美とはなにか、美人とは誰か( 第一稿980729)

―カント美学流用二問題・ミスコン三問題・文化的希少性の理論―

         桜井芳生(著作権保持)

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【要約】文化的希少性の理論の一各論として「美」にかんする理論を構想する。美にかんする探求をするにあたって、「美人」の問題を糸口とする。まず、美人が、われわれのいう文化的に希少なるものの一例になることを確認する。つぎに美人(美人コンテスト)をめぐって、三つの問題が存在することを指摘する。まずは、この三問題に回答をあたえることを第一の目標とする。「携帯決断機」「流動性選好」などを参考にして、「選好の自己明証性不安」と「選択回避性向」などの仮説を提起する。これらの仮説にもとづいて、ミスコンの三つの問題への回答が提起される。後半において、この前半の議論をふまえて、美にかんする一般的な視点が提起される。おもにカント美学における二つの主張にたいする代替案として、われわれの見解が述べられる。最後に「美とはなにか」という問題に関して、必要性も十分性も満たさないが「いい塩梅のモデル」であるとわれわれが考える命題が提起される。すなわち、美とは、無関心性と、ある程度の普遍性(他者による承認性の普遍性)があるかのように見せかけることによって、選好の自己明証性不安と選択回避性向を慰撫する、ようなコト・モノである、と。

 

第一章  研究プログラム内での位置づけ

 

【文化的希少性の理論】

 わたしは、文化的稀少性の理論という一連の研究プログラムを構想し、そのもとで、いくつかの試論を発表してきた(文末の「文献」表を参照されたい)。本稿も、その文化的希少性の理論の一環である。人は、社会で生きている際に、さまざまなコト・モノをめぐって、その「望ましさ」に準拠して振る舞っている場合が多いだろう。そして、この望ましきコト・モノは、必ずしも任意のヒトにとって、享受できるとは限らないコト・モノが多いだろう。このようなコト・モノを「望まれるけれども、享受できるとはかぎらない」という意味で、「希少的なるコト・モノ」と呼ぶことができるだろう。(ここで、注意すべきことは、この「希少」性概念は、おもに近代経済学における希少性概念の用法をふまえたものだ、ということである。人々の欲求に比して相対的に不足するならば、それをすでに「希少」と呼ぶ。経済学の常識にない方は、「希少」というと、「ダイヤモンドのように、ごくわずかしかなくて貴重なこと」、と間違ってイメージすることが多いので注意してほしい。イスが1000脚あったとしても、イスに座りたい人が1001人いたとしたら、「望ましいけれども、享受できるとは限りない」という本稿の定義によって、すでに、イスは「希少」である)。

人間にとってのこのような希少性は、まず第一は、人間といわば自然環境との関係において起因するものが多いといえるだろう。すなわち、人間全体があるコト・モノにたいして感じる望ましさ・希求の度合いに対して、自然環境がそれの十全な享受を許容しない場合が多いだろう。いわゆる食料問題・エネルギー問題・資源問題・廃棄物問題などは、大略このような事情の一例と言えるだろう。このような希少性をとりあえず自然的希少性(人間の対自然関係における希少性)と呼んでおこう。

これに対して、かならずしも、このような自然的希少性に還元できないような希少性というコト・モノが、人間の社会にはつきものではないだろうか?。それはたとえば「正しさ」であり「強さ」であり「美しさ」である。このように、上述のような意味で「希少」であるけれども、必ずしも上述のような「自然的希少性」に還元できないような希少性、これを「文化的希少性」と呼んでみよう。わたしの、文化的希少性の理論とは、このような「文化的に希少なるコト・モノ」が社会においていかにして、発生・存続・再生産・消滅・変動・変化しうるのかについて、モデル的に探求する試みである。

 「正しさ」と「強さ」に関しては、すでに試論を提起してある。ここでは残りの「美しさ」についてアタックしてみたい。

 

【美に対する本質探求ではない】

 ここでわたしが「美とはなにか」という表題をおくのは、ある意味で誤解を招きやすい。「○○とはなにか」という表題は、○○にかんする「本質規定問題」を提起しているようにみえるからだ。そして、このような「○○とはなにか」という表題のもとで何らかの案を提示したとしても、「おまえの案には、××という反例があるではないか」という反駁を喚起しやすいからだ。ウィトゲンシュタインの「家族的類似」の議論をひくまでもなく、(たとえば「美」といった)ある一つの語で名指されているものが、何らかの共通属性をもっているという保証はない。「美」という言葉に名指されているからと言って、そこに「美」の本質が存在するという保証はないのである。われわれがめざすのは、このような「美」の本質探求ではない。わたしは、文頭にいくつか「美」にかんする疑問を提示し、その疑問(問題)に対する回答となりうる(とおもわれる)案を提示する。わたしの案の達成度は、この問題に対する回答としてどれほど妥当であるかによってはかられるべきだろう。その結果としてあくまで結果的にわたしの回答案が、美とはなにかという視点になにほどかの貢献をなすことがあれば、と夢見ているのだ。したがって、わたしの「美」についての把握に関して、「それが成り立たない、反例」「そうでない、『美』の用法」を提示されても、あまり生産的ではないだろう。

 

第二章  問題の提起

 

【カント美学流用による二問題】

 美を考えるうえで、カントの美学をヒントにしてみよう。わたしは哲学の専門家でないので、カント思想についての本格的理解については、まったく自信がない。が、おそらく、カントの思想は、われわれの、少なくともわれわれ「近代人」の、世界観をかなり極限まで突き詰めるとどうなるかということの一つの典型といえるのではないだろうか。もしそうだとすると、われわれが何らかのことがらを探求する上で、カントの思想を機縁とすることは、ある程度の生産性を期待させてくれるのではないだろうか。もちろん、この生産性は、本稿を読み終わった読者に最終的に判断していただくしかない。

 わたしはカントの美学をヒントとさせてもらう。が、いうまでないが、あくまで、自分の(社会学的)探求上のヒントにさせてもらうだけである。したがって、本稿でのカントの援用が、彼カント自身の問題意識をまったくふれあわないかもしれないし、カント解釈としてまったく誤りであるかもしれない。しかし、このことは、本稿の議論の正しさ・生産性に何ら影響しないだろう。本稿の達成度に関しては、カントの真意や、本稿がカント解釈として妥当であるかは、独立なことであろう。

 わたしが、問題としたいのは、カントの『判断力批判』第一部美学的判断力の批判第一篇美学的判断力の分析論第一章美の分析の、いわば、第一命題「趣味とは、ある対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の利害関心Interesse にかかわりなく満足Wohlgefallenあるいは不満足によって判定する能力である。そして、かかる満足の対象がすなわち、美と名付けられるのである。」(Kant1790:16=1963。本書については主に篠田訳による。が、訳語は必ずしも訳本とおりではない。ページ数は岩波文庫版訳本において上欄に記入されている原頁数による)と、第四命題「趣味判断において考えられる必然性は普遍的同意の必然性である。これは一種の主観的必然性であるがしかし共通感という前提のもとでは客観的必然性と見なされる」(Kant1790:66=1963)である。

 カントのいうこの「無関心性」は、美しいものを所有したりそれから利益を獲得しようとすることとは無関係であること、別言すれば、「利害関心を離れている」ということをまずは意味する、と説明される。(有福孝岳ほか1997『カント事典』:81-82)

 しかし、少し立ち止まって考えると、このカントの利害関心Interesse は、問題のある概念であるようにみえてこないだろうか。端的に言ってここには、「モノと情報(質料と形相?)」との二分法が暗黙の前提になっているのではないか。そして、人が享受する対象は「モノ」であり、そのモノの享受こそが「利害関心」であるという暗黙の前提があるのではないか。

 モノには、代価を支払うけれども、情報には、代償を支払いたくない。あるいは、ハードウエアは有料でもいいが、ソフトは無料であってほしい(情報はタダである)、といった現在においてもなかなか払拭できない常識に平行する前提があるのではないか。

 多くの商品が「モノ」であった「産業資本主義」の時代には、このカントの「関心性/無関心性」は人々の直観にフィットしただろう。簡単にいって、モノの獲得にかんすることが、関心Interesseであり、そうでない、情報のみの獲得は、無・関心的なことにみえただろう。

 カントの定義によれば、彼の言う関心Interesseとは「われわれが、対象の実在に結びつけるところの満足は、関心Interesseと呼ばれる」(Kant1790:5=1963)ものである。

 カントはこの第一命題を説明しているところで、「目前にある宮殿を美しいと思うか」という問題を例示している(Kant1790:6=1963)。そして「この対象を美であると言い、また私が趣味をそなえていることを証明するための要件は、私が自分自身のうちにあるこの【表象】(強調桜井)から自分で作り出すところのものであって、この対象の実在をよりどころにすることではない」(Kant1790:6=1963)という。

 ここにおいては、実在(ニアイコール・モノ)と、表象(ニアイコール・情報)とが、二分法的に区別され、後者の流通は、利害関心Interesseとはかかわらない、と想定されているようにみえる。

 しかし、情報資本主義?時代のわれわれには、このような想定は、直感的な説得力がない。われわれにとっては、表象(ニアイコール・情報)であろうと、無償ではない。その流通獲得に関しては、われわれは利害関心Interesseをもたない、とは言えないだろう。

 以上みてみると、カントの「美の無関心性」はわれわれの直観によく共鳴させる利点があるが、無「関心」性概念はすこしかんがえると概念としての峻別能力の高い概念であるとは言い難いのではないか。

 以上をふまえて、美にかんするわれわれの第一問題を定式化してみよう。

 

すなわち、(カント以外の仕方で、)美の無関心性を理解することはできないか?。

 

【美的判断の主観性と普遍性】

 私がカント美学から、示唆される第二の問題は、美的判断は主観的なのか、普遍的なのか、という問題である。ある意味では、カント美学は、この問題に苦慮しており、カントの美の分析論の半分以上(趣味判断の第二様式と、第四様式。さらには、第三様式にも波及しているといえる)はこの問題の処理に当てられているといいうるだろう。

 周知のように、この問題に関して、カントは、「趣味判断は認識判断ではない、したがってまた論理的判断ではなくて美学的判断である。なおここで、美学的判断というのは、判断の規定根拠が主観的でしかあり得ないということである。」(Kant1790:4=1963)とのべ、美的判断(趣味的判断)は、認識判断や論理的判断のような意味で客観的判断ではないこと、を述べている。さりとて、まったく主観的な判断にとどまるものでもないことを主張し、「いやしくも彼がなにかあるものを美であると主張しようとするならば、彼は他の人達にも彼とまったく同じ適意を要求することになる」(Kant1790:19=1963)「美は、概念にかかわりなく、普遍的に快いものである」(Kant1790:33=1963)(この「普遍的」を訳者の篠田英雄は「すべての人に」と説明している。Kant1790:=1963:100)と述べている。では、美的判断のこのような一見したところの、主観的性格と、普遍的性格の両面性をどう理解すればいいのだろうか。周知のようにカントは、ここで「共通感」なるものをもちだす。いわば、われわれの美的判断が以上のように主観性と普遍性を併せ持つならば、そこには、一種の「共通感」といったものが「前提」とされざるを得ない、というわけであろう。しかし、このような「共通感」のようなものを持ち出してもほとんど難点の先送りに等しいのではないか。カントは、この共通感にかんしても「確かに、単なる主観的原理にすぎないが、しかし主観的―普遍的原理(すべての人にとって必然的な理念)と見なされるのである」(Kant1790:68=1963)といっている。そしてまた、この共通感の提示はカントの体系のなかではかなり唐突に提示され位置価がはっきりしない。じじつ、この共通感が、「経験を可能ならしめる構成的原理として実際に存在するのか」「それとも理性のいっそうの高い原理が、いっそう高い目的のためにまず共通感なるものを我々のうちにしょうぜしめて、これを統整的原理に仕立てるのか」「それとも、かかる能力から獲得されるような人為的能力の単なる理念にすぎないのか」については、カント自身「ここではまだ、究明するつもりはないし、また究明できるものではない」(Kant1790:68=1963)と、述べている。

 私は、まず、美的判断においてある種の主観性と普遍性の両側面が現れているというカントの洞察を評価し同意したい。しかし、この両側面の現れを、カントのようにあまり真に受けることは必要ないのではないか、と考える。カントは、この両側面をあまりに真に受けてしまったがゆえに、ほとんど両立困難な二側面を両立させようとして、「単なる主観的原理にすぎないが、しかし主観的―普遍的原理(すべての人にとって必然的な理念)と見なされる」ような共通感といったかなり無理のある概念を想定せざるを得なくなってしまったのではないだろうか。

 以上をふまえて、美にかんするわれわれの第二問題を定式化してみよう。すなわち、

 

美的判断の、主観性と普遍性の両側面をいかにして整合的に理解するか?。

 

【糸口としての、美人問題】

 美(美しさ)の問題を探求するにあたって、さらに何らかの手がかりがほしい。そこでここでは、美をめぐってさらに三つほどの疑問(問題)を提起し、その問題に対する回答になるようなものとして、美に対する見解を提起してみたい。

 この三つの問題は、非常に卑近なモノコトをめぐる問題である。われわれ人類のおよそ半分の男性の多くにとって、もっとも重要な「美しいモノ」の一つは「美人」(美女)であろう。すなわち、美人にかんする問題をてがかりにしてみたい。

 美人に関しては、昨今「美人論」が何人かの研究者によって展開されている。が、そのほとんどは、「社会史」的研究であって、非常に興味深い「事実認識」を提起しているが、人間社会にとって美人とはいかなるものなのかについての一般的洞察にまではいたっていないようだ。

 また、美人に関しては、フェミニズムの論圏で、美人コンテスト、いわゆる「ミス・コン」の問題が論議されている(厳密には、「美人コンテスト」と「ミス・コンテスト」とは完全に同一の概念ではないだろう。が、本稿の議論においては、両者の差異が行論に影響を与えることはなさそうである。よって、本稿では、「美人コンテスト」と「ミスコン」とを同義としてつかう)。

 

【ミスコン第一問題=ミスコン機能性問題】

 わたしは、美をめぐるの問題の残り三つをこの美人コンテストをめぐって提起してみたい。美人コンテストをめぐる第一の問題は、美人コンテストを論じているフェミニストのほとんどにとって問題とされていないようである。わたしが問題としたい第一の点とは、「美人コンテストは、男たちにとって、どのような機能があるのか」という問題である。いわば、そもそもなぜ男たちはミスコンのようなものをするのか、という問題だ。

 この問題に関しての最も平凡でおそらく最強の回答は、「美人をみてみたいから」というものであろう。もちろん、この回答案が、この問題にかんする回答としてまったくまとはずれであるとは考えにくい。しかし、また、この回答案のみで、この「ミスコンは男たちによって、どのように機能があるのか」という問いに十全に回答したとは思えない。

 なぜなら、ミスコンの大きな特色は、厳正な審査で、一人ないし2〜3人のミス(準ミス)を選出することにある。もし、男たちの美人にかんする好みが一致しているものだとすると、じつは「厳正な審査」はいらない。ある一人の男が第一の美人を選んできて、それを男全員が鑑賞すればいいのである。もし、そうでなく男たちの美人にかんする好みが一致していないのだとすると、最終審査で、ミスを一人選ぶのは、無駄な手間である。予選を勝ち抜いたほどほどの美人たちの中から、各人(男)は、自分好みの美女を鑑賞すればそれで足りる。

 このように「ミスコン」は、男たちの「美人をみてみたい」という欲求の充足という機能をもちろん果たしてはいるだろうが、それより以上の仕掛けをもっているイベントであると思われる。この点を説明しないと、第一の問題「美人コンテストは、男たちにとって、どのような機能があるのか」という問題は、解かれたことにならないだろう。

 

この問題を、「美人コンテストの第一問題」=「ミスコンの機能性問題」と呼ぼう。

 

【ミスコン第二問題=ミスコン小馬鹿問題】

 ミスコンを批判する、あるいは批判までいかなくてもミスコンを嫌悪するフェミニスト(シンパ)は少なくない。が、女のミスコン批判あるいは、ミスコン嫌悪の言葉をきいても、たんなる違和感しか感じない男はおおいのではないだろうか?。この違和感とはあえて言語化してみれば、「なんで、ミスコンなんて、些末な問題に、アツくなっているんだ。もっとダイジなモンダイがあるだろうに。」とでもいったものだろう。わたしは、社会学者としては、必ずしもミスコンは些末な問題であるとは思わない。しかし、このように感じる「オトコ当事者たち」の感覚もよくわかる。社会を生きる当事者としてのオトコとしては、じつはミスコンなんかは、あまり「本気」にしていないのである。ミスコン自体、男たちの何らかの欲求にもとづいて存続しているのだろうが、じつはその男自身がミスコンをどこか「バカにして」いるところがあるのである。これが、ミスコン問題にアツくなる女の一部と、男の多くの部分とを乖離させてしまうのだろう。このような、ミスコンが男自身にとっても、小馬鹿にされてしまうのはなぜか、という問題を第二の問題視点にしてみたい。すなわち、

 

「美人コンテストの第二問題」=「ミスコン小馬鹿問題」である。

 

【ミスコン第三問題=タイトル挑戦方式回避問題】

 私がミスコンに対して持つ第三の疑問とはこうだ。ミスコンで勝利した者は、「ミス○○」と呼ばれて、王冠やガウンや杖?を受け取る。これをみると、ミスコンというのは、一種のタイトル戦であるようにみえる。しかし、他の将棋や囲碁やボクシングのタイトル戦と比べると、大いにちがいがあることがわかる。つまり、「タイトルマッチが、ない」のである。もし、ミス○○が、真に一番の美人を意味しているのだとしたら、彼女以外に、「最美」である可能性の高い前年度の「ミス」と、なぜ、「決定戦」をおこなわないのだろうか。もちろん、前年度のミスも、本選に参加し、前年度ミスをも含めた母集合から今年度のミスが選ばれるのなら、このような疑問は、生じない。しかし、いうまでもなく、ほとんどのミスコンでは、前年度ミスは、今年度の本選には参加しない。参加しないどころか、「別格」で、新ミスがきまると自ら王冠とガウンのプレゼンターになったりする。なぜ、ミスコンの多くは、他のタイトル戦の多くのように、「タイトル挑戦方式」をとらないのだろうか。

 この疑問には、当然、「美人の容姿は衰えるから」という回答があるだろう。しかし、容姿が衰えるのがたとえ事実だとしても、それはあくまで「結果」であろう。去年のミスと、その去年のミスにうち勝っていない今年のミスとが、どちらがヨリ美しいかは先験的にはなにもいえない。容姿の衰えにうち勝って(容姿の衰えを割り引いてもなお)去年のミスのほうが、今年のミスよりも美しいかもしれないではないか。このように、この疑問は、依然として疑問である。

 定式化しよう。すなわち、

 

「美人コンテストの第三問題」=「なぜ、ミスコンの多くは、タイトル挑戦方式を回避するのだろうか。」

 

第三章  一つの主仮説と二つの副仮説の提起

 

【携帯決断機】

 携帯決断機とでも言うべきものが、最近販売されているそうだ。「ハンケツ錠」という商品である。携帯用の薬を模した外見で、スイッチを一振りすると、中に入ったカプセル錠が○か×かを表示し、持ち主に替わって「判決」を下してくれるという(武田徹「若者キーワード 携帯決断機」『日本経済新聞1998年2月14日』)。

 これはたんなるおもちゃのようにみえる。しかし、選好概念(効用概念をよりゆるめた概念)を多用する最近の社会科学のフレームワークにじつは大きな反省をせまるのではないだろうか。

 なぜなら、このおもちゃは、ひとは自分の選好(好み)・選択にあまり自信をもっていない、あるいは、ひとはできるならば、自分の選択を回避したい、ということを強く示唆しているようにみえるからだ。

 以下、私はこのことを仮説として想定して議論をしてみたい。すなわち、第一に、ひとは自分の選好が実は自分自身によくわかっていないという仮説である。これを、選好の自己不明証性の仮説と呼ぼう。これを本稿における「主仮説」とする。そして、この主仮説のいわば「系」として以下の二つの副仮説をおこう。すなわち、選好の自己不明証性にもかかわらず、人は何らかの選択をしてしまわなければならない場合が多いだろう。そこでは、はたして私の好みは本当にこれであったのか、という不安が生じることがありそうなことだろう。これを、選好の自己明証性の「不安」と呼び、第一副仮説としよう。また、選好の自己不明証性のもとでは、人はできるならば、選択を回避したいとするだろう。これを「選好の回避性向」と呼び、第二の副仮説としよう。

 

【妻に指摘される自分の好物】(選好の自己不明証性の事例)

 貴男は、結婚していたとしよう。だとすると、「自分の気がつかなかった好物を、配偶者に指摘された」という経験がある人はおおいのではないだろうか。もし、あなたの奥さんがあなたも食べる夕食をつくるのだとしたら、そして、あなたの奥さんが、あなたが喜ぶことを望んでいたとしたら、あなたが好む夕食をつくることは、奥さんにとって死活問題(大げさ?)だろう。しかし、出された夕食を黙って食べる貴男にとっては、夕食のおかずは、大した問題ではないかもしれない。とすると、貴男の食べ物の好みを、貴男自身以上に、奥さんが意識し、夕食を設計することがあり得るだろう。で、ときに、その奥さんの意識が言語化され、貴男は「自分でも意外な、自分の好み」を他者(奥さん)から指摘されることがあったのではないか。

 このことは、人は意外に自分の好みを自覚していない事例(すなわち本稿の主仮説の傍証)として、解釈することができるのではないか。

 

【「アイスクリーム選択の迷い」「美人選択の迷い」】(選好の自己不明証性の事例)

 あなたはいまハーゲンダッツアイスクリームの店にいるとしよう。目の前の二十ほどのアイスクリームの選択肢を前にして、悩むことがおおいのではないだろうか。もちろん、そもそもどのような選択肢があるかの情報取得のために時間がかかることもあるだろう。しかし、その店によくきて、どんなアイスクリームがあるかすでに知っている場合でも、どれを選ぶか迷う場合は多いだろう。(以下の議論は、「誰もが常に迷う」ことが、成立していないくてもよい)。このように、人は自分の選択が自由に許容されている場合でも、自分の選好を直裁に自覚することができにくい場合が多いのではないだろうか。

 このアイスクリームの事例は、選択してから享受(味わう)ので、選択における逡巡は時間的に後行する享受を予期する作業である、という反論があり得る。

 では、複数の美人の写真から、貴男が最も美人だとおもう一枚を選ぶという場面ではどうだろうか。この場合、ある美人を選んだからといって、その後にその美人とデートできる等といった「時間的に後行する享受」が用意されていないとする。この場合でも、かなりの人がアイスクリームの選択に迷うように、美人の選択に迷うのではないだろうか。いうまでもなく、この場合には、いま述べた反論(時間的に後行する享受を予期する作業があるから「迷う」のだ)はなりたたない。

 このように考えると、人はかなりの場面で、自分の選好を直截に自覚することに困難を覚えることがありそうなことと言えるだろう。

 

【犬は、悩まなくてうらやましい?】(選好の自己明証へのあこがれ?)

 犬を飼っている人、飼えなくても犬の好きな人はすくないないだろう。(犬がきらいは人は、以下の事例の「犬」の部分を「幼児」と読み替えてかんがてみてください)。

犬の魅力はいろいろの源泉があるだろう。が、その一つに犬は好みがハッキリしている(ようにみえる)、ということがあげられるのではないだろうか。そして、「そのハッキリした好み」の対象として、あなた(自分)を好いてくれるということがあるのではないだろうか。

 これは、対人関係と比較してみると感じやすいだろう。あなたがある別の人と好きあっている(ようである)としよう。しかし、あなたは、彼(女)のあなたへの好意を完全に信頼できるだろうか?。もちろん、この「彼(女)のあなたへの好意」への不安は、彼(女)の頭のなかをのぞくことができないことにも由来しているかもしれない。しかし頭のなかをのぞくことができないのは、「犬」が相手でも同じである。犬と比較すると、彼(女)を一例とする人間は、かなり好みがハッキリしない動物であるといえないか。

 あるいは、もっと直截に「彼(女)を好いている自分」のことを反省してみてもよい。あなた(自分)は、ほんとうに彼(女)を好いていると自信を持って断言できるだろうか。結婚式の宣誓においてわずかなりとも逡巡してしまったのは、このわたし(桜井)だけであろうか。(そもそも、(人間と)人間との関わりにおいては愛の確認儀礼が多い。それに対して(人間と)犬との関わりにおいては、愛の確認儀礼はあまり存在しない。この事例はここでの議論の傍証となりそうな気がする)。

 犬とつきあっている際に、一瞬であっても、「犬はしあわせそうだなぁ」と(たとえ前意識的であっても)感じたことのある人はすくなくないのではないか。「犬は、あんまり悩んでいないようだなあ」とあこがれ(?)たことはないか。「僕(人間)も、この犬のように、これほど好みがはっきりしていたら、どんなに気持ちいいだろう」とおもうことはないだろうか。

 このように、犬を反照体(比較の対象)としてみると、われわれ人間は、自分にたいしても自分の好みがあまりはっきりしない者であるといえるのではないだろうか。しかも、その自分の好みがはっきりしないことを、何らかの程度気に病んでいる(不安に感じている)といえそうではなかろうか。

(いうまでないが、犬が「実際に」、悩んでいるかいないかとか、好みがはっきりしているかどうかとかは、ここでの議論には、まったく影響しない)。

 

【流動性選好】(選択回避性向の事例)

 流動性選好という概念をごぞんじだろうか。流動性選好とは、ケインズ経済学における鍵概念であり、流動性とは、端的にいって、お金しかも現金のことである。ご存じの通り、現金はただもっていても、利息をうまない。どうせ持っているなら、債券にしておいた方が得だ。そもそも、債券であろうが、お金(資産)というものは、持っているだけでは、意味がない。それでなにかを購入し、消費することによってしか効用は生まれない(と、正統派の経済学ならかんがえるだろう)。しかしケインズの経済理論によると、人は、やがて使うためとして考えられる以上に、流動性を選好する。つまり、モノをかうよりも、お金をお金のままで持っていること、さらにいえばできるだけ現金に近い形で持っていることを選好(好む)するのである。この結果、有効需要の不足が生じてしまい、不況がうまれてしまう。現実の経済における有効需要の不足に鑑みると、このケインズの流動性選好説はかなりあたっているように思われる。

 だとしたら、人はなぜ、そのままではなんの効用にもならず利息も生まない現金を選好するのだろうか?。これについては、いろいろな説明が可能だろう。が、その一つとして、わたしがここで仮説した「選択回避性向」も効いているのではないだろうか。モノを買うという「選択」を回避しつつ、その選択権をいわば先延ばしすることを、現金(貨幣)は可能にする。しかももしその現金を債券などの非流動的な資産にしてしまうと、価値変動や換金の困難性(定期債券の換金の困難性)等から、この選択権の自由の手を縛ってしまうことになる。こうして、それ自体効用を生むモノでもなく利息を生む債券でもない現金が、選好されてしまうのであろう。この流動性(現金)選好が、金額で現れたモノが流動性プレミアムである。流動性プレミアムとは、選択回避性向を満たすいわば「代償」のようなものであるといえないか。

 

【締め切りぎりぎり現象】(選択回避の事例)

 誰でも経験していることであろうが、仕事というものは、おおむね、「締め切りぎりぎりになってバタバタとやって」やっとできあがるものだろう。しかし、これは考えてみると、非合理的な振る舞いである場合が多いようにみえる。各段階の作業をそれぞれにふさわしい時間をかけて終えた方が、ラクだし、仕事のデキもいいだろう。しかし、多くの人は多くの場合締め切りぎりぎりにならないと仕事ができあがらない。

 このことは、上述の「選択回避性向」を仮定しないと、理解しがたいのではないか?。

 

【諸仮説の「状況証拠」】

 以上、わたしが提起したい仮説についての「状況証拠」をいろいろとあげてみた。もし、状況証拠でなくて決定的証拠があるなら、わたしはこれらをもはや、「仮説」とはよばない。

 

 

第四章  回答の提起

 

【ミスコン第一問題への回答】

 では、以上の「選好の自己不明証性」「選好の自己明証性不安」「選択回避性向」の仮説によって、ミスコンの三つの問題へのわれわれなりの回答を提示してみよう。

 ミスコンの第一問題とは、そもそもミスコンの機能とはなんであるかという問題であった。この問題に関しては、当然「美人をみてみたいから」という回答があり得、それはそれで、誤りではなかろう、とわたしは述べた。が、のべたとおり、この回答だけで、ミスコンの機能を十分に説明できるかというと、不満であった。

 われわれの視点からの、ミスコンの機能、それは、第一に、例の「選好の自己不明証性による不安」を慰撫する(慰める)ことにある、と思われる。

 われわれの仮説が正しければ、人(おもに男)は、どのような女こそが、美人であるかの判断にかんして、不安を抱くことがありそうなことになるだろう。それに対して美人コンテストは、この女こそが美人なのだ、という判断を下してくれる。こうして美人コンテストは、自分(男)の女の好みに対する不明証性にかんする不安を慰撫するのである。

 

【自動感想機としての久米宏?】

 小田嶋隆は、ニュースステーションの久米宏を批判して、こう言う。

「「庶民」という実体不明な人々が抱いている漠たる感情を五秒以内のコメントに集約する能力において、彼(久米)の右にでる者はいない。」(小田嶋1998:49)

「私ども世紀末のテレビ視聴者は、(中略)最終的には、感想までブラウン管の向こう側に人々に委ねてしまっているわけなのだ。」

「ヤラセ客よろしく、「ここは、怒るべきニュースですよ」「さあ、驚きましょう。次は、すごい事件ですよ」と、手取り足取りで反応の仕方を教えてもらわないと、驚いたり怒ったりすることさえできないのだ。」と、いう。

 いわば、小田嶋的視点からいえば、久米宏は、自動感想機のようなものだと言えるだろう。いわばわれわれテレビ視聴者は、自分で感想を感じることすらできなくなってしまい、久米宏に感想をいってもらうことによって、はじめて「そうだ、そうだ。私もそう【感じて】(「考えて」ではない!)いたのだ」と、思うことができるというわけだろう。

 この小田嶋のいう久米批判が事実としてあたっているかはここでは問わない(私はかなりあたっているとは思うが)。

 いわば、美人コンテストは、ある側面において、このような自動感想機としての久米宏ような機能をはたしているのではないだろうか。われわれは、自分がどのような女が望ましいと「感じる」かについて自信がない。その不安に対して、まさにこの女こそが望ましいのだ、と「いってもらう」仕掛けとして(も)美人コンテストは機能しているのではないだろうか。

 

【「私の選好するのは、あの美人(ミス)ではなくて、この女である」という反論】

 このような議論には、すぐさま以下のような反論があり得るだろう。すなわち、

 「私の選好するのは、あの美人(ミス)ではなくて、この女である。したがって、あの美人(ミス)は、何ら、私の選好の自己不明証不安にかかわるものではない」というありうべき反論である。

 では、「あの美人(ミス)ではなくて、この女(非・ミス)を選好した」という貴男に直裁に問おう。もし「諸般の事情」の制約条件がまったくなく、「あの美人(ミス)」と「この女(貴男が現実に選好した、非ミス)」とを、まったく貴男の「任意」で選択できたとしたら、貴男は「どっち」を選好するだろうか?。

 

【容姿交換実験】

 あるいはさらにこのような思考実験をしてみてもおもしろいだろう。貴男がいま現実に選好している女の、「容姿」をのぞくすべての属性は、そのままであるとする。しかし、彼女の容姿のみが、例のミスの容姿と取り替えられたとする。こうしてできた「容姿は例のミス、その他の属性は現実の貴男の彼女と同じ」という仮想上の女と、「すべての属性が現実の貴男の彼女と同じ女」(つまりは現実のカノジョ)との、二つの選択肢をまったく他の諸般の事情が同じというもとで選択するとしよう。その場合、貴男は「どっち」を選択するだろうか?。

 

(「うちのカミサンが、鈴木保奈美だったらなあ」というテレビコマーシャルを想起する人も多いだろう)。

 

 こう問うたとしても、やはり「自分(男)は、ミス(あるいはミスの容姿をした彼女)ではなくて、この女を選好する」という頑固な人もいるだろう。が、もし、世に存在する男がすべてこのような頑固者であったとしたら、ミスコンがこれほどまでの男の「気を引く」ということはかんがえにくいのではなかろうか。すなわち、多くの男は「あの女(ミス、あるいは、ミスの容姿を持つ彼女)」を選好してしまうと思われるのである。こうして、あの女(ミス)は、貴男の選好にかかわっていることになるといえそうなのである。

 

【ミスコン第一問題への回答、選択回避性向の慰撫】

 ミスコン第一問題への回答はまだつづく。われわれは、第二の副仮説として「選択回避性向」を想定した。美人コンテストとは、この美人を選ぶという選択を多くの男から肩代わりしてやる、という意味で、この選択回避性向の慰撫機能をもっているのではないか。たしかに、美人コンテストによって、美人は「選択」された。しかし、これは、「私の選択」によるのはない、というように。

 あるいはまた、以下のように。たしかに、私(男)は、ある女を選択した(選択して、配偶者にするなり、恋人にするなり、意中の人にするなり、した)。しかし、私が選択した「この女」は、美人コンテストで優勝した「あの女」では、(大部分男にとっては)、ない。したがって、私(男)の、この女にかんする選択は、その女が美人であるから(私男が面食いであるから)の選択ではなくて、別の理由による選択(「愛」による選択?!)なのである。と、いうように。このようにして、男の選択回避性向は慰撫されるのではないか。

 

【(第二問題)ミスコン小馬鹿問題への回答】

 この、選択回避性向の視点から、(第二問題)ミスコン小馬鹿問題も、解釈することができるのではないだろうか。すなわち、私(男)は、あのミスコンなんかは、「本気」にしていないのだ。だから、あのミスコンでおこなわれた美人の選択なぞといったものには私は「関わり」がないのだ。同様に、このミスコンによって象徴されているような社会全体による女の美人不美人の選別にも、私は責任がないのだ、というように。ここには、いうまでなく、一特殊事例による、全体への免責という論理的には誤りの推論が紛れ込んでいる。

 

【ミスコン第三問題への回答。不安と選択回避性向の、「吐き出し→切り捨て」機能】

 第三の問題(タイトル方式回避問題)を、われわれは、不安と選択回避性向の「吐き出し→切り捨て」機能として解釈してみたい。これは、カタルシス説に似ている。人(男)の多くはどの女こそが美人であるのか不安である。不安であるけれども、どんな女が美人であるのか、みてみたい。そのためには、どの女こそが美人であるかを選択しなければならない。しかし、選択にかかわる責任は回避したい。このような、相反する希求をごまかし的に満たすやり口の一つが、「実際にやってみるが、それを否定(ご破算に)する」ことではないだろうか。美人コンテストの多くは、各年度(ある瞬間)においてそれがおこなった、「美人の選択」を、一年単位でご破算にする仕掛けをあらかじめ内蔵しているようにみえる。これが、「ミス○○」が「タイトル戦のように挑戦を受ける」ことがなく、今年のミス○○が選ばれることによって、去年のミス○○が、自動的に否定される、というようになっていることの理由なのでないだろうか。美人をみてみたい、美人を選んでみたい、という希求性が、いわば、「吐き出され」そしてそれが「棄てられる」というメカニズムがここにはあるのではないだろうか。

 

【「美」なるコトの、「種差」はなにか?】

 以上私は、「選好の自己明証性不安」と「選択回避性向」とを仮説し、それでもって、ミスコンの三つの問題についての回答案を提起してみた。

 が、じつは、慧眼な読者はすでにきづかれているかもしれないが、この「選好の自己不明証性不安」と「選択回避性向」はなにも、「美」にかんすることに限定されるものではなさそうである。選好の自己明証性不安と選択回避性向という仮説自体がもしただしいのだとすると、それが、美にかんすることにとどまる、と考える理由はない。「選好」と「選択」にかかわることなら、すべからく、この仮説はあてはまることが予想できるだろう。もしそうでなかったら、この仮説はもっと「条件付き」のものに表現を変えるべきであろう。

 だとすると、二手にわかれるさらなる課題が開示されるだろう。すなわち、第一に、もし「選好の自己明証性不安」と「選択回避性向」の仮説がただしいのだとすると、「美」以外の領域で、この二つの仮説は、どのように「現象」しているのか?、と。

 第二に、「選好の自己明証性不安」と「選択回避性向」から現象する諸社会的事態のうちで、「美」の特性はなにか、(選好の自己明証性不安と選択回避性向から現象することという「類」のなかでの、「美」の「種差」はなにか、)という問題である。

 本稿は「美」にかんする探求を主要課題とするので、この第一の課題は宿題とし、第二の、「選好の自己明証性不安と選択回避性向に対して、美、の種差はなにか」を以下探求してみよう。

 

【美の「無関心性」にかんするわれわれの解釈】

 このような美の種差の問題を、当初に提示したカント美学流用による問題への回答を提示することを通じて探求してみよう。

 わたしがカント美学を流用して提起した第一の問題とは、美の無関心性の問題であった。この美の無関心性を、わたしは、例の二つの仮説を人間が慰撫する際の「自己弁証」(自分へのいいわけ)の一つのやり口として解釈する案を提案してみたい。

 つまりカントのいう美の「無関心性」とは、第一にこの、選好の自己明証性不安に対する「必要」による説明ができないものの、慰撫戦略であり、第二に、選択回避性向の慰撫戦略でもある(すなわち、その美の対象を、私は、好んではいるかもしれないが、享受の対象として「選択」はしていないから、というように)。と、わたしは考える。

 この第一の点から、もう少し説明してみよう。わたしの仮説がただしければ、ひとはなにかを選好する際にその自分の選好(好み)はじつはかならずしも自己に対して明証的ではない。しかし、そうでありながらも選好(選択)を迫られる場合が多いだろう。その際に、この選好の自己明証性にかんする不安を慰撫する手口として、「××だから、私はコレを、選好した(選んだ)のだ」と言いうると、好都合である場合がおおいだろう。いわば、「選好への自己弁証(自分へのいいわけ)」である。そして、この自分へのいいわけとして最も有力なものの一つが「必要だから・私の効用を満たすから、コレを選んだ」というものだろう。この「必要だから・私の効用を満たすから(ニード・ウォントの充足)」という自己弁証にほぼ対応しているのが、カントの言う「利害関心Interesse」であるとおもう。そして、この「必要だから・効用をみたすから」という自己弁証が使えない対象に関して、「美しいから」という自己弁証を使う場合が多いだろう。

 このように「美」とは、選好の自己不明証不安を慰撫する一つの手口なのだが、その慰撫手口の最有力である「必要だから・効用を満たすから」という自己弁証が使えない際の、いわば苦肉の策の自己弁証である、とわたしは考える。

 

(ちなみに、カント自身「必要が満たされたときに初めて、多くの人達のうちで誰が趣味をもっているのかどうかを弁別できる」(Kant1790:17=1963)という。すなわち、趣味(美的判断)とは、「必要」に依存しないものであるとかんがえられているのだろう。)

 

【グラマーは、美人ではない?】

このような「無関心性」のいわば結果として、グラマーは必ずしも「美人」とはみなされない、という現象が生じると思う。すなわち、ある明確なセックスアピールという「効用のせいで」ある者を美しいと感じるのは、すでに「無関心」的ではなくなっているがゆえに、「美」の感覚としては「不純」にみえるのだろう。

 

【好みはするが、選択はしていない】

さらに、このような「無関心性」と「選択回避性向」は、美しきものにおいては以下のように関連している、とわたしは考える。すなわち、人は、美しきものにかかわっている際には、たしかに、「好み」はする。しかし、それを「享受」しはしない、と。いわば、「選好」はするかもしれないが、「選択」はしていない、と。このように自分や他者たちに、いいわけしうることによって、美しきものにかかわっている際には「選択回避性向」はきわどく慰撫されうるのではないだろうか。この点の事情が、美の無関心性としてみえるのではないだろうか。

 

【仮説と、主観性・普遍性】

 つぎに、冒頭に提起したカント美学流用の第二問題についてかんがてみよう。この問題とは、美の主観性・普遍性の両側面をいかに整合的に理解するかという問題であった。

 私は、まず、美的判断においてある種の主観性との両側面が現れているというカントの洞察を評価し同意したい。しかし、この両側面の現れを、カントのようにあまりの「真に受ける」ことは必要ないのではないか、と考える。カントは、この両側面をあまりの真に受けてしまったがゆえに、ほとんど両立困難な二側面を両立させようとして、「単なる主観的原理にすぎないが、しかし主観的―普遍的原理(すべての人にとって必然的な理念)と見なされる」ような共通感といったかなり無理のある概念を想定せざるを得なくなってしまったのだと思う。

 しかし、美的判断における主観性と普遍性の両面性は、あまり真に受けるべきものなのではないではないか。上述のような仮説を想定すると、美なるものが、主観性と普遍性の両面性を持つものであるように現象するのは、理解しやすい。まず、美は、選好の自己非明証性への不安を慰撫するもの(のひとつ)であった。だとすると、美とされたものは、私の選好を結果的には満たしてくれているようにみえなくてはならない。そうでなくては、私の選好の自己非明証性の不安への慰撫にならない。こうであるために、美的判断はあくまで、「私の判断」であるように現象する必要があるわけだ。そうでありながらも、第二に、美は、選択回避性向をも慰撫するものであるとわたしはかんがえた。美がいかにして普遍性と関連して選択回避性向を慰撫するかというと、「誰もが、それを、選択する、だろうから、(私には、それを選択した責任はない)」というようにであろう。こうであるためには、美的判断は、私一人の判断ではなく、誰もがそう判断するはずの、普遍的判断であるように現象しなければならないわけである。

 このように、美的判断の「主観性」と「普遍性」は、くだんの二仮説に対する機能充足上のほとんど必要条件として現象する、といえそうなのである。もちろん、さらにここでまた、「だとしても、さらに、美的判断の主観性と普遍性の両立がなぜ可能か」と問うてみることもでき、その回答案として「美的判断にかんする、共通感があるからだ」と答えてみることもできる。しかし、いわゆる「悪趣味」の問題を考えてみると、この共通感答案は不満が生じる。

 

【悪趣味共同体】

 インターネットが文化にもたらしたインパクトの一つとして、いわば「悪趣味共同体」の叢生を指摘できるとおもう。

 あるマイナーな好みを持っている人たちが、インターネットを通じて地球規模で、相互承認しあい、一種の「趣味の共同体」を形成しつつある。

 われわれの多くは、その共同体の「外」におり、彼らと趣味を共有していないので、その共同体の趣味が「悪趣味」であるように感じる。また、その共同体の内部の人たちも自分たちがマイナーな存在であることを自覚しており、世間一般の趣味とは異なった趣味であることを自覚しているので、自分たちの趣味を「悪趣味」であると自称している場合も多い。

 しかし、ここで思考実験をしてみよう。もし、地球全体の人口が、このある一つの悪趣味共同体の成員だけだったとしたら、どうだろうか?。この彼ら(この場合は、われわれでもある)の趣味を、より広い地平から相対化する者たちが、いまやいないのであるから、彼ら(われわれ)は、彼ら(われわれ)の趣味(美的判断)こそが、(良い)趣味である、と思念することがありそうなことになるだろう。この思考実験はここで終わる。

 以上の思考実験を反照体(比較の対象)としてみよう。現在のわれわれ(地球全体の人類)が、美的判断においてある程度の判断の一致を示していたとしよう。とすると、カント的には、そこに共通感が前提される、というだろう。

 しかし、うえの思考実験を反照体(比較の対象)として考えてみると、たとえ、われわれが美的判断において判断の一致をしめしていたとしても、このわれわれの(良い趣味の?)共同体が、上述のような意味での「それ以外の成員が存在しないがゆえに、悪趣味共同体であることに気づいていない悪趣味共同体」でないという保証はない。

 われわれの美的判断が、あたかも共通感のもとづいているかのように、客観的一致を示していたとしても、別の判断能力ある存在(別の人、未来の人、宇宙人?、神?、人工知能?)を含んだより大きな地平である「共同体」からみれば「悪趣味共同体」と見なされてしまうかもしれないのである。

 だとかんがえれば、たとえ、現在の「われわれ」において美的判断のかなりの一致がみられたとしても、そこに(「だれも」がもつはずの)共通感を前提してしまうのは、根拠薄弱であると思う。

 

【美とはなにか。「美」に対する「いい塩梅のモデル」】

 以上の議論をふまえて、われわれなりの「美とはなにか」という問いへの回答案を提起してみよう。すなわち

 

 美とは、選好の自己不明証性不安と選択回避性向を持っている人間にたいして、無関心性と、ある程度の普遍性(他者による承認性)があるかのように見せかけることによって、選好の自己明証性不安と選択回避性向を慰撫する、ようなコト・モノである。

 

 本稿のこの定式(定義)は、「『よい加減』に『見切られた』モデル」ではないだろうか。すなわち、この定式に対する「反例」は容易に見いだせるだろうが、その反例をも包摂しようとするとモデルがどんどん複雑になってしまって収拾がつかなくなってしまう。そのような意味で、本稿の定式の程度の複雑性は、「よい加減」である(いわば「いい塩梅(あんばい)」)、といえるような、そんな定式ではないだろうか。

 

(補論)【探求手口の特殊性への弁明】

 いうまでもないことだが、美人コンテストということは、歴史特殊的である(どんな時代にも存在した、というものではない)。美人コンテストがいつ頃生起し、いまや、消滅しつつあるのではないか、ということについては井上(1997)が詳しい。美という一般的なことを探求するのに、美人という特殊な論件をてがかりにし、しかもそのさいに美人コンテストというさらに歴史特殊的なことを手がかりにするのは、探求の一般性・普遍性をそこなうのではないか、という疑義がありうるだろう。この疑義はもっともだ。しかし、このように、一般的なことを探求する機縁として、特殊的なことを糸口にするのは、社会学にとっては、かなり避けがたい、そしてかなり有効な手段であるとおもう。われわれは、われわれが分析対象とする社会のなかですでに生活してしまっているのである。たとえていえば、金魚鉢のなかにいて、自分のまわりに水があることに気がつかない金魚のようなものである、われわれは。われわれは、自分のまわりにある目に見えない「金魚鉢の水」をみえるようにするなんらかの策略を必要とする。その策略の一つとして有力なのが、「一見特殊なことに着目してみる」ことだろう。こうすることによって、いわゆる「異化効果」をしょうぜしめ、それによって「逆照射」することによって、いままでみえなかった「金魚鉢の水」をみることができるようになる(ことがあるかもしれない)。いうまでもないが、このようなやり口が効果的であったかどうかは、結果からのみ判断されるだろう。(補論終わり)

 

 

第五章  展望

 

【美的なるものの社会内存立諸戦略、の類型論へ】

 さきにわたしは、選好の自己不明証性不安と選択回避性向の二つを慰撫する諸類型(現代社会学の用語でいえば、機能的諸等価物)を探求するという視点が開示され、美的なるものは、その一類型に位置つく、と、述べた。

 それとは、別のレベルで、うえのような意味で定義された「美」的なることが、社会のうちで、どのように存立しているか、の諸戦略の類型論が可能になる。この類型論がある程度成就した暁には、まず第一に、わたしが探求のとば口として利用した「ミスコン」は、そのスペシャルケースとして位置づけられるだろう。前述した探求方途の特殊性・美におけるコンテストの特殊性に由来する疑義は、そうすることによって、解消されるだろう。この類型論がある程度成就した暁には、第二に、わたしの美にかんする定式(定義)の説得力が大いに増すだろう。なぜなら、わたしの定式は、美の本質規定を志向したものではなかった。あるいは、別の言い方をすると、わたしのいう「美とは…」の言い方は、美にかんする日常の用法をすべてすくい取ることを指向したものではなかった。そうであるがゆえに、わたしが「美とは、…」といったとしても、それに対していわば反例となる美にかんする用法が社会のうちで見いだされうるとわたしは予期した。このように反例があり得るのに、なぜ、わたしの「美とは…」という定式を説得することができるのか。それが、この類型論が成就することで説得的になるのである。すなわち、わたしの「美とは…」の定式は、美的なるコト・モノが、社会において存立する諸類型を「等価機能的に比較」するさいの、「準拠視点(比較のための原点)」になるからである。そうすることで、わたしの美の定式(定義)は、美的なるものを等価機能的に比較する視点を開示するという認識利得をもたらしたがゆえに、いわばプラグマティックな説得力を得るのである。

 では、具体的に、美的なることの、社会における存立諸戦略の類型としてはどのようなものがありうるだろうか。

 この問題の周到な探求は、もはや別稿を期さざるを得ない。その稿においては、取りこぼしのないような枚挙的な類型が構築されることが望まれるだろう。ここにおいては、あくまで他日の枚挙的類型探求の前哨として、おもいつくままいくつかの戦略類型をあげてみたい。

 

【コンテスト】

 まずは、いうまでなく、本稿が大いにとば口とさせてもらった「コンテスト」という戦略がある。が、じつは、井上1992も論じているように美人コンテストはたかだか100年程度の歴史を持つにすぎない。また、井上の予測があたっているとすると、美人コンテストはいまや衰退しつつある。どうも、コンテストという戦略は、存立するためにはかなり大きな(強い)諸条件の成立を必要としているように直観される。この点も来るべき類型探求の作業ではできるだけ明らかにしてみたい。

 

【(悪)趣味共同体】

 インターネットの時代において大いに注目すべきなのが、(悪)趣味共同体だろう。いままでは、同好の士を見つけることが困難であったがゆえに、被承認性(ある程度の普遍性)を得ることができず、そうであるがゆえに社会の水面に浮上することができなかった、さまざまな美的趣味が、インターネットを通じて相互承認しあうことで、趣味共同体として浮上するだろう。

 ただし、このような趣味共同体が叢生しすぎると、そこでの趣味は、美の第二要件であるある程度の一見上の普遍性を、もはや持っているようにみせにくくなるだろう。趣味共同体の一部がすでに「悪趣味」を自認しているのは、このことにかかわっているように思われる。「行く末」が注目されるだろう。

 

【「階級」的戦略】

 おそらく歴史的にもっとも多用された戦略は、「階級」的戦略ではないか。すなわち、「上品」な者と、「下品」な者とのを峻別することで、例の美の二要件を充足する戦略である。おそらくこの戦略は、「上品/下品」を峻別する「膜」の存立をいかようにするかが仕掛けのミソとなるだろう。もし、この峻別の膜の透過性が低すぎ完全な没交渉をもたらしてしまうなら、もはや、下品な者は、上品の者を美的に承認することはなくなるだろう。他方、この膜の透過性が高すぎると、上品な者と下品な者との峻別自体が困難になるだろう。

 

【「みやこ」的戦略】

 以上の階級的戦略を、いわば、地平面に投影したものが、「みやこ←→鄙」の戦略といえるだろう。すなわち、美しいところ(上品なところ)がここにいう「みやこ」(みやびなところ)であり、下品なところが「鄙(いなか)」(ひなびたところ)である。このように「上品/下品」を地理的にマッピングすることは、「みやこ」にいくことは「できる」が実際にはいき「にくい」、という意味で、上述の「峻別する膜」を保つのに好都合である場合がおおいだろう。

 

【バブル・流行・沈黙のラセン】

階級的戦略、みやこ的戦略が、若干困難になった近代社会で、多用されたのが、「バブル・流行・沈黙のラセン」の戦略ではないだろうか。これには、近代社会におけるマスメディアの成立も大いにかかわっていそうだ。逆に考えると、インターネット化が、マスメディアの権威をもし失墜させるのだとしたら、この「バブル・流行・沈黙のラセン」の戦略は、近未来では有力でなくなるかもしれない。

 

   *   *   *

 

【美という希少性の切実さは、男と女でちがう】

 以上、文化的希少性の理論の一各論として、美にかんする議論を展開してみた。もはや、美なるコトが、われわれのいう文化的に希少的なるコト・モノの一例である点はいうまでもないだろう。美なるコトは、望まれるけれども、必ずしもだれもが享受できるとは限らないコトである(すべての男が美人をめとることはできない)。しかも、この希少性は、前述のような意味での自然的な希少性に還元はできないだろう。(自然的な希少性と無関係であるなどと主張しているわけではない。美人の自然的希少性については、たとえば、蔵琢也(1994→1997)『なぜ、ヒトは美人を愛するのか?』に詳しい)。このような意味で、美とは文化的希少性の一例(一スペシャルケース)であるといい得るだろう。

 このように、「美」は「望まれるけれども、享受できるとは限らない」という意味で「希少」であるのだが、上述の「非関心性」と「主観的かつ普遍的」性質によって、この希少性が社会問題化するのは軽減されていたのだろう。すなわち、確かに、私(男)は、あの美しきもの(美人)を、望ましいと思う。そして、私は、あの美しきもの(美人)を、享受できない。しかし、私は、あの美しきものに対して「無関心」なのであり、また、この望ましさは、私の主観的選好なのではなくて、普遍的な望ましさなのだ(私だけが望むものではないだ)。だから、私が享受できなくても、私の自我はさほど痛まない、というように。

 しかし、いうまでもなく、「無関心性」と「主観性・普遍性の両側面性」によって、自我が痛まないとしてもそれは、美的なるものを選択する「男」にとってのみである。美の基準によって「選好・選択」される「女」にとっては、事態は生死をかけた切実なものである。美全般にかんして、概して男よりも女の方が真剣なのもこのことにかかわっているのかもしれない。女の視点からすると、カントもまた男なのであったのであり、美(人)の基準から「選択される」女からすると、カント的な「美の無関心性」や「美の普遍性」の物言いはどこかよそよそしくきこえるのではないだろうか。

 

【男にとっても、美という希少性は切実化する?】

 上野千鶴子(1998)によると、現代においては「男が女を選ぶ」という図式は唯一的ではなくなり、「女が男を選ぶ」という契機も増加しているという。その結果、男も「美しく」なることへの圧力が生じているという。

美(人)という希少物を目の前にしながらも、「美の無関心性」「美の普遍性」によって自我を守られていたわれわれ男は、自らも美的客体として選択の対象となることで、美という希少性の切実さに直面せざるを得なくなるのかもしれない。

 

 

(本稿のような研究方向を、「希少性」の概念で探求することについては、山本泰先生(東京大学)との会話から、示唆された。感謝します。本稿をなすにあたっては、言語研究会のみなさんから啓発的なコメントを多くいただいた。感謝します。鹿児島大学の学生さん(現在卒業している方も含む)とのゼミからも多くヒントをいただいた。感謝します。)

 

さくらい よしお

電子メールsakurai.yoshio@nifty.ne.jp

ホームページhttp://member.nifty.ne.jp/ysakurai/

 

 

文献

 

有福孝岳ほか1997『カント事典』弘文堂

井上章一1991→1995『美人論』朝日新聞社

井上章一1992→1997『美人コンテスト百年史』朝日新聞社

Kant,Immanuel 1790"KRITIK DER URTEILSKRAFT"=1963 篠田英雄 訳 『判断力批判(上)(下)』岩波書店

蔵琢也1994→1997『なぜ、ヒトは美人を愛するのか?』三笠書房

小田嶋隆1998『現代』1998年4月号

桜井芳生1991a「規範不安とオーソリティ・バブル」『理論と方法』第6巻第2号(数理社会学会)

桜井芳生1991b「規範ルサンティマン・規範不安・許容されうる規範」『ソシオロジ』第36巻第2号(社会学研究会)

桜井芳生1994「コミュニケーションにおける「皮肉」のポリティックス」『鹿大史学』第41号(鹿児島大学法文学部)

桜井芳生1995「文化的稀少性の理論・一般的序説」『人文学科論集』第41号(鹿児島大学法文学部)

桜井芳生1997a「価値不安・流動性選好・バブル」『鹿大史学』第44号p1〜21(鹿児島大学法文学部)

桜井芳生1997b「権力バブルの再生産メカニズム」『人文学科論集』第45号(鹿児島大学法文学部)

武田徹1998「若者キーワード 携帯決断機」『日本経済新聞1998年2月14日』

上野千鶴子1998『発情装置』筑摩書房

 

980730第一稿美とはなにか、美人とは誰か    - 15 -   作成日時:98/07/31 2:10