンスのみを貢献すれば「見返り」が期待できる体制であったと、図式化できるだろう。

 それにたいして、ポスト1940年体制とは、「何をすればいいのか」を誰もおしえてくれない状況といえる。ひとは、自分自身で、状況を把握し、自ら何をすべきかを斟酌し、それをおこなうにふさわしいパートナーを自分でさがし、かつ、そのパートナー候補が信頼するにあたいするかを、自らの責任によって、評価しなければならなくなるだろう。
 

【第二の理由、インターネット化】

 第二にコミュニケーションのインターネット化を指摘したい。

 マスメディアの比重が大きかった局面と、その一部がインターネットによって取って代わられた局面とを、比較して考えてみよう。各人にとって価値のある情報の多くがマスメディアによって流通していた局面においては、その情報をもちろん完全に信じることは危険なことだが、どこの馬の骨が発信したかわからない情報にくらべれば「安心」して、その情報を受容することできただろう。

 それにくらべて、情報のかなりの部分が、インターネットで流通する局面を対比してみよう。ここにおいて、ネット経由の情報がどうほど信用に値するのか、を斟酌するのが重要になるだろう。

 こうして、インターネット時代においても、ポスト1940年体制と同様に、自分自身で、情報の在処を尋ね、その情報の発信者の信用度を自らの責任によって斟酌するしかないだろう。

 こうして、現今ならびに近未来の日本においては、1940体制の弱化、と、コミュニケーションのインターネット化、は、かなり不可避であるとおもわれるので、上記の「相互人間格付けゲーム」の意義は増大する、と考えることができる、だろう。
 

【相互人間格付けゲーム、の、諸・分岐軸】

 では、近未来日本において、どのような相互人間格付けゲームがふるまわれるのか。じつは、これについては、いまだ確固として見通しを得ていない。が、私としては、このような相互人間格付けゲーム(の視点で社会を見ること)の重要性は力説したい。

 というわけで、本稿の残りの部分では、近い将来日本においてふるまわれる(すでにふるまわれている?)相互人間格付けゲームが、いかなる対立軸をめぐって分岐していくのかについての分岐点を前哨的に指摘してみたい。
 

【第一の分岐軸。人間格付けの「有/無」】

 まず、いうまでもなく、そもそも格付けがなされている(なされる)のか、否か、という分岐軸が存在するだろう。今までの論脈からあきらかであるとおもうが、私は近未来日本において、人間の格付けが多くなされると予想している。
 

【第二の分岐軸。相互人間格付けゲームの「自覚/無自覚」】

 第二に指摘したい分岐軸、それは、相互人間格付けゲームの「自覚/無自覚」である。人間格付けがなされたとしても、それが自覚的(明示的)であるとはかぎらない。貴方の知らないうちに、貴方の「格付け」がなされている可能性(危険性)が存在するだろう。現在の日本人の多くはこのような自分にとって無自覚なうちに自分が格付けされてしまう可能性について無防備な人が多いように感じられる。この論点については本文末も参照のこと。
 

【第三の分岐軸。「徳性」の「直裁格付け」、か、「間接格付け」、か?】

 じつは、いうまでもなく、人間の格付けということは、すでにおこなわれている。それはたとえば、「学歴」であったり、「資格」であったり、するだろう。

 しかし、これら既存の「格付け」の多くは、知力・知識に照準した格付けであるものが多いだろう。

 それにたいして、われわれは、本稿の前半において、むしろ、道徳・徳性としてよばれるような「格」を評価することの必要性が、現今・近未来の日本においてはたかまる、のではないか、と示唆してきた。

 が、これも多くの人がみとめるだろうが、現今においては、このように人の「徳性」を直裁に評価するような格付けというものはあまり存在していないように感じられる。

 このこと自体、いくつか原因がかんがえられるだろう。一つには、人の徳性を評価することは、思想・信条・信仰の自由に抵触するように感じられてしまうこと、が原因であろう。

 とすると、ここにおいても、一つの分岐点を設定しうる、だろう。すなわち、人の徳性を格付けするにしても、直裁に徳性に照準した格付け手段で格付けをする、のか、それとも外見的目的自体は徳性の格付けではないような手段でもっていわば「からめ手」で、徳の格付けをするのか、という分岐である。

 後者の類型として、近過去日本において重視されてきたのが、「学歴」と「運動系クラブ活動歴」だったのだろう。学歴というのは、一見すると、知力・知識の目安にしかならない。が、これが、上記の徳性ともかなり相関すると想定されていた、のだろう。

 が、いうまでもなく、東大卒業生の官僚の少なからずが汚職関連の犯罪(法的犯罪にまでいかなくても道義的に非難に値するようこと)を犯してしまったということからみて、この「学歴の高さは、徳性の高さと、相関する」という暗黙の想定は揺らいでいるようにかんじられる。
 

【「クレジットカード」階級社会が、来る、か?】

 このような「徳性の、直裁格付け、か、間接格付け、か」という視点からみて、微妙な位置にあり、かつ、興味深いのが、「クレジットカード」だろう。クレジットカードは、まさに名前からして「クレジット」(信用)を指し示している。

 当初は、支払い能力のみの有無の格付けであった。が、カード先進国アメリカなどは、その人の信用一般の、格付け指標にもなりつつあるようである。

 この点、日本では、気軽にサラ金などから借金をして、「自分の将来のクレジットを安易に傷つけている」若年層がおおいようである。とても心配である。
 

【第四の分岐軸。徳性は、「顔」を見ればわかる、か?→「就職面接」のエスノメソドロジーへ】

 つぎに、人間の徳性の格付けがいかに可能なのかが、問題になるだろう。本稿では、フランクの「赤面」の議論をすでに紹介した。これに関連して、面と向かって顔色をみれば、その人の徳性がかなりわかるか、いなか、が問題になるだろう。

 以上のような文脈において、興味深いのが、就職における「面接」であろう。

 企業が、はたして求職者にたいして、どのような諸能力を要求しているのか、は、じつはまだ完全にはあきらかになっていないだろう。
 
 企業が、いわゆる知力・知能をも要求していることはかなりたしからしい。が、そのかなりの部分は、ペーパーテストその他の面接以外の方法でも計測がある程度は可能であろう。事実、昨今の日本の企業の多くは、採用試験の「一次」などは、かなりふるい落としの意味もあって、知能を計測するペーパーテストを行う場合多いようである。が、また、そのような知能計測型のペーパーテストは、「一次」などだけであって、選考の本番は、「面接」が非常に重視される。

 この「面接」においても、何が計測されているのは、じつはまだ完全には、明らかにされていないだろう。

 が、「1.日本企業の多くは、就職者と暗黙の長期契約のような関係にはいる。ここにおいて、上記で定義されたような「徳性」の有無・高低を、企業側が把握しておくことはほとんど必要条件にちかいだろう。」「2.以上のようにいわゆる知能は、面接以外でも計測可能である。であるのにたいして、面接が重視される、とすると、いわゆる知能以外の求職者の属性をも、計測していると考えられる。それにはいろいろありうるだろう。が、計測されていることがもっともありそうな属性の一つは、徳性、だろう」。以上二点に鑑みて、いわゆる就職面接が、ここで定義した「徳性」の計測を行っている・すくなくともねらっている、のは、非常のありそうなことだろう。

 そう(就職面接は、徳性の計測をも行っているの)だとしよう。だとしたら、「就職面接において、どのような手口でもって、受験者の徳性が計測されもしくは計測されようとしているのか」という問題が生じるだろう。

 日本企業の多くが厳しい競争のもとで生存していることに鑑みると、この面接での行われていることがまったくに的はずれである、とは考えにくい。また、実際に大学で教育していると、徳性(と私筆者が直観するもの)が高い学生は、いわゆる人気の高い企業に就職できる相関があるように感じられる。

 とすると、少なくとも一部の企業では、就職面接において、学生の徳性の評価に成功している、とかんがえるのが、とてもありそうなことになるだろう。

 とすると、現今ならびに近未来の日本において、人間格付けゲームが大きな問題になると予期しているわれわれにとって、企業面接は、とても興味深い研究フィールドとなる、だろう。

 なぜなら、ここ企業面接においては、比較的短時間・少回数において、徳性をめぐる人間の格付け(も)が、その企業の存続をかけて命がけでおこなわれている、と考えられるからだ。

 とすると、実際の企業面接において、一体どのような「手口」がつかわれているのか、ということを分析する、いわば、「就職面接のエスノメソドロジー的分析」が求められることになるだろう。この分析は、かなり大きな果実を期待させてくれるだろう。

 が、実際には、現実の就職面接は、「密室」でおこなわれ、そのエスノメソドロジー的分析は、不可能である。が、幸いに、実際の人事担当者が、実際の学生にたいしておこなう「模擬面接のビデオ」などが公開されている。近似的接近として、まずは、この分析をおこなうことができるだろう。
 

【第五の分岐軸。徳性は、「顔」を見なくてもわかる、か?→ネット経由で、相手の徳性評価ができるのか、いなか】

 以上のような企業における就職面接についての考察は、では、「顔」をみないコミュニケーションで相手の徳性格付けができるのか、いなか、という分岐軸へとわれわれをみちびく。

 今後は電子メールをつうじて「顔を合わせない」コミュニケーションの比重がある程度増していくとおもわれるので、この分岐点は、ヨリ重要になるだろう。

 私としては、仮説的には、「たしかに「面とむかった」ほうが、相手の徳性の格づけは容易になる。が、たとえ顔をみることができなくても、電子メール経由だけでも、かなりの程度相手の徳性格付けは可能になるのでないか」、と考えている。

 じっさい、私は、電子メール経由で、「顔を知らない」人とすくなからずコミュニケートするが、相手が徳性などをはじめとしてどれほど信用に値する人間であるかを、意識的にであれ、半意識的にであれ、無意識的であれ、相手のメールの文面のはしばしを材料にして、かなり深く「評価・格付け」しているようである。

 では、私がどのようなキュー(手がかり)を利用して、電子メールの相手の徳性を格付けしているのか。これをここで公開してしまうと、それが「読み込まれて」ウラがかかれる可能性がある。ので、ここでは公開しない。

 が、今後は、「1.電子メール経由において、相手の徳性の格付け評価をするような人がふえていくだろう。」「2.メール経由でも相手の徳性の評価を可能にするような、なんらかのツールが開発されるかもしれない。」「3.この点が、読み込まれることで、いままでとメールでのやりとりが変化するかもしれない。」「4.以上のような事情が、メールのおけるマナーの発展に何らかの影響を与えるかもしれない。」「5.それでも、このようなことにまったく無自覚な「階層(ひとびと)」がメールの世界のなかにも残存するかもしれない。」、これらの諸点が注視されるだろう。
 

【第六・七の分岐軸。徳性の陶冶は可能か?。可能であるとしたら、その方途は?→「一人で遠出旅」のすすめ?】

 つぎに、ここで論じてきた「徳性」が陶冶可能であるのか、もし可能だとしたら、いかにして陶冶できるのか、が、問題になるだろう。私自身大学における教育者のはしくれであるので、この論点は(私にとって)重大である。

 前に引いたコールバーグ自身は、「討論トレーニング」を重視し、討論トレーニングによって被験者の徳性が向上するように考えているようである。が、はたして、日本人の学生を対象にしての討論によるトレーニングは、効果が大きいのか?。今後の実証的研究が待たれる。
 

 鹿児島という「地方」の大学で教師をし、昨今の厳しい就職状況のなかで学生の就職活動のサポートをしていて、気がついたことがある。それは、学生が就職に成功するかいなか、は、かなり、彼(女)が「一人旅をした回数」に正の相関をしている、ということである。

 最近の鹿児島の高校では、外国への修学旅行がはやっている。そのこともあって、「一度も東京にいったことがない」という学生がけっこういる。これとも関係して、一度も一人で飛行機に乗ったことがない、という学生もおおい。それにたいしてもちろん、一人で遠出の旅行をしたことがある者、一人で飛行機に乗ったことがある者、もいる。(他の地方から鹿児島大学に進学した者に多い)。

 このように、一人で遠出旅をしたことがある者、一人で飛行機に乗ったことがある者、の方が、そうで無い者よりも、就職において成功する確率が高いように感じられる。
 

 このことにかんがみると、一人での遠出旅、とくに、外国旅行は、本稿で論じてきた徳性をはじめとする(山岸のいう)社会的知性、を涵養するいい機会になる。そしてまた、他者の徳性・社会的知性を格付けする能力を涵養するいい機会になる。と、予想できるのではないだろうか。

 知り合いのいない世界に一人で行く。そこで、見ず知らずの人たちに、自分が信用に値する人間であることを知らしめ、そして、他者のうちで信用のできる他者とそうでない他者とを峻別して、信用のできる他者と信用ができる程度にまでつきあっていく。旅行がとくに効果が大きいのは、「帰ってこなくてはならない」からである。目的地についた以上は、周りが見ず知らずの者ばかりだからといって、「ワープ」して故郷にかえることはできない。誰かを信用して帰路をたどらなければならない。すなわち、遠出旅行は、選択ということ自体を放棄できにくいゲームなのである。

 とすると、一人で遠出旅行をすることで、徳性ならびに他者の徳性の評価能力が、命がけで向上せざるを得ない。ということが予想できるだろう。
 

【ありそうな近未来日本社会の全体的シナリオのイメージ】

 さて以上のように、とくに徳性をめぐる人間格付けゲームのさまざまな分岐軸について言及してきた。これらは、分岐軸であるので、「論理的」には、われわれが分析対象とする社会が、その軸の「プラス側になるか/マイナス側になるか」は、オープンである。また、程度問題が存する軸も多いので、「どれほど」プラス(マイナス)になるか、も論理的にはオープンである。

 そして、分析対象とする社会は、それぞれの分岐軸のおける「プラス」ないし「マイナス」の値をもって、複数の分岐「軸」のそれらの値を「掛け合わせた」ものとして記述できるだろう。よって、「ありうべき類型」は、これらが掛け合わされた「場合の数」だけ生じうることになるだろう。

 が、現実には、あるいは「現実の現今日本社会を生きているこの私のリアリティからすれば」、近い未来において実際に生じうるような類型(諸・分岐軸の値の掛け合わせ)は、かなり絞られるように感じられる。

 とくに、もっともありそうな類型(シナリオ)は、以下のようなものであると、直観される。

 いうまでもなく、この直観は、何ら必然的推論の帰結ではない、ので、間違い(はずれる)可能性もおおきい。が、上記の多くの分岐軸をただたんに掛け合わせたのみでは、あまりに生じる「ケース」が多く「多次元化」してしまい、「生身の人間」のイメージメーキング能力に対して易しくない、だろう。ので、あくまで、方便として、このような「ありそうなシナリオ」を「イメージメーキング」しておき、それを「たたき台」にして、議論をつめるというのは、なかなか現実的な手であるとおもう。

 というわけで、あくまで、「方便」「たたき台」として、私に直観された「ありそうなシナリオ」を描いてみたい。
 

【「上位二割=儒教的・下位八割=法家的」秩序の社会・シナリオ】

 結論からいってしまおう。私は、上述の人間格付けゲームとして把握された近未来日本において、もっともありそうな「おちづきどころ」を以下のように予期している。

 すなわち、「上位二割=儒教的・下位八割=法家的」秩序の多層社会、である。

 説明しよう。上述のように、正直であること徳があることはかならずしも進化史のなかで存続しないわけではない。

 が、いうまでもなく、集団のサイズが大きくなればなるほど、徳によって維持されている集団は、「抜け駆け」が容易になる(フリーライダー問題)。とくに、相互の面識(個体識別)ができず、評判が保持されにくい大集団になるほど、この点がいえるようになる。

 したがって、徳を遵守しない者にたいしては、あめとむちでの信賞必罰での正負の制裁による制御(コントロール)が、人類史上では、こころみられてきただろう。

 が、いうまでもなく、このような正負の制裁によるコントロールは、ではいったい誰がそのような制裁の担い手(エージェント)になるのかという問題が生じる。そして、この制裁のエージェントははたしてルールどおりに制裁をおこなうのか、むしろ賄賂などによって誘惑されてしまうのではないか、という問題が生じる。というわけで、制裁者を監視する必要があるのだが、その制裁者の監視者(制裁者の制裁者)が、はたして賄賂に誘惑されないのかという問題が生じる。これでは、無限背進である。

 というわけで、人類史、とくに大規模集団の多くにおいては、相互に面識できる比較的少数の者たちによる相互監視評判システムによる「徳」の保持、と、彼らいわばエリートによる他の大人数の人々への「制裁によるコントロール」とが、「併用」されてきたケースが多いといえそうである。

 おそらく、現今から近未来むけての日本においても、このような「エリートによる相互評判「徳」システム、と、制裁による大衆統治」が進行する、と私は予感するのである。

 1940年体制においては、二階級の関係は、「明示的格付け」「機会平等」「上位化はトク」「競争に参与した敗者には(にも)成長の配当が配られる」「競争による、活力、と、無駄、とが存在した」といった属性セットがあったといえるだろう。

 これにたいして、ポスト1940年体制においては、あくまで対比的にいえば、「必ずしも格付けは明示的でない」「機会平等は、逆に敗者には「酷」となる、かもしれない」「かならずしも上位者がトクかどうかわからない」「敗者にはなにもあたえられないかもしれない」「競争弱化によって、競争の無駄は少なくなる、が、活力は低下する」といった属性セットが、考えられるだろう。

 とはいえ、イギリス(?)的な、階級差が明示的で(上位者も)下位者もこの階級差を「認めている・あきらめている・受容している」といった階級(明示的)社会に、日本がすぐ移行するということはかんがえにくいだろう。

 したがって、近未来日本では、「格付け」「階級差」が「あるようでないようで、、、」といった状態になることがありそうなシナリオだろう。
 

【「(あるような、ないような)結社」が叢生する、か?】

 私事で恐縮だが、私は一橋大学の社会学部から東京大学大学院の社会学研究科に進学した。東大に行っておどろいたのは、院生(学生)たちによる自主研究会が異様に盛んであったことであった。多くの有名な社会学者を産出した「小室(直樹)ゼミ」や「言語研究会」などを、ご存じのかたもいるかもしれない。

 これら「東大・内・研究会」は、ひとつには、もはや東大生であること自体ではエリートであることを確保できなくなったエリート候補層が、東大という(旧)エリート集団内にさらに「結社」的にエリート集団を形成しようとした運動であった、と、いまから回顧すれば、機能解釈する事が可能かもしれない。

 この解釈自体がただしいものであるかどうかは、ここでは私は固執しない。しかし、このような、(ケンブリッジにおける、ケインズの「使徒たち」のような?)「東大」における「研究会」のような、「(旧)エリート層内における、あるようなないような、ヨリ・エリート的な結社」というものが今後も叢生していくことはありそうなストーリーではないだろうか。(Harrod1951=1954『ケインズ伝T』102参照)
 
 
 

文献

Frank,Robert H. 1988 Passions within Reason.(=1995 山岸俊男 監訳 『オデッセウスの鎖』サイエンス社.)
Kohlberg,L. 1971 "From Is to Ought",Mischel 1971 Cognitive Development and Epistemology.(=1985 永野重史 編 『道徳性の発達と教育』新曜社.)
Harrod,R.F. 1951 The Life of John Maynard Keynes.(=1954 塩谷九十九 訳『ケインズ伝T』東洋経済新報社.)
野口悠紀雄 1995 『1940年体制』東洋経済新報社.
山岸俊男 1999 『安心社会から信頼社会へ』中央公論新社(中公新書).

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