衣食足りて、真・善・勇、を忘れる

―大学師弟間コミュニケーションの、現状、と、対策―

                      桜井芳生 981229(著作権保持)

                      sakurai.yoshio@nifty.ne.jp

                      http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/                       

 

キーワード:大学。メディア1世。進化ゲーム論。ビジネスマナー。エリート教育

要旨:大学教員・大学生・父兄・その他の日本在住者、それぞれが、薄々直観されているように、現在の日本の大学の師弟間コミュニケーションの多くは惨憺たるものである。まず、この大学師弟間コミュニケーションの現状が、いわば「コミュニケーション以前」の状態であることをインタビューなどで確認する。つぎに、この現状を考える上で、参考になると考える三つ先行研究を概観する。第一は、『実践的大学教授法』であり、第二は、金原克範『子のつく名前の女の子は頭がいい』の「メディア1世・2世」論であり、第三は、大尾の『コミュニケーションの隠された前提』論である。つぎに私説を三つ提示する。第一は「衣食足りて、真・善・勇、を、忘れる」であり、第二は、「大学生→高校生化」仮説であり、第三は、「ハイハイ組・ローロー組」二極分化仮説、である。これらをふまえて、対策を三つ提示する。すなわち、「ルール(ビジネスマナー)準拠戦略」「「通過儀礼」の「入試→就職」シフト戦略」「顧客全員満足を前提にした上での、一本釣り的エリート教育」である。

【「大学の師弟間コミュニケーションについて、聞かせてください」→コミュニケーション、以前?】

 本プロジェクトで、「大学師弟間コミュニケーション」をテーマにして以来、何人かの学生さんにインタビューを試みた。ある程度覚悟していたとはいえ、でるわでるわ、こんなに学生たちが、大学に授業に満足していないとは、、、、、、、。もちろん、大学の師弟間コミュニケーションについての「よい事例」「よい評価」も少数ながらあった。が、本稿では、現行の大学師弟間コミュニケーションの問題点に照準したいので、あえて「苦言」のみ紹介しよう。

 「(印象に残る先生がいますか、との問いに)ちょっと、記憶ない」。「(大学の授業は)、ただのおしゃべり、一方通行。」「(大学の授業は、)実生活で、なんのやくにたつのだろう。」「(大学の教師は)ちがう国に住んでいる。世代の違いが大きい。」「(コミュニケーションギャップがあるのでは、という問いに)こんなもん。」「(大学の教師の方こそ)コミュニケーションしようとしているのか」「(大学師弟間コミュニケーションについて、何か感じることがあるか、との問いに)とくに頭に残っていない」「(大学に授業は)役に立たない」「たんにこなしているだけ」「(大学に授業が)たのしかった記憶はない」「(講義は)退屈。(教師は)下ばかりみて話している」「本を読めばわかりそうなこと、一時間でわかりそうなことを、一期かけて話している」「あんなに(多く)科目はいらない」「(導入的説明なしに)いきなり、はじめていく」「(授業に)気を入れていない」「時間をうめてる、感じ」「(わざわざ出席する)メリットなさそう」「通学時間をかけて出席するに値しない」「(授業は)、先生の漫談」「(授業には)期待もしていない」「幻滅しきっていた」、、、、、。

 筆者は、このようなインタビューを何人かの学生にしているうちに、あることに気づかされた。それは、質問者(筆者)と、回答者(学生)とは、ある重要な前提を共有していないまま、問答をしていた、ということである。すなわち、質問者(筆者)は、授業・講義を含む大学の師弟間のやりとりをコミュニケーションと考え、その現状を把握し、問題点があるなら、改善策を考案しようとしていた。それにたいして、学生のほうでは、「大学の授業などは、そもそも、『コミュニケーション』の、いわば範囲外(範疇外)」なのであった。だから、インタビューのはじめに、質問者の質問が誘導尋問になるのを避けるためにノーヒントで、「大学の師弟間のコミュニケーションについて、感じること、考えることがあったら、おっしゃってください」といっても、学生の側からは、そもそもこの質問の主旨がわからなかったようだ。それで、「ごくたまに、先生に、お茶(あるいはお酒)につれていってもらった」とかいった話題しかでないのであった。この、「はじめからのコミュニケーションの前提の不共有(二重の意味での)」に気づくまでに、時間がかかってしまった。

 いわば、現在の大学師弟間コミュニケーションの大勢は、「コミュニケーション以前」の状況である、といえそうである。なぜ、こうなってしまったのか。まず、参考になると思われる三つの先行研究を紹介し、つぎに、私見を三点提示する。最後に対策案の私案を、三点提示したい。

【先行研究1、『実践的大学教授法』】

 『実践的大学教授法』という本をごぞんじだろうか。これはとてもいい本である。大学の教師の皆さんはぜひ全員読んでもらいたい(ただし、品切れ中)。これは、多摩大学の二人の先生が、現在日本の大学教育の現状に危機感をいだき、現状の存立メカニズムと、その対策について、具体的に提案した本である。この本の存在を筆者は知ったとき、「いままで漠然と言いたかったこと」がすでにあまりに明快に記述されていたので、本研究プロジェクトを放棄しようかと思ったほどである。

 本書はまず、いままでの、日本の多くの大学の現状が「大学と学生の利害の一致点となる「教育の手抜き」」であったことを主張する。いままでの環境においては、教師も「手抜き」し、学生も「手抜き」するのは、いわばそれはそれなりに合理的な選択であった、というわけである。しかし、いまや、その環境は変化している。いまや、大学教師も学生も、大学において、真剣に教育し・学習していかないと、生き抜いていけない時代になりつつある、と本書は主張する。そして、真剣に教育するための非常に具体的なノウハウを多く本書は提示している。

 本書をふまえると、大学師弟間コミュニケーションの不全現象は、いわば長期的はさほど心配に値する問題とはみえなくなる。なぜなら、長期的には真剣に教育しない大学教師・真剣に学習しない学生は、「淘汰」されてしまうだろうから。

 とはいえ、大学当事者としては、自分の大学が(負の)淘汰されていくのを手をこまねいているわけにはいかないだろう。

 上記のように本書は、日本の現在の大学の師弟間コミュニケーションの不全現象のかなりの部分を説明してくれるように思われる。しかし、大学教師のある部分のかたがたとくに教育に熱心にとり組んでいる方々は、ある種の不満感を、本書にかんじるのではないだろうか。すなわち、「本書に示されているような、環境の変化は、薄々気づいている。そして新しい環境に適応できるように、教育に工夫をしている。しかし、学生の方が、なかなか、ノッテきてくれないのだ」とでも言うような不満である。たしかに本書はかなりよい本である。しかし、大学教師側の問題点の指摘がおもである(この指摘自体はほとんどただしい、とおもう)。が、本書に示されているような教師側の努力だけでは間に合わないような変化というものも同時進行的にすすんでいるのではないか。この点を、以下考えてみたい。

【先行研究2,金原『子のつく名前の女の子は頭がいい』の、メディア1世・2世論】

 金原克範『子のつく名前の女の子は頭がいい』という本がある。これは、編集者が変な書名をつけてしまったので、一見「とんでも本」のようにみえる。が、最近の日本社会学においては、事実発見においても、説明モデルの点でも、探求方途の点においても、ショッキングさと、緻密さで、最高部類にはいる業績である、とおもう。ここにおいて、著者の金原は、最近の子供たちがコミュニケーションをしてもそれによって自分の行動を変化させることができにくい、という現象を、全般的な問題とする。一方、ある地方の公立高校の合格点と、その高校の合格者(女性)の名前に「子」つく比率、が有意な相関を示している(有意水準0.1パーセント未満!)、という事実発見を提示する。この後者の事実についての謎解きをしていくことで、ひいては、前者の現代の子供たちのコミュニケーション不全現象への説明モデルが提示される、という寸法である。この「子のつく名前の女の子は頭がいい」という現象がなぜ生じたかという謎解きは本書をおよみいただくとして、金原はこれらの現象を説明する仮説として非常にショッキングな議論を展開している。

 すなわち、金原によれば、そもそもコミュニケーションにおいては、送信者は、受信者に向けて何かを送信する以前に、受信者が何を知らないか・受信者が何を知りたいか、を送信者が把握している必要がある。しかし、テレビは、このように受信者が何をしらないか・知りたいか、など、お構いなしに、情報を送信してしまう。とすると、小さいときからテレビをみて育った世代(これを「メディア1世」という)は、この「自分が情報を送信する前に、受信者が何を知らないのか・知りたいのか、を把握する能力」をうしなってしまう。その結果、メディア1世が親になり、自分の子供(これを「メディア2世」と呼ぶ)を教育する段になっても、受信者(子供)が何を知らないのか・知りたいのか、を把握することなしにお構いなく情報を発信してしまう。その結果、子供(メディア2世)が受け取る情報は、自分の知らない情報・必要とする情報とはかぎらなくなってしまう。その結果、メディア2世は、「情報には、自分の態度変化に反映させるだけの価値がない」(情報は役に立たない)ということを学習してしまう、という。

 このような議論は、(大学)教師の皆さんには、かなり直観的説得力があるのでないだろうか。貴方(大学の先生)は、自分が講壇で講義しているさいに、学生たちが、あたかもテレビをみているかのように、私(貴方=大学教師)をみていると感じたことがあるのではないだろうか。

 これは、もちろんいまの学生たちがテレビを見ている(見過ぎている)ということとも関わっているだろう。が、金原の議論がいくらかなりとも正鵠を射ているとすると、たんにそれだけではなくて、彼らの親をはじめとする大人たち一般(メディア1世)が、彼ら学生(子供)に対して、あたかも「テレビのように」(受信者が何を知らないか・知りたいか、お構いなく)情報を送信してきた、から、といえそうなのである。

 つまり、学生たちは、べつにかわりなくふつうに大人一般に接するように貴方(大学教師)に接するのであるが、そのこと自体が「テレビをみるように、貴方(大学教師)を見る」ことになってしまうのである。

【講義は、危険である】

 だとすると、メディア2世にあたる現在の大学生に対して、旧来のような講義をするのは危険なことであるともいえるだろう。なぜなら、メディア2世に対して、彼らが何を知らないのか・知りたいのか、にお構いなく、役に立たない情報を送信してしまうと、「メディア1世(親)→メディア2世(子)」の関係を再現し・強化してしまうからである。メディア2世である学生はいよいよもって、「情報は、態度変化に関わるほどの価値がない」ということを身をもって学習してしまうだろうからである。

【先行研究3,大尾『コミュニケーションの隠された前提』(→権力関係の相互承認)】

 先行研究の三つ目として、大尾由加里の『コミュニケーションの隠された前提』を参考にしたい。じつは、これは、昨年度鹿児島大学法文学部人文学科に提出された卒業論文である。

 ここにおいて、大尾はパソコン通信において、ネットケンカが多発するという現象から出発する。そして、パソコン通信においてネットケンカが多発する原因の少なくとも一つは、以下のような事情による、と論じる。すなわち、通常のわれわれのコミュニケーションにおいては、一種の権力関係(権威、サル山での順位制のようなもの)が相互認識(相互承認)されている。その権力関係の相互承認を前提にして、通常のコミュニケーションは円滑に進行する。他方、パソコン通信においては、このような「権力関係の相互承認」を行うのが、困難である。その結果、コミュニケーションは円滑に進行しなくなり、それが、ネットケンカとして現象する。おおむね、このような議論を大尾は主張する。

 大尾の議論は今後の慎重な検討に値するとおもわれる。が、通常、われわれは、コミュニケーションというと、権力関係のない、平等で、自由な、関係を連想してしまいがちである。であるがゆえに、大尾の指摘は、いわば盲点をついた啓発力のあるものといえるだろう。もしかしたらわれわれ人間も、「サル山のサルたちのような秩序」があってはじめてコミュニケーションと呼び得るような行為を円滑に行いうるのかもしれない。周知のように、いまや小学校の高学年では、「学級崩壊」「授業崩壊」と呼ばれる現象が多発している。この現象にもさまざまな原因があるだろう。が、ひとつには、学級が、サル山のサルたちのような秩序(権力関係の相互承認)を達成できなくなってきているということが、原因になっているのではなかろうか。(単純化していえば、小学校の先生がいまや「ボスザル」たりえなくなっているのではないか)。この点は、大学の師弟間においてコミュニケーションを構築するうえでもヒントになりそうである。

【私説1,衣食足りて、真・善・勇、を、忘れる】

 社会学者の大澤真幸は、日本の戦後に精神史を、「理想の時代」から「虚構の時代」への変容ととらえている(大澤1996)。ここでは、大澤の所説を検討する余裕はない。が、事実認定の仮説として、現代日本において、たとえば20歳前後の世代において、なんらかの理想的なことについての希求の度合いが低下している、という仮説をおくことはできるのではなかろうか。

 筆者が学生時代だった15年ほど前と比較しても、現在の大学生においては、「真理」や「善(倫理的正しさ)」や「勇気(行動の気高さ)」に魅力を感じる度合いは、かなり急激に低下しているように感じられる。

 筆者の学生時代には、まだ教養主義のしっぽのようなものが残存していて、たとえば、岩波文庫の社会科学の古典などは、ある種の神々しさをもっていたようである。岩波文庫などは、「真理への入り口」「真理の宝庫」といった含意をまだ持っていたようである。しかし、いまの学生に岩波文庫などみせても見向きもしないだろう(そもそも、岩波文庫と岩波新書の区別もつかないだろう)。彼らにとってもは、岩波文庫のようなものは、「生きた化石」、「新品の骨董品」のようなもので、「抹香臭いお経」のように自分とは無縁のものであるのだろう。(それまで永らく「表紙なし」であった岩波文庫に表紙がついた頃が、一つの転換点であったのではないか)。

 戦後の日本は、急速に豊かになった。が、豊かになった一方で、「衣食足りて、真・善・勇を忘れる」とでも言うべき現象がおこっているように思われる。

 と、書くと、いかにも、「昔の若者はえらかった。それに比べていまの若い者は、、、」といった議論と同様とおもわれてしまうかもしれない。しかし、そうではない。三点ほど注意点がある。

 第一は、以上のように「衣食足りて、真・善・勇を忘れる」という現象が進行しつつある、と私は仮説するが、この現象についての一般的視点からの「価値判断」はしない、ということである。あくまでここでは、このような事実上の現象についての仮説を提起するのみである。

 第二は、さらにいえば、戦後の精神史がある意味で理想主義的であったとしても、じつは、それは、貧しさに対する一種の代償行為であったのではないか、ということである。そう考えないと、なぜ豊かになったがゆえに、真・善・勇への希求度が低下したのかが、理解しにくいだろう。つまりつづめていってしまえば、現在において、真・善・勇への希求度は低下していると私は仮説するが、それは昔の人がえらくて今の若者がおろかであるから、ではなくて、たんに昔は貧乏だったから、ではないか、とおもうのである。(ただし、この点は必ずしも読者に同意いただかなくても、本稿の以下の議論に影響しない)。

 第三は、第一の点と混同されやすい。筆者は、このように現代において、真・善・勇への希求度が低下していることを、一般的視点からの価値判断はここではしない。が、いうまでもなく、大学で教育をするという特殊な視点からすれば、この変化は、非常に「困った」変化である。

 われわれ大学人は、暗黙ではあっても、「一般に人間には」あるいは「一般に学生には」、真理を希求する心、いわば愛知心のようなものがある、と、前提(仮定)しているところがあるのではないか。そうであるがゆえに、「私(大学教師)は、真理を語りさせしていればよい。万一、真理をかたっていても教育効果が不十分だとしても、真理を十全に語った私(大学教師)には、責任はない。学生の「気を引く」ためのテクニックなどを使うのは、むしろ学生の愛知心を愚弄することだ」とでもいった暗黙の想定をしているのではないだろうか。

 しかし、いまやこのようないわば「愛知心」の前提は、実効性がないのではないか。教育の結果、愛知心が芽生えることはあるかもしれない。しかし、大学教育する「以前」に学生に愛知心が共有されていると前提するのは大変危険であろう。大学教師は、現在ならびに近未来においては、目の前の学生には未だ愛知心が保持されていない(保持されているとは限らない)という非常に困った現実を直視し、それを与件する、という難儀な仕事からはじめなければならないのだろう。

【私説2,「大学生→高校生化」仮説】

 戦後の日本教育は、「受験体制」と俗称されてきた。そして、受験体制のデメリットはさんざん指摘されてきた。しかし、現在から振り返ってみると、受験体制は数々のデメリットにもかかわらず、それはそれなりにかなり合理的な体制であったとみえる(それが、これだけ悪評にあいながらも、他のシステムに代替されることなく受験体制が存続してきた一つの理由だろう)。(情・意、は、おくとしても、)少なくとも「知育」教育において、また「大人への通過儀礼」が乏しい戦後日本における一種の通過儀礼として、さらには、高校教育を効率よくおこなううえでの教育側からの制裁力の源泉として(「まじめに勉強しないといい大学に入れないぞ」)、受験体制はかなりよく機能してきたといえるだろう。戦後の日本の高校のかなり部分は、タテマエではともかくホンネのところでは、「大学受験への性能のよい予備校」であることによって、円滑に教育機能をはたすことができた。そうであることではじめて期待通りの生徒を集めることもできた、といえるだろう。

 しかし、言うまでなく、いまや、「少子化」である。大学入試は、マジョリティの視点からはどんどん易化(やさしく)していく。戦後55年して、あれほど強固なものにみえた受験体制は、自動崩壊していくだろう。「あのころ(受験体制のころ)は、よかった、、、、、」と多くの大人が近年のうちに言い始めるだろう。受験体制によって調達されてきた、それなりの知育教育の達成も、通過儀礼の通過も、どちらも経ていない学生たちが大挙して大学に進学してくるだろう。このような事態をまえにして、大学教師たちはどのように気構えをシフトするといいのだろうか。

 「いまの大学生は、(昔の大学生ではなくて、昔で言えば)高校生だ」と覚悟してしまうのが、最も好便だと筆者はおもう。こうかんがえれば、腹も立たない。

 いわば、「大学生→高校生化」仮説、をとってみるのである。

【私説3,「ハイハイ組・ローロー組」二極分化仮説】

 現在から近未来の日本は高度経済成長の終焉によって、「みんながガンバル」というエートスが衰弱しつつあるようだ。おそらく高度成長期には、競争の敗者に対しても、競争ゲームに参与したこと自体に対する「成長による配当」のようなものが配分されていたのだろう。これがなくなってしまったのではないか。その結果、現在のゲームは、「全体が大きくならないパイ」を、コストをかけた争奪するのかそれともコストをかけないでおりるのか、といったようなものになりつつあるのだろう。

 進化ゲーム論において、よく言及される「タカ・ハトゲーム」というものがある。そこでは、もしみんながガンバル(戦う=タカ戦略)なら自分はガンバリのコストをパスしてほどほどで生きていった方が結局はペイする。もし逆にみんながガンバラない(戦わない=ハト戦略)なら、自分一人がガンバルと抜け駆け利得が得られる。その結果、ある一定の比率で、タカ戦略をとる人と、ハト戦略をとる人、とが、いわば棲み分け的に均衡することになる。

 近未来の日本でも同様で、ある程度の比率で「ガンバルひと」(ハイコスト投資・ハイリターン期待、組)と「ガンバラないひと」(ローコスト投資・ローリターン期待、組)との「棲み分け」が大規模に進行することになるだろう。

(このあたりのヨリ精確な議論は、私桜井の論文『情報階級の合理的分化モデル』を御参照してください。当論文の要約は、http://ac3.aimcom.co.jp/~sakurai/barake.htmにあります)。

 こうして、ガンバル階級(ハイハイ組)、と、ガンバラナイ階級(ローロー組)、とに分化することがありそうなるとおもう。

【むしろ、(日本国内での)「成功」は、ラクになる】

 ただここで注意すべきなのは、こうして日本国内全体での「競争の強度は下がる」ということである。したがって、「比較上の勝者」になるのは、【高度成長期よりも、むしろ、これからの方が、ラクになる】といえるだろう。(あくまで、日本国内での競争において。世界尺度での競争では話はベツ)。

 こういうわけで、「地方国立大学の教員」として私はまわりの学生さんに、「たしかに高度成長期のゲームは終わった。でも、そうだからといって、勝負から降りるな!」といいたい。

【「出世主義」的前提の崩壊】

 ただし、大学教員の側はこの変化に対して意識的に対応する必要があるだろう。現在の日本の大学教員は、日本のいわゆる一流大学の卒業生が多い。その結果、明治以来の出世主義的な生き方の構え(上の「ハイハイ組」の生き方に、ほぼ対応)がいわば無意識の「習い、性」として身についている人がおおいだろう。しかし、このような出生主義的生き方を自分が無意識に持っているということを自覚し、それが、時代的にも階級的に特殊なものである、ということを自覚しなければならないだろう。そして、このような出世主義的な生き方がいまや少数派になりつつあるかもしれない、ということも自覚しなければならないだろう。そうしない限り、近未来の学生と、「すれ違い」をしつづけることになるだろう。

【対策1,ルール(六法+ビジネスマナー)準拠戦略】

 さて以上のような先行研究と私見による現状認識をふまえて、三つほど、対策を提案してみたい。第一は、いわば大学における「しつけ」教育である。現在の大学の師弟関係において、サル山のサルたちのような権力関係が実現しておらず(先行研究3)、若者の多くは、情報を得てもそれを自らの態度変更につなげることできず(先行研究2)、善(規範準拠的行動)への希求度が低下し(私説1)、大人としての通過儀礼以前である(私説2)、のだとしたら、まずは、大学段階においても、学生たちを、「大人=成人」にするような「しつけ」教育が必要となるだろう。

 ただしこれもいうまでないだろうが、日本の大学人は、学生に対する「しつけ」教育を、いやがるだろうし、その必要性を否定したがるだろうし、苦手だろう。まず、大学教師自身、自分の大学生時代にしつけに対応する教育をされてこなかったので、どうしていいかわからないだろう。じっさい日本の大学においてはしつけに対応する教育はほとんどなされてこなかった。また、大学生時代における非規律的・非規範的行動を許容してきたところがあった。とくに、旧制高校の伝統のあるところではいまだに「バンカラ」の遺風が存在するところもあるだろう。しかし、旧制高校的バンカラを社会が許容していたのは、たとえば、卒業後のエリートしてのノーブレスオブリッジとの引き替えとしての暗黙の許容であったからであろう。また、近過去まで、大学生の野放図な生活が黙認されていたのは、たとえば、厳しい受験競争と厳しいサラリーマン生活との間の「休暇の四年間」としてであろう。どちらも、近未来の日本においては、成り立たなくなることが予想できるだろう。もはや、大学(の教師も学生も)は、大学生が規範的に野放図であることを大学の外の世間に対して許容してもらうことはむすかしくなるだろう。

【価値自由?の問題】

 大学生をしつけることをいやがる大学教師は、こういうかもしれない。「しつけなどということは、高校まででやることである。大学では、学生を一人の大人として、あつかうものだ。」と。そうかんがえるならそれでもけっこうである。そのように考える大学はぜひ入学時に学生のしつけの度合いをチェックし、「一人の大人として扱うにたる」若者のみに入学を許可すればよい。はたして、このようにして存続しうる大学が日本にどれほどあるだろうか。

 しつけ教育をいやがる大学教師の口実として、いわば価値自由の問題があるだろう。「大学は、真理を教授するところである。しつけ教育をすることためには、何らかの価値観(真でなくて、善)を前提にしなければならない。価値観の多様化している現代においては万人に認める価値を前提にできない。ある一つの価値観を前提にすることは、各人の思想信条の自由と抵触する。とくに公立大学においては、これは困難である」とでもいったいいわけである。

 もちろん、私も各人の思想信条の自由を認める。が、だからといって、大学におけるしつけ教育がそれが原因で困難になるとはおもわない。なぜなら、現代社会においてもある程度の価値観(規範)の共通承認は行われており、それに準拠してしつければ、それでとりあえずは十分だ、とかんがえるからだ。

 そんな現代においてもある程度共通承認された価値観(規範)などあるのだろうか、と問われるかもしれない。私は、ある、とこたえたい。それは、たとえば、「六法」と「ビジネスマナー」である。

 「他人のものを壊してはいけない」「他人の身体を傷つけてはいけない」「人の知的生産物には著作権が生じうる」「罪が確定していない人は推定無罪としてあつかう」「主権は国民に存する」「返事をする」「あいさつをする」「約束の時間を守る(したがって、遅刻・無断欠席をしない)」「借りたものは約束の期日までに返す」「自分の名前を名のる」「いすはすすめられるまで座らない」「座ったまま人を迎えない」「話をするときは、相手に聞こえるように話す」「他人になにかしてもらったら、必ずお礼をする」「紹介してもらったひとには、お礼と報告を必ずする」「空き缶吸い殻などのポイ捨てをしない」「ゴミは決められた日にだす」「教室などの不要な電灯・エアコンなどは、消す」「廊下などで、人の通路をふさがない」(うーん。あまりに当たり前すぎて、書いていて恥ずかしくなってきた、、、、、。が、これらはすべて、現在の大学においては必ずしも守られていないことばかりである)などといったことは、とくに価値自由の問題に抵触すると考えずに教育の前提として準拠しても、許容されるだろう。

 それでもまだ、大学でしつけ教育をすることに気が重い大学教師の方もおおいだろう。しかし、案ずるより生むがやすし、である。筆者の乏しい経験からすると、この点にかんしては、教師の側がちょっと頑張れば急速に成果はあがるようである。まずは、教師自身が「ルール準拠」的に「けじめ」をつけること。いまの学生さんは、授業の中身からはなかなか学習してくれない。しかし、「その教師がどんな教師であるか」については怖いほど学習能力があるようである。「この教師は、けじめにうるさい教師である」と見れば非常に急速にそれに「順応」する(逆の場合は、逆)。このように六法とビジネスマナーに準拠して、まずは教師自らがけじめをつけ、そして学生にもけじめを求めるようにすれば、場は、コミュニケーションが円滑に進行しうるような状況にすみやかに変わっていく、と思う。

【対策2,「通過儀礼」の「入試→就職」シフト戦略】

 私説2のところで、「大学生→高校生」化仮説、ということをのべた。少子化なのどの影響で、いままで大人への通過儀礼として機能した「受験」が、そのように機能しなくなり、その結果、近未来の大学生は旧来の高校生にあたるようになっていく、ということである。

 だとすると、近未来(すでに現在においても?)の大学は、旧来高校がおかれていた状況・高校がになっていた機能を、ある程度ひきうけざるをえなくなるだろう。

 戦後の日本の高校においては、大学受験がある、ということが、教育効果を円滑に進行させるためのかなり大きな頼りとなっていただろう。

 だとしたら、高校化していく大学においても、受験と同様ななにものかを、教育効果をあげるための頼りとすることが考えられる。

 すなわち、旧来の高校に対して「受験」がはたしていた機能を、近未来の大学においては「就職」によってはたすようにするといいのではないだろうか。

 いわば、大学受験がになっていた「通過儀礼」機能を、「就職」にかわってやってもらうというわけである。

 つまり、今後の大学は、昔の高校のようなもので、昔の高校が「よりよい受験予備校」であることが少なくとも必要であった、のと同様に、今後の大学は「よりよい就職予備校」であることが少なくとも必要である、と考えてみるのである。

 こういうと、おまえは、大学を就職予備校に還元してしまうのか、といわれそうである。筆者は大学を就職予備校に還元する気はない。しかし、近過去において高校の多くがよりよい受験予備校であることによってはじめてそれ以外の教育も円滑にできたのと同様に、近未来の大学も、「よりよい就職予備校」であるという「必要条件」をクリアしてはじめて、それ以上の教育効果をあげうるようになる、とかんがえているのである。(もちろん、ごく少数の例外事例が生じうるのは否定しない)。

 対策1において、大学においても「しつけ」教育が重要だ、とのべた。が、しつけ教育はほとんどの場合、教育者の側になんらかの「制裁手段(アメとムチ)」がないとうまく機能しないだろう(「言って聞く」ようであれば、しつけはいらない)。この制裁手段に「就職」をつかわせてもらうといいだろう。ちょうど旧来の高校で「そんなことをしていると、大学にうからないぞ」とおどす?ことができたように、「そんなことをしていると、就職できないぞ」というわけである。このことがうまくはたらくためにも、大学は、まずは「よりよい就職予備校」であることは「必要」であるだろう。

【対策3,全員顧客満足(カスタマーサティスファクション)を前提にした上での、「一本釣り的エリート教育」。(大学教師の非準拠集団化にも、対応)】

 買い手(大学を買う学生側)市場になっていく近未来において、ある大学がサバイバルしていくためには、大学側は「すべてお客様(学生さん)」に満足を提供できなければならないだろう(カスタマーサティスファクション)。これはいうまでもない。

 だが、すべてのお客様(学生さん)に満足を提供するという当然の前提を成就するからといって、そのことは必ずしも、すべての学生を「平等に」扱う(べき)ということにはならない、とおもう。

 私説3でのべたように、今後の学生層は、「ハイコスト投資・ハイリターン期待組」と「ローコスト投資・ローリターン期待組」にわかれることがありそうである。まずは、大学間で「ハイハイ組」が行く超エリート大学、と、「ローロー組」が行く大衆?大学、とに二分化しそうである。が、地方国立大学は、微妙な位置になるだろう。中間的な大学には、ハイハイ組とローロー組とが混ざって進学することがありそうだろう。(比率的には「ローロー組」の方が多数派となりそうであるが)。

 とすると、中間の大学においては、多数派の「ローロー組」の顧客満足をまずは成就しなければならない。が、すべての教育サービスを「ローロー組」のニーズにあわせてしまって「平等に」おこなうことは、みすみす「ハイハイ組」の発展の可能性の芽を摘んでしまうことになるだろう。

 すなわち、多数派のローロー組への顧客満足を前提にしつつ、ハイハイ組の高い志(ニーズ)にも対応できるような体制が望ましいだろう。いわば、大学内エリート教育のようなものもかんがえうるだろう。

 『実践的大学教授法』によると、昨今の学生は教師による叱責などは意に介しないが、学生仲間からどう見られているかということはとても気にする、という。これは先行研究2の「メディア1世・2世」論とも通底するだろう。すなわち、現在の学生(メディア2世)にとってコミュニケーションの対象を、単純に「テレビや親(メディア1世)」と「友人」とに二分してみよう。「メディア1世・2世」論の含意からすると、メディア2世である現在の学生は、「テレビや親(メディア1世)」が送信する情報はおおむね価値がないということ学習してしまっているので、「テレビや親(メディア1世)」がなんといおうと、自分の態度変更のための情報としてつかう程度はすくない。いまどき、テレビの情報を自分の態度変更のための情報としてつかう階層は、「おもいっきりテレビ」の視聴者ぐらいだろう。それに比べて友人からの情報はうまく適応できないと仲間外れになる可能性がある。そのため比較的友人からの情報は自分の態度変更に直結する情報として遇することになるだろう。「大学教師(からの情報)」というのは、上の「テレビや親(メディア1世)」と「友人」に二分法で言うと「前者」に入るのだろう。その結果、大学生は、「教師の言うことは聞かない」が、「友達の言うこと・することには強く影響される」となるだろう。

 だとすれば、この視点からも、ハイハイ組の高いニーズの学生をいわば「一本釣り」して高いテンションの教育を行っていくことは得策だろう。もしこの「一本釣り」が成功して一部の学生がなんかの意味で高みに登ったとすると、それを「準拠」対象として学生たちの別のある部分が高みをめざすことも生じ得るだろう。いまや、「教師が言う」よりも「学生自身を見本にする」ほうが教育効果が高いだろう。「釣り」の比喩を継続すれば、いわば「とも釣り」(学生さん、失礼!)するわけである。

参考文献

大尾由加里1998『コミュニケーションの隠された前提』鹿児島大学法文学部人文学科卒業論文
市川昭午(編)1995『大学大衆化の構造』玉川大学出版部
鹿児島大学教職員組合1996『地方大学の教育実践』鹿児島学術文化出版局
金原克範1995『子のつく名前の女の子は頭がいい』洋泉社
マークス寿子1997『ひ弱な男とフワフワした女の国日本』草思社
皆村武一・采女博文(編)1998『教育改革の方向と大学教育』高城書房
森田保男・大槻博1995『実践的大学教授法』PHP研究所
大磯正美1996『大学はご臨終』徳間書店
大澤真幸1996『虚構の時代の果て』筑摩書房
新興都市教育問題研究会1989『揺れる学校』日本教育新聞社

 すでに私がインターネット上で送信・公開した文章を、利用したことを、おことわりします。得られた着想はすぐになるべくネット上に流し、それへの反応を得て、さらに研究をすすめていく、というのが現在の私の研究パタンの一つです。インタビューの応じてくださった学生さんたち、ネット上でコメントくださったみなさま、にお礼いたします。

さくらいよしお

sakurai.yoshio@nifty.ne.jp

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