970514【主要命題】情報欲求の存立に関しては、「微視合理」「中視誤謬」「巨視機能」的であったりする「多重入れ子」モデルが有効そうだ。

               桜井芳生
              sakurai.yoshio@nifty.ne.jp

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(現代メディア文化論演習でのs氏の発表に啓発された。深謝します)。

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【本文】 970514情報社会などといわれて、「モノへの欲求」(消費社会論)だけでなく、「情報への欲求」が、社会(学)的に、関心の的になりつつあるだろう。

970514現在の情報化社会論の多くならびに「世間の風潮」においては、「ヒトはより多くの情報を求める」ということが暗黙の前提になっているのではないだろうか。

970514しかし、ここで立ち止まって考えてみると、「ヒトは、ホントに、より多くの情報を求めるのか」「ヒトは、なぜ、情報を求めるのか」については、意外に難しい問題であることに気づく。

970514大学で学生さんに100冊の本を読め、といっても馬耳東風であることからもわかるとおり、また、梅本氏の指摘する「情報イナカハビトゥス」の視点からしても、「ヒトは、情報を求める」という仮説は簡単に反例を見いだせる。(現実に、より多くの情報を求めないヒトは、いくらでも存在する)。

また、梅本氏の「ハマータウンの野郎ども」の援用の視点から考えても、「より多くの情報を求めない」ということは必ずしも「不合理」的ではない。そのヒトの状況によっては、情報取得にコストをかけてもメリットがそれに見合わないことがある。

970514また、たとえ、「微視」的な情報取得が合理的(おトク)であったとしても、「社会の多くのヒトが情報取得に走る」と、その合理性(相対的=抜け駆け的、有利性)が失われてしまう場合が多い(「合成の誤謬」)。典型が「受験競争」である。みんなが受験勉強をしなければちょっとした情報取得で「勝てる」のに、みんなが勉強するために、ちょっとした情報取得では勝てなく、なる。(岩井克人氏との談話による。ただしオリジナルは、東大生のレポートだそうである)。

970514このように情報への欲求は、たとえ、微視的には合理的であったとしても、中視的は、「合成の誤謬」となってしまう可能性がある。(というか、現在のわれわれの情報取得の多くは、じつは、このような、「ほとんど、ムダ」ではないだろうか)。

しかし、また、このような「ムダ」が、さらに大きな視点からは、「機能」的であったりする。すなわち、このような情報欲求が、「有効需要の創出」の機能を果たしたりする。みんながあわててパソコンを購入したりすることで、国民経済の総需要が喚起され、ひいては「景気がよくなる」。

970514しかし、また、いうまでもなく、大量のパソコンが生産され、購入され、廃棄される、ということは、環境に大きな負荷を残すことになる。「日経新聞的情報革命」とは、地球的視点からは、「たんなる、粗大ゴミ産出競争ゲーム」であったりする。

970514このように情報欲求に関しては、「微視合理」「中視合成の誤謬」「巨視機能」「超巨視粗大ゴミ」・・・といった、多重入れ子モデルで考えるのがおもしろそうだ。

970514いうまでなく、このモデルにおいては、あるレベルから、メタレベルに移行する際には別のブランチ(別のシナリオの可能性)も存在している。このブランチ(分岐)を「枚挙」し、どのような条件のもとでは事態はどのブランチへ進行するかを、解明するといいだろう。

970514いうまでもなく、ここで情報への欲求に関して述べたことは、じつは、(有効)需要一般に当てはまりそうだ。すなわち、企業家の投資欲(「アニマルスピリット」)にも、消費者の「モノへの欲求」(消費社会論)にも当てはまりそうだ。

970514今日における「ケインズの可能性の中心」とは、このような「社会というものは、このような、だまされたりするがそれが結果オーライをもたらしてしまう、ような、多重だましあいゲームのようなものだ」という視点ではないだろうか。このような「ケインズ的な、スレた、視点」が、合理的期待学派をはじめとする多くの経済学者には今日欠けているのではないだろうか。

最近「ケインズ政策が、効かなく」なってきたのも、国民が「小利口」になって、だまされなくなったからだろう。「バカなままでだまされて、のらされれば、結果的には、景気がよくなって、自分もトクをする」のに。

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