950612縮約950512ソシュール「不易性」問題とナッシュ均衡 

--人文学徒のためのやさしいゲーム論入門・と・ゲーム論への警告-- 

                      桜井芳生

                                                                 sakurai.yoshio@nifty.ne.jp
                              http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/

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【要約】周知のように、ソシュールの『一般言語学講義』は、われわれの言語に対する見
方にいろいろな啓発的な指摘を行っている。ソシュールによる「言語の不易性と可易性」
の議論もそのようなものの一つといえる。ここでソシュールはするどい指摘をしてはいる
が、言語の「不易性」と「可易性」の両側面を指摘するにとどまり、両側面の相互の関係
ならびにそれの説明が十全であるとはいえない。われわれは、ゲーム論における基本概念
である「ナッシュ均衡」の概念を導入することで、このソシュールの不備( とくに「不易
性」の説明) を補うことをめざす。あわせて、人文学徒には疎遠である「ゲーム論」を人
文学徒に紹介することも兼ねる。最後にわれわれは、またしかし、以上のようなゲーム論
的説明の「不完全性」について指摘する。これは、ナッシュ均衡概念を使用する議論の多
くに付き物の不完全性である。こうしてわれわれの試みはゲーム論( ナッシュ均衡概念)
の使用にあたっての警告( 注意書き) で終わる。

【ソシュール「不易性」問題】周知のようにソシュールは、言語に対して多くの啓発的な
指摘を残している。言語の「不易性/ 可易性」の指摘もそのようなもののひとつであると
いえるだろう。
エングラーによる断章番号1239においてソシュールはこうのべる。
「ラングを構成しているシーニュの非自由性はその歴史的側面に起因している・・・。何
となれば、このシーニュの非自由性が生ずる根拠は、ラング内の時間というファクターが
もたらす連続性であり、世代から世代へと引き継がれるシーニュの連続性だからである。
時間というファクターのもう一つの現れ方は、一見、第一のものと矛盾している。それは
何世代かを経る時に生ずるシーニュの変化という形で現れるのである。
この章の題が、同時にシーニュの不易性と可易性( 可変性) について語っているのはそう
いう理由からなのだ。」( 295-6 頁『ソシュール小事典』より孫引き)
例によってソシュールの記述は、単純明快とはいいがたい。もっとも、ソシュールの文言
は「発表稿」ではないので、この点彼の責を問うことはもちろんできない。言語( ラング
) ならびに記号( シーニュ) の「不易性/ 可易性」についてソシュールの記述をまえにし
てわれわれは「二つの深度」の問題に面することになるだろう。
第一の深度の問題は、この「不易性/ 可易性」に対して、ソシュールが「いかなる事態認
識をしているか」という問題である。「言語には、変化する側面と変化しない側面がある
」と指摘したところで、それは「正しい」だろうが、ほとんど「認識利得がない」記述だ
ろう。読者は「そりゃそうでしょう」としかいえないだろう。( いわゆる「弁証法的認識
・記述」には、このような「そりゃそうでしょう」的記述が多くないだろうか) 。では一
体、ソシュールはこの「不易性/ 可易性」をめぐって「認識利得」のあるような事態認識
をしているのであるか。もししているとしたら、どうようなものなのか、ということが第
一の深度の問題である。
それに対して第二の深度の問題は、第一の深度の問題が答えられたとして、では、そのよ
うに「認識」された「事態」はいかにして「説明」されるか、という問題である。この問
題に対してわれわれは、ゲーム論における「ナッシュ均衡」の概念を導入して、「説明」
を試みることになるだろう。

【第一深度の問題】まず第一深度の問題を考えてみよう。すなわち、「不易性/ 可易性」
の論件のもとで、ソシュールがいかなる「事態認識」に至っているかという問いである。
これに対しては、教科書的解釈はあまり生産性がない。今日におけるソシュール研究の一
つの教科書レベルを成していると思われる『ソシュール小事典』においては、「シーニュ
は時間という要因のために可易性をもち、またそのために不易性を呈する」とまとめられ
るている。ソシュールの記述自体がこのようにまとめられてもしようがないところがある
。しかし、もっと「生産的」な解釈はできないものであろうか。
われわれは、ソシュールの以下のような記述に注目したい。
「能記は、hその表す観念との関係でみれば、自由に選ばれたもののように思われるとす
れば、i逆に、これを用いる言語社会との関係からみれば、自由ではなくて、押しつけら
れている。社会大衆はひとつも相談にあずからず、言語のえらんだ能記は他のものと替え
るわけにはゆきかねる。」( hiの番号は、桜井による加筆。102 頁岩波『一般言語学講
義』) 「それでは、言語記号がどのようにしてわれわれの意志からのがれるかをみよう」
(102頁) 。「言語記号は恣意的であるから、このように定義された言語は、意のままに組
織することができ・もっぱら合理的原理に依存する自由な体系であるかのように思われる
。・・・それにもかかわらず、言語を目して、当事者たちの思いのままに変更しうる単純
な制約とみることを妨げるものは・・・。110 頁」( 強調:桜井)
「このときから言語は自由ではない、なぜなら時間がそれに作用する社会力をして効果を
発揮せしめるからである, かくしてわれわれは自由を無効にする連続性の原理に到達する
のである。けれども連続性は必然的に変遷を、重大であれなかれ関係のずれを内含する。
111 頁」( 強調:桜井)
以上のように読んでみれば、ソシュールが「不易性/ 可易性」の論件として指摘しようと
した事態は、かなり、明瞭ではないだろうか。
すなわち、「言語( ラング) 」ならびにその構成要素である「記号( シーニュ) 」の成立
は「恣意的である」( 自然的でない┤必然性がない) 。よってそれは一見すると、「自由
」であるかのうようにみえる。しかし、そこに個人による「自由」の余地はないのだ、と

あるいは、こうも言えるだろう。言語は「変わる( 変遷する) 」。しかし、個人が「変え
る( 「意のままに組織する」) ことはできない」と。
以上が「第一深度の問題」に関する我々の回答案である。こうしてみると、ソシュールの
「不易性/ 可易性」の指摘は、言語の「二面性」に関する「単なる・弁証法的把握」にと
どまるものではない、ということがわかるだろう。もちろん、この回答案もひとつの「解
釈」であるにすぎないので、別の解釈案を排除するものではない。しかし、このように読
解するのが、もっとも生産的であるように私には思える。
このように「不易性/ 可易性」を把握すれば、それは、たんに「言語」に関するだけのも
のではないことは容易にわかるだろう。ソシュール自身がどこかで( !!確認せよ!!) 指摘
していたように、このような二性質は社会におけるさまざまな事象に付き物のものである
ともいえる。あるいは、デュルケームのいう「社会的事実」とはまさに、このような「不
易性/ 可易性」の二面性をもつものであるともいえるだろう。
とすれば、ソシュールの指摘した「不易性/ 可易性」を「
説明」することは、たんに言語学内部にとってのみ有効性を持つ作業であるにとどまらず
、「社会的事実」の存在性格の把握にとって、すなわち、社会科学全般にとって有効性を
もつ作業となることが予想できるだろう。

【第二深度の問題へのソシュール自身の回答】では、「第二深度の問題」に進もう。以上
のように事態把握された「不易性/ 可易性」がいかにして「説明」されるのか、という問
題である。
これについては周知のようにソシュール自身がおもに四つの点にわたって「帰する」べき
ところを指摘している。すなわち、h言語の恣意的特質。i記号の多数性。j体系の複雑
性。k集団的無気力。以上である。それぞれの説明はなかなか啓発性が富むが、散発的な
おもいつきの印象をぬぐえない。別の視点からの、あるいは、他の論件との通底性を示す
ような、「説明」はありえないのであろうか。
私はそのような「説明」がありうる、と思うのである。それが本稿の中心テーマ「ゲーム
論的( とくにナッシュ均衡概念による) 説明」である。

【ゲーム論ならびにナッシュ均衡の導入】さて、ソシュールの「不易性/ 可易性」問題を
説明するために「ゲーム論」を利用しようと思うのだが、本稿の読者の多くは、「ゲーム
論」といってもチンプンカンプンのひとが多いだろう。( ゲーム論論者にとっては、以下
のゲーム論の導入は「常識以前」のことと思われるので、とばして読んでください) 。
かくいう私自身、ゲーム論はまったくのシロウトだが、ゲーム論の一部の論件はわれわれ
「人文学徒」にとっても非常に有効だし、またその点のみを理解することをめざすのであ
れば、大した負担も生じないように思える。というわけで、ここでは、蛮勇をふるって、
「人文学徒のためのやさしいゲーム論入門」も兼ねて、ゲーム論の基礎概念の導入を試み
てみたい。
周知のようにゲーム理論の嚆矢!?はフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによる『!!!!
!!』であるが、近年ゲーム論が経済学その他において盛んに応用されるようになったのは
、ナッシュ( 近年ノーベル経済学賞を受賞した) による「ナッシュ均衡」の概念の定式化
によるところが多い、と思われる。

【ナッシュ均衡と「暗黙の待ち合わせゲーム」】では、ゲーム論のキー概念である「ナッ
シュ均衡」の説明をしよう。
ナッシュ均衡の「定義」は以下のようなものである。
 [ナッシュ均衡の定義] 他のプレイヤーがおのおのの選択肢( 手) 戦略から逸脱しないこ
とが所与とされるとき、いかなるプレイヤーも自分の選択肢( 手) から逸脱するインセン
ティブ( 誘因) をもたないならば、そのときの選択肢( 手) の組み合わせはナッシュ均衡
である。(32 頁ラスムセン1989一部改) 。
ほとんど「宇宙人のコトバ」でしょう?。では、例をあげて、絵を描いて、説明してみま
しょう。

 [暗黙の待ち合わせゲーム] 次のような状況を想定してみよう。登場人物はヨシオとヨウ
コの二人。二人は高校生。
二人とも、毎朝、「二両編成」の列車にのって通学する。二人は未だお互いに会話を交わ
したことがない。
ここで、ヨシオの「選択肢」は「一号車に乗る」か「二号車に乗る」かの二通りである。
ヨウコの「選択肢」も「一号車に乗る」か「二号車に乗る」かの二通りである。
二人は、未だ話したことさえないけれども、お互いに好意をいだきあっている、としよう
。このような状況を、ゲーム論では、よく「利得マトリックス( 行列) 」で表示する。
ヨシオの選択肢とヨウコの選択肢を「タテとヨコ」で「掛け合わせて」、それぞれの状況
に各人の利得( アリガタミ) を記入するという方法である。
すなわち、この場合、ありうべき状況は「ヨシオが一号車に乗る/ 二号車に乗る」と「ヨ
ウコが一号車に乗る/ 二号車に乗る」を掛け合わせて、すなわち2×2=4とおりである
。それぞれの「状況」にたいして、ヨシオが得る「利得(アリガタミ)」に「点数」をふ
ってみよう。
ヨシオはヨウコと「同じ車」に乗ることを望んでいるから、「ヨシオが一号車で、かつ、
ヨウコも一号車」「ヨシオが二号車で、かつ、ヨウコも二号車」の状況に対して、高い利
得を感じるだろう。よって、その状況に「2点」を与えよう。それに対して、「ヨウコと
別の車にのってしまう」のはヨシオにとって好ましくない。すなわち、「ヨシオが一号車
なのに、ヨウコが二号車」「ヨシオが二号車なのに、ヨウコが一号車」はイヤだ。よって
、この状況には低い「1点」を与えよう。これを、「マトリクス」(行列)に書き込むこ
と以下のようになるだろう。

ヨシオの\ヨウコの
  選択肢  \ 選択肢   一号車    二号車
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  一号車     |      2       1
          |
  二号車      |      1       2
           |

同様に、ヨウコについても、ヨシオと同じ車に乗る場合に「2点」、ヨシオと別の車に乗
る場合に「1点」を与えよう。この点数を、マトリクスのヨシオの得点の「右隣り」にか
くことにしよう。すなわち、

ヨシオの\ヨウコの
  選択肢  \ 選択肢   一号車    二号車
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  一号車     |     2,2            1,1
           |
  二号車       |     1,1            2,2
           |

これが、ゲーム論でよくつかうところの「利得マトリクス( 行列) 」である。意外にカン
タンでしょう。いろいろな本で出て来るので、この機会になれておくといいでしょう。

【ナッシュ均衡】さて、このような状況設定のもとで、ある日の朝、ヨシオが一号車に飛
び乗ったら、ヨウコも一号車に乗っていたとしよう。その結果、ふたりは、列車が高校の
そばの駅につくまで、ひとときの逢瀬を楽しめたとしよう。
ではヨシオは次の朝はどうするだろうか。すなわち、ヨシオはこうかんがえるのではない
だろうか。「ヨウコが明朝どっちの車にのるかはわからない。しかし、僕たちは今朝、同
じに車にのれてうれしかったのだから、ヨウコが車を変更する理由はとくにないだろう。
とすれば、ヨウコはあすも一号車にのるだろう。だとしたら、ぼくヨシオも一号車にのれ
ば、また今朝のように二人出会うことができる。したがって、明日も一号車にのろう」、
と。その結果、ヨシオは明朝も「一号車」に乗ることが予想できるだろう。
ヨウコに関しても同様で、彼女も同じように考え、そして一号車に乗るだろう。このよう
にして、なんら「明確な約束ごと」がないにもかかわらず、二人は毎朝「一号車」にのり
、あたかも「暗黙の待ち合わせ」をすることになるだろう。
このようなメカニズムによって( ヨシオの選択肢, ヨウコの選択肢) の組み合わせが( 一
号車, 一号車) となることが期待できる。
じつは、このような選択肢の組み合わせ( 一号車, 一号車) が、まさに「ナッシュ均衡」
なのである。上述の「定義」に立ち戻って確認してみよう。
「他のプレイヤーがおのおのの選択肢( 手) 戦略から逸脱しないことが所与とされるとき
」すなわち、「他のプレイヤー( ヨシオにとってのヨウコ) 」が「彼女の選択肢( 一号車
) を変えないとすると」( 「おのおのの選択肢から逸脱しないことが所与とされるとき」
) 、「自分( すなわちこの場合はヨシオ) 」の選択肢( 一号車) から逸脱するインセンテ
ィブ( 誘因) ももたない( ヨウコが一号車に乗るのにボクだけ二号車にのるもんか!!) 、
ということが「いかなるプレイヤー( ヨウコに対してのヨシオ、ヨシオにヨウコ) 」に対
しても成り立っている。
よって「そのときの選択肢の組み合わせはナッシュ均衡」となるわけである。

【ナッシュ均衡の非一意性・非存在性】ここでは、じつはいつまでもなく、「ナッシュ均
衡」は「ただ一つ」ではない。( 一号車, 一号車) の選択肢の組み合わせもナッシュ均衡
であれば、じつは( 二号車, 二号車) の組み合わせもナッシュ均衡である。( 各自確認し
てみてください)。このように、すべてのゲームは必ずしもナッシュ均衡が「一つ」であ
るとは「かぎらない」のである。( もちろん、ナッシュ均衡が「一つしかない」ゲームも
「存在する」!!確認せよ!!) 。読者はぜひ作ってみてください。文末に「回答例」を書い
ておきました。
また、ここでの文脈ではあまり重要ではありませんが、「ナッシュ均衡が存在しない」ゲ
ームというもの存在する。これまた読者はぜひご自分でつくってみてください。それも文
末に回答例をあげおきます!!。
ただし、ナッシュ均衡の創案者ナッシュくんのすごいところは、「『確率的』に選択肢を
選ぶようにすれば」( これをゲーム論の「業界用語」では「混合戦略化」という) 、「ど
んなゲームでも、必ずナッシュ均衡が存在する」ということを「証明」してしまったので
す。( 【ナッシュの存在定理】)
どうです。すこいでしょう!。ナッシュくんが「ノーベル賞」を受賞するのもむべなるか
なでありましょう。

【ナッシュ均衡の非一意性の含意】では、「ナッシュ均衡はひとつとはかぎらない」「複
数ありうる」というはどのような「意味」をもつでしょうか。ふたたび例のマトリックス
を見てみましょう。

ヨシオの\ヨウコの
  選択肢  \ 選択肢   一号車    二号車
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  一号車    |      2,2            1,1
         |
  二号車     |      1,1            2,2
         |

いままでの議論からすでに予測している読者も多いとは思いますが、われわれが例示とし
てつかっている「ヨシオとヨウコの暗黙の待ち合わせゲーム」では、選択肢の組( 一号車
, 一号車) はナッシュ均衡でしたが、じつは、ナッシュ均衡はもう一つ存在する。
いうまでもなくそれは( 二号車, 二号車) の組である。上図では、両方のナッシュ均衡に
アンダーラインを引いておいた。
上述のおはなしでは、ある日ヨシオとヨウコが「たまたま」一号車に乗り合わせたら、両
者ともに「選択肢を変える誘因をもたない」のであるから、事態は( 一号車, 一号車) の
状態が継続することが予想されたのである。
しかし、もし、ある日ホームの一部で工事をしていて、ふたりとも「不本意に」二号車に
のることになったらどうだろうか。そしてその工事が2〜3日つづいたらどうだろうか。
工事が終わって再び両者ともに「どちらの車両にも乗れる」となったときには、ヨシオに
せよヨウコにせよ「選択肢を変える誘因をもたない」のであるから、その日も二号車に乗
ることが期待できる。すると、状況は(二号車,二号車)となり、両者ともに「高い利得
」を得る。
このように、あるナッシュ均衡(一号車、一号車)は一度成立してしまうと、変化しにく
い。また状況がナッシュ均衡にあるときに一人のプレイヤーがそれを変えようとしてもむ
ずかしい。
それでありながら、ナッシュ均衡が複数あるときは、あるナッシュ均衡と別のナッシュ均
衡とでどちらが成立しやすいかはわからない。あるナッシュ均衡(一号車,一号車)が成
立していたとしても、一度なんらかの事情で状況が(二号車,二号車)という別のナッシ
ュ均衡になってしまうと、再び前者の(一号車,一号車)のナッシュ均衡にはもどりにく
いのである。

【記号( シーニュ) とナッシュ均衡】たいぶ廻り道がながくなりましたが、筆者は、この
ような「ナッシュ均衡」の概念でソシュールのいう記号( シーニュ) 、すなわち、イミサ
レルモノ( 所記・シニフィエ) とイミスルモノ( 能記・シニフィアン) との結合の「恣意
性」を捉え返すことができるのではないか、と考えるのである。
そしてこのようにナッシュ均衡の概念で捉えることで、我々の問題( 第二深度の問題) で
ある、ソシュールのいう「不易性/ 可易性」の問題を一定程度「説明」することができる
のではないか、と思うのである。
説明しよう。いまここに「四つ足のむくむくしたかわいい動物の一種」という「概念・所
記・イミサレルモノ」に対して、なんらかの「聴覚映像・能記・イミスルモノ」を対応さ
せようとしている、としよう。
無論、現在のソシュール解釈のレベルでは、「所記」である「四つ足のむくむくしたかわ
いい動物の一種」自体が、言語によってはじめて分節化される、とソシュールが考えてい
たことは周知である。が、ここでは、この点にまでは立ち入れない。( 以下の議論の理解
していただいたアトで、あれば、この点の論件をも繰り入れた議論が可能であると予想さ
れる)。
それに対して、「聴覚映像・能記・イミスルモノ」としては「イヌ」と「ネコ」の二通り
の候補がある、しよう。( この点もいうまでもなく過度の単純化だが、まずは単純な「モ
デル」で理解してもらうことにしよう)。
登場人物は、上述とおなじく、「ヨシオ」くんと「ヨウコ」さんである。
とすれば、ヨシオくんとヨウコさんが、例の「四つ足のむくむくしたかわいい動物の一種
」をどう呼ぶかについて、上述と同様な「マトリクス( 行列) 」ができることになる。
しかも、これまた上述と類比的に、同じ「四つ足のむくむくしたかわいい動物の一種」を
、同じ名前( 聴覚映像・能記・イミスルモノ) で呼べば、ふたりの間での便宜は高いであ
ろう。それに対して同じモノを別々の名前で呼べば、二人にとっての便宜は低いであろう

したがって、ヨシオくんヨウコさんそれぞれにとって「同じ名」でよべば「利得」が高く
、「別の名」で呼べば「利得」が低いことになるだろう。

よって、「利得マトリックス」は上述の「暗黙の待ち合わせゲーム」と全く同じように

ヨシオの\ヨウコの
  選択肢  \ 選択肢   イヌ        ネコ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  イヌ   |           2,2             1,1
     |
  ネコ   |          1,1             2,2
     |

となる。
ここまで、述べてくれば、炯眼な読者はもう気づかれたかもしれない。
状況は、上述の「暗黙の待ち合わせゲーム」における「ナッシュ均衡の複数性」と全く「
同じ」になっているのである。
すなわち、状況は一見すると、ヨシオにとって例の「むくむくした四つ足のかわいい動物
」を「イヌ」と呼ぼうが「ネコ」と呼ぼうが、どちらでもかまわないようにみえる。これ
をここでは「個人的恣意性」と読んでみよう。
しかし、ひとたび、状況が( イヌ, イヌ) の組み合わせに定位してしまうと、すなわちヨ
シオもヨウコも例の動物を「イヌ」とよぶような「ナッシュ均衡」の状態が成立してしま
うと、状況をそこから変化させることはむずかしい。
このような「ナッシュ均衡の変化のさせにくさ」を、ソシュールの指摘した「不易性」と
して解釈することができるだろう。すなわち、「個人が変える( 意のままに組織する) こ
とはできない」という点である。
しかし、さらにいうまでもなく、われわれがいま考察しているゲームには「ナッシュ均衡
」が複数あった。すなわち、( イヌ、イヌ) と( ネコ、ネコ) である。
上述の議論からあきらかなとおり、もし、なんらかの事情で事態が( ネコ、ネコ) の状態
にひとたび定位してしまったとすると、またその( ネコ, ネコ) の状態から「変化」する
要因はなくなってしまう。すなわち、( ネコ, ネコ) という状態も( イヌ, イヌ) という
状態とまったくおなじくナッシュ均衡であることによって、同じ程度の「変わりにくさ」
を備えているということができる。
とすれば、社会全体( この場合は「ヨシオ+ヨウコ」) の視点にたってみれば、( イヌ,
イヌ) であろうと( ネコ, ネコ) であろうと「同じ」である( この点を社会科学的には「
無差別」という) 。重要なのは、社会全員が同時に「イヌ」なら「イヌ」を、「ネコ」な
ら「ネコ」を、「一緒に」選択することである。もし、一緒に選択するという条件がみた
されているのならば、社会全体の状態が( イヌ, イヌ) から( ネコ, ネコ) に「変化」す
ることはまったく不都合がない。( 上述の「工事」の例を想起せよ)。
このように社会の状態は「変化しうる」のである。すなわち、「可易的」なのである。
いわば、社会全体にとっては例の動物を「イヌ」とよぶか「ネコ」と呼ぶかは「恣意的」
なのである。このことを「社会的恣意性」とよぶこともできよう。
このようにソシュールのいう「不易性/ 可易性」の指摘は、じつは「個人的恣意性は認め
られない( :不易性) 」のだが、「社会的恣意性は存在する( :可易性) 」と言い換える
こともできるだろう。

【ゲーム論的説明の射程】以上、われわれは、ゲーム論の「やさしい入門」をおこない、
そのことを通じて、ソシュールの「不易性/ 可易性」の説明( 位置づけ) を試みてみた。
このことは、どのような射程とそしてまた問題点をもつのだろうか。
まず射程から。第一に、われわれの試みは、ソシュール学内部で、プラスの意義をもつの
ではないだろうか。いままではあまり明確とはいえなかったソシュールの「不易性/ 可易
性」の問題を定式化し、それの説明を一定程度行った。これは、ソシュール学内部におい
ても一定の「進展」であるといえるのではないだろうか。第二に、ソシュール学の領域に
とどまらない射程を開くのではないか。なぜなら第一に、われわれは、「説明」の道具だ
てにゲーム論の理路を用いた。繰り返すまでもなくゲーム論は現在の社会科学の多くで援
用されつつある道具立てである。とすれば、ここでの議論は、狭く「言語」の問題にとど
まらず、「ナッシュ均衡」という「統一的な視点」から、「言語」とそれ以外のさまざま
な論圏とを「比較」することを可能にするだろう。このようにわれわれの視点は、いまま
で通底しているとは考えられなかったものを「比較の土俵にのせる」というメリットがあ
る、と思う。また第二の理由として、「社会的事実」の探究という問題への啓発をすすめ
るという点も指摘できるのではないだろうか。われわれはすでに、ソシュールの「不易性
/ 可易性」の問題は、じつは言語に特有の問題ではなくて、デュルケームのいう「社会的
事実」につきものの問題でもあることを示唆しておいた。とすれば、「不易性/ 可易性」
の問題をわれわれのように言語学に特有でない道具立てで説明することは、社会的事実の
存立についてわれわれの理解を深める作業が同じ道具だてでもっても可能であることを期
待させる。このように、われわれの試みは、社会的事実の存立如何という社会科学にとっ
てのビッグプロブレム( 社会学にとってのビッゲストプロブレム?)への探究への道を開く
といえないだろうか。

【ゲーム論( ナッシュ均衡) 的説明への警告】つぎに問題点について考えてみよう。以上
の記述において、読者は、ゲーム論的分析、とくにナッシュ均衡概念の「切れ味のよさ」
について堪能していただけたと思う。しかし、このようなゲーム論的・ナッシュ均衡的分
析には、非常に大きな問題点・危険性があるように思われるのである。ナッシュ均衡の利
用のこのようなこのような問題点・危険性は、現在ゲーム論を援用する論者の多くは無自
覚であるように思われる。すなわち、ナッシュ均衡の現実的な含意まで考慮することなく
、「ゲーム」を「定式化」し、それにおけるナッシュ均衡を見つけるなり、ナッシュ均衡
の存在条件をみつけるなりしてしまえば、「ことたり」としてしまう傾向があるように思
われるのである。
では、われわれの指摘したいナッシュ均衡利用の問題点・危険性とはなにか? 。
それは、【ナッシュ均衡概念による「説明」は、ある厳密性の高さからみれば、「論点先
取」である】ということである。
説明しよう。例の「四つ足のかわいいむくむくした動物」を「イヌ」と呼ぶ事例を想起し
てみよう。われわれの問題は、「ヨシオはべつに例の動物を『イヌ』と呼ぶ必然性がない
( すなわち恣意的である) のに、なぜヨシオはそれを『イヌ』と呼ぶのか」ということで
あった( !!←このような定式化でよいか!!) 。
それに対するわれわれの回答・説明は「( イヌ、イヌ) という組み合わせが『ナッシュ均
衡』であったからだ」というものだった。
しかし、そもそもなぜ、ナッシュ均衡であればプレイヤーは「選択肢」を変えないのか、
を問うてみることができる。
例の「暗黙の待ち合わせゲーム」にたちもどってみよう。
ヨシオは、( 一号車、一号車) という( ナッシュ均衡であるところの) 「現状」をまえに
して、なぜ「選択肢」をかえないのであったか。
ヨシオは「ヨウコが明朝どっちの車にのるかはわからない。しかし、僕たちは今朝、同じ
に車にのれてうれしかったのだから、ヨウコが車を変更する理由はとくにないだろう。と
すれば、ヨウコはあすも一号車にのるだろう。だとしたら、ぼくヨシオも一号車にのれば
、また今朝のように二人出会うことができる。したがって、明日も一号車にのろう」と考
えたのであった。( ★)
しかし、ここでのヨシオの推論における「ヨウコはあすも一号車にのるだろう」という点
をもっとよく考えてみよう。
なぜ「ヨウコはあすも一号車にのるだろう」ということが推測できるのか?。いうまでも
くヨウコがこのように意思決定するためには、「ヨシオが明日も一号車にのるだろう」と
いうことをヨウコが推測していることが「前提」( 必要条件) である。( ヨウコは、ヨシ
オと「同じ車」にのるために、明日も一号車にのるのであろうから) 。
しかし、いうまでもなく、「ヨシオが明日も一号車にのる」ということはなんら保証がな
い。ヨシオは毎日どの車にのるかの「自由」を保持しているのであった。
ということは、「ヨシオが明日も一号車にのる」ということは、上述のヨシオの推論★に
よってはじめて、ヨシオが意思決定するのであった。
すなわち、「ヨシオはなぜ明日も一号車にのるのか」を上述のナッシュ均衡論的「説明」
は、「説明」くれているようにみえるけれども、じつはその「説明すべき『ヨシオは明日
も一号車にのる』という事態」を、説明の際の「前提」にしているのである。
すなわち、説明されるべき事柄( 被説明項) を説明するさいに、説明につかう材料( 説明
項) のうちにその被説明項があらかじめ隠し込まれていた、のである。
すなわち、典型的な「論点先取」がここでは生じていたのである。

【ゲーム論的説明への「効能書き」と「注意書き」】このような「論点先取」性は、ナッ
シュ均衡論的説明の多くのに「付き物」であるように思われる。しかし、このような「危
険性」に自覚的である者も多くはない。そして、似たようなことは、社会科学・人文科学
における「数学的方法」の多くにおいて起こっているとはいえないだろうか。数理的モデ
ルはあくまで、数学的な論理的な構築物である。それは途中の推論が形式論のルールに準
拠しているかぎり「正しい」。しかし、それを社会科学・人文科学の「ツール」とするさ
いには、その数理的モデルを「解釈」する必要がある。この「解釈」の「妥当/ 非妥当」
に関しては、数学的推論はなんら責任をもたない。
しかし、「数学が苦手な」社会科学者や人文科学者は( あるいは社会科学的・人文科学的
考察に不慣れな「数学屋」も?!) 、この「解釈」の点で「勇み足」をしてしまう可能性が
ある。数理モデルにおける数学的推論さえが正しければ、それを「解釈」することによっ
て得られた社会科学的・人文科学的「含意」さえも同様な「正しさ」をもっているように
思って( 思われて) しまうことがありがちではないか。
「統計をつかってウソをつく」ことが可能であるのと同様に、「ゲーム論をつかってウソ
をつく」危険性が存在するのである。
しかし、であればこそ、われわれはゲーム論に慣れ、そしてゲーム論を人文科学に応用す
るさいの「危険性」を熟知して、「ゲーム論でウソをつく( ウソをつかれる) 」ことのな
いように心掛けたいものである。

【文献】
Ferdinand de Saussure 1908-1909 COURS DE LINGUISTIQUE GENERALE INTRODUCTION (d'a
pres des notes d'etudiants) =フェルディナン・ド・ソシュール  前田英樹  訳・注 1
991 『ソシュール講義録注解』法政大学出版局
丸山圭三郎  編 1985 『ソシュール小事典』大修館書店
丸山圭三郎1981『ソシュールの思想』岩波書店
丸山圭三郎 1983 『ソシュールを読む』岩波書店
Jonathan Culler 1976 SAUSSURE =J.カラー  川本茂雄  訳  1978『ソシュール』岩波書

E.F.K.Koerner 1973  Ferdinand de Saussure =E.F.K.ケルナー  山中桂一  訳 1982 『
ソシュールの言語論』大修館書店
【謝辞】本稿は、95年夏学期鹿児島大学法文学部で行われた現代メディア文化論演習での
議論に多くを負っている。とくに外山恒一氏のコメントに触発された。参加者のみなさん
に感謝します。