卒業論文 (98年3月)

  「恋愛現代文化論」
  −愛情イデオロギーが
        女性の晩婚化をひきおこす−
                




                                     平成6年入 鹿児島大学 法文学部 人文学科                     比較空間系 現代メディア文化論専攻
   










  目次   
第0章:要約           −1   

第1章:問題意識の提示 −2

第2章:「恋愛」をめぐる現代の説 −3

第3章:進化する「恋愛」 −6
1節:「色」と「恋」
2節:性愛から愛情へ
3節:愛情イデオロギーの浸透

第4章:愛情イデオロギーに対する考察 −16
1節:「愛」の価値とは?
2節:現代恋愛に自己犠牲的な愛は存在するか 
3節:嫉妬の効果の増大

第5章:愛情イデオロギーと晩婚化 −18
1節:「晩婚化」とは?
2節:女性の晩婚化に対する山田説
3節:女性の晩婚化は愛情イデオロギーを一つの原因としてひきおこ    される

第6章:晩婚化に対する一般論への反駁 −27

付録1:現代メディア文化論社会調査アンケート
付録2:仮説の検証

表1:クロス集計表 愛を信じますか/恋愛は長続きしますか 
表2:クロス集計表 愛を信じますか/オーガズム



要約
現代社会のキーワードの一つとして,「男女をめぐる愛」が挙げられよう。『恋愛論』はベストセラー,恋愛ドラマも大盛況,そして,今年でいえば『失楽園』は社会的大ブームを巻き起こした。
「恋愛」が社会において機能するからには,それなりの意味があるからであろう。もちろん,現代においてだけではなく,男と女の志向は昔から存在していたはずである。
そこでまず私は,先行研究を引用しつつ,「恋愛」の歴史を進化論的に概観していく。・・・明治時代以前では,男女の志向は「色」「恋」という言葉で表されていた。これは性的な結び付きのみを希求していく性愛イデオロギーであり,夫と非日常の女(遊女)の関係が主であった。これが明治期になると,キリスト教や女子進化論という知識で否定されていく。男女の価値を平等にすべく,愛情イデオロギーが根を広げていくのである。ロマンティック・ラブ,恋愛結婚概念が社会に浸透,今や男女の志向が「性愛」ではなく,「愛情」で成り立っていなければ,そこに「恋愛」というリアリティは生まれなくなった。(現代の恋愛を成立させる要因が本当に愛情イデオロギーであるということは,アンケートをもとにしたクロス集計で実証)
次に私は,この「愛情イデオロギー」に焦点を当て,現代日本人における愛の価値とはなにか,また「恋愛」の愛と「親子愛」の愛との差異などについて考察を進める。
そして私は,最終的な研究テーマとして,「愛情イデオロギーが生み出す弊害(そのまま続けることによって生じる悪い結果)はないか」という主要問題に深い関心を持ち,これについてアプローチを試みる。
まず私は, 愛情イデオロギーの定着は,恋愛することで個人にもたらされるであろう利益を不透明なものにする(性愛イデオロギーのもとで,「色」における個人の利益とは明らかに性的快楽であった。)点で,恋愛において,人をより打算的にしたと分析する。さらにこれをふまえた上で, 男女の価値均等化戦略だった愛情イデオロギーの定着は,結

婚における男女の価値均等化のため(結婚が性の不等価交換であることは永田えり子氏の研究に詳しい)の「女が男を選ぶ」システムを生み出したことに着目する。結果,女性は期待水準を上げて結婚相手を選ぶことになる。これらの視点から,私は,愛情イデオロギーは,女性の晩婚化と相関関係があるという見解を示し,最終的に次の仮説を提唱する。ゆえに,「女性の晩婚化は,愛情イデオロギーを一つの原因としてひきおこされる。」
加えて,一般的な「女性の晩婚化は,多くは女性自ら結婚から遠ざかったことでひきおこされる。」というテーゼへ,さまざまなデータを用いて反駁を行なっていく。


第1章:問題意識の提示

 「恋愛」は語るものではなくするものだ,という言葉は有名である。私もそう思っている。なぜなら,私もこれまで,ベスト・セラーになったものをはじめ,『恋愛論』らしきものをいくつもぱらぱらと読んできたが,そのほとんどにおいて,恋愛論が,著者の個人的な恋愛経験や恋愛観で構成されていて,読んでいても,やはりしょせん他人の恋愛観だなと感じることが多かったからである。
 
 そしてさらに,それら『恋愛論』の結論は決まって「恋愛はこうあるべきだ」という著者の説教である。著者が,どんなに豊富な恋愛を経験してきてどんな教訓を得てきてきたかは知らないが,とにかく,そういった類いの内容の 『恋愛論』が世間にあふれている。私は,そんな『恋愛論』をおもしろいと思ったことがない。
                                


 しかし,かといっても,「恋愛」自体は,明らかに現代社会において機能しており,また,少なからず我々が興味をもち続ける永遠のテーマではないだろうか。

 私は,そこで,「恋愛」というテーマに社会学的にアプローチしていきたいと考えた。そこで,主に社会学者による「恋愛」に関する先行研究をとりいれながら,まず,「恋愛」が社会の変化に対応しながらどのように進化してきたかを明らかにし,それをふまえて,次に,現代社会に流通する「恋愛」の性質に注目し,最終的に愛情イデオロギーをめぐる自分なりの仮説を提唱し,その検証,分析を試みたい。


第2章:「恋愛」をめぐる現代の説

 まずはじめに,「恋愛」をめぐる現説をみていく。社会学者及び心理学者はどのように「恋愛」をとらえているのだろうか。私が興味をもった,上野千鶴子,岸田秀,竹田青嗣氏の恋愛論を紹介しよう。

・「恋愛は,自分のアイデンティティという最も失いえないものをかたにして参加するゲームである。だから,あらゆる遊びの中で最もおもしろく,単調な生活に飽きた管理社会の住民が次に手を出すのはばくちと女に決まっている。」              
            (上野[1989a:8~10]要約)   
 
 ・「言うまでもなく,恋愛は幻想である。膀胱にたまった尿が個人を便所へと駆り立てるような具合に,個人を恋愛へと駆り立てる具体的なものは何もない。普遍的人間性なるものが存在しているかどうかは知らないが,もし存在するとしても,そのようなものに恋愛の基盤があるわ

けではない。例えば,性関係ぬきのいわゆる清純な恋愛は,日本においては,明治のはじめにヨーロッパから輸入したものであって,ヨーロッパにおいても昔からあったわけではない。今では日本でもかなり普及しているが,プラトニック・ラブとかロマンティック・ラブとかは,キリスト教とか蒸気機関とかと同じく,舶来品であって,この舶来品がくる以前の日本では,恋するということは,すなわち性関係を持ちたいということであった。世界においては,昔の日本式の恋愛も,近代ヨーロッパ式の恋愛も知らない多くの民族が存在する。彼らが遅れた,未開の民族だというわけではない。ロマンティック・ラブは,ヨーロッパに発生し,たまたま日本にも伝来した一つの特殊な幻想であって,それは,回教がアラブ世界に発生し,たまたまパキスタンやインドネシアなどのアラブ圏外にも伝来した特殊な幻想であるのと同じである。」

 ・「男と女の関係は,別に恋愛を基盤としなくてもよいわけで,売春婚や売春の場合のように物品や金銭の取引を基盤としてもいいし,家系を絶やさないための結婚や,おたがいに便利で経済的にも安上がりだからというのが動機の同棲だってあっていい。ただ,一般的通念としては,恋愛を一対一の関係と限定する傾向が強いというにすぎない。しかし,男と女の関係を考えたとき,現代という時代と,日本という社会にあっては,恋愛が一番安定しているのではないか。(我々の社会には「家」や「神」の幻想も力がない。としたら,二人を越えた,有限ならざる共同幻想としては恋愛しかない。)」
           (以上,岸田[1982:152~155]要約)
 
 ・「今や“花も嵐も踏みこえて”の恋愛はなくなった。かつて,社会というものに対してある絶対感情があって,何とか社会をよくするとか,そういう生き方をしなければ生きてる意味がないという信念が成立していた。恋愛の絶対感性というのも,この相手でなければ生きている意味がないという信念が成立してしまうわけだが,70年代に,まさしくそ

ういう絶対的なものの根拠が失われていく。(『ノルウェイの森』の村上春樹は,こういうモチーフと恋愛という問題を重ねた。)
 それまでは,障害のあることが恋愛の情熱を持続させた大きな要因であった。世の中のせいだとか,社会のせいだとか思っていれば感情は生き延びる。しかし,今,男と女が愛し合っても別に社会的に規制はないし,親が「いかん」と言っても結局子供が勝つのである。つまり,今や障害はなくなって,内的に壊れやすくなったといえる。」                    (岸田+竹田[1992:16~25]要約)
 
 ・「恋愛感情の根本というのは,文明史的にいうと,どんな女性でも自分のセックスをガードしていることからくる。エロチシズムの本質というのは,バタイユの説を敷衍して言うと,禁止されている「よいもの」,「よいもの」だが禁止されているもの,それがエロチックな対象なわけである。親が,蔵の中にいろいろなものが入っているけど,ここには絶対入ってはいけないと子供に言う。するとこれは一種エロチックな対象になる。禁止されているのにもかかわらず,扉を開けて入っていくということは,非常にワクワク,ドキドキする。それがエロチシズムの基本である。
女性というのは,ある特定の人間にしか体を与えない。女の子はみだりに男の人となれなれしくしてはいけないと教えられるし,男の子も,性的なことはある時期から禁止される。だからこそ対象は何か素敵でワクワクするようなものになる。したがって,容貌の美や女性の肉体というのはますます際立って,それは悪いもの,堕落したものではなくて,超越的によいものになる。恋愛感情というのはそこから始まっているわけである。」 
          (岸田[1982:52~53]要約)
 
 

 

 
 さらに,アメリカの女性自然人類学者ヘレン・E・フィッシャーが,著書『愛はなぜ終わるのか』(草思社1993年)において,人間の愛は,生物学的に見れば4年で終わるのが自然であり,それゆえに,人は結婚しても不倫をしたり離婚したりするのだ,(事実,離婚のピークは結婚4年目である)ということを唱えていることも興味深いので紹介しておく。


第3章:進化する「恋愛」

 「恋愛」は,男女の志向であるが,それは,社会(時代)の変化に応じて確実に進化してきた。実は,「恋愛」という呼び名自体,昔からあるものではなく,近代社会の産物である。「恋愛」はいったい,現代までどのような経路をたどってきたのか。ここでは,先行研究を引用,概観しながら「恋愛」の進化を明らかにしていく。
 
 
 3−1 「色」と「恋」

 日本において,男女の志向を表すことばは,まず「色」,「恋」であった。いわば,現代の「恋愛」の前身である。恋愛の進化について見ていくとき,「色」「恋」の性質は重要視しなくてはならないだろう。なぜなら現代の「恋愛」とはその性質を大きく異にするからである。「色」「恋」は,特に,江戸の民衆文化を花開かせたとされているが,「色」「恋」の中身を見ていくと次のようである。
 
 −江戸時代における「恋」というのは,セックスそのもののことである。− (田中[1991:6])


−(「色」「恋」の文学において),セックスと恋愛感情は別に切り離されていないわけで,好きだということは寝たいということで,近松なんかの場合だと,男と女がいれば寝るわけである。寝ることと恋愛感情を切り離して,恋愛感情だけで物語が進んでいくということはまったくない。−  (岸田+竹田[1992:25~26])

 −「色」とは,どんなすばらしい男性でも,それが欠けていれば肝心なものが不足しているとみなされる,人生における重要な美意識であった。−

−男女間の感情の機微に通じることによって,人間の感受性は洗練され,美的感覚もとぎ澄まされるという王朝の人生哲学を象徴する言葉が「色」であった。そこには,精神と肉体の分離は存在せず,男女が交際するうえで避けて通れない性関係を含みこんでいるゆえに,肉の快楽の果てにたどりつく生命そのものへの無常感といった人間の生と死そのものの問題を考えさせる深みを帯びていた。−

 −西鶴の『好色一代男』(1682)には,大夫といわれた最高級の遊女たちの姿を通じて,「色」の世界が詩的美的情趣を体現する世界であったことが余すところなく語られている。
             (以上,佐伯[1996:169~170])                          
 これらからわかることは,「色」「恋」とは,性愛そのものを指す言葉で,当時の男女の志向とは,多くは,夫婦間以外の,日常とは区別されたところでの性愛を意味していたことである。と同時に,それはなんの社会的制裁も受けることなく,一種の美意識を醸し出すものとされていたのである。
 
 
 

 3−2 性愛から愛情へ

 江戸時代に爛熟した「色」「恋」の伝統は,明治時代になり,駆逐されていく。キリスト教と女性進化論を崇拝した明治の知識人が,真っ先に「色」「恋」を否定していくのである。

 *キリスト教的人間観の影響
佐伯順子『「恋愛」の前近代・近代・脱近代』によると,「キリスト教信者は,肉体の有限性を越えた無限なる精神の世界の存在を教てくれる宗教こそがキリスト教であるとし,「愛」の概念を広めようとした。キリストの「愛」は,精神の優越とともに,男女間の愛を広く神の愛と結びつける発想を提示し,聖書は神を愛することを最も重要な務めとして併置する。こうした教えを崇拝したキリスト教的精神偏重主義者がはじめに「性」を抑圧した」という。
また,「日本の伝統的人間観,宗教観においては,稲荷神に見られるように動物は神の使いであり,人間を越える神聖さを付与されていたが,人間をあらゆる動物の頂点におくキリスト教思想と進化論的人間観は,それとはあいまって,性行為=動物と共通=下等という発想を日本にもたらした。」 (佐伯[1996:171~173])

また,橋爪大三郎『性愛論』によると,「キリスト教団は,イエスが磔刑に処せられて息絶えた後,間もなくイエス・キリストの復活を信じる言説が元彼に従った人々の間に流布し始めて生まれた。キリスト教は普遍宗教の名にふさわしく広大な地域の多様な人々の間に受け入れられていったが,布教の対象となる人々は,性愛に関するきわめて多様な習俗や思想傾向−ローマで流行した結婚忌避,ギリシャ的同性愛,性的禁欲,独身主義など−に分断されており,一口でいうなら性愛倫理をめぐる混乱状態にあった。そして,当時ローマ帝国統治下にあった人々がおかれていたこうした性愛倫理の混乱状態は,やがて,正統教会の教理と

それが与える性愛倫理へと収束していく。こうして確立した性愛観が,中世を通じてキリスト教信仰の中軸をなし,後代へと引き継がれるようになった。」 (橋爪[1995:116~121])

 *女性進化論の影響
そしてまた,佐伯氏によると,「当時の男性には,女性を対等の存在とみなさず,肉欲の満足のためにのみ利用することになんらの抵抗も覚えない姿勢が見られる。そこで,男女の不平等な関係の源は肉体関係にある,という発想が生じ,これを排除すれば男女平等な「文明」社会が実現できるとして,「肉体の欲」ではなく,「精神に由て結合」すれば,「今日のごとく男子は女子を機械視し,女子は男子を主人視するの弊害」はなくなるであろう(河田隣也『日本女子進化論』)との主張が台頭した。」

「男女関係を「色」から「愛」へと変革させること,すなわち肉体関係を排除することは,売春の廃止,ひいては女性の社会的地位の向上につながると考えられた。また,「色」の否定は,複数の男女関係の否定という意味もあった。「色好み」は一対一のモノガマスな関係ではなく,多対多の関係の中での恋の感受性を鍛えることを重視した。しかし,明治の男女平等論は,多対多の関係は不平等であるとして否定し,一対一の関係こそ平等で理想的な男女関係であるという考えを打ち出した。男女平等と,その体現とされた一夫一婦制は,「文明」社会の基本であるという価値観が生じ,「色」の美学は否定されていったのである。」           (佐伯[1996:173~175])

 *家からの解放の手段としての「愛」
前述の,女性進化論の中の「女性の社会的地位の向上」に関連するが,「色」を否定し,「愛」を容認するという構造は,家父長制への反逆も意味している。それまで,恋とは,家の外,つまり非日常性のもとで行

われるもので,多くの女性は日常の女であり,恋には無関係であった。しかし,「愛」を日常に取り入れることで,女性はとりあえず家から解放され,誰もが恋愛をすることが可能になり,家に入るかどうかの選択の自由まで手に入れたのである。
 
 
 3−3 愛情イデオロギーの浸透

 こうして,「男女関係=性愛」という概念を退ける,愛情イデオロギーが社会に浸透していくことになる。ここにロマンティック・ラブイデオロギーと恋愛結婚イデオロギーが根を広げていくのである。ロマンティック・ラブは,「愛情」で「性愛」を抑制したもの(性愛<愛情),恋愛結婚は「愛情」と「性愛」を結びつけたもの(性愛=愛情)といえよう。

*ロマンティック・ラブ
「ロマンティック・ラブは,一人ひとりに生に物語性という概念−崇高な愛情の有す再帰性を徹底的に拡大していった手段−をもたらした。物語ることは「ロマンス」という言葉の担う意味の一つであるが,この物語性が次に個別個人化し,より広い社会過程とは格別何の結びつきももたない身の上話の中に自己と他者を挿入していった。ロマンティック・ラブの高まりは,小説の登場とほぼ同時に生じ,両者の結びつきは新たに見いだされた叙述形式の一つとなっていった。
 
 ロマンティック・ラブ的愛着では,崇高な愛情という要素が,性的熱中という要素を制していく傾向がある。こうした点はいくら強調してもし過ぎることがないほど重要である。ロマンティック・ラブと結びついた概念の複合体は,当初,愛情と自由を関連づけてとらえ,両者をともに規範的に望ましい心身の状態と見なしていった。愛情は,一方でセク

シュアリティを包含しながら,同時にまたセクシュアリティと絶縁していったのである。「高潔さ」は,男女双方にとって新たな意味を呈するようになり,もはや単なる道徳的潔白だけでなく,相手に人間を特別な存在として際立たせる,その相手の有す人間的特性をも意味するようになったのである。
 
 ロマンティック・ラブは,女性たちの心を,空しい,とてもありえない夢で満たすために,男性たちが画策した企みであったという人もいる。しかしながらこうした見解では,空想恋愛を描いた文学の人気,つまり,女性がこうした文学の普及に多大な役割を果たしてきた事実について何も説明することができない。1773年に『レディース・マガジン』誌の記者は,「英国では,空想恋愛小説をむさぼり読んだことのない若い女性はほとんどいない。」と,多少誇張を込めて述べていた。     
 ロマンティック・ラブは,本質的に女性化された愛情であったのである。」
       (以上,ギデンズ[1995:63~70])  
 
 私なりに「ロマンティック・ラブイデオロギー」を定義すると,ロマンティックラブ・イデオロギーとは,文化的に特異な感情(「色」「恋」には存在しない概念)で,セクシュアリティを含有してはいるが,性愛イデオロギーとは対極のもの。また,ドラマ的な情熱的愛情,相手への没頭,相手の理想化という要素(共に現実的には非永続的)を含有しているが,それが,永続的な,相手の人間的特性への好意であるとする概念。

 *恋愛結婚
山田昌弘氏は,恋愛結婚イデオロギーを次のように特徴づけた。
 


 ・恋愛しているかどうかという基準が,「結婚したいかどうか」という点にあるため,恋愛の基準がきわめてクリアになる。遊び・性的欲求などは正しい恋愛ではないとして退けられる。
・すべて結婚は恋愛結婚であるべきことが社会的通念になる。お互いに恋愛感情を持っていることが結婚の前提となり,結婚生活を続ける上で愛情を持つことが必要となる。
・性関係も,愛情に従属するものとなり,フランドランがいう「愛と結婚と性の一致」が理想とされる。結婚は愛情に基づき,愛情は結婚で完成する。
        (山田[1996:130~131]要約)

そして山田は,このイデオロギーが恋人に一種の唯一性を与えたとし,「排除規範」と「恋愛規範」という語で説明する。「排除規範」は,相手とのコミュニケーションの位置づけから恋人を他の人間関係(特に異性の友人)から区別するもので,「恋愛規範」は,相手とのコミュニケーションの内容から区別するものである。
 
 詳しくいうと,「排除規範は「恋人以外の人とある種のコミュニケーションをしたいと思ってはいけない」という規範で,例えば「恋人以外の異性と二人きりで会ってはいけない」「恋人以外の異性と性関係をもってはいけない」というような意識に表れ,そこで我々は他人を排除して恋人の「特別性」を確認する。この規範は,恋人以外の人に興味をもつようなら本当の恋愛ではないというように恋人以外の異性とコミュニケーションしたいと思うことによって,それが本当の恋愛ではない証拠となり,恋愛ではない感情を恋愛から区別する基準として働く役割をもつのである。
 恋愛規範は「愛があるならある種のコミュニケーションがしたいはず(するはず)」という規範で,恋愛感情があるならしたいはずの行動やしなければならない行動に言及するものである。例えば,恋人なら自分

を犠牲にして尽くすはず,愛しているなら結婚を考えるはず,というような意識である。この規範も排除規範同様,結婚したくないのは本当の恋愛でない証拠というように,恋愛でない感情を恋愛から区別する基準として作用する。」
               (山田[1992:54~55])
 
 私なりに「恋愛結婚イデオロギー」を定義すると,恋愛結婚イデオロギーとは,結婚が,男女互いの「愛」が確認されて初めて成立するものとする概念。そして,ここにおいて,結婚する相手となら,性愛も正当なものとなる。(結婚が約束されない相手への性愛は,社会的に制裁が加えられることが多い。)まとめて,前述のロマンティック・ラブイデオロギーが根底となった,現代において社会的通念となった「愛情を媒介にした,対等であると思われる男女の結婚」という概念。

 以上,「恋愛」の進化として,愛情イデオロギーが社会に浸透したことを見てきた。
                                実際に,現代の恋愛の因子が本当に愛情イデオロギーであるかどうかを,アンケート調査に基づくクロス集計で検証してみると,以下の結果が得られた。(クロス集計表は論文末の表1に添付)なお,アンケートは平成9年11月に,18歳以上から50代までの男女135名を対象に実施した。
 
 仮説:恋愛進化論どうり,現代の恋愛の因子は愛情イデオロギーであ    る。(うまく恋愛を機能させるには愛情イデオロギーが必要で    ある。)
よって,愛情イデオロギーを強くもつ人ほど恋愛を長く機能さ    せる。



 説問:・あなたは「愛」を信じる方ですか?
1,とても強く信じる /  2,それほどでもない
    ・「自分は恋愛は長続きする方だ」と思いますか?
1,はい  / 2,いいえ

予想される相関は正(愛を強く信じる人ほど恋愛は長続きする)。
 オッズ比を求めると,(51×30)÷(31×23)=2,145
よって,「正の相関」が見出される。
つまり,私の仮説は立証され,現代の恋愛をうまく機能させるには,やはり,愛情イデオロギーが重要であることが明らかになった。
 
 また私は,現代社会において,本当に愛情は性愛と結びついているのか,という点にも興味を持った。私は,恋愛結婚イデオロギーは社会において大いに健在していると思うので,愛情は性愛に結びついていると考える。この点も,先のアンケートを元にしたクロス集計で検証してみたい。(今回は,設問の性質上,アンケート結果は女性のみの60名分を抽出して使用。クロス集計表は論文末の表2に添付。)

 仮説:現代,愛情イデオロギーは性愛イデオロギーと結びついている。  よって,愛情イデオロギーを強く持つ人ほど,より性愛も希    求する。    

設問:・あなたは「愛」を信じる方ですか。
1,とても強く信じる / 2,それほどでもない
・オーガズムのないSEXについてどう思いますか。
1,別にいいと思う / 2,オーガズムはやはり必要だ

予想される相関は負(愛を強く信じる人ほどオーガズムを必要とする)


 オッズ比を求めると,(21×6)÷(16×17)=0,463

よって,「負の相関」が見出される。
つまり,私の仮説は立証され,現代において愛情イデオロギーと性愛イデオロギーは深く結びついていることが明らかになった。セクシュアリティ論者たちは,現代社会では,もはや愛情と性愛の結びつきも解体した(愛情と性愛は相いれないもの)と唱えているように思えるが,上の結果からは,セクシュアリティ論者の仮説「愛をそれほど信じない人ほど性愛を希求する」は棄却される。

 ここで私の見解を述べると,私ははじめは,これらの愛情イデオロギーはほとんど女性にとってのみ有用なものであると思っていた。(なぜなら,女性はこのイデオロギーに則って夫の浮気をごうごうと非難できるのだ。)しかし,実は一部の男性にも有用性があるのではないかと考えた。それは,「色」「恋」においては「野暮」とされる男も,この愛情というイデオロギーのもとでは「通」になれる可能性が生じたということである。
どういうことか説明すると−「色」「恋」を成立させる性愛イデオロギーのもとでは,性のテクニックと人間関係のテクニックを持ち合わせることのできる男が「通」で,それができない男は「野暮」であった。野暮にはおそらく,恋における勝ちの見込がなかっただろう。ところが,そういう男も,愛情イデオロギーのもとでは,愛情あるやさしい男でありさえすれば,可能性としては「通」になれるようになったのではないだろうか。







第4章:愛情イデオロギーに対する考察

 「愛情」は社会において価値づけらた。ルーマンは,「愛」とは,貨幣・権力・芸術などとともに,人がコミュニケーションする際に必要とするコミュニケーション・メディアの一つであるといった(小林盾氏の研究に詳しい)が,まさしく現代においては,一対一の男女間に,「愛情」というメディアがあってはじめて,「恋愛」というリアリティーが生まれるのである。

ここでは,「愛情イデオロギー」について,社会学的分析を試みたい。以下は,この,現代社会に流通する愛情イデオロギーについての私の考察で,これまでのゼミ論文または期末論文から要約したものである。


 4−1 「愛」の価値とは?

 例えば,−恋人が事故に遭って,体が不随になっても恋人を見捨てない−  という事例があるとしよう。現代において,これは「愛」とみなされるだろう。 
 では,なぜそれが「愛」として評価されるのか。
それは,この場合において,「今の恋人を見捨ててほかの恋人を見つける」という選択も可能であったにもかかわらず,そうはしなかった点に言及できるのである。

 つまり,現代の恋愛コミュニケーションとは,「するかしないか」,「与えるか与えないか」といったような,どちらも可能な選択肢のうち,相手に損害の出ない(または相手に有益である)方を選ぶ相互行為であり,相手は自分を裏切らないだろう,だから自分も相手を裏切らない,という確信の中に我々は「愛」の価値を見い出すのではないか。
 

 相手もきっとこうするだろうから自分もこうする,という暗黙の思念が,恋愛の「愛」と呼ばれる行為を生み出すと考えると,「恋愛」とは,人が,一種見返りを求め合うことが正当化された関係ともみれる。


 4−2 現代恋愛に自己犠牲的な愛は存在するか

 私は,「恋愛」の愛を前述のように捉えていくと,「恋愛」に自己犠牲的な愛は存在しにくいのではないかと考える。自己犠牲的な愛とは,相手のためなら自分を犠牲にすることも厭わないと長期的に思える感情である。(これが実は一般的にいわれている「愛」の性質だろう。)
私には,この自己犠牲的な愛は,親子関係ぐらいにしか発生するところが思いつかない。

 まず,恋愛関係と親子関係とでは,明らかに関係の成立の仕組みが異なる。恋人というのは自分での選択が可能だが,親(または子)は,自分の意志での選択が可能ではない。つまり,恋愛関係は,偶有性の選択で成立し,親子関係は,必然性の選択で成立する。ここに,相手のかけがえのなさの差異があると考えられる。
よって,親子の愛は,「自分は相手のために犠牲になろう」という自己犠牲的な愛が生じやすいが,恋愛の愛は生じにくいといえるのではないか。

そしてしかし,親子関係が恋愛関係になる可能性も出てきている。人工受精によって,親は子を選べるようになってきたからである。親子の愛情と恋愛の関係が,同質のものになる日が近づいているのかもしれない。(桜井芳生氏の発言に啓発された。)


 

 4−3 嫉妬の効果の増大

 愛情イデオロギーによる現代の恋愛が形成されたことによって,男女をめぐる嫉妬の効果が増大したことも想像できる。

恋愛が一対一の関係で成り立っているため,我々は,彼(彼女)をものにするには「ライバル」との戦いに勝たねばならない。ここに現代の恋愛のおもしろみがあるのだと私は思うが,そこにははかなり「嫉妬」の効果が存在するのである。

 「ライバル」が彼(彼女)に近づけば近づくほど,「私」は「ライバル」に嫉妬するが,同時に「私」の彼(彼女)への思いはその分だけ増加する。(嫉妬は恋愛の刺激剤。)
 また,他人を排除することによって,恋愛のリアリティーは生まれるのだから,逆に言えば,現代の恋愛には他人(ライバルになる可能性を持つ人)の存在が不可欠であるのではないだろうか。

 
第5章:愛情イデオロギーと晩婚化
 
 私がもっとも言いたいことは,これまで考察してきたような性質をもつ愛情イデオロギーが社会に根づくことによって,それが何らかの結果をもたらしているということである。私は,それが,今社会で深刻な問題とされている女性の「晩婚化」であると考えている。
 
 家族社会学・感情社会学を研究する山田昌弘氏が「晩婚化」「少子化」についてさまざまな論文を発表している。「なぜ晩婚化・少子化が引き起こされたのか」という主要問題に対する彼の回答に,基本的に私は賛

成である。彼の大まかな主張は,「未婚化・晩婚化は,男女交際の増大と,増殖する寄生(パラサイト)シングルによって引き起こされている」であるが,まずはこれを要約し,概観する。

 そして私の見解である「女性の晩婚化は,これまでに進化論的に扱った愛情イデオロギーと相関関係があるのではないか」を示し,「晩婚化は愛情イデオロギーを一つの原因としてひきおこされる」という仮説を提唱していきたい。私は,この仮説は,山田の理論の前提に相当すると考えている。
 本稿においては,この仮説を提唱していくことが最終的な目的となる。
 
 5−1 「晩婚化」とは?

 「1970年代初めから男女とも初婚年齢は上がり続けており,男子の場合には96年で28,5歳,女子は26,4歳である。都道府県別にみると,香川県が男27,7歳,女25,6歳で最も低く,東京都ではそれぞれ29,7歳,27,4歳で最も高い。
結婚件数の近年における変化をみると,72年の110万件をピークに減少が続いていたが,88年以来増加し,96年には79万5040件となった。」
            (朝日現代用語’98,p,345)

 「結婚適齢期は元来,女性は約18〜25歳まで,男性は23〜30歳までと考えられてきたが,女性にのみ厳格であった。女性の生物学的妊娠確率は,22〜23歳がピークで,25歳を過ぎると低下し始めるからである。」

 


 「男女性比の構造(女子人口100人に対する男子人口のこと)をみてみると,日本では,男女の出生時の性比は現在105,6である。これは,年齢が増加するにつれて低下し,20〜24歳では103,1,30〜34歳では101,6となる。男子の死亡率が女子よりもわずかながら高いためである。さらに性比は45歳を過ぎると100を下回り,女性過剰になる。結婚適齢期を20〜35歳と仮に考えて性比を取ると,102,3で男子はわずか2,3%過剰にすぎない。しかし,結婚の予備軍である未婚・死別・離別者合計の性比をみると,20〜39歳で前述の数字よりもはるかに高く,28〜39歳で150以上となり,明らかに男子過剰である。」

 「未婚率の変化については,1980年以後,年齢別有配偶率の低下が決定している。有配偶率の低下は日本では未婚率の上昇と考えられる。女性の20〜24歳の未婚率は70年は71,6%であったが,85年には81,4%,90年には85,0%へと増加している。25〜29歳では,70年はわずか18,1%,85年には30,6%へと急上昇,90年には40,2%と高くなっている。」
           (以上,imidas’97  P,619)


 5−2 「晩婚化」に対する山田説

山田の「晩婚化」に対する主張は,次の二つに集約できる。
 
 *男女交際の増加
「どんなに割り引いても,昔に比べて男女接触の機会は増えている。それとともに,青少年の男女交際の仕方はますますうまくなっている。友達としてのつきあい,恋人としてのつきあい,男女交際の経験を積んでいる人がどんどん増える。お見合いが廃れる代わりに結婚紹介業が盛

況となる。
 1960年代では,男女が二人でデートすれば,本人も周りの人も結婚にゴールインするものだと想像した。そこで,少ない男女交際のチャンスに,「決断」を迫られて結婚に至るというのが恋愛結婚の姿だった。 男女交際が増大すると,恋愛候補の異性が多くなる。恋愛候補の異性が回りに多ければ多いほど結婚の「決断」ができにくくなる。見合いの代わりに結婚相談所に行くと,たくさんの異性を紹介される。選択肢が多いほど,もっといい人がいるはずだという深みにはまっていく。

 ここに,「男女交際が増大すれば,結婚が遠のく」という命題が成り立つ。」
           (山田[1996:7~8])

 *寄生(パラサイト)シングルの増殖
 「“パラサイト・シングル”〜最近増殖しているのがこの種の若者だ。いつまでも親元を離れず,親の援助を受けてリッチな独身生活を楽しんでいる。女性の場合,経済的にもっと魅力をもった寄生先がみつからなければなかなか結婚しない。
ここ10年で,一人暮らしの独身女性の割合はほとんど変化がないのに対し,親元でシングルの女性が急増している。デパートでブランドものを買い込む一番のお得意様は親と同居している独身OLであるといわれるくらいに,消費意欲が高いリッチな層として経済的にも注目を集めている。

 リッチな20代シングルの実態を明らかにするため,親子関係を中心に調査した結果がまとまった(宮本みち子・千葉大教授らとの共著『親子にみるお金と愛情』有斐閣)。
 この世代の親はだいたい50−60代に達している。彼らは,経済の高度成長期に都会で就職し,男性は年功序列・終身雇用に守られ順調に

地位を築き,女性は専業主婦となる事が多かった世代である。多くは,成人した子に経済的に頼る必要はないし,家事も専業主婦の母が一手に引き受けており手伝いは不要だ。

この親元でリッチに暮らす若者が,現在の結婚難の原因になっている。
今でも未婚女性の専業主婦志向は強い。すると,結婚しても自分の父親以上の経済力がある男性と結婚しなければ生活水準が落ちてしまう。 それゆえ,結婚しない層は,親の高い経済力が利用できる自宅の女性と経済力が低い男性に集中する。」
     (日本経済新聞「生活家庭」欄 1997年2月8日)
 
 
 5−3 女性の晩婚化は愛情イデオロギーを一つの原因としてひきお     こされる

 *愛情欲がもたらす打算
 『近代家族の形成』(1975,昭和堂)の著者エドワード・ショーターは,恋愛が近代化するにつれて,それまで打算的だった人も愛情イデオロギーの影響を受けて,「恋愛」に打算をもちこむことをやめた,という見解を示している。 
 
 私は,これとは逆の見解を示したい。

 前述のように,現代の恋愛には自己犠牲的な愛は存在しにくく,また,現代の恋愛関係とは,見返りを求め合うことが正当化された関係である。このように現代の恋愛コミュニケーションを分析してみて,私は,我々はかなり「恋愛」に打算をもちこむようになったのではないか,と考える。

 そもそも,「恋愛」が(まだ「色」「恋」だった頃も含め)ずっと社会に流通し続けるのは,恋愛することによって我々は何らかの利得を得られ,それが幸福感につながるからであろう。
そして,性愛イデオロギーのもと,「色」「恋」における利得とはずばり性的快楽で,互いの利得も合致していたのだろう。

ところが,愛情イデオロギーで成り立つ現代の「恋愛」においては,利得がかなり不透明になり,互いの利得が合致するのも困難になった。愛情は期待され,さまざまな状況のもとで互いの愛情が試される。そのため,あげくの果てには,この状況での愛情とはこうでなければならないというマニュアルも登場する。見返りのない愛情コミュニケーションでは何の幸福感も感じられず,我々は利得を得るためにさらなる愛情欲にはまってしまう。
 
 そして,我々は自分にもたらされる損得を最優先に考えるがために,「本当にこの人でいいんだろうか」,「いや,もっと幸せにしてくれる人がいるはずだ。」といった感情をもつようになり,恋愛を破綻させ,新たな恋愛をし,また同じように破綻させていくのである。(現代は学校も共学であるし,仕事場にも異性がいる。現在の恋愛コミュニケーションに不安が生じても,次の彼(彼女)の選択肢はいくらでもあるのだ。) 
 私は,以上のような「愛情欲がもたらす打算」が,女性の晩婚化を生み出すひとつの要因であると考えている。すなわち,ショーターの「恋愛の近代化とは,恋愛に打算をもちこまなくなったことである」という見解に私は反対である。
  

 



 *愛情イデオロギーによる「女が男を選ぶ」システム

 以上のことをふまえて,さらに私は,愛情イデオロギーの定着が男女の価値均等化戦略であったことに注目する。
 
価値均等化戦略という言葉は,坂本佳鶴恵氏が,論文『フェミニズムにおける「近代」主義論争−フェミニズムはどのように「近代」を問うべきか−』の中で,フェミニズムの目標を二つの戦略に区分する際に用いたものである。
坂本は,フェミニズムは異なる二つの戦略を主張したとし,それらの異なる戦略をその平等のイメージにしたがって,無関連化戦略と価値均等化戦略とに区分する。

「無関連化戦略とは,フェミニズムが「近代」をテーマとしない時期に基本的にとっていた戦略と考えられる。フェミニズムは初期,とりわけ選挙権や経済的格差の解消の運動において,他の差別とほぼ同じ戦略をとっていた。それは,人間の本質的な同一性を社会的な正当性とおき,制度の機能的目標と性別とが無関連であることを指摘することによって,不利益な制度上の性差を,差別として告発していったのである。この戦略では,人種や性別とはかかわりなく,職業が与えられ,賃金が支払われることを目標としており,制度上の差異と性による区別を無関連化していくという戦略である。」

 「価値均等化戦略とは,「近代」の問題を問うときの構成上の要請から男女平等を問題とする場合で,この場合,男女の平等は,価値的な均衡化として表れる。例えば,二元主義が意味する男女の平等は,あきらかに内容的な同一性ではない。ここでは,平等は価値の均衡と解釈されており,男性役割と女性役割は異なっていても,人間の本来の姿として同一の価値を有することによって,平等となるのである。」
            

                (坂本[1992:210~212])

 愛情イデオロギーの定着は,まさにこの価値均等化戦略である。それまでの性愛イデオロギーを愛情イデオロギーと結びつけることで,恋愛において,一応に男女の価値を対等化したのである。

 そして私は,これは,「女性が男性を選ぶ」システムを生み出すことを意味すると考える。

そもそも,人間を含め動物の遺伝的プログラムには,雄は雌を口説きたい,雌は雄を選びたいという欲求が組み込まれている,という生物学的学説もあるが,現代の結婚おいて,女性が結婚相手を選ぶ立場にあることは周知のとおりである。

では,なぜ女性は「選ばれる」より自ら男性を「選ぶ」のだろうか。
 永田えり子氏は,「結婚と女性性市場」について,現代社会では,女性性のみが市場化されているので,結婚は事実上男女の価値の不均等を意味し,それ(結婚)は極端な不等価交換であると指摘している。(永田[1997:164~177])

 これは,今だ「結婚」においては男女の価値は対等化していないことを示唆する。

 「どういうことかというと,例えば市場において女性性が200万円の価値をもつとする。一方,男性性は市場化されていないので市場価格は0円である。これを交換し,相互に独占するならば,つまり他者には互いの男性性,女性性を使用させないならば,妻は一方的に毎年200万円の贈与を夫に与え続けるということになる。


 そして,このシステムにより,愛がさめて損をするのは妻である。愛によって妻が女性性を一方的に贈与することによって,市場に出れば得られたであろう金銭を失うからである。すなわち妻の愛にはコストがかかっており,夫の愛にはかかっていない。もしもコストがコミットメントを生むなら妻の結婚へのコミットは夫のそれより高くなる。」
 」
 ここで永田は,女性性市場と結婚とを両立させる方法として「女性が結婚を遅らせること」を挙げる。
女性が経済合理的ならこうした不等価交換は行わない。結婚は(相互独占的な恋愛も同じこと),若年女性にとって合理的でない。女性にとって経済合理的な結婚時期とは,彼女が年をとって彼女の女性性の市場価格が0になるときで,このときはじめて相互独占は等価価値となり理念的結婚が成立する,という。

私は,女性は,自ら結婚を遅らせようとはしていないと考える。これに関しては次章に示すとおりである)そして,永田の言うところの「結婚=不等価交換」においては,私は,「女性が男性を選ぶ」システムが,これを低減させているのではないかと考える。

愛情イデオロギーに則って,女性が自らが愛し,また自分を愛してくれる結婚相手を選び,最終的に結婚の決定権をも握ることが,結婚における不平等価交換への最良の戦略なのである。
 こうして,市場以上の利益を得ようと,女性はより期待水準を上げて男性を選ぶことになる。

 期待水準が上がるということは,女性にとって,自然に晩婚化がもたらされる。




第6章:晩婚化に対する一般論への反駁

 一般的には,女性の晩婚化は,女性が社会進出などを果たしたことによって,女性自らが結婚の意志(結婚願望)を放棄,または低減させたことによってひきおこされているとされる。

これは,現代における多くのフェミニスト,さらにセクシュアリティ論者の唱える,「もはや愛情イデオロギーは解体した」に準じた回答でもある。

私はこれらの主張に,不信感を抱いていた。なぜなら,現代においても女性において,愛情イデオロギーを捨てた気配は見受けられないからである。そこで,さまざまなデータを回収してこの一般的なテーゼの検証を試みていきたい。

 厚生省人口問題研究所による第2回人口問題に関する意識調査(平成7年6月15日実施,全国20〜69歳の男女対象,有効回収票数22,467)の調査結果ポイントが発表されている。
 まずここで私が注目した点は,
  結婚の意志について−30歳代前半までの男子の独身志向が上昇した。
  晩婚化への評価−晩婚化を「望ましくない」とする人の割合は「望ましい」と感ずる人の約3倍。
  晩婚化の将来について−約7割の人が晩婚化傾向は定着,または進行すると考えている。 (http:www.mhw.go.jp/houdou/0805/75.html)                           
という点である。
 



 なぜなら,まず,世の「晩婚化」をあおいでいるはずの若い女性に,独身志向増加の傾向はうかがえない。そして何よりも,晩婚化への評価に対しては「望ましくない」としているのにもかかわらず,現実的には晩婚化は定着,進行するだろうとしている人が大半なのである。
 
 さらに,「厚生省人口問題研究所によれば,18歳から34歳の男女のうち,男子90,0%,女子90,2%が結婚願望をもっている。」                   (imidas'96 P,619) 

 また,「女性の結婚観にしても,結婚したくないというよりもいい人がいたらしたいというのが多数派である。30年代前半の女性の結婚希望率はむしろ増大している。厚生省人口問題研究所の第9次出産力調査及び人口問題に関する意識調査によれば,「一生結婚しない」と回答した人の割合は,20〜34歳の未婚女性で4,6%(1987年)から3,2%(1990年)に下がっている。(経済企画庁編1992)」
            (山田[1996:7])

 多くは,結婚願望をもちつづけたまま結局晩婚になるのであり,これは,明らかに一般論的なテーゼを反駁する事実である。

また,私が97年12月に実施した,18〜40歳女性対象の(既婚者3名,あとはすべて未婚者だった)アンケート結果によると,まず,「あなたの結婚は晩婚になりそうですか。(結婚されている方は晩婚でしたか。)」という設問に,全回答者65名中42名が「はい」と答えていた。
 そして,次の設問を,「晩婚になる(なった)理由は,1,これだと思う人を見つけるために。2,自分の趣味や仕事に打ち込みたいから。のうち,どちらに近いですか。」としたところ,42名中過半数の24名が1と答えた。回答者がほとんど大学生だったのにもかかわらず,1

と答えていた人が過半数になったということは興味深い。(高学歴といわれる女性でも,半数以上が自分の仕事のために結婚を遅らせる意志は持っていない。)

 確かに,昨今は,確実な避妊法と避妊知識も社会にあふれ,性が生殖と切り離し可能なものとなり,結婚と性が連動しなくなった(上野[1989a:261])ということもできる。

 しかし,現代女性の多くは,やはり結婚は人生における完全パイだとしているのではないだろうか。

 
           
           
















            −論文構造設計表−
主題:恋愛の現代文化
主要命題:愛情イデオロギーを一つの原因として晩婚化がひきおこされ     る。

問い:恋愛の歴史を要約せよ。
答え:まず,男女の志向は,性愛イデオロギーで成り立つ「色」「恋」   に始まる。そして,明治期に,キリスト教と女子進化論の知識が   愛情イデオロギーを提唱しこれが「恋愛」の要素であるべきこと   が社会的通念になる。今や「恋愛」にリアリティを持たせるもの   は「愛情」というメディアである。
問い:愛情イデオロギーとは何か。
答え:ロマンティック・ラブや恋愛結婚の概念の根底とされるもので,   このイデオロギーが,性愛<愛情,もしくは性愛=愛情の概念を   生み出した。
問い:愛情イデオロギーは何らかの弊害(悪しき結果)を生み出してい   ないか。
答え:生み出している。
問い:それは何か。
答え:今社会で深刻な問題とされている女性の晩婚化である。
問い:女性の晩婚化は,「愛情イデオロギーを捨てた女性が自ら結婚か   ら遠ざかること」で引き起こされているのではないのか。
答え:そうではない。晩婚化は,結婚願望を持ったまま晩婚になる女性   によって引き起こされているのである。 
             

             
            


             −参考文献− 
朝日現代用語’98
Delphy Christine 1996『なにが女性の主要な敵なのか』,勁草書房
江原由美子 1985『女性解放という思想』,勁草書房
 1988『フェミニズムと権力作用』,勁草書房
 1990『フェミニズム論争』,勁草書房
 1992『フェミニズムの主張』,勁草書房
FisherE.Helen 1993『愛はなぜ終わるのか』,草思社
布施晶子 1995『結婚と家族』,岩波書店
Giddens Anthony 1995『親密性の変容』,而立書房
橋爪大三郎 1995『性愛論』,岩波書店
imidas'97 集英社
川村邦光 1996『セクシュアリティの近代』,講談社選書メチエ
Key Ellen 1997『恋愛と結婚』,新評論
岸田秀 1982『ものぐさ精神分析』,中公文庫
岸田秀+竹田青嗣 1992『現代日本人の恋愛と欲望をめぐって』,KK        ベストセラーズ
水田宗子 1996「性的他者とは誰か」『セクシュアリティの社会学』 (岩波講座現代社会学),岩波書店
永田えり子 1997『道徳派フェミニスト宣言』,勁草書房
織田元子 1990『システム論とフェミニズム』,勁草書房
大澤真幸 1996『性愛と資本主義』,青土社
佐伯順子 1996「「恋愛」の前近代,近代,脱近代」『セクシュアリ    ティの社会学』(岩波講座現代社会学),岩波書店
坂本佳鶴恵 1992「フェミニズムにおける「近代」主義論争」『フェ    ミニズムの主張』,勁草書房
桜井芳生 1996「961203時限爆弾としてのオーガズム』,
        http://ac3.aimcom.co.jp/^sakurai/
Shorter.E 1975『近代家族の形成』,昭和堂
田中優子 1991「遊女と地女」『対話編性愛論』(上野千鶴子著),
     河出書房新社


上野千鶴子 1989a『女という快楽』,勁草書房 
 1989b『スカートの下の劇場』,河出書房新社
 1990『家父長制と資本制』,岩波書店 
山田昌弘 1992「ゆらぐ恋愛はどこへいくのか」『ポップ・コミュニ    ケーション全書』,PARCO出版
 1996『近代家族のゆくえ』,新曜社
 1997「増殖する寄生シングル」(1997年2月8日付け日本経済新聞)吉本隆明 1968『共同幻想論』,河出書房

最後に付け加えるが,私は,これからも女性にとって愛情イデオロギーに基づく結婚が理想的であり続けるとは述べなかった。近未来の見通しとして,私は一つの予測をたてている。それは「見合い結婚の復権」である。
 現代と,近い将来において,ほとんどの子供は,恋愛結婚をした両親をもつと考えられる。そして,その両親こそが,問題となっている離婚増加,家庭崩壊を生み出している。子供が,これを「恋愛結婚の成れの果て」という見方をするようになれば,子供にとって必然的に,「恋愛結婚」は魅力の薄いものとなっていくだろう。           










            −仮説の検証−

 
仮説:愛情イデオロギーが女性の晩婚化を生み出す。すなわち,愛情    イデオロギーを強くもつ女性ほど,結婚は晩婚になる。

説問:・あなたは「愛」を信じる方ですか。
1,とても強く信じる  2,それほどでもない
・あなたの結婚は晩婚になりそうですか。(結婚されている方    は晩婚でしたか。)
1,はい   2,いいえ

予想される相関は正(愛を強く信じる人ほど晩婚である)。










 オッズ比を求めると,(23×9)÷(14×14)=1,056

結果,残念ながら,このアンケート調査では,相関関係はあまり見出せなかった。
第2設問が,未婚女性にとって,あくまで予定説になってしまうため,本当に晩婚であるのか確実性に乏しいことが考えられる。
 
   
               *謝辞*
 
本論文を執筆するにあたり,鹿児島大学法文学部人文学科の桜井芳生助教授には,長期にわたって,多くの示唆に富んだ助言を賜りました。
 また,現代メディア文化論ゼミにおける,先輩方・学友の論文発表,そしてその際の皆の発言は,私の論文にも多くのヒントを与えてくれました。 

専門に所属して約2年半の間,本当にお世話になりました。深く感謝の意を表します。
 これからも,社会への問題意識を常に持ち,何かを発見しながら人生ガンバッテいこうと思います。

皆様,ありがとうございました。

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